20世紀の歴史
ロシア革命 −その理想と現実 −
ツァーリズム
ロシア帝国はその滅亡の時まで、地球の陸地面積の7分の1を占める世界最大の国家であった。そして、1812〜14年にフランスのナポレオンを撃破してからは、最大最強の陸軍国としても恐れられていた。しかし、その帝国は他のヨーロッパ諸国とはまったく異なる政治・社会システムに支えられていたのだった。
19世紀、ロシアには憲法も議会も存在せず、ツァーリとよばれる皇帝が無制限の権力を握っていた。1613年以来ロシアを支配し続けてきたロマノフ家は広大な土地と莫大な財産を所有し、世界最大の富豪として知られていた。ロシア国民の信仰を集めるロシア正教会は国家の一機関に過ぎず、精神面から専制を擁護する役割を果たしていた。皇帝直属の秘密警察はスパイ網を全国に張りめぐらしており、反対派にはシベリアへの流刑・強制労働が待っていた。
皇帝の下には、人口1%に満たない特権階層として、貴族がいた。彼らは大小の程度はあるが所領を持ち、農民から地代を得た他、彼らの無償労働力を用いて直営地を経営していた。彼らは皇帝に反抗するだけの意志も力も持たず、むしろ軍人・官僚として皇帝と国家に勤務することがステータスだと考えていた。
人口の圧倒的多数は、貧しく無学な農民であった。彼らは19世紀半ばまで貴族の所領に住み、居住・移動の自由がなく、農奴とよばれていた。農奴はミール(耕作や納税を共同で行う農村共同体)単位で連帯責任を負い、国家には人頭税と兵士を、領主には地代(生産物か貨幣)と賦役(肉体労働)を負担した。領主は農奴を死に至るまで罰したり、家族単位・あるいはバラで売却・譲渡することもあった。このような中にあっても、農民には「ツァーリ幻想」なる皇帝への崇拝が根付いていた。
このような皇帝専制を柱とするロシア特有の体制を、ツァーリズムとよぶ。
「ヨーロッパの憲兵」の敗北
皇帝専制を打破しようとする最初の動きは19世紀前半、貴族出身の青年将校の中からおこった。彼らは対ナポレオン戦争に従軍し西ヨーロッパ各地を転戦する中で、ロシアの後進性を痛感するにいたった。1816年、彼らは専制と農奴制を打ち破ろうと秘密結社をつくった。
1825年11月、皇帝アレクサンドル1世が子供のないままなくなると、弟のコンスタンチンとニコライのどちらが皇位を継ぐかで3週間あまり混乱が続いた。青年将校たちはこれを好機と考えた。12月14日、彼らに率いられた3千の兵士はペテルブルクで蜂起した。しかし、密告者・脱落者が続出したことから反乱軍の足並みは乱れ、圧倒的な政府軍によってあっけなく鎮圧された。首謀者は捕らえられ、5人が処刑、106人がシベリアに流刑となった。この事件を、デカブリストの乱という。
この騒乱の中即位したニコライ1世は革命運動の危険性を痛感し、秘密警察の強化・拡大につとめた。多くの作家や思想家が逮捕されたり、亡命を余儀なくされた。また、ロシアは1830年にフランスの七月革命に刺激されたポーランドの独立運動を弾圧し、1848年革命の際にはオーストリアの求めに応じてハンガリーの革命を鎮圧している。こうした「反革命」の中心としての行動により、ロシアは「ヨーロッパの憲兵」とよばれ恐れられた。
しかし、ロシアの南下政策を原因とするイギリス・フランス・オスマン帝国とのクリミア戦争においては、ロシアは苦戦を強いられた。1855年、ロシアは黒海における拠点セヴァストポリを失い、翌年のパリ条約で敗北を認めた。「ヨーロッパの憲兵」としての威信は地に落ちた。
農奴解放令
クリミア戦争のさなかに即位したアレクサンドル2世は、ロシアの後進性の原因は農奴制にあると考えた。たしかに、人口の圧倒的多数が隷属状態に置かれていれば、工業化に必要な国内市場や労働力も、また愛国心に満ちた兵士も生まれようがない。また、地主を通じて行われた無理な動員に対する農民の不満が高まっていたため、何らかの改革を行う必要もあった。そこで1861年、農奴解放令が発せられた。
この解放令により、農民は領主による裁判・処罰や人身売買、領主への地代・賦役の支払い義務から解放された。そして、3段階・9年間をかけて行われる解放が完了したあかつきには、土地を得ることができるようにもなっていた。
ただし実際には、解放令は農民よりも既得権を失う領主への配慮が優先されていた。農民に分与されたのは領主の土地の一部にすぎず、旧領主は地主となって広い土地を支配し続けた。農民が分与地を得るには地代の17倍もの代金を支払わねばならなかった上、かつての耕地より狭いのが常だったから、地主のもとで賃金労働や小作をしなければやっていけなかった。しかも、土地は農村共同体の連帯責任で買い取ることとされたので、農民の私有になったわけではなかった。
もっとも、農奴解放令は人口の大多数を占める農民に人格的自由を与え、ロシア社会に大きな変化をもたらしたことは事実である。地方制度、司法制度、学校制度などの改革も行われ、近代国家の体裁が整った。しかし、有償の土地分与や、農村共同体の強化などは農民や知識人に不満を残すことになった。
社会主義思想
19世紀前半の西ヨーロッパでは、新たな政治・社会思想として、社会主義思想が生まれていた。これは当初、産業革命以後急速に発展した資本主義社会に対する批判・改良の動きとして生まれた。すなわち、労働者の貧困、劣悪な労働条件などの社会問題を解決することを目的とするものであった。
ドイツ出身のマルクスとエンゲルスは、1848年『共産党宣言』を発表し、社会主義の新たな理論的枠組みを打ち出した。その概略は、次の通りである。
@ 人類の歴史は、階級闘争の歴史である。
A 「ブルジョワ革命」(フランス革命など)によって生まれた資本主義社会においては、人々は生産手段(道具、機械、土地など)を私有するごく少数のブルジョワジー(資本家)と、自分の労働力以外に何も持たないプロレタリアート(労働者)の二つの階級に分かれている。そして、労働者階級は資本家階級に搾取されている。
B 世界の労働者は団結し、「社会主義革命」を起こしてブルジョワが支配する現在の国家を打倒しなくてはならない。
C 労働者が政権を握り(プロレタリアート独裁という)、私有財産制度を否定して生産手段を共有とすれば、やがて階級がない理想的な社会が実現できる。これが、共産主義社会である。
資本主義社会を根本的に変革することをめざし無階級社会への展望を示したこの理論は、ヨーロッパの思想界に衝撃を与えた。1864年には、マルクスらを中心として初の国際的な労働団体である第1インターナショナルが結成された。社会主義運動は、国際的に盛りあがりをみせつつあった。
ナロードニキ運動
社会主義思想は、改革論議に沸く1860年代のロシアにも影響を与えた。知識人(ほとんどが貴族出身だが)の一部は、ロシアの後進性の象徴とされていた農村共同体を「社会主義的」として高く評価し、資本主義の段階にも達していないロシアが一挙に社会主義の段階に到達する基盤であるとみなした。
こうした思想の影響を受けた青年・学生たちは1874年、「ヴ・ナロード」(人民の中へ)というスローガンをかかげて農村に入り、革命思想を説いて農民たちを反政府運動へと立ち上がらせようとした。彼らはナロードニキとよばれる。しかし、いまだに皇帝崇拝が根強い農民たちは彼らの呼びかけには応じず、逆に警察に密告したりしたため、翌年には運動は挫折した。
組織の必要性を痛感したナロードニキは、翌76年、秘密結社「土地と自由」を結成し、農村に居住して宣伝活動を行った。彼らは全国の農地を均等に分割することを説いたので、今度は解放令に不満をもつ農民たちにかなり受け入れられた。
しかし、政府による取り締まりが激しさを増すにつれ、組織は宣伝工作を重視する「国土総分割」派と、テロ活動を肯定する「人民の意志」派に分裂した。後者は1881年、皇帝アレクサンドル2世を暗殺することに成功した。しかし、その後の政府の弾圧によりナロードニキ運動は壊滅に追い込まれた。
反政府諸グループの形成
1880〜90年代、農奴解放令をはじめとする諸改革の成果と、フランスからの外資の導入により、ロシアでもようやく工業化が軌道に乗ってきた。90年代の工業成長率は年8%を越え、未熟ではあるがブルジョワ階級、そして資本主義が生まれつつあった。それはまた、失業、低賃金、長時間労働など、西欧諸国でみられたような労働問題が表面化することも意味した。
それにともない、ロシアでもマルクス流の社会主義をめざす動きがあらわれ、各地に労働者らのマルクス主義サークルができた。彼らは、社会主義に達するには西欧と同様、ブルジョワ革命と資本主義の段階を通らなければならないと考える点で、ナロードニキと異なっていた。1898年、ナロードニキから転向したプレハーノフが中心となり、ロシア社会民主労働党が結成された。しかし、大会後活動家がいっせいに逮捕されるなど、激しい弾圧にみまわれた。
さらに、1903年の第2回大会では、党内部の路線対立が鮮明となった。プレハーノフ、マルトフらメンシェヴィキ(少数派)とよばれた一派は、ロシアの当面の課題はブルジョワ革命によって専制を倒すことであり、知識人や学生などの反政府勢力を幅広く結集しなければならないと説いた。レーニンら、ボリシェヴィキ(多数派)と称したグループは、やる気のないブルジョワにかわって労働者と農民がブルジョワ革命をなし遂げなくてはならず(妙な話だが…)、それを指揮するために労働者階級の献身的な活動家のみで党を構成するべきだと主張した。
いっぽう、ナロードニキの諸派は1901年、社会革命党(SR:エスエル)を結成した。彼らは以前と同様、共同体の農民を基盤とし、資本主義を経ないで社会主義を実現することをめざした。彼らは土地の均分を主張したため、人口の80%を占める農民の間に共感をよんだ。
また、地主や知識人を中心に、解放同盟も結成された。彼らは国民の自由拡大と立憲政治をめざす穏健な自由主義的グループで、ブルジョワたちの支持を得た。
ロシア第一革命
労働運動が盛り上がる中で、ロシア政府はこれをコントロールするためにいくつかの御用団体をつくらせた。首都ペテルブルクでは、聖職者ガボンを指導者とするロシア工業労働者同盟という団体が、1904年に結成された。
この時極東では、満州と朝鮮をめぐって日露戦争が行われていた。戦争により生活が苦しくなったにもかかわらず、ロシア軍が陸海で敗戦を重ねたことで民衆の不満は高まった。ガボンの組合でも、「専制打倒」を叫ぶ者もあらわれるなど運動の急進化がみられた。
1905年早々、極東では旅順が陥落した。ペテルブルクでは、3人の組合員が解雇されたことで1万3000人規模のストライキがおき、まもなくゼネストに発展した。
ロシア暦*1月9日(西暦22日)日曜日、約20万人の労働者とその家族がガボンを先頭に、冬宮へ向かって行進をはじめた。皇帝崇拝が根強い民衆は、悪いのは貴族であって、皇帝ニコライ2世(1894年即位)に自分たちの窮状を訴えればかならず正義を実現してくれると考えていたのである。行進は平和的なものだったが、冬宮前広場を封鎖する軍隊がデモ隊に発砲し、数百名の死者が出た。これが「血の日曜日」事件である。
この事件により皇帝に対する幻想は消え、各地で事件に対する抗議のストライキが発生した。4〜6月には農村でも地主に対する蜂起が相次ぎ、騒然とした情勢となった。5月、バルチック艦隊が日本海海戦で全滅すると運動はさらにエスカレートした。
6月14日、黒海艦隊の基地オデッサで、戦艦ポチョムキンが反乱を起こした。まもなくポチョムキンはルーマニアに逃亡した末に降伏したが、軍隊による初の反乱は政府に衝撃を与えた。
なお、5月に繊維工業都市であるイヴァノヴォーヴォズネセンスクで、ストライキを指導するために労働者の代表機関が設置され、50日ほど存続した。これがソヴィエトのはじまりである。10月になると100万人の労働者がゼネストに参加する事態となり、首都ペテルブルクやモスクワでもソヴィエトが組織された。
*ロシア暦…ロシアで用いられていた暦はユリウス暦であり、20世紀では西暦(グレゴリオ暦)より13日遅れている。1918年1月、ソヴィエト政権は西暦を導入し、2月を14日からはじめることとした。そこで本稿では、1918年1月までをロシア暦、同年2月以降を西暦で記すこととする。
反動の時代
戦争と革命という難局に対し、ロシア政府はかつて大蔵大臣として辣腕を振るったウィッテを登用した。彼は日露戦争の講和会議に全権代表として臨み、大国の威信をかろうじて保つ形で戦争を終わらせた(9月)。さらに、いわゆる「十月宣言」を発表し、「人格の不可侵、信仰・言論・集会・結社の自由」を認め、すべての階級が選挙に参加できる国会(ドゥーマ)の開催を約束した。政治犯の一部は特赦され、政党の活動も許された。
十月宣言を受けて、自由主義的なグループは国会開設に備えて組織作りを開始し、革命から手をひきはじめた。彼らは解放同盟を中心に立憲民主党(カデット)を結成、立憲君主制のもとでの国民の自由・権利の拡大をめざした。政府寄りの十月党も設立された。
これに対し、労働者・農民による武装革命を主張するボリシェヴィキなどのグループはストライキや武装闘争を続けた。しかし12月には政府の反撃が始まり、ペテルブルクではソヴィエトを率いてストを指導していたメンシェヴィキのトロツキーが逮捕された。モスクワではボリシェヴィキが激しい市街戦を展開したが、鎮圧された。
騒乱が下火になるにつれ、政府は「十月宣言」で示した譲歩を最小限にしようと動き出した。1906年2月に公布された選挙法は選挙民を地主・市民・農民・労働者に分け、間接選挙で議員を選ぶ不平等なしくみだった。4月にはウィッテが罷免され、同月発布された「国家根本法」では皇帝の至上権が再確認された。
そんな中、4月に初の国会が開催された。社会主義者たちがボイコットしたため、議員の中核はカデットなど自由主義者が占めた。しかし、政府が禁じていた土地改革を議論したため、わずか73日で解散させられた。
国会解散と同時に首相となったのが、ストルイピンである。彼は反政府運動に対する取り締まりを強化し、社会主義者が4割を占めた急進的な第2国会(1906年2〜6月)を解散した。1907年11月に開かれた第3国会は政府の与党勢力が多数を占め、革命運動は冬の時代を迎えた。
ストルイピンは、農村共同体を解体して農民の自由な土地所有を認める農業改革を行った。豊かな農民層を生みだして政府の協力勢力にしようとするねらいであった。これにより200万もの自作農が創設されたが、一方では土地を失い、工業労働者や農業労働者になる農民も続出した。しかも、この改革でも農村共同体は完全には解体されず、結局革命後まで存続することになる。
第一次世界大戦
反政府運動を弾圧していたストルイピンは1911年9月、キエフで暗殺された。すると、労働運動はふたたび激しさを増した。1911年に10万人だったスト参加者は年々増加し、1914年には前半だけで150万人にも達した。農村では、ストルイピンの改革で土地をえた富農と、それ以外の大多数を占める貧農との間で対立が生じていた。
資本主義の発展にともなってブルジョワも力を増した。1912年11月に召集された第4国会では、立憲民主党や十月党など自由主義者グループが言論・集会・信仰の自由を主張していた。
そんな中、1914年7月に第一次世界大戦がはじまった。ロシアはイギリス・フランスらと連合国を形成し、ドイツ・オーストリアなど同盟国との戦争に突入した。他の国々と同様、ロシア国民は熱狂し、ほとんどすべての党派が皇帝のもと結束して戦争を遂行しようという立場にたった。
反政府運動が沈静化する中で唯一、ボリシェヴィキは戦争に反対の立場をとった。国外で活動していたレーニンは、ブルジョワの利益のために労働者が敵味方に分かれて戦わされているとし、平和をもたらすには労働者が自国の政府を革命で打倒しなければならないと説いた。彼が1916年に著した『帝国主義論』は、こうした立場を理論化したものである。
さて、大戦開始の当初、ロシア軍はドイツやオーストリアの領内に侵入するなど優位に戦いを進めた。しかし、はやくも8月末にはタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗し、大量の捕虜を出した。翌年にはドイツ軍が大挙してロシア領に侵入、ポーランドを失うなど不利な戦況が続いた。
戦争が長期化すると、工業・農業生産力の不足、鉄道網の不備など、ロシアの脆弱さがあらわになった。兵士は十分な武器・弾薬・食糧がないまま強力なドイツ軍と戦い、膨大な死傷者と捕虜を出していった。都市では品不足と物価高が人々の生活を直撃した。働き手を兵隊にとられた農村では、戦前の4分の3まで生産高が落ちた。
状況が悪化する中、国の首脳部も混乱をきたしていた。皇帝ニコライ2世は1915年より自ら軍の最高司令官となって劣勢を挽回しようと努めており、彼が留守の間は皇后アレクサンドラが政治をみることが多くなった。ところが彼女は、怪しげな宗教家ラスプーチンの影響を強く受けており、その政治は貴族にも民衆にもきわめて評判が悪かった。1916年、ラスプーチンは貴族の一団に襲われ死んだが、その時にはすでに皇帝の権威も失墜していたのだった。
軍司令官たちは、老朽化した専制君主制では勝利できないと思いはじめた。ブルジョワ勢力も戦争に勝てる体制を望み、憲法制定を要求して国会で政府側を攻撃した。一般民衆や兵士は、戦争そのものに対して完全に嫌気がさしていた。
1914〜17年の東部戦線
開戦当初、シュリーフェン計画を採用したドイツ軍が西部戦線に集中したため、ロシア軍はやすやすと東プロイセンに侵入した。しかし、ヒンデンブルク率いる少数のドイツ軍の前に各個撃破された(タンネンベルクの戦い)。ただ、オーストリアへの攻勢は成功し、ガリシア地方を占領した。
1915年になると、東部戦線重視に切り替えたドイツ軍の攻撃によりロシア軍は敗走し、ポーランドなど多くの領土を占領された。翌1916年、ロシア軍はオーストリアに対し攻勢に移り(ブルシロフ攻勢)、これを崩壊寸前まで追い込むが、自らも多大な損害を出した。1917年初頭までに、ロシアの国家および軍のダメージは耐え難い水準にまで達していた。
二月革命勃発
1917年2月、首都ペトログラード(1914年にペテルブルクから改名)では大雪のため食料・燃料の輸送が滞っており、女性による食料を求めるデモが続いていた。2月23日、男性労働者も加わったデモ隊が暴徒化し、各所で食料品店が襲われるという事件が起こった。翌日、デモは20万人にまでふくれあがり、「戦争反対」「専制打倒」など政治色の濃いスローガンをかかげはじめた。
この時、ニコライ2世は首都から700km近くも離れた前線にいた。首都にいた首相ゴリツィンは、事態の収拾が無理とみて皇帝に電報で辞意を伝えた。しかしニコライはこれを認めず、強硬手段で臨むよう命じた。
2月26日、軍隊が群衆に向け発砲、200人もの死者が出た。しかし多くの兵は発砲を拒否し、市内は無秩序に陥った。国会議長は国会主導の新政府を組織すべきだと皇帝に打電したが、ニコライは逆に国会の停会を命じた。
翌27日、軍は続々と群衆に合流し、軍司令部、内務省、警察など市内要所を制圧した。また、1905年革命の例にならい、反乱軍の各中隊から1名、労働者1000名から1名の代表者を集めたソヴィエトが結成された。その中心はメンシェヴィキと社会革命党の活動家であり、議長にはメンシェヴィキのチヘイゼが、副議長には社会革命党のケレンスキーが就任した。3月1日、ソヴィエトは兵士に向け命令第1号を発し、軍の命令はソヴィエトの命令と衝突しない限りにおいて有効である、とした。
一方、国会は皇帝の停会命令を無視し、新政府樹立に向けての議論を行っていた。3月1日、リヴォフ公を首相とする臨時政府が成立した。その中心は国会の自由主義勢力で、外相はカデット、陸海相は十月党から出た。ソヴィエトからは唯一、ケレンスキーが副首相兼司法相として入閣した。
その頃、ニコライ2世は前線から首都に向かっていたが、結局断念し、3月1日にプスコフの北西軍司令部に入った。ニコライはここで、国会の根回しを受けた軍部が自分の退位を求めていることを知ったのだった。ニコライは弟のミハイルに帝位を譲ることにしたが、ミハイルは身の危険を感じ即位を断念した。1917年3月3日のことだった。300年あまりつづいたロマノフ王朝はあっけなく終わりを告げた。これら一連の事件を、二月革命という。
レーニン帰国
臨時政府は3月3日、政治犯の釈放、言論・出版・集会の自由、労働者の団結権などを認めるとともに、政治形態や憲法を定めるために憲法制定議会を開くと発表した(この時点では開催時期未定)。しかし、臨時政府ができた後もソヴィエトは解散されなかった。そればかりでなく、活動家たちは首都のソヴィエトを頂点として全国の兵士や労働者に対し影響力を行使するしくみをつくりはじめた。つまり、臨時政府とソヴィエトという二つの権力中心が存在するという、奇妙な状態が続くことになった。
両者は、戦争継続をめぐって対立した。自由主義者やブルジョワが主導する臨時政府は3月6日、「わが同盟国とのあいだで取り交わされた合意を揺るぎなく遂行する」と宣言し、勝利の時まで戦争を続けることを明確にした。これは英仏など連合国に歓迎されたが、戦争にうんざりしていたロシアの民衆を失望させた。
これに対し、ソヴィエトは即時講和を主張した。ただし、ソヴィエトを理論面で主導していたメンシェヴィキは労働者政権は時期尚早だと考え、臨時政府を監視しつつ支えるという立場を堅持した。数では多数を占める社会革命党は左右両派に分かれて方針が定まらなかった。ボリシェヴィキは数が少なすぎ、メンシェヴィキに追従するだけだった。
そんな中、4月に、なんとドイツ領を通過してレーニンがペトログラードへ戻ってきた。革命で揺れるロシアをさらに混乱させようと、ドイツ参謀本部がスイスで亡命生活を送っていたレーニンに帰国を提案したのだった。ただし、ドイツ領内で革命思想を宣伝されないようにと、彼が乗る列車には封印が施されていた。
レーニンは帰国するとすぐに、「四月テーゼ」を発表した。それは戦争の即時停止と同時に、「すべての権力をソヴィエトへ」と訴え、臨時政府を明確に否定するものだった。この宣言は兵士や労働者に反響を巻きおこし、ボリシェヴィキの影響力を増大する契機となった。5月には、それまでレーニンと対立していたトロツキーが亡命先のニューヨークから帰国し、ボリシェヴィキに協力する姿勢を示した。
これに対し、臨時政府はメンシェヴィキと社会革命党から閣僚を受け入れて政権の安定をはかった。6月には陸軍大臣となったケレンスキーが指導してドイツ軍に対し大規模な攻勢に出た。しかしこれは失敗し、かえって反政府デモが激化した。7月、臨時政府はデモに加わったボリシェヴィキの弾圧に乗り出した。トロツキーは逮捕され、レーニンはまたもや逃亡を強いられてフィンランドに潜伏した。
十月革命
7月8日、ケレンスキーを首相とする臨時政府の新内閣が発足した。彼はブルジョワとソヴィエトの対立を調停する役回りを演じることで権力を維持しようとしていた。しかし、戦争継続の方針は変えず、悪化する経済に有効な対策を打てなかったため民衆の不満は大きかった。
一方、新たに軍の最高司令官に任命されたコルニロフは、反戦を主張するソヴィエトを打倒しなくては戦争指導は難しいと考えていた。8月25日、コルニロフは反乱をおこし、首都への進撃を開始した。ケレンスキーは当初これと手を結ぼうと考えていたが、コルニロフがケレンスキー自身の追放をももくろんでいると知って動揺した。ケレンスキーはソヴィエトに頼るほかなかった。
ソヴィエトはボリシェヴィキが中心となって防衛体制を整え、首都にいた兵士・労働者を集めて「赤衛軍」なる義勇軍を編成した。その間、反乱軍は鉄道労働者のサボタージュによって立ち往生し、ソヴィエトの工作員の説得を受けて兵士たちは解散しはじめた。9月1日、コルニロフは逮捕された。
コルニロフ事件は臨時政府の無力をあらわにし、政府に閣僚を出しているカデットや社会革命党右派、メンシェヴィキの信用はがた落ちとなった。反面、ボリシェヴィキの力は増大した。トロツキーら逮捕されていた活動家は釈放され、ソヴィエト内における勢力は1割程度(7月)の状態から半数を占めるまでになった。
潜伏先から臨時政府打倒をよびかけていたレーニンは10月にひそかに首都に戻った。ソヴィエトの議長となったトロツキーはソヴィエト内に軍事革命委員会を組織し(社会革命党右派とメンシェヴィキは不参加)、武装蜂起を準備しはじめた。蜂起の日時は、ロシア全土のソヴィエト代表者が集まる全ロシア・ソヴィエト会議(10月25日)の直前に設定された。
一方、ケレンスキーは憲法制定議会(二月革命時に約束されたもの)の11月選挙実施を決めるなど、臨時政府の建て直しに躍起となっていたが、ボリシェヴィキが公然と武装蜂起を論じはじめたのをみて不安にかられた。彼は10月24日未明、士官学校生を主力とする部隊でボリシェヴィキの機関誌発行所を襲撃させた。トロツキー率いる軍事革命委員会はただちに行動を開始、発行所を奪回した。
ボリシェヴィキは事前に首都にいた部隊の大部分を味方につけていたため、翌日までにほぼ無血で市内要所を占領し、臨時政府の打倒とソヴィエトへの権力移行を宣言するにいたった。唯一残された冬宮(臨時政府所在地)も26日早朝には占領され、脱出に成功したケレンスキー以外の臨時政府閣僚が逮捕された。これが十月革命である。
ソヴィエト政権誕生
冬宮攻撃の銃声がまだ鳴り響く中、25日、予定どおり全ロシア・ソヴィエト会議が開かれた。社会革命党右派とメンシェヴィキがボリシェヴィキの権力奪取に抗議して退席した。ボリシェヴィキの独壇場となった会議は26日、革命を承認し、二つの宣言を採択した。ひとつは、無併合・無賠償の原則にもとづいて全交戦国に即時停戦をよびかける「平和に関する布告」であった。もうひとつは「土地に関する布告」で、地主の土地を没収して国有化し、農民に土地を分配するというものだった。レーニンを議長とし、ボリシェヴィキのみで構成される「臨時労農政府」を発足して、27日朝に大会は終了した。ここに、史上初の「労働者と農民の政府」が誕生したのだった。
一方、首都を脱出したケレンスキーは反撃を計画したが、十分な兵力が集まらず壊滅、翌年亡命することになる。また、ペトログラード以外の都市でもソヴィエトによる権力奪取が進み、ソヴィエト政権は全国的なものになりつつあった。ただし、各地のソヴィエト内では社会革命党やメンシェヴィキの力が強かったから、ボリシェヴィキ政権が確固としたものになるかはまだ未知数だった。
11月12日、憲法制定議会の選挙がおこなわれた。ロシア史上初の自由な普通選挙だった。すでに実力で政権を握ったボリシェヴィキが(しぶしぶながらも)その実施を認めたのは、おそらく自分たちが多数を握れるだろうとの目算があったからであった。
ところが、その結果は予想外のものだった。カデットとメンシェヴィキはほとんど議席をとれなかったが、社会革命党(大部分が右派)が農村部の圧倒的な支持を受け、全議席(718)の6割(413)を占め第1党となったのである。ボリシェヴィキは都市部では強かったものの、全議席の4分の1(183)にとどまった。
1918年1月5日、憲法制定議会が開かれた。ボリシェヴィキはソヴィエトの権力承認を求めたが否決され、退席した。そして翌日には議場を閉鎖した。議会は二度と開かれず、西欧型の議会制民主主義への道は絶たれた。社会革命党右派とメンシェヴィキの合法的活動の場は奪われ、ソヴィエト政権はボリシェヴィキと、それに近い社会革命党左派によって独占されることになった。
レーニンは、現状はすでにブルジョワ革命を越えて社会主義の建設に向かっている段階だと規定し、ブルジョワをふくむ議会より「労働者と農民の代表機関」であるソヴィエトが優位に立つのは当然だ、としてこの措置を正当化した。たしかに、労働者が工場を占拠し自主管理をはじめるなど、かつてなかった事態が生じていたのは事実である。しかしこの出来事が、「社会主義革命と民主主義の関係」というアポリアの端緒となったのも否定できない。
ブレスト・リトフスク条約
ボリシェヴィキの主張は戦争の即時終結だったが、問題はいかにしてそれを実現するかであった。全交戦国に対する「民主的講和」の呼びかけは、連合国にはまったく無視された。ただ、敵国ドイツはロシアを戦争から脱落させられるとあって喜んで交渉に応じた。
12月、ブレスト=リトフスクで独露の講和会議がはじまった。ドイツは、ポーランド、リトアニアなどすでに占領している地域の割譲を要求した。「無併合・無賠償の講和」というソヴィエト政権の呼びかけに反する事態であった。
これに対するボリシェヴィキ首脳部の反応は混乱を極めた。ブハーリンらは、講和会議を打ち切って「革命戦争」を戦い抜くべきだと主張した。そのうちにドイツでも社会主義革命がおこって、「民主的講和」が可能になるだろう、と考えたのである。
ただしこの時、戦争を続けるための軍はロシアになかった。兵士の厭戦気分はすでに頂点に達していた。しかも農村では「土地に関する布告」に基づいて土地の分配がはじまっており、兵士たちは故郷で分け前にあずかるために続々と脱走していた。その数は200万に達したといわれる。
レーニンはこうした現実を踏まえ、いつ起こるかわからないドイツ革命に期待するより現存する唯一の「労働者の国」を守ることが先決で、そのためにはすぐ講和に応じるべきだと主張した。しかし、この意見は少数派だった。
採用されたのは、「戦争もしないが講和もしない」、つまりダラダラと交渉しつつドイツ革命を誘うというトロツキーの案であり、彼自身が代表となって交渉引き延ばしをはかった。その間、戦争の本質を知らしめて世界の労働者を怒らせようと、帝政ロシアが各国と結んだ数々の秘密条約が暴露された。軍の再建もはかられ、1月に志願制の「労働者と農民の赤軍」(赤軍)が創設された。しかし、志願する者はまだ微々たるものだった。
2月になると、ドイツ代表がしびれを切らした。これに対し、トロツキーは「理不尽な講和には応じないが、一方的に戦争を停止する」と演説し席を立った。ドイツ軍は攻撃を再開してこれに応えた。ロシア軍は総崩れとなり、無人の野を行くようにドイツ軍は進撃した。ソヴィエト政府はレーニンの方針をとって講和に応じざるをえなくなった。ドイツ側が出してきた条件は過酷なものだったが、もはや交渉の余地も与えられず、事実上の降伏だった。
3月3日、ブレスト=リトフスク講和条約が調印された。ロシアはウクライナ、バルト海地方、フィンランドなど国土面積の13分の1、人口の3分の1、耕地の4分の1、石炭・鉄生産の3分の2を失った。とてつもない損失だった。
ブレスト=リトフスク条約
ボリシェヴィキ首脳は「帝国主義戦争」を否定するあまり、現実的な軍事・外交感覚を失っていたといえる。国内の革命で有効だった戦術が、国と国との関係でも通用すると夢想した節があるのである。すなわち、「無併合・無賠償の講和」のよびかけに交戦国が応ずるだろう、各国の労働者がロシアに続いて革命を起こすだろう、一方的に戦闘を中止すれば相手もそれにならうだろう、など無邪気ともいえる甘い見通しである。そのツケは、広大な領土の喪失という形で払わされた(地図の黄色)。幸いにも、半年後ドイツの敗戦により条約が破棄されるが、この時失った領土のうちフィンランド、ポーランド、バルト諸国は結局独立国となった。
内戦はじまる
どうにか戦争を終結させたボリシェヴィキは同月、「ロシア共産党」と名称を改め、首都をより奥地のモスクワに移し、トロツキーを中心に赤軍編成を進めるなど、新体制づくりをはじめた。しかし、講和反対の立場をとる社会革命党左派が連立から離脱したのは大きな痛手であった。
なによりも、単独講和は他の連合国を激怒させた。イギリスでは、ボリシェヴィキ政権を倒して連合国側にたつ政府を樹立するために武力干渉すべきだという意見が強くなった。はやくも3月9日には英仏がムルマンスクに、4月には日英がウラジヴォストークに軍艦を派遣している。
そこに勃発したのが、5月末のチェコ軍団反乱であった。これは帝政ロシアのときに、ロシア在住およびオーストリア軍捕虜のチェコ人を集めてつくられた軍団(兵力4万)で、シベリア鉄道〜ウラジヴォストーク経由でロシアを去ることがソヴィエト政権との間で合意されていた。ところが5月末、軍団はドイツ人捕虜との小競り合いからウラルで反乱に踏み切り、シベリア鉄道沿線一帯を占領してしまったのである。
この事件は干渉をねらう連合国に、「チェコ軍団救出」という格好の名目を与えた。この年の夏、イギリス軍がアルハンゲリスクやバクー、日米軍がシベリアに出兵した。それとともに、旧帝政の軍人やかつての憲法制定議会の政治家らがシベリア各地に反革命の武装勢力をつくった。これらは「白軍」とよばれている。ロシアは本格的な干渉戦争、そして内戦に突入した。
この非常事態に、ソヴィエト政府は赤軍を志願制から徴兵制に切り替え、労働者と農民を動員しはじめた。その兵力は最大時で550万に達した。さらに、流通システムの崩壊、穀倉ウクライナの喪失などにより都市の食糧事情が悪化していたことから、食料調達隊を農村に送り余剰穀物を強制的に徴発した。工場もすべて国有化され、労働者の自主管理にかわって厳しい統制がしかれた。いわゆる「戦時共産主義」のはじまりである。こうした政策は当然のように、農民と労働者の猛反発をよんだ。
政権内の闘争も激化した。7月初旬に開かれた第5回全ロシア・ソヴィエト大会では、議席の3割を占める社会革命党左派が食料徴発と対ドイツ講和に抗議し、ドイツ大使を爆殺して武装蜂起した。これが鎮圧された後も社会革命党左派のテロは続き、8月30日にはレーニンが重傷を負っている。
これらの動きに対して、レーニンは「白色テロには赤色テロで応じる」と宣言し、徹底的な弾圧でのぞんだ。中心となったのはチェカ(非常委員会:のちのKGB)なる秘密警察で、スパイと密告の網を張りめぐらし、「反革命派」とみなした人物を捕らえては裁判なしで処刑した。チェカの地方幹部が暗殺されると市民500人を銃殺して報復するというすさまじさであった。
また、かつての皇帝ニコライ2世一家は臨時政府に監禁された後、ボリシェヴィキ政権によってエカチェリンブルクに移されていたが、この地に白軍が接近したため、7月16日に全員殺された。この事実は、ボリシェヴィキの暴虐性を示すものとして喧伝された。
赤軍の勝利
11月、ついに待望のドイツ革命が勃発し帝政が崩壊、第一次世界大戦は連合国側の勝利で幕を閉じた。ソヴィエト政府はただちにブレスト=リトフスク条約を破棄したが、ドイツ占領地域のポーランド、ウクライナ、バルト諸国などはすでに独立を宣言していた。
大戦は終わったものの、ロシア内戦はこれからが正念場だった。連合国は干渉に本腰を入れ、乱立していた白軍もコルチャック提督らのもとに大同団結がはかられた。対する赤軍は、トロツキーの方針により旧帝政軍の将校を(政治委員という目付役をつけた上で)大量に登用して規律を強化し、面目を一新していた。これに対してはボリシェヴィキ内でも「専制的・農奴的」として反対が強かったが、赤軍が民兵的な組織から本格的な軍隊に生まれかわる上で必要な過程だったといえる。
1919年は決戦の年だった。赤軍はウクライナ政府を崩壊させ、シベリア、黒海、バルト海各方面から進撃してきた白軍をすべて撃退した。この間、トロツキーが装甲列車で最前線を激励してまわったことは伝説的な逸話となっている。1920年の春までに内戦の帰趨はほぼ決し、白軍を支援していた英仏米の干渉軍も撤退していった。ただ、日本軍だけが1922年まで無為にシベリア駐留を続けた。
赤軍勝利の背景には、ボリシェヴィキ政権の厳しい徴兵・食料調達にもかかわらず、農民の白軍支持が思いのほか広がらなかったことがある。農民はボリシェヴィキの強硬手段に反発しつつも、貴族・地主の支配が復活することも望まなかったのである。
内戦と干渉戦争
1918〜20年、ボリシェヴィキ政権は、白軍(地図の白色)、日英仏などの干渉軍(緑色)、独立を宣言した諸民族(青色)、領土的野心をもつ周辺諸国(黄色)に包囲されるという困難な状況に陥った。しかし、これらの勢力間の連携不足、内線の利を生かした赤軍の作戦などにより、1920年までには国内の統一をほぼ完了した。
世界革命の夢やぶれる
ボリシェヴィキ首脳部は、ソヴィエト政権が生き残り、社会主義社会を実現するためには、資本主義が発達した(つまり、理論的にはより社会主義社会に近い)ヨーロッパ諸国でも革命がおこる必要がある、と考えていた。
ドイツ革命は全土にレーテ(労働者と兵士の評議会。ソヴィエトにあたる)を生みだし、「世界革命」の第一歩になるかと思われた。しかし、成立したのは穏健な社会民主党の政権であった。この政党はマルクス主義に立脚するが、議会制民主主義のもとでの社会主義を志向し、路線の違いからロシアのボリシェヴィキと激しく対立していた。
ただ、社会民主党左派から分かれたスパルタクス団はボリシェヴィキ流の武装革命をめざしていた。彼らは1919年1月ドイツ共産党を結成し、ベルリンなどで蜂起に踏み切った。しかし、政府側の義勇軍に鎮圧され、中心人物のリープクネヒトとルクセンブルクは惨殺された。3月初旬にふたたび蜂起したものの、党首以下3500人が義勇軍に殺され完全な失敗におわった。
ドイツ共産革命の挫折を「指導力の欠如」にあるとみたレーニンは3月、中欧や北欧、南欧の労働運動の代表者を集め、コミンテルン(第3インターナショナル)を発足させた。ボリシェヴィキをモデルとした共産党を各国に設立し、それをロシアが指導することで「世界革命」を実現しようとしたのである。各国党には、ロマノフ王朝から没収した莫大な財産から資金援助が行われた。
しかし、「世界革命」への道は険しかった。1919年3月下旬にハンガリーでクン=ベーラ率いる「ソヴィエト共和国」が成立したが、ルーマニア軍と反革命軍の攻撃により4ヶ月あまりで倒れた。ドイツでも、ルール工業地帯で1920年3月に共産党が政権樹立を宣言したものの、正規軍により苦もなく鎮圧された。米・英・仏など先進資本主義諸国では、革命の気配すらなかった。
ロシア内戦が最終段階にさしかかっていた1920年4月末、ポーランドがロシアに侵攻を開始した。その目的はウクライナ西部への領土拡大であり、5月7日にはキエフを占領した。しかし赤軍は7月に総反撃を開始、1000kmを踏破して8月にはワルシャワ前面に達した。赤軍占領地帯にはポーランド臨時革命委員会が設立され、いよいよ「革命の輸出」がはじまるかに思われた。
ところが、補給線の伸びきった赤軍はポーランド軍に側面をつかれると総崩れとなり、国外に追い出された。10月に講和が結ばれ、ロシアはポーランドに白ロシアとウクライナの西部を譲った。「世界革命」の夢はまたも絶たれた。
クロンシュタット反乱
1920年11月、最後の白軍部隊がクリミア半島から撤退した。3年におよんだ内戦はボリシェヴィキの勝利で幕を閉じた。しかし、残されたのは荒廃した国土と破綻した経済であった。工業生産は大戦前の7分の1、穀物生産は5分の1へと激減していた。とりわけ1920〜21年は大凶作となり、500万人が餓死したと伝えられる。
この悲劇がソヴィエト政権の政策に起因することは疑いない。工業の崩壊は、強引な国有化で管理部門をみずから破壊したことが原因だった。農村では、「打倒すべき階級」とされた地主や富農は銃殺もしくはシベリア送りとなり、彼らの土地は放置されるか細分化され、穀物生産は壊滅していた。ボリシェヴィキが支持基盤とみなした貧農すら、余剰をすべて徴発されたため生産意欲を失ない、食糧を隠したり蜂起したりして抵抗した。政府は彼らを「暴徒」とみなして弾圧し、女子供、老人をふくむ村民全員を銃殺することもあった。
慢性的な飢餓にさらされていた都市の民衆の間でも、ボリシェヴィキ独裁に対する不満は頂点に達していた。1921年2月、ペトログラードの労働者が民主化を要求し、ストに突入した。レーニンは赤軍を派遣してこれを粉砕した。「労働者と農民の政府」が、帝政以上に力ずくで労働者と農民を抑圧する体制であることが明らかとなってきた。
3月1日、フィンランド湾内に位置するバルト艦隊の軍港クロンシュタットで、二隻の軍艦の水兵ら1万5000が反乱をおこし、要塞を占拠した。彼らの要求は、自由選挙・複数政党制・全政治犯の釈放・農地私有の保障などで、ロシア民衆が考える革命本来の精神を代弁するものといえた。対するレーニンの解答は、やはり武力による鎮圧であった。18日、重砲や航空機を交えた総攻撃の前に反乱軍はやぶれ、数千人が銃殺された。
一方でレーニンは、「戦時共産主義」の限界も感じていた。クロンシュタット反乱中の3月に開かれた党大会で、レーニンは「新経済政策(ネップ)」を打ち出した。食料徴発は廃止され、農民は現物で税を払った後は余った穀物を自由に販売できるようになった。土地の私有・貸与も認められた。基幹産業をのぞいた中小企業は民営化され、貨幣が再導入された。「徴発→配給」という現物経済から、「市場と貨幣」を媒介とする経済への転換がはかられたのである。つまりは、資本主義経済への回帰だった。
ネップが導入されると、ロシア経済はみるみる回復した。1925年までに、農業は戦前の水準を上回り、工業でも4分の3を越えるまでになった。しかし、「ボリシェヴィキ独裁」という政治体制にはまったく変化はなかった。むしろ、党内では分派の禁止やその除名など締め付けが強化された。限られた党エリートが社会を主導するというのちのソ連の特徴が、すでにあらわれはじめていた。
ソヴィエト連邦の成立
帝政ロシアは、ロシア人が多数を占めるものの、それ以外に百以上もの民族をかかえる多民族国家であった。ボリシェヴィキ政権は十月革命直後に出した「ロシア諸民族の権利宣言」において、世界に先がけて「民族自決」をうたっていた。しかし、実際には可能な限り帝国の版図を維持しようとしていたことは間違いない。その際の理論的な根拠となったのは、労働者の利害は万国共通であり国家・民族を超えて団結すべきだ、というマルクス主義の持つ「国際性」であった。
ロシアが内戦に突入すると多くの民族が独立をはかった。ポーランド、フィンランドとバルト諸国は激戦の末独立を維持したが、ウクライナやグルジアなど大部分が赤軍の「軍事作戦」の中で打倒された。
新国家をどのような形態とするかについては、ボリシェヴィキ政権内でも意見が分かれた。民族問題を担当していたスターリンは、他民族をロシアの一部として併合し、強力な中央集権国家を樹立しようと考えたが、レーニンなどの反対にあった。結局、多くの少数民族を自治共和国・自治州として内部に抱えたロシア共和国と、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカス(グルジア・アゼルバイジャン・アルメニアから成る)の各共和国が同権で連合するという形となった。ただし、実態は外交・国防・経済計画などで中央政府が強大な権限を持つもので、ロシアが他民族を従属させていることは明白だった。スターリンは、名を捨てて実を取ったことになる。
こうして1922年末、ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立した。1925年までに列強諸国は次々にソ連を承認し、外交関係を結んだ。しかし、ロシアの混沌はまだ終わっていなかった。
その後
1922年5月、レーニンは脳卒中で倒れ、事実上引退した後24年に死んだ。その後、あいかわらず「世界革命」をとなえるトロツキーと、ソ連のみで社会主義を実現しようとする「一国社会主義」を掲げるスターリンが対立した。実権を握ったのは、党官僚と秘密警察を従えたスターリンだった。トロツキー、ジノビエフ、カーメネフなど有力幹部は次々に追放された。
しかし、「一国社会主義」への道は容易ではなかった。国営工場の設備は老朽化が目立ち、工業生産は1925年には頭打ちになっていた。生産を拡大するためには設備を更新する必要があったが、そのためには莫大な資金が必要だった。帝政時代のような外資導入が望めない以上、自国内で資金を蓄積するしかない。政府は農民からできるだけ安く穀物を買い上げて、これを都市や外国へ売ることでマージンを稼ごうとした。しかし、農民は低価格での販売を嫌い、穀物を民間の商人に流すか、作付け面積を減らすなどした。そのため農業生産が落ち込み、1927年頃からはまたもや都市での食糧難がみられるようになった。
そこでスターリンが行ったのが、農業の全面的な集団化であった。農地、家畜、農具の大部分は共同利用とされ、農民は新たに編成された共同農場(コルホーズ)で働く労働者とされた。がむしゃらに進められた集団化によって、1935年には全耕地面積の94%がコルホーズとなった。その過程で、1000万人以上の農民が強制移住させられた。少しでも抵抗する農民は「富農」とみなされ、処刑されるかシベリアに流された。
集団化によって、政府による穀物調達の効率は上がった。しかし、農民の生産意欲は減退し、農業生産そのものは落ち込んだ。その結果、1932〜33年、ウクライナの穀倉を中心ににすさまじい飢饉が襲った。にもかかわらず、政府は強制的に徴発を続け、被害を拡大させた。この間の餓死者ははっきりしたことは分からないが、600万〜700万ともいわれている。
こうして得た穀物は外国に輸出され、その代金を投入することによってソ連の工業生産は上昇を続けた。1929年からの世界恐慌に苦しむ資本主義国にとって、この事実は大きな驚きを持って迎えられ、この新興社会主義国を「希望の星」とあがめる者も少なくなかった。しかし、この成果が農民の多大な犠牲の上になし遂げられたということはひた隠しにされ、ソ連崩壊までほとんど知られなかった。世界恐慌下でのアメリカで職を失った者は、ピーク時に1200万に達した。しかし、同時期のロシアで、抹殺・餓死などで命を失った者の数がそれを上回るのは確実とされる。
終わりに
十月革命は、初の「社会主義革命」として世界史上重要な意義を持つといわれている。さらにいえば、18〜19世紀に世界で起きた諸革命、またロシアの第一革命や二月革命のような偶発的・自然発生的な要素がなく、ボリシェヴィキというプロの革命家集団が、「労働者と農民の政権を樹立する」というみずからの理論通りに事を進めた、という点も特異である。そのことは、レーニン、トロツキーらの革命指導の見事さを示している。また、ボリシェヴィキ政権が「革命の輸出」をはかったこととあいまって、20世紀の諸革命(とくに発展途上国の)に「革命のモデル」を提供した点も見逃せない。
ただし、その理論優先の姿勢が、革命後に大きな混乱をまねいたことも事実である。ボリシェヴィキの主張する「革命の正当性」が自派の「理論の正しさ」のみに立脚している以上、他派に対しては不寛容にならざるを得ない。さらにいえば、十月革命は一種のクーデターにすぎず、ボリシェヴィキの政治思想が広範な国民の支持を得ていたわけではなかった(そのことは憲法制定議会選挙で明らかとなった)。革命後の数年間が反ボリシェヴィキ勢力との果てしない死闘の様相を呈するのは、ここに原因がある。ロシア革命をモデルにした諸革命がこの非寛容性をも引き継いでしまったことは、20世紀の悲劇であろう。
また、革命後の現実が、理論と異なったことも混乱を増幅した。そもそも、マルクス本来の理論でいえば、もっとも資本主義の発達した国で最初に社会主義革命が起きなければならない。ところが、実際には革命はヨーロッパでもっとも資本主義の未熟なロシアでおこり、「世界革命」も不発に終わった。ロシア社会の後進性に加え、周辺諸国の敵意の中での生き残りに専念しなければならなかったことは、社会主義の建設をさらに困難なものとした。
もうひとつ、理論と現実の重大なギャップがあった。それが、農民の問題である。20世紀初頭のロシアはまだ圧倒的に農村社会であり、ロシアが抱えていた主要な問題とは、(マルクスが想定しているような)資本家と労働者の関係というより、地主と農民の関係だったのである。ボリシェヴィキは、農民を労働者の同盟者と規定し、地主の土地を分配することによって一旦味方につけたかに思えた。しかし、すぐに農民はボリシェヴィキ政権に抵抗し、それ以後頭痛の種であり続ける。
土地を得た農民が保守化し、革命の進展を望まなくなるというのは、フランス革命などでもみられた現象である。ロシア革命の場合は、そこに社会主義特有の問題もからんでいた。社会主義は生産手段の公有を大前提としており、理屈では土地を私有する自作農は打倒すべきブルジョワ階級となるのである。つまり、労働者にとって土地を持った農民は「敵」ではないのか、という疑問が生じる。スターリンは「すべての農民は公有農場で働く労働者でなければならない」という理論に現実のほうをあわせようとし、集団化を強行してふたたび農民から土地をとりあげたのだった。農民にとって、これが巨大な不幸をもたらしたことは前述のとおりである。
結局のところ、ある階級を敵と断じ、これを打倒してこそ理想社会が実現できるのだ、という社会主義の理論そのものが悲劇の根本的な原因ではないだろうか。「自由・平等・博愛」をうたったフランス革命ですら醜いテロ合戦で数十万人が命を落としたのだから、「階級闘争」を掲げたロシア革命がそれ以上の犠牲を生んだとしても不思議ではないのかもしれない。ある推計によれば、1917年以後の内戦・粛正・飢餓・集団化による犠牲者は6600万人にのぼるとされている。世界史上、これほどのスケールで自国民を虐待した国家はソ連と中華人民共和国以外に存在しない。