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創価学会の現実

創価学会の現実を現役学会員が語ります

一家不和になるための創価の信心

功徳の現実

こんばんは、トウガラシです。

近頃、テレビのワイドショーでは創価芸能人夫婦として有名だった高橋某と三船某の離婚報道がされてますが、この2人は「一家和楽」を実現させた学会家族の理想像という存在だっただけに、創価にとってはマイナス材料ではないかと思います。

ただ、私は以前から、いくら創価芸能人の一家和楽ぶりを理想像として見せられていても、現実の身近な学会家族を見ていると、「そんな理想的な学会家族がどれほどいるだろうか」という疑問も抱いていました。

実際、周りの学会員の家庭を見ていると、奥さんは必死になって学会活動しているのに夫の方は飲んだくれのアル中であったり、前回の記事でも書いた伯父伯母のように夫婦仲が悪く喧嘩ばかりしているという家族が目につきます。

一家和楽とはほど遠い家庭の多いのが創価家族の現実の姿なのです。

と言うより、「創価学会だからこそ幸福になれない、一家和楽にはなれない」というのが正しい言い方だと言えるでしょう。

創価ブログの中に『一家不和の信心』というブログがありますが、まさにそのタイトルどおりで、創価学会というのは「一家和楽」どころか「一家不和」になるための信心だと言えます。

 

一家和楽の現実

功徳の現実

はじめに、前回の記事で説明不足のところがあったので、補足しておきます。

記事の中で、伯父は働けない体だったと書いていたのに、伯父が「玄関の鍵をかけ忘れて仕事に行った」とも書いていて、矛盾したような内容になってしまいましたが、伯父は全く仕事をしてなかったわけではなく、私が小学4年生の頃に、それまで10年近く同居していた我が家から出て、同じ地域内の少し離れた所に家を借りて一人暮らしをするようになってからは仕事に行くようになったのですが、体力が続かず、少し働いたら仕事を辞めざるを得なくなったそうです。

それでしばらく静養してから別の仕事についたのですが、そこでも体力が続かず辞め、また別の仕事についてはまた辞めるというのを繰り返していたそうです。

そういう時に学会員から同じ学会員ということで伯母を紹介されて結婚し、結婚してからは伯母が働いて家計を助け、伯父はその後は仕事はしてないということです。

それにしても、一家和楽の信心を目指して結婚したのに、創価学会が原因で夫婦仲が悪くなり離婚騒動を起こしてしまうとは皮肉なものです。

 伯父と伯母の場合も、創価学会に入ってなかったら助け合って暮らす仲の良い夫婦になっていたと思うんですが、創価学会が絡んでいたために却って不幸な夫婦になっていました。

伯父と伯母に限らず、創価が原因で家庭不和になってしまったという学会員の多いのが現実の姿です。

家庭を壊す存在、それが創価学会だと言えます。

 

 

 

伯父の死に想う

功徳の現実

ご無沙汰しています、トウガラシです。

学会員の伯父が他界し、私が喪主を務めることになり、そのため忙しくブログを書くひまもなかったのですが、やっと時間が取れたので記事を更新しておきます。

伯父は数年前に認知症が発覚し、グループホームに入所していましたが、昨年11月に誤嚥性肺炎に罹り、ずっと入院していて、近頃他界しました。

伯父の配偶者だった伯母は数年前に亡くなっており、子供もおらず、兄弟は何人かいるんですが、私の母以外はみな遠く離れており、私の母も体が弱って動けないので、私が喪主となりました。

父親の時と同様、私は学会葬は本意ではなかったのですが、伯父がグループホームに入っている時から元の地区の学会員が伯父のもとへ足繁く通っていて、葬儀は学会葬にするということも約束していたようなので、学会葬で見送ることにしたのです。

伯父は学会側 からすればいわゆる信心強盛な信者で、若い頃に入信して以来、信心一筋の人生だったようです。

学会の言うとおりなら、信心一筋に生き抜いた伯父は大功徳に包まれた大勝利の人生になっていなければならないのですが、実際には功徳や勝利などとは程遠い人生でした。

功徳とは無縁なのにそれでも学会員が創価学会を信じて疑わないのは、当人にとって学会の信心によって救われたという体験(の思い込み)があるからなんですが、それは伯父も同じで、若い頃罹っていた腎臓病が信心によって治ったという体験あるいは思い込みが、どこまでも学会を 信じて疑わないという頑迷な生き方を形作ってしまったようです。

ただ、腎臓病が治ったとはいっても、頑健な体になったわけではなくその後も病弱なままで、結婚してからは伯母が働けない伯父に代わって働いて生活を支えていました。

そういう伯父伯母なんですが、あいにくと学会が言うような一家和楽とはいかず、夫婦仲は悪く、離婚騒動を何度も起こしていたようです。

なにしろ伯父は、伯母が働いて貯めていた預貯金をほとんど全額、伯母に相談もしないで学会に貢いでいたそうなので、夫婦仲が悪くなるのも当たり前とは言えるでしょう。

伯母も学会員ではあったんですがいわゆる「名ばかり学会員」で勤行唱題もしてなくてたまに座談会に出るくらいだったようなので、創価学会を信じてはいなかったようです。それだけに自分が働いて生活を支えているのに伯父が勝手に全財産を学会に捧げてしまったのが許せなかったというわけですが、伯母が怒るのも当たり前ではあります。

これでは学会が言うような一家和楽になるはずもありません。

その伯父が入信したのは先に書いたように腎臓病を患っている時、知り合いの学会員から折伏されたからだそうです。

当時、伯父が働けない体であったため、それを見かねた私の両親が我が家に同居させて面倒を見ることになったそうなんですが、初め短い期間だけ居候させるつもりだったのがずるずると延びていって10年近くも居候していたそうで、私が小学4年生の頃まで一緒に住んでいたことになります。

その時期に伯父は知り合いの学会員から「この信心をすればどんな病気も治る」と折伏されて入信したそうで、その伯父から折伏されて私の両親も入信したということです。

その伯父は事あるごとに「自分の腎臓病が治ったのは創価学会の信心のおかげ」と言っ ていたそうなんですが、10年近くも居候させて面倒を見ていた私の母などはきょうだいの気安さもあって伯父が自分たちに感謝の言葉もないことに不満を持っていたようで時々愚痴を言ってました。

まあ、伯父からすれば、妹一家を正しい宗教に導いてやったんだという気持ちがあったのかも知れませんね。

私の父親は遠慮してなのか何も言ってませんでしたが、内心は不満があったのかも知れません。

 そんな伯父は謂わば我が家にカルト宗教あるいは宗教詐欺を持ち込んだ張本人であるわけですから、伯父に対しては私は複雑な心境です。

ただ、腎臓病に罹って働くこともできず絶望的な気持ちになっていた伯父が、「この信心をすればどんな病気も治る」と折伏され、藁にもすがる思いで創価学会に入信したその心情は分からなくもありません。だからそのことで伯父を責めることもできないとは思っています。

 しかし長い間創価組織の中にいて、さまざまな学会幹部の非常識さや組織の理不尽さを体験していながら、最後まで創価脳のままであったのは残念な人生だったと言わざるを得ません。

例えば、伯父が独身時代、玄関の鍵をかけ忘れて仕事に行っている間に、連絡に来た幹部が勝手に留守の部屋に上がり込んで帰りを待っていたことがあったそうで、それには伯父も「非常識だ!」と激怒したそうですし、また、ある会合では、皆の前で幹部から無能呼ばわりされて貶されたことがあり、その時も激怒して「もういっぺん言ってみろ!」と喧嘩腰で食って掛かったそうですし、さらには、座談会によそから大幹部が入った時、その大幹部から仕事は何をしてるのか聞かれて「働けないので聖教新聞の配達だけしてます」と答えたら「新聞配達だけじゃなぁ…」といかにも蔑んだような言い方をされ、それにカチンときた伯父は「じゃあ、もう新聞配達やめます」と言ったそうで、そういう相手が幹部であっても食って掛かるような反骨精神もあり、また、創価組織の非常識さや理不尽さを分っていながらそれでも「池田会長は間違ってない」とか「創価学会そのものは正しい」という考えから抜けることができなかったようで、結局最後まで創価学会のカモにされた人生だったというのが残念です。

その伯父がグループホームに入所している間は、私は母親の介護をしてるのであまり伯父の所には行けませんでしたが、それでも時々面会に行ってました。

初めの頃はまだ私のことを分ってましたが、後になると認知症がかなり進行していて、もう私が誰なのか分からない様子でしたし、話しかけてもほとんど反応がありませんでした。

そういう伯父の様子を見ていて、いくら創価の信心一筋に生き切ったという人生であっても、結局は信心してない一般人と変わることはないと改めて思ったものです。

ムダな人生だったなと思わざるを得ませんが、当人が「創価学会の信心で救われた」と信じ切っていたというのが救いと言えば救いかもしれません。

 

 

ネット活動家の実態(その2)

バリ活会員の現実

前回の記事の続きになりますが、ネット活動家はアンチ側が暴露している聖教新聞の多部数購読強要や財務の多額寄付強要について「私はそんなことを強要されたことはないし、自分の組織でそんな話を聞いたこともない」などととぼけたような発言をし、更に「そういうことは全部アンチ側の嘘であり、デタラメだ」とアンチ側を批判しています。

創価の実態を知っている側からすれば実に白々しい態度だと思いますが、私は今までそれはあくまでも実態を知っていて知らないふりをしてるだけなのかと思ってたんですが、近頃は本当に知らないのかもしれないなと思うようになってきました。

それは前回の記事にも書いたように、ネット活動家は実際には現場での活動をしていないようなので、そういう創価組織の実態がよく分ってない可能性が高いと思えるからです。

 ネット活動家のブログを覗いてみると、「創価の座談会は和やかで温かくて素晴らしい」などと絶賛してるんですが、それはたまに座談会に出る程度だからそう思えるわけです。

たまに座談会に顔を出す程度だから創価組織からはまだ「お客さん」扱いしかされてないということです。

活動家になったら「座談会は和やかで温かくて素晴らしい」などとのんきなことは言ってられないですよ。たまに座談会に出る程度だからそういうのんきなことが言えるんです。

こういうところが「この連中はまともに活動してないな」と思った点なのです。

 また、聖教新聞の多部数購読強要や財務の多額寄付強要を知らないという点については、

「それはおたくが創価組織から全く頼りにされてないからですよ。アテにされてないからですよ」

と私からは言っておきます。

 創価の組織は「こいつは使えそうだな」と思ったらとことん使い倒そうとします。特に人材不足の地域では1人でも使えそうな人材がいたら何でもその1人に背負わせて使い倒そうとします。それが創価学会という組織なのです。

 その創価組織が聖教新聞の多部数購読も財務の多額寄付も強要してこないということは「こいつは使えない奴だな」と思われていて頼りにされてないからです。

この点からもネット活動家が実際にはいかに活動をしていないかが分かります。

また、私が以前の記事で取り上げた婦人部の狂乱信者(狂乱ぶりが尋常ではなく、狂信を通り越して狂乱の域に達しているのでこれからこう呼ぶことにします)などはある反創価ブログのコメント欄に

創価の活動は、やらされてたら地獄、能動的にやれば天国です。能動的は、盲信とは全く違います」

と書いていたので、よほどシャカリキになって活動に邁進しているのかと思っていたのですが、当人のブログを見てみると、フルタイムの仕事をしているので創価の役職にはついていないと書いていて、拍子抜けさせられました。

婦人部では仕事につかずに学会活動に専念するようにと指導されているようですが、この人物はその指導も守らずフルタイムの仕事をし、それを口実にして聖教新聞の配達なども一切行わず、たまに座談会に顔を出す程度で、あとはネット三昧の生活のようです。

何しろこの人物は今まで数年に渡ってブログの記事を連日のように書き続けるだけでなく、反創価ブログを見て回ってはそのコメント欄に乗り込んで罵倒するということを繰り返しているので、よほどヒマを持て余しているんだろうと思うんですが、そういうヒマがあっても学会活動は座談会に顔を出す程度で、まともにはやってないようです。

それで書いてる内容はと見ると、まるで役職をいくつも兼務しながらとことん学会活動に没頭しているかのような発言をしているんですから呆れてしまいます。

 所詮こういう人物が、命を削る思いで活動してきた非活や脱会者の気持ちを理解するのは無理というものでしょう。

ただ、この人物については別の見方もできます。

というのは、当人のブログに「夫は県幹部」と書いてある箇所があるからで、県幹部というと、夫は創価の職員という可能性があります。

ということは、末端会員から集めた金から給与として受け取り、それで生活している可能性があるということです。

 つまりその場合、この人物は搾取される末端会員ではなく、搾取する側の創価職員ファミリー、あるいは詐欺師集団ファミリーの一員ということになるわけです。

なるほど、その観点から見ると、この人物の高圧的な上から目線の対応は、学会職員夫人としてのエリート意識・特権意識ゆえなのかもしれないですね。

そして、聖教新聞の配達なども「そんなものはシモジモの末端会員にやらせとけばいいんだ」と思ってるのかもしれないですし、フルタイムで仕事をしているというのも嘘かもしれないですね。

更に、この人物が必死になって反創価ブログに乗り込んでは罵詈雑言を浴びせたり自分のブログで反創価ブログを罵倒しているのは、反創価ブログが増えることによって覚醒した学会員が増え続け、それによって末端会員からの金が入ってこなくなり、自分の優雅な生活ができなくなってしまうという恐れからだろうと思われます。

つまり創価が正しいとか正しくないかということではなく、自分の生活を守るために必死になって反創価ブログを潰そうとしているのだと思われるのです。

そう言えば、この人物のブログ記事は、昨年末の記事を最後に、このところ更新されていません。

もしかすると、創価職員ファミリーの特権として、優雅に世界一周旅行にでも出かけてるのかもしれないですね。

話が少し脱線してしまいましたが、いずれにせよ、ネット活動家はほとんどが口先だけの人間ばかりと結論づけてよいようです。

 

 

ネット活動家の実態

バリ活会員の現実

インターネットによって創価学会の正体が暴かれ多くの人が創価の実態に気づき、それによって創価組織の衰退に拍車がかかっている現状にあっても、 インターネット上には相変わらず創価学会を称賛して擁護し、更には創価批判者を罵倒している盲信狂信学会員のブログが目につきます。

特に『にほんブログ村』の創価学会カテゴリーに巣食っているブログなどはその典型だと言えます。

ブログ村創価カテには反創価ブログもいくつか入ってますが、ほとんどは創価を称賛している盲信者のブログです。

私は少し前まで、そういうネット上で活動しているいわゆる学会員のネット活動家は現実の場でもバリ活なのかと思っていたのですが、近頃になってネット活動家=バリ活会員ではないということに気づきました。

それはよそのブログでも指摘されているように、現実でもバリ活会員なら、とても連日のようにブログ記事を書いたり反創価ブログを見て回ったり更にはコメント荒らしをしているようなヒマなどないからです。

私が以前見たある学会員のブログには、学会活動に没頭してるとブログの記事を書いてるヒマがないというぼやき記事が書かれてました。そのブログは記事数も少なかったですね。

そして学会活動にこれから専念するから当分の間ブログの更新はできないと書いていて、それが最後になっていましたが、これが実際のバリ活会員だろうと思います。

そのブログ主のように現実に学会活動に邁進してたら、とてもネット活動などしているヒマはないでしょう。

ところが、ブログ村創価カテに集まっているブログなどは連日のように記事を書き、反創価ブログに悪態を吐き、中にはあちらこちらの反創価ブログに乗り込んではコメント欄に攻撃的な文章を書き込んでいる者もいます。

実際にバリ活会員ならそんなことしてる時間はないはずです。

それで私はこれからは実際のバリ活の会員と区別してネット上だけで活動している盲信学会員をネット活動家と呼ぶことにします。

そのネット活動家たちはいかにも自分が師弟不二に生き切っているかのように、あるいは創価の活動に邁進しているかのように得意げに書いていて、更には創価批判をしている内部アンチや元学会員に対して、学会活動についていけない脱落者であるかのように蔑み罵倒していますが、ネット活動家にそんなこと言える資格はないと思いますよ。

内部アンチや脱会者の多くは徹底的に骨身を削る思いで学会活動に没頭してきた人がほとんどです。そういう自分も家族もギリギリまで犠牲にするような活動をしてきたからこそ創価の矛盾と実態に気がつき、それによって活動から離れ、あるいは創価組織から離れていったのです。

 果たしてネット活動家たちはそこまで徹底的に自分も家族も犠牲にするような活動を実際にしてきたんでしょうか?

 ネット上でブログ三昧の自称活動家にそんな活動ができるんでしょうか?

そういうネット活動家には、まず自分が実際に徹底的に骨身を削るような活動をしてから偉そうなことを言えと私は言っておきます。

 そこまで徹底的に自分も家族も犠牲にするような活動に没頭してそれでも「創価学会は素晴らしい」と言えるのなら大したものです。

 

 

 創価では「勝利しなければ幸福になれない」

仏道修行の現実

こんばんわ。

この前の『みんなのニュース』の動画の感想で書き忘れていたことがあったので、ここに追記しておきます。

『みんなのニュース』の中で池田名誉会長が喋っている場面があり、名誉会長が「勝利は幸福です。敗北は不幸です。永遠の勝利のためにこの信仰はある」

と語ってましたが、要するに、創価では勝たなければ幸福になれないと言ってるわけです。だから何が何でも勝てと言ってるわけです。

このような思想が勇気を与えてくれると高く評価している人もいますが、その反面、いつも勝て勝て勝てと尻を叩かれているように感じてそれを重荷に感じている人がいるのも事実です。

なぜなら、創価で言うこの「勝利」というのは常に成果を要求されるからです。

創価の言う「勝利」とは成果を上げるということに他ならないからです。

折伏や仏法対話にしても選挙戦にしても聖教新聞の拡販にしても会合への部員連れ出しや友人を参加させることにしても、全てに渡って成果を要求されるからです。

数字を上げれば「勝利」、数字を上げられなければ「敗北」と見なされているからです。

そして、学会活動家は数字を上げるように常に尻を叩かれ続け、数字を上げられないと罵倒されこき下ろされます。

そのためそれが原因でウツになる会員も多いのです。

このような信仰生活が果たして幸福でしょうか?

以前の記事にも書きましたが、このような「勝利」を重視する創価学会には、弱者への眼差しが全くありません。

勝利者だけを称賛し、敗北者や弱者を踏みにじる創価学会が、果たして「万人に開かれた宗教」などと言えるでしょうか。全てを救う宗教などと言えるでしょうか。

勝利者即ち組織拡大に貢献している者だけを称賛し敗北者や弱者を顧みない創価学会は所詮宗教ではないのです。

創価が営利を目指す企業あるいは詐欺団体だという根拠はこういう点から見ても明らかです。

 

 

創価のダブルスタンダード

創価組織の現実

こんばんわ。

創価学会ダブルスタンダードである」というのはネット上ではすでに言い古された言葉ですが、創価の現実としてあえてこのブログでも書いてみたいと思います。

ダブルスタンダードとは要するに矛盾のことであり、分かりやすく言えば二枚舌とかご都合主義のことですが、創価学会は実に矛盾だらけの組織です。

機関紙の聖教新聞には「学会員は常識豊かに」と書いていながら、学会活動の現場では非常識な行動を幹部から強要されます。

同じく、聖教新聞には「学会員は仕事は人の何倍も努力して働き、社会に実証を示せ」と書いていながら、選挙戦などになると「仕事休んで選挙活動に出ろ! 法戦のために腹くくって仕事休め!」と、これまた幹部が強要します。

矛盾だらけです。

財務にしても、「強要はしてません」と言いながら、多額の寄付をするようにさまざまな手を使って圧力をかけてきます。

私の母も婦人部長から「財務に出し惜しみすると不幸になる」などと脅しをかけられたと言ってました。

まさに二枚舌です。

創価ではそういう場合、仏教用語の「一往」と「再往」を使い分け、

「一往は社会に実証を示すために人の何倍も懸命に働くべきだが、再往として仏法に従うべき時は一般社会のことよりも仏法に従い、法戦を優先すべきだ」などと言って二枚舌を正当化しています。

結局は自分たちの都合に合わせてごまかしているだけでしかないわけです。

そして幹部はそういう矛盾を追及されると「信心で受け止めろ」と言ってきますが、この「信心で受け止めろ」というのは謂わば水戸黄門における印籠みたいなもので、理論的に矛盾点を突いてくる活動家にはこの言葉を言って黙らせ従わせるという手法を使っているようです。

実にこの「信心で受け止めろ」という言葉は創価幹部にとって便利な言葉であり、魔法の言葉となっています。

しかし、そもそも創価という団体は宗教ではなく詐欺団体でしかないということが露呈してしまった現在、創価には「信心」も存在しないわけですから「信心で受け止める」もヘチマもないわけです。

結局は創価という団体は仏教用語を利用しているだけの矛盾だらけのただの嘘つきだと言えるでしょう。

嘘で固めた組織、それが創価学会です。

 

 

『みんなのニュース』創価特集を見てみた

社会の中の創価学会

こんばんわ、トウガラシです。

今月11日に、フジテレビの『みんなのニュース』という関東地域限定のニュース番組で創価学会特集が放送されたそうです。

私が住んでる地域では放送されてないので見れなかったんですが、動画サイトに投稿されていたので、今日見てみました。

その動画をここに貼っておきます。

 ↓    ↓    ↓

www.youtube.com

 

テレビ局という外部からの取材なので、創価の内実まで迫るなどということは期待もできず、結局、創価広報による当たり障りのない説明しかなかったわけで、まあ、予想通りの内容ではありました。

しかし、ああいう当り障りのない内容を見て、もしも創価に入会したいという人がいたら、入ってみてあまりの落差の大きさに驚くと思いますよ。

実際、外部の人は入ってみないと創価の現実は分からないわけですから、関心のある人は1度入ってみるのも一興かと思います。

まあ、1度入ると抜け出すのに苦労するとは思いますが。

 

あと、唱題している学会員の早口がすごいですね。

活動家だった頃は早口の題目には慣れてましたが、活動からも勤行唱題からも離れていて、久しぶりに学会員の唱題の様子を見ると、唱えるのが異常に早いと思います。

あの早口の題目も、数にこだわってたくさん唱題して福運を積もうとする創価ならではのものですね。

 

 

大言壮語と現実のギャップ

功徳の現実

 こんにちわ、トウガラシです。

創価学会はこれまで「功徳の実証」というものを掲げてきました。

創価学会で信心することによって厳然たる現証として功徳が顕われるのだと大言壮語してきました。

しかし、実際のところはどうかと言えばその功徳を実感している学会員はほとんどいないというのが現実です。

2014年11月の聖教新聞に掲載されていた「教義条項会則改正」の記事には原田会長の話として

魂の独立以来、学会員は皆、大石寺に登山することもなく、弘安二年の御本尊を拝することもなかったわけであり、各人の御本尊に自行化他 にわたる題目を唱えて絶大な功徳を受け、宿命転換と人間革命を成就し、世界広布の拡大の実証を示してきたのです。まさに、これが会員が実践し、実感しているところなのであります」

と書いてましたが、いったいどこの学会員がそんな絶大な功徳を受け宿命転換し人間革命を成し遂げているというのでしょうか。

そしてどこに世界広布拡大の実証を示しているというのでしょうか。

一部の現実を見ないバリ活会員を除いて、多くの会員は功徳も宿命転換も人間革命も世界広布拡大も実感などしてないですよ。

自分の周りを見てもそんな功徳を受けているような学会員は見当たらないのが現実です。

世界広布拡大どころか、身近な創価の組織がどんどん衰退しているのが現実なのです。

この現実を無視して機関紙に誇大宣伝ばかり書いていても、そのギャップはますます拡がるだけです。

もはや功徳話で釣って信者を思い通りに操るなどということは通用しなくなっているということを知るべきです。

創価首脳部は末端の会員など簡単に騙せると高を括っているのだろうと思いますが、そのうち足元から創価の組織は崩れていくことになるでしょう。

 

 

「地涌の菩薩」の現実

仏道修行の現実

こんばんわ、トウガラシです。

少し前の聖教新聞の『みんなで学ぶ教学』ページに地涌の菩薩についての記事が掲載されていました。

そこの大見出しに『現実世界を舞台に民衆を救済』と書いていて、Q&Aとして、

「なぜ学会員は地涌の菩薩といえるのでしょうか?」

法華経に説かれるままに喜々として妙法流布に生き抜いているからです」

とありましたが、果たして学会員が現実に民衆を救済できているんでしょうか?

改めて言うまでもないですが、学会活動に熱心な学会員ほど人に迷惑ばかりかけて世間から嫌われているのが現実の姿です。

民衆を救っているどころの話ではなく、世の中に害を与えているだけでしかないのです。

しかも、そういう活動家ほど生活にも困って外部の友人知人に泣きついて助けてもらっている始末です(そういう活動家を実際に見てきました)。

人を救うどころか人から助けられているありさまです。

 

「学会員は地涌の菩薩」などとおだてられて張り切って活動している会員もいるようですが、その創価学会は今では法華経などどうでもよくなっている現状にあります。

法華経を看板に掲げていても、その内実は法華経とは何の関係もない選挙戦であったり金集めであったり聖教新聞のセールス活動であったりするわけで、そもそもが法華経でいう地涌の菩薩とは無関係な活動でしかないわけです。

言うならば、創価の活動家は地涌の菩薩ならぬ悪質詐欺集団の使いっ走りといったところではないでしょうか。