ぼくは今24歳。
もう十分に大人の仲間入りをしている年齢だし、
そのつもりだ。
でもたまに
「大人にはなりたくないな」と思う瞬間がある。
これがピーターパン症候群というやつだろうか?
いや少しちがう。なんだろうこのモヤモヤは。
今年で25歳になる。
大人になるということ
大人になるってどういうことだろう?
そんなことを考える。大人=年齢だよ。なんていうカンタンな答えにはピンとこなくて、大人ってなんだろう?という漠然とした疑問がぼくの中にある。
大人になって変わったこと。
なんとなく感じるのが責任だとか社会性だとか自立だとかそんなようなものの存在。コイツらによって子供のころよりもあきらかに不自由になった感覚がある。パワーアンクルが両手両足に付けられたような、そんな重苦しさが今ここにはある。
この重苦しさの正体はなんなんだろう?
だれがコレを僕に押し付けているんだろう?
そんなことを考えながら実家のリビングでネコとぐうたらしながら束の間の帰郷を満喫しているのが、24歳「大人」の僕だ。
子供のころに持っていたもの
今もっていなくて、子供のころに持っていたものってなんだろう?と考える。しばらくグルグル考えて出てきたのが「無責任」というコトバだ。
子どもは無責任だ。
いろいろなところで親や学校や社会に守られている。「まあ、まだ子どもなんだし」そんな暗黙のルールみたいなものがあって、多少の失敗やイタズラなんかは許されたりする。大人になった(と思う)今ならわかる。子どもは無責任だ。
この「無責任」の良いところは、自由度が異常に高いことだ。大体のことが許されてしまう分なにしてもいい。(限度はあるが)ぶっ飛んだことをしても、ハチャメチャなことをやらかしても、ある程度世の中に許容される部分がある。
これをとても羨ましいとおもっていた。
皆が「学生の頃に戻りたい」と口をそろえて言うのは、たぶんこの無責任であることによって自由だったあの頃に戻りたいのだとおもう。
青春とは無責任のことである
そう。青春とは無責任のことである。
馬鹿なことばっかりやってたあの頃は
今でもキラキラ輝いていて僕の袖を引っぱる。
無責任であるがゆえにできる馬鹿なことは
ほんとうに楽しいし、あれが人生のピークと言ってもいいほどに笑えた。
それがなぜだろう、
大人ってやつになるとピークではなくなる。
今が人生のピークだと、今が一番楽しいと
言える大人はどのくらいいるのだろう?
大人に責任がある理由
無責任である子どもとは対照的に
大人にはなぜ責任があるんだ。
これはたぶん「お金を稼ぐ」ということとリンクしているのだとおもう。お金というのは価値や信用に対して払われる。等価交換で成り立っている。そしてその信用ってやつには責任が必要なんだ。なぜならばそれにお金を払う「相手」がいるから。
だからお金を稼ぐ大人には責任がつきまとう。
それにプラスして「世間体」などという外部からの見られ方も発生し、パワーアンクルが出来上がる。
こいつぁちょっとどうにかしたい。
遊びには責任がない
でもまあ責任ってやつはヒトを成長させる。
だからコイツを扱えるようになることは大切なことだと思うがしかし、この重苦しさから抜きん出るタイミングもほしい。大人を捨てたいときもある。
そんなこんなを考えた末にぼくはひとつの結論にたどり着いた。大人と子どもの共通点。
それが「遊び」だ。
遊びには責任がない。
たとえば大人たちが
「明日公園で遊ぼう!」となったところで
責任や世間体や社会性などという言葉たちがそこにタッチしてくることはない。遠く離れたところにあるのだ。そこに対して等価交換やお金なども発生しないのだ。
遊びは人を自由にする。
子どもの頃は毎日全力で遊んでいた。
学生時代なんてアホなことしかしていなかった。
それがいつしか大人という生き物になって、
遊ばなくなった。
遊びにすら制限をかけるようにもなった。
時間がない、予定があわない、もう大人だし、
そんなことを理由に全力で遊ばない大人が多いなあとおもう。
四六時中パワーアンクルを外さずに
責任や世間体などというコトバに潰されている若い子をほんとうにたくさん見てきた。
たまにはね、外してもいいとおもうんだよ。
重荷なんて外して子どもみたいに全力で遊んじゃってさ。それが明日をがんばる活力にもなるし、楽しさは周りの大人にも伝染するし、子どもはそれをみて「大人ってやっぱすげえ」ってさ。大人が遊ぶって、すごいエネルギーを生んだりするんだよね。そんな瞬間をみてきた。
個人的な話になるけど、
だから僕らはぺーたーずを立ち上げた。
子どものころ当たり前だった「遊び」の価値を
大人になってから、とても感じる。
大人でありながら子どもでありたい。
贅沢だろう?それでいいのだ。
大事なことって、
" あの頃 " にすべて詰まっているのかなあ。
なんてことを思いながらまだ仕上げていなかったシゴトを思い出して責任を感じたのか重い腰を上げながらリビングを後にしたのが " 大人の " 僕だ。