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【社説】

差別解消法施行 障害のある友をもとう 

 障害のある人を締め出さない社会づくりが、障害者差別解消法の目的である。特別扱いではなく、良き友人のように対等の関係を築こうということだ。

 車いすに座った人、白杖(はくじょう)をついた人、また手話でやりとりする人や難病患者の姿もあった。

 先週、およそ七百人の障害者たちが、四月からの法施行を祝って東京都心を練り歩いた。祝賀パレードは全国各地で催された。これほど歓迎される法律も珍しい。

 世界保健機関(WHO)は、全人口の約15%は障害者と推計している。日本では千九百万人に上る計算になる。その割には、町の中であまり障害者に出会わないような気がしないだろうか。

 家族や福祉施設、病院の保護の下で、不本意な生活を余儀なくされる人も多い。それは安心して送り出せない世の中であることの裏返しでもあろう。

 障害の有無によって分け隔てる不平等な環境や仕組みを改め、差別や偏見を取り除く。差異や多様性を尊重し合う社会をつくるための手段として、効果を期待されるのが差別解消法である。

 法は障害を理由とする不当な差別的取り扱いを禁じている。

 例えば、バスの乗車を拒んだり、診察の順番を後回しにしたりすることや、就職の内定取り消しも許されない。

 さらに、障害者のニーズに応じて、過重な負担にならない範囲で手助けや便宜の提供を課してもいる。これを合理的配慮と呼ぶ。

◆障害者は情報発信を

 例えば、車いす利用者に合わせてテーブルの高さを整えたり、目や耳の不自由な人に点訳や手話通訳を用意したりすることだ。

 法の制定に尽力したNPO法人DPI日本会議の佐藤聡さんは「どんどん差別されよう」と逆説的に呼びかける。障害者の差別体験の発信が重要になるからだ。

 確かに、いわゆる健常者にとっては、どんな事柄が差別行為なのか分かりにくいかもしれない。

 上のイラストを見てほしい。

 衣料品売り場で、気に入った洋服を指さす車いすの女性と、付き添いの男性。そして、店員が男性に向かって「お連れの方の服のサイズは?」と尋ねている。

 よくある場面に見えるが、なにか問題があるのだろうか。

 これは不当な差別的取り扱いになりうる。目の前の本人を無視して、付き添いや介助の人のみに話しかければ、障害者の人としての尊厳を傷つけてしまう。その身になってみれば分かるのに、健常者はついそんな態度を取りがちだ。

 障害者との接し方が分からないという声も多い。幼いころから共に遊び、学び、また働く機会がめったにない社会だからだろうか。

 NPO法人障害平等研修フォーラムは、障害者を交えて、差別や不平等について学び合う場を自治体や学校、企業で設けている。イラストはその材料のひとつ。久野研二さんはこう語る。

 「黒人差別をなくすのに、黒人は白人になれ、とは求めない。女性差別をなくすのに、女性は男性になれ、とは求めない。ところが、健常者になれ、と強いられてきたのが障害者差別の歴史だった」

 治療や訓練を重ねて、心身の機能を回復させる。それが自立や社会参加の条件とされてきた。

 法の最大の意義は、その発想を逆転させることにある。

 障害者に残されたありのままの能力に合わせ、代わりに健常者の意識や社会の構造を変える。人としての尊厳を保ち、自由に暮らす権利を等しく保障するためだ。

 健常者の独り善がりな哀れみや正義感は禁物だ。行動は同じであっても、かわいそうだから優しくしよう、気の毒だから手を差し伸べようというのでは、変わったことにはならない。これが“心のバリアー”と呼ばれるものだ。

 繰り返すが、法の施行で変わるべきは健常者の方なのである。

◆見えぬ障壁に気づく

 誰しも抱えうる障害をよく知る上でも、友人づくりは共生社会への近道ではなかろうか。大方の障害者は、世の中の方に「障害」があって、自分らしく生きづらいと感じている。きっとそう気づく。

 「世の中で最も哀れなのは、目は見えていても、ビジョンのない人だ」−。視力と聴力を失い、発話にも困難を抱えた米国のヘレン・ケラーの言葉である。心の目をしっかりと見開いていたい。

 

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