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掟破りの論文斡旋業者

私は日本癌学会の公式雑誌である「Cancer Science」誌の編集委員長を務めている。ここ数年新興国の発展に伴ってそれらの国からの投稿が増えている。また、雑誌のオンライン化が急速に進展することによって、出版業界からは雨後の筍のように新しい雑誌が生まれてきている。

日欧米に限らず、新興国においても論文を発表することが、研究者たちが職を得たり、もっと高いポジションに就くために不可欠である。できるだけたくさん論文を発表すること、それも、できるだけ評価の高い雑誌に発表すること、そして、できるだけ他の研究者よりも早く発表することが求められる。

世界的に研究者人口が増加すると、発表する論文数が増えてくるため、それに、対応するために雑誌の数が急速に増えているのだと思う。まさに、需要と供給の関係だ。また、早く発表するために、そして、できる限り多くの研究者の目に触れるように、誰でも自由に(無料で)アクセス可能なオンラインジャーナルが増えてきている。

そして、これらの投稿、あるいは、発表論文の急激な増加は、当然ながらひずみを生じさせる。投稿論文数に対して、しっかりとした評価をすることができる審査員の確保が難しくなってきたのだ。私の経験でも、10年前と比較すると、審査員から的外れのコメントが返ってくることが増えてきている。高い評価の雑誌でも、信じられないくらい質の悪い論文が掲載されることが多くなってきた。

そして、これまでの常識を打ち破るような行為が頻発している。明らかに犯罪行為と呼んでいいものもあれば、文化的背景の違い、倫理観の違いかと考え込んでしまうものもある。もちろん、私にとっては下記の例はすべて非常識なのだが、そうではないと考えている世界も存在する。

(1)以前にも触れたが、自分の論文を自分で審査するように誘導するケースが、昨年、摘発された。自分のメールアカウントを複数取得し、それらのメールアドレスを、自分の論文の審査にふさわしい研究者称して申し出るという想像を絶する方法を取っていたのである。科学者として、人間として失格だ。

(2)自分の論文を、一度に複数の雑誌に投稿する。多くの雑誌では、その禁止が明文化されている。論文はひとつの雑誌に投稿して、その審査結果を待つのが、私が教わった科学者として常識である。しかし、複数の雑誌に一度に投稿して、ひとつから好意的な対応を得た場合に、他の雑誌への投稿の取り下げを申し出るケースも少なくない。別の雑誌に投稿したが、同じ審査員に審査が依頼されて発覚したケースもあった。どうも、特定の国では、このような行為は悪くないと思っている研究者が、少なからずいるようだ。

(3)また、論文採択後に責任著者の変更を申し出るケースもある。これも常識的にはありえない話だが、現実には起こっている。本来、責任を持つべき人が、論文を最終チェックし、著者を代表して雑誌の責任者との対応に当たるので、論文が採択された後に、この責任者が変わることなどありえない。あきれるしかない。

(4)そして、今日、論文斡旋仲介業と呼んでもいいような会社からコンタクトがあった。論文をまとめて送るので、私が編集委員長をしている雑誌にふさわしいものを選んで、できれば、どう改善すればいいのかコメントしてほしいと言ってきた。gmailアドレスだったので、どこの国から送られてきたのか定かではないが、まさに論文斡旋業者・論文ブローカーのようなふざけた話だ。そうした需要があるのだろうが、この非常識な方法は、私には考えつかないものだ。

他にもあきれるような例があるが、国によって文化的な背景が異なるので、これまで慣例であったことが通用しなくなってきているようだ。国際ルールと一言で言っても、異なる価値観を統一するのは、簡単ではない。頭が痛いことだが、時間をかけて常識的なルールを浸透させていくしかない。でも、あまりにも掟破りな行動は、何とかしてほしいものだ。

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