「悲惨に死ね」と願う浅ましさ-「吉原炎上」間違い探し 12[ビバノン循環湯 87] (松沢呉一) -3,041文字-
2016年01月05日11時22分 カテゴリ:連載 • セックスワークを考える • 連載 • ビバノン循環湯 • 連載 • 吉原炎上間違い探し • 連載 • 性風俗史 • 連載 • 街
現実はどうだったのか
関東大震災の証言集は当時何冊も出ているのだが、それらの証言の中に、時折娼妓のことが出てくる。たとえば浅草で、着の身着のまま逃げてきた娼妓を見かけたといった内容だ。
通常、娼妓が遊廓外に出る時には、そうとわかるような格好はしないわけだが、この時は着替える間もなく、派手な着物を着ていたり、派手な襦袢が見えていたりしたのだろう。
つまりは、浅草方面まで逃げた娼妓たちがいたってことだ。もちろん、上野方面、三ノ輪方面、千住方面に逃げたのもいた。あの周辺一帯の被害が甚大だったため、逃げた先で亡くなったのもいたろう。場合によっては吉原周辺に留まったがために生き延びたのもいたろう。
その時にどうするのがよかったのかは結果論でしかなくて、情報がない中逃げまどうしかなかったのが大半の人たちだった。娼妓に限らず。
被害の大きかった本所被服廠跡や隅田川の川原に集まった人たちだって、開けた場所に行けば助かると考えたわけで、火災旋風でかえって危険であることを知っている今の時代の人たちがそれを浅はかな選択だと決めつけることなどできない。
中で働く人たちや楼主もまた同じだ。生き残れたかどうかはほとんど運が左右した。生き残った人たちの証言を見ると、吉原では地震で半壊した建物の片付けをするために、その地に多くの人が残っていて、やがて火災が発生して、気づいた時には火の海であった。
その過程で判断にミスがあった可能性はあるだろうし、楼主の中には、どうすべきか迷ったとのことをのちに雑誌で述懐しているのもいる。結局、この楼主は娼妓それぞれの判断に任せている。早い段階で吉原から離れていたら、助かった人たちがより多かったかもしれないが、少なくともこの人物は助かったのだから、判断にミスがあったとは言えまい。しかし、中には、この判断を間違えて、自分自身、焼け死んだ楼主もいたろう。
久保田万太郎が指摘するように、遊廓内にはさまざまな人たちが住んでいて、それらの人々も多数亡くなっているわけで、彼らもまた判断ミスをしたとも言える。そういった可能性を検討するところまではいいだろうが、「大門を開けなかった」というデマについては、繰り返しその悪質さを指摘しておく必要がある。
※図版は焼けた浅草の仲見世と避難する人々。この火や煙もおそらくあとで加えたもの。
平気でデマを垂れ流す矯風会
「大門を閉めた」というデマは、矯風会の言うことが如何にデタラメであるのかをイヤというほど理解させてくれるエピソードであり、彼らは目的の正しさが担保されていれば事実なんてどうでもいいのである。その正しさはただの宗教的信念であり、第三者には検証が不可能だ。
このように捏造された話がまさに座談会にあったように「機会ある度ごとに」繰り返され、戦後にいたっても矯風会はこのデマを拡散し続ける。
吉原は娼妓の自由を拘束していて、大地震、続いての大火災にも大門を開かず、猛火に追われた囚われの婦人たちは、何百名とも知れず、池の中にとびこみ身を沈めて死んでいった。彼女たちの死を悼んで手向けの焼香をする 者は多かった。われわれも追悼会をひらこうと、ちょうど一ヶ月後の十月一日、吉原公園の池の端に集まった。民衆も含めて三百人くらいおり、救世軍の山室軍平氏、小崎弘道牧師、渡辺善太牧師などが来られ、矯風会からも小崎千代会頭はじめ守屋さん、地方代表が集まった。守屋さんは私に「あなた下着は?」ときき「もちろん真っ白さ、貴女は?」と問いかえしたものだ。吉原の楼主たちは、われわれの運動がだいぶ頭にきていたようで、不穏の空気が感じられていた。
以上は久布白落実著『廃娼ひとすじ』の一文。久布白落実は、初代強風会会頭の矢島楫子の嘘をともに隠し通そうとした二代目会頭だ。さもありなん。
ここに守屋東が登場しているので、「婦人公論」の座談会に参加した守屋というのはやはり守屋東に間違いがなかろう。
これは1973年刊行の本である。関東大震災から半世紀経ってもこんなことを言っているのだ。門を閉じたために池で亡くなったのが何百名というデマに反論する人もいなくなったからこそ、デマをなお垂れ流すのだ。デマにこうも執着して、「より悲惨に死んでいて欲しい」「より多く死んでいて欲しい」と願うこの異常さはいったいなんであろうか。
そして、この本もまた中央公論社が出している。デマの発生から拡散までこの出版社は加担したのである。
これが間違いであることを知らないとは思いにくく、知らないとしたら批判には耳を貸さない彼らの体質を雄弁に物語る。こうまで悪質なデマを垂れ流し、死者をも宗教的信念に利用するハイエナの如き矯風会が吉原に来て、長閑に下着の話をしていれば、楼主たちが怒るのももっともである。
今もなおこのようなことを書いている人たちが多数いる。娼妓の死を笑いながらデマに利用する人たちの書くものを決して信用しないでいただきたい。
「もっと悲惨であって欲しい」と願う人々
話はドラマ「吉原炎上」に戻る。ドラマの中でも、テレ朝のサイトでも、吉原に門はひとつしかなかったと説明されているが(いつの間にか、「吉原炎上」のサイトが削除されていた)、すでに述べたように、これは間違い。吉原には七カ所に非常門があった。非常門は通常閉じられていたが、災害の際には逃げるために開かれ、祭りの際にも開放される。原作にもそう記述されている。
逃げられるように、あるいは外から逃げ込めるように、いざという時のための門が存在し、開かれていたにもかかわらず、その事実をなかったことにしたい人たちが、非常門の存在自体を消してしまう。
(残り 754文字/全文: 3063文字)
この記事の続きは会員限定です
ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。
タグマ!アカウントでログイン
外部サービスアカウントでログイン
既にタグマ!アカウントをお持ちの場合、「タグマ!アカウントでログイン」からログインをお願いします。
(Twitterアカウントで会員登録された方は、「Twitterでログインする」をご利用ください)
- 『闇の女たち』の著者が『闇の女たち』を読む-「闇の女たち」解説編 11(松沢呉一)-2,653文字- 2016年4月5日
- 宮本百合子も平塚らいてうも矯風会を批判-『女工哀史』を読む 14-(松沢呉一) -3,434文字- 2016年4月4日
- GHQの検閲と発禁-「闇の女たち」解説編 10(松沢呉一)-2,110文字- 2016年4月3日
- 旅はマゾ汁を増量させる-萬華再訪 3-(松沢呉一)-2,550文字- 2016年4月2日
- GHQが許可しなかった街娼の本-「闇の女たち」解説編 9(松沢呉一)-2,137文字- 2016年4月1日
- パンパンの全体像を知る調査-「闇の女たち」解説編 8(松沢呉一)-3,081文字- 2016年3月31日
- 花園歌子の矯風会批判-『女工哀史』を読む 13-(松沢呉一) -3,795文字- 2016年3月30日