春の新聞週間が六日から始まる。夏には参院選。安倍晋三首相は在任中の憲法改正にも意欲を示している。メディアの役割がより重要なときとなろう。
「あなたの言うことに全く賛成できないが、あなたがそのように言う権利があることは、私は命をかけて守る」
こんな名言がある。フランスの思想家ボルテールが言ったともいう。自分に反対の意見であれ、尊重されねばならない。「表現の自由」の核心を突いている。
とくに主権者たる国民は意見を持ち、選挙で国政に反映させようとする。その判断をするためにも、多様な意見が大事だ。
◆自己規制なら敗北だ
自由な言論空間は果たして確保されているだろうか。それに疑問を投げかける出来事があった。
高市早苗総務相が、政治的公平性を欠いた放送をした放送局に「電波停止」を命じる可能性に言及した件だ。これに対する波紋が大きく広がった。
田原総一朗氏や鳥越俊太郎氏らキャスター有志が二月末、記者会見を開き、「電波停止発言は憲法、放送法の精神に反している」という声明を発表したのだ。
同法は「放送による表現の自由を確保する」「放送が健全な民主主義の発達に資するようにする」などを第一条で定める。気になるのは声明の次のくだりだ。
<現在のテレビ報道を取り巻く環境が著しく「息苦しさ」を増していないか><「外から」の放送への介入・干渉によってもたらされた「息苦しさ」ならば跳ね返すこともできよう。だが、自主規制、忖度(そんたく)、萎縮が放送現場の「内部から」拡(ひろ)がることになっては、危機は一層深刻である>
キャスター有志は外からの介入・干渉というよりも、放送現場の自主規制に危機感を持つのだ。
◆「政権がチェックする」
例えば、デモを警戒している権力に気を使って、デモの批判的な映像を自粛する。今まで当然のようにやってきた掘り下げた問題提起は、政権批判と受け取られかねないので自粛する−。
街頭取材では、政権と同じ考えを話してくれる人を探して放送する−。そんな現場の声も聞かれるという。つまり自主規制や政権を忖度したような報道がなされはしないか。そんな息苦しさがテレビ・メディアの中に生まれてはいないか。
民主主義の根幹をなす、国民の「知る権利」から考えれば、放送はむろん政府のものではなく、たんに株主たちのものでもない。広く国民のものといえよう。もし、放送局の姿勢が揺らいでいるなら、それだけで国民は情報に対して疑心暗鬼に陥るだろう。
これはテレビ・ジャーナリズムだけの問題なのか。鳥越氏は記者会見でこう語った。
「メディアが政権をチェックするのではなく、政権がメディアをチェックする時代になっている。負けられない戦いで、負ければ戦前のような大本営発表になる」
政権がメディアをチェックする時代−。本来、権力はメディアに対して、特定の考えを押しつけることはできないし、メディアの自由な活動に介入することはもちろん許されない。今やまさに、「表現の自由」の領域が侵されつつあるのではないか。
自民党の憲法改正草案を見てみよう。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める憲法条文に、こんな規定を加えている。
<前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない>
つまり、政府や国会、司法が「公の秩序を害する」と判断したときは、言論も集会なども禁止される。そうならば「表現の自由」が否定されるのと同然ではないか。大日本帝国憲法にも、言論や集会、結社の自由を定めた条文があった。ただし、それには「法律ノ範囲内ニ於テ」という一文が付いていた。言論の自由は国民の権利だが、法律で例外をつくることができたわけだ。
自民党の草案にある「公の秩序」の言葉も同じ役目を果たす。原発反対や米軍基地反対、安保法制反対…、さまざまな声が「公の秩序を害する」と判断されれば、封印することもできる。
言論や思想が政府の統制下にあった時代がもしや蘇(よみがえ)りはしないか。そんな不安がよぎる時代になった。
◆権力には猜疑心を持て
そもそも権力という存在自体が信頼を寄せるものではなくて、常に猜疑(さいぎ)心を持って監視せねばならない対象である。
その監視役の一人として、私たちメディアは存在することをあらためて自覚したい。
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