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せまひろかん

ネタとガチと小説的な物が存在している

せまひろかん

ネタとガチと小説的な物が存在している

『ポスト宮崎駿』という宣伝文句は作品と監督への"冒涜”だ


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こんにちは@Sanyontamaです。

誰だ、誰が言い出した。
誰なんだ。本当に。新海誠監督を『ポスト宮崎駿』とか言い出したのは誰なんだ。

この記事は新海原理主義者がお届けします。

『君の名は。』の公開日が決定した。8月26日でまさかの金曜日だ。300館以上で公開されると来た。これは仮面ライダーやドラえもんと同じ規模だ。現在公開中の『暗殺教室卒業編』は318スクリーンである。公開規模から察するに配給の東宝はかなりの"本気"と言える。かつてないほどの大人数が新海作品に触れるという事になる。

大規模上映、音楽がRADWINPS・・・。原理主義者としては不安要素しかない。音楽は『天門』じゃない時点で髪の毛が金髪に逆立ちそうなのに、宣伝文句が『ポスト宮崎駿』と来た。(僕はRADWINPSが嫌いと言うわけではない)

東宝の宣伝マンは新海作品を見たことがあるのか?
逆に宮崎作品を見たことがあるのか?

何をどう見れば新海監督が"ポスト宮崎駿"に見えるんだ?

宮崎作品と新海作品って、例えるなら光と影じゃん?
宮崎作品は大衆に受け入れられるキラキラしたものばかりだけど、新海作品はキャラの内面を掘り下げるジメッとした作風じゃん?
どこがどう宮崎駿になるんだ?どこが似ているんだ?全然違うだろ?

新海作品って、一部の人間にだけ強烈な影響を与える印象がある。大衆受けを狙ったであろう『星を追う子ども』はどうだったか?僕は問いたい。(これも新海作品の一つなので僕は否定も肯定もしないが)

それなのにポスト宮崎駿と宣伝してしまう。全く持って理解できない。これは異常にマズイ事態である。

『ポスト宮崎駿』と銘打ってしまうと、何も知らない観客は宮崎作品をのような物を期待するわけだ。予告映像では全容が分からないから、余計に期待してしまうと思う。

だけど、ふたを開けたら期待と違うものが出てきた。宮崎駿感は全く存在しないとなると、観客はどう思うのだろうか。
期待と本編の齟齬が発生することになるわけだ。
それが発生する確率は大きい。これまでの新海作品を見ていれば明白な事実だ。なのに『ポスト宮崎駿』と銘打つのはなぜだろう。

今の日本アニメーション界は宮崎駿という神にも等しき重鎮が引退してしまい、その穴を誰が埋めるのかに必死になっている。
次の宮崎駿が決まればそれを目標に頑張る人も出てくる。日本アニメにとっては好循環が発生するとも言える。

だが、この『ポスト宮崎駿』の売り文句にはどうしても「お金」の匂いがまとわりついている。
映画もビジネスだから、興行収入を得なければならないのは理解できる。だけど、作風が全く真逆である新海監督に『ポスト宮崎駿』は違和感を生むことになる。

そもそも『ポスト宮崎駿』って誰かが称するものなのだろうか。
違うと僕は思う。
社会が自然と形成する物ではないのだろうか。

「彼ですよ、彼が次の宮崎駿です!」って押し付ける物ではないだろう。これはもはや洗脳の類いだ。それほどまでに金が稼ぎたいのかと問いたい。ビジネスだから理解はできるのだが、やはり臭いのだ。

『ポスト宮崎駿』は新海監督を否定する言葉だと思う。監督が積み上げてきたものを完全に否定しかねない。

宮崎駿を期待した人からは反感を喰らうだろうし、新海ファンからも反感と疑念を喰らうだろう。

この売り文句は宮崎駿監督、新海誠監督の両名に対する冒涜にしか思えない。
全く逆の作風である両者を同一視してしまうのは大問題だ。一体何を考えているのか。

東宝も気合を入れて配給するというのは理解できる。ただこの売り文句だけは理解が出来ない。
この売り文句は即刻取り下げてもらいたい。イメージ戦略としては明らかに間違っている。

なぜ躍起になって宮崎駿を作りたがるのだろう。理解できない。アニメクリエイターは全員宮崎駿を目指さなければならないのかね。そういった暗黙の了解でもあるのかね。

僕は問いたい。何を考えているんだ、と。

映画『君の名は。』公式サイト
(C)2016「君の名は。」製作委員会