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猫の現象学

ほら、だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

和辻倫理学は死んだ

文科>西洋哲学 覆面調査報告書

 哲学カフェに参加したのだけれど、運悪くあまり良くない回に出席してしまったらしいので愚痴を書いてみちゃう。*1以下、議事録より

テーマ「だいっきらい」

主催者より;原則

  • 人の意見は遮らずなるべく最後まで聴く
  • 専門用語は避け平易な言葉で意見を述べる
  • 発言する前に挙手をする
  • 130分という時間制限(前半60分、休憩10分、後半60分)あり*2

テーマについて

 私たちには自分の意志で何かを「だいっきらい‼」になることができません。場合によっては、自分にとってまったく有害ではないものにも嫌悪を抱くことがあります。

1:理由のある嫌悪

 私たちはたいていの場合は毒ガスやメチル水銀が大嫌いです*3。それは、そうした化学物質が私たちの身体を傷つけ、生命を脅かすからです。こうしたものへの嫌悪は「理由のある嫌悪」であるといえるでしょう。しかし、これでは説明のつかない嫌悪感もあります。 

2:理由のない嫌悪*4

  • 例えば、芋虫に対する嫌悪。芋虫自体は私たちにとってそれほど有害ではありません。それにも関わらず芋虫の動きはしばしば私たちに嫌悪感を抱かせます。理由を考えてみても「なんか動きが気持ち悪い」くらいで、しかもなぜ動きが気持ち悪いかは説明できなかったりします。
  • また、人間に対する生理的な嫌悪もありえます。ある種の挑発的な政治家に対して、私たちは激しい嫌悪感を抱きます。その政治家の思想信条や政治政策と関わらず「とにかくなんかムカつく」だけで嫌悪を抱いていることだって多いでしょう。これもまたある意味では「理由のない嫌悪」かもしれません。*5

Q「理由のない嫌悪」はどこからくる?

 参加者との対話のなかで最終的にいきついたのは、私たちは「私たちを受動的な状態に置くものに対して嫌悪感を抱く」という考え方でした。

  • 言い換えれば「私たちが嫌いなものの支配下に置かれる」ということでもあります。嫌いなものは私たちを支配下に置きます。そのため、私たちは嫌いなものに対して、嫌いであるにも関わらず囚われてしまいます。たとえば、芋虫が家に侵入すれば大騒ぎになってしまいますし、挑発的な政治家は炎上マーケティングによって大衆の関心をひきつけつづけることができます。
  • 逆に言えば、何かを「だいっきらい‼」になるということは、その何かの支配下に服従するということ、いわばその何かに囚われてしまうということです。その意味で、嫌いは無関心とは異なります。私たちは嫌いなものに注目を集めてしまいます。
  • 同時に注目すべきことは、何かを大嫌いになったとき、同じようにその何かを大嫌いになった者同士の間には連帯が生まれる、ということです。政治家に対して反旗を翻して一致団結するデモ隊もそうですし、あるいは、イジメもそうかもしれません。

嫌悪感のもたらす社会性

  • そうした意味で、嫌悪感は一時的に人々を一致団結させるという社会的な機能を持っています。
  • 「嫌いなもので団結した人々」と「好きなもので団結した人々」とでは、どちらがより強い連帯なのか。これは議論が分かれたポイント(一枚岩ではないという意味で)でした。

自己嫌悪について

  • ただし、どんなときでも嫌悪感が社会性を持っているわけではありません。むしろ、社会性を否定し、人を孤独へと追いやるような嫌悪感もあります。それが「自分」への嫌悪です。
  • 「生理的に嫌い」というとき、それはどちらかといえば動物的なニュアンスをもっています。しかし、「自分」への嫌悪をもつのは(おそらく)人間だけです。人間はしばしば「自分」への嫌悪のために自殺することすらあります。

 私たちの対話のなかでは、嫌悪感とは自分を支配下におくものへの感情でした。そうであるとすれば、「自分」への嫌悪は「自分」が「自分」の支配下に置かれることへの感情である、と解釈できます。

  • ある参加者*6によれば、「自分」が「自分」に飲み込まれてしまって、「自分」がよくわからなくなるとき人は「自分」を嫌いになる、とのことでした*7

自己嫌悪は社会性を持つか

  • しかし、「自分」が嫌いな者同士は必ずしも連帯できるわけではありません。あるいは「自分」が嫌いなもの同士がなんらかの形で連帯したとしても、それは共通の敵をもつことで生まれる連帯とはまったく異なるでしょう。

ここで私は違和感を抑えきれなくなったので「そもそも自分含めた誰かを『自分の支配下における』という考えは西洋的なものではないか」という意見を出した(日本〜東洋哲学を知る人には概ね賛同され、「おこがましい」という意見も出た)。しかしそれを言い出すと「倫理学」が成立しなくなるらしい(これはおそらく西洋的な)…と諭されたので、以下の推論をした。

京都学派は死んだ

和辻倫理学も死んだ


*以下、議事録続き

集合体恐怖症→「人間以外を対象とする理由のない嫌悪」

 他方、まったく違った「嫌い」の側面にも光が当てられました。たとえば集合体恐怖症。いわゆる「蓮コラ」のようなものに対する嫌悪感はなかなか説明できるものではありません。

  • 「蓮コラ」は、それ自体では私たちの身体を傷つけるものではありません。したがってそれは私たちにとって有害ではありません。そうであるにも関わらず、「蓮コラ」は私たちに激しい嫌悪を催させます。
  •  なぜそのようなことが起きるのか?参加者によれば、「蓮コラ」に対する嫌悪は文化や歴史を超えて、人間がだれでももつ嫌悪感ではないか、と指摘されました。
  • これに対して興味深かったのは、例えば黒板をひっかく音が私たちにとって不快なのは、それがサルの叫び声に似ていて、私たちがサルだった時代の嫌悪感が今でも残っているからなので、そういう風に嫌悪感は太古の記憶によってももたらされるのではないか、それによって「蓮コラ」への嫌悪も説明できるのではないか、ということでした。

 これは示唆的です。何が有害であるかは、私たちがどんな身体であるかによって決まります。したがって、私たちが別の身体をもっていれば、何が有害であるかも変わります。ですから、太古の記憶は、今ではヒトとなった今ではもう有害ではないものの、私たちがヒト以前の動物であったときには有害だったものを思い起こさせるのかもしれません。*8

ということで、今回の哲学カフェはちょっとびっくりするくらい壮大な話に発展しました。

議事録おわり。

知の民主化とはこういうことなのか

 哲学的には、このお題自体が意味をなさない…というのが基本姿勢だと私は思う。もしかしたら哲学科出身の人間はここに参加すべきではないという予防線だったのかも知れない。

 確かに、哲学自体は雑学でしかなく社会生活に直接役立たない知識の集合であろう。しかし一応学問なのでマナーというものはある。しかもわざわざ食えない哲学科に来てしまうからには、学生にもそれなりの素養がある(いろんな意味で)w

   せっかく健全な生活を送り「考え過ぎることをしない才能に満ちた人」にまで開かれた「哲学カフェ」という形式は、「考える」という姿勢に行き着くまで相応の時間がかかる(それにしても、なんで危ないところにわざわざあんなに人が…)。

和辻哲郎は既に死んでいた

 それと、ここは残念ながら「日本」である。ニホン。NIPPON。ヌッホン。日本人のみで構成される場。(ベースとしては)西洋哲学の話をしているに関わらず「空気を読んで発言しろという無言の圧力」が、場の全員を抑圧し拘束しているのである。

「そもそも自分含め誰も『自分の支配下における』という考えは西洋的なものであり、おこがましい」

しかしそれを言い出すと「倫理学」が成立しなくなる 

 主催者側は本気で言ってるのだろうか。否、おそらく時間がないからだろう。これで学振が通るのだから文科省は昔から死に続けている。フィンランドとかデンマークの優秀な研究者たちに血税を納めたくなってきた。

日本には和辻哲郎という日本倫理学会を創設した哲学者がいたというのに。

日本人の「和」という同調圧力を以て、日本の哲学思想(日本の倫理学思想)が排斥されたのである

大事件だぁ〜*9。あるいはこれが日本文化なのだろうか。西欧を崇める。西洋人風メイクが流行る。もう少し自国を好きになろうよ日本人…

 やはり「カフェ」は所詮「カフェ」であった。最近流行の「サロン」とやらに行ったほうがマシなのだろうか。むしろスタバのカフェでダベる女子高生は菩薩達だったのだ…とわりと本気で思った。

  「和」の圧力に押しつぶされたおしゃれーな「お哲学おカフェー」が「楽しい」人は続けるべきだろう。だが哲学にはほど遠いもなにも届いてもいないのではないか

 原因のひとつは、おそらく参加者人数に対し開催時間が短すぎることであろう。大学のゼミの討論は90分程度ではあるが、事前にテキストを読解し担当者がレジュメを作ってから始められることが多い。そこに教授の指導が入る。

    一方、哲学カフェでは定員はあるもののそれぞれバックグラウンドの異なる人が十数名、120分という限られた時間内で話を終えなければならない。収拾がつくかというと、つかない(と私は思った)。しかも「ルール」により、発言したい内容を端折りさらに専門用語を使わないように説明せねばならない。これで時間を食う。

   健康な人が哲学なんてやってくれるなよ。あんな不健康な学問。やめたまえ、こんなに哲学の敷居を下げるのは…誰のためにもならない。

  お金払わないで帰ったあの子に特別賞を。

収穫:カフェの店主が「あーあの子語り逃げを…w」と言いながら「例の千葉大生」の住んでいたアパートの場所を教えてくれた。彼はヴィトゲンシュタインをやっていたので「語り得ぬものには…」と語っていた。

哲学カフェなんて、だいっきらいだ

条件に照らすとたぶん…「自分の意志で」そうなった。というオチ

*1:せっかく和辻哲郎読んでる人が隣に居たのに上手く話せず私は般若心経の解説本を買って帰ったのち寝込んだ

*2:話せる時間は1人あたり約10分

*3:個人的にあまり納得はしていない。毒ガスもメチル水銀も、それと気づかなければ嫌いになるかどうかさえ不明だ。私の場合で考えれば、「気分が悪くなるまで判断不能」というのが妥当だ

*4:「理由のわからない嫌悪」=いわば自分でもどうしようもない拒絶反応のようなもの

*5:芋虫と人間が同じ土台に乗ってるっていうのは極めてラディカルだ

*6:わたくし

*7:嫌いという言葉の定義が曖昧でよくわからないが雰囲気で言ってみた

*8:こういった進化論的思想はしばしば見かけるが「科学的な」モノの捉え方のように思う。「蓮コラ」も何らかの理由づけをすることは可能だ。「皮膚病に侵された生物を想起させる」などと言ってしまえば、誰かが納得して議論が終わることもあるだろう

*9:西洋哲学については、かなり緻密な言語バトルでもある(人格否定ではなく論理の検証という意味で)。学会では厳しい質疑が繰り広げられるのが本筋である。尤もそれは気遣いの裏返し(もっと勉強して成長してほしいという意)である。端から見ればややこしい口喧嘩か裁判のようかも知れないが…