(wikipedia「愛新覚羅溥傑」より)
目次
愛新覚羅ってそんなに有名なの?
某大学医学部付属病院に「愛新覚羅」という珍しい姓の女医さんがいて話題になりました。
「愛新覚羅」は中国皇帝の家系、「ラストエンペラー」という映画にもなりました。ラストエンペラーの弟・愛新覚羅溥傑夫妻が住んでいた「千葉市ゆかりの家・いなげ」 が自宅の近くにあります。
満洲国皇帝に即位した溥儀は、溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいという意向をもっていた。
(略)1937年(昭和12年)2月6日、二人の婚約内定が満洲国駐日大使館から発表され、同年4月3日に東京の軍人会館(現・九段会館)で結婚式が挙げられた。当時溥傑は日本の陸軍歩兵学校に在籍していたため、ふたりは千葉市稲毛に新居(愛新覚羅溥傑仮寓)を構えた後[5]、同年9月に溥傑が、10月には浩が満洲国の首都新京へ渡った。明らかな政略結婚だったが、ふたりの仲は円満で、1938年(康徳5年/昭和13年)に長女・慧生、1940年(康徳7年/昭和15年)に次女・嫮生の二女に恵まれた。
(wikipedia「愛新覚羅溥傑:結婚」より)
二人が住んでいたのは 1937(昭和12)年4月から9月までの半年のようです。
愛新覚羅溥傑夫妻が住んでいた家に行ってきた
愛新覚羅溥傑夫妻が住んでいたのは国道14号沿いにある稲毛浅間神社の脇です。
稲毛浅間神社鳥居。左にある道を上った右に見えるのが「千葉市ゆかりの家・いなげ」
です。
国道14号の反対側にある鳥居。埋め立てられる前は14号より先は海でした。この鳥居は海の中に立っていました。鳥居の向こうには富士山が見えたはず。今では海は2.7キロも先になってしまいました。
専用駐車場。3台駐車可能です。愛車を駐輪。
玄関側の様子。この門を入っていきます。右下の赤い塔が稲毛浅間神社の入り口です。
玄関を入ったところ。玄関を入ると係りの人が出てきましたので挨拶をしました。日曜でしたが訪れるは少なかったです。
玄関の右にはNHK「大地の子」の養父役をされた朱旭さんが訪れたときの写真。
記帳。
愛新覚羅溥傑の書。この書体がフォントになり、それがニュースになりました。『ラストエンペラーの弟、溥傑の書体がフォントで復活…商品名に「数奇な運命」しのぶ』
他にも何点か書や絵が展示してあります。
L字型南側棟・室内の様子。
L字型の南側棟から。
廊下。奥が玄関。
「満州国を挙げて慶祝」。活気があった当時の日本の雰囲気が伝わってくる写真です。
ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の日記と溥傑自伝。
「流転の王妃」。映画化されて昭和35年に公開されています。
平成15年にはテレビドラマ『流転の王妃・最後の皇弟』が作られています。
埋め立てる前の稲毛海岸の様子。
奥の棟から見た南側棟。
奥の洋間。新婚時代の写真が多数飾られていました。
洋間の窓から見えるのは「離れ」です。
離れ。茶室だったのでしょうか。
この左にはコンクリートの地下室、防空壕がありました。
離れ内部。
母屋全体の様子。
庭。庭からは稲毛浅間神社のふたつの鳥居が見えます。昔は、奥の鳥居は海の中にあり、遠くには富士山が見え、風情のある景色だったのでしょう。
愛新覚羅溥傑夫妻には二人の子供が生まれましたが、長女の慧生は天城山でピストルで心中しています。
高等科の3年の時に東京大学の中国哲学科への進学を希望するが、親類の反対に遭い[2]、1956年(昭和31年)学習院大学文学部国文科に入学する。同じ学科の男子学生・大久保武道と交際をするが、母を始めとする家族には交際を打ち明けられる環境ではなかった[3]。1957年(昭和32年)12月4日の夜に入る頃、天城山で大久保の所持していたピストルで大久保と心中死したと推察されている。2人の遺体は12月10日に発見された(天城山心中)。(wikipedia:「愛新覚羅慧生」より)
溥傑夫妻の深い悲しみが想像できます。時代に翻弄された夫妻。
ここに住んでいたときが一番しあわせだったでしょうね
関連リンク
- 千葉市ゆかりの家・いなげ 千葉市サイトの紹介
- 歴史秘話ヒストリア NHK
- 千葉 稲毛 昔 鳥居 - Google 検索 昔の稲毛神社鳥居の写真