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【東京】映像で探る「青い目の人形」 平和と戦争で揺れた「日米友好の象徴」
一九二七(昭和二)年、米国と日本の友好を深めるために贈られた一万二千体の「青い目の人形」。開戦後は敵国の象徴として多くが壊されたが、学校関係者らに守られた人形もある。あきる野市戸倉の旧戸倉小学校に残されていた「シャロン」もその一つ。閉校した校舎を改修した研修施設のオープンに合わせ、市はシャロンの物語を十四分の映像にまとめた。 (村松権主麿) シャロンは八九年、市内の戦争を語り継ぐ会が檜原村の小学校に残された人形を調査した際、戸倉小にも残されていることを校長から聞き、広く知られるようになった。陶磁器製で身長約五〇センチ。米国で付けられた名前は分からず、経年劣化で表面は傷み、右脚の膝から下は取れていた。 人形作家の手で修復され、翌年に学校に戻された際、米国で人形を贈る計画を提案したシドニー・ギュリック博士のひ孫と同じ「シャロン」と名付けられた。ヘブライ語で「平和」を意味する。それをきっかけに、ひ孫の父親から戸倉小に新しい人形「ローラ」が贈られた。 同校が創立百三十周年を迎えた二〇〇三年には、三、四年生が「青い目の人形シャロンちゃん」と題した紙芝居を作った。シャロンが日本に来た経緯や、戦争を乗り越え、修復された喜びをまとめた。一三年三月の閉校後も、二体の人形と紙芝居は大切に保管されてきた。 シャロンに再び脚光が当たったきっかけは、戸倉小の校舎を利用し、市が研修施設「戸倉しろやまテラス」を整備したことから。施設内には、地域の歴史や地理を解説する部屋もある。 運営準備委員会のメンバーで、市民解説員として人形を調べた相見洋介さん(75)が「戸倉小に残されていた青い目の人形について、利用者に知ってもらいたい」と提案。映像を制作し、施設内で上映することになった。 制作を担当したのは、市内の自然などの映像を撮り、ドラマのロケ誘致もしている市のフィルムコミッション係。小林仁係長(57)が書いたシナリオは、十一枚の紙芝居を小学生らがめくってシーンが進行。戸倉小で開かれた人形の歓迎式典の写真や、戦時中は校長が隠して守ったという証言、他の学校で人形を踏んだという人の話なども紹介する。 紙芝居の語りを担当した五年の内倉可奈予さん(10)は「米国と戦争したなんて考えられない。人形を巡って、いろんなことがあったことを多くの人に知ってほしい。二つの人形は宝物だと思う」と話した。 映像は、しろやまテラス二階のメモリアルラウンジで見ることができる。二体の人形は五日市郷土館(五日市)に保管される予定だが、相見さんは「戸倉小と戦争の歴史を物語る人形を、映像と一緒に見てほしい」と望んでいる。 <青い目の人形> 第1次世界大戦後の不況の中、雇用を奪うなどとして米国で日本人移民が排斥され、日本で宣教師活動をし、同志社大などで神学を教えたギュリック博士が「友情の人形」として提案。全米から約1万2000体の人形が寄せられ、1927年に日本の小学校や幼稚園に贈られた。日本側は渋沢栄一が協力し、返礼として58体の市松人形を米国に贈った。当初、青い目の人形は各地で歓迎されたが、開戦後に壊されたり焼かれたりし、現在、残っている人形は約300体とされる。 PR情報
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