・「忌野さんの創作ノート発見 30曲分、自信と不安抱く 」(日本経済新聞)
2009年に58歳で亡くなったロック歌手の忌野清志郎さんが22~24歳の時に記した創作ノートが見つかった。全30曲の一部は後のアルバムに収録されたが多くは未発表とみられる。
率いたバンド「RCサクセション」が全国的に知られる前のもので、作品に対する自信の一方、世に認められるか不安を抱いていた様子がうかがえる。忌野さんの誕生日の2日から東京・原宿の喫茶店「シーモアグラス」で展示された。
ぼくが初めて忌野清志郎さんと取材でお目にかかったのは、1976年1月21日にシングル盤の「スローバラード」が発売されるよりも前のことです。
事前にポリドール・レコードから渡された見本盤のレコードを聴いて、東芝時代のサウンドとは違っていることに気づくと同時に、ぼくは全身から絞りだすような歌声と切ない歌詞の世界に圧倒されました。
すごい傑作が生み出されたのは間違いない、そう思ったぼくはそのことを少しでも広めたいと、自分なりに期待と自信を持って取材に臨みました。
取材が行わtれた場所は東京・六本木にあった音楽出版社、インターソングの応接室だったと思います。
約束の午後3時少し前に伺うと、RCサクセションのメンバー3人が待っていました。
1974年に完成していたにもかかわらず、ずっとお蔵入りになっていたアルバム『シングル・マン』は4月21日に出ることが決まったと、キティ・レコードの宣伝担当だった井上さんから事前に聞いていました。
そこでまずはあいさつがわりに、「ようやくアルバムが陽の目を見ることが出来ましたね」と話しかけました。
ところが清志郎さんは笑顔を浮かべるでもなく、ほとんどノーコメントです。
「待っていた時間が長かったですね」と振っても、時折「あぁ」とか「まぁ」とか言うだけで、ずっとあらぬ方向を見ていて、目を合わせてはくれません。
他の二人も思い思いの方向に視線を向けているようで、ぼくの質問には誰からの反応もないのです。
3人がとても冷めていた理由がわからないまま、普通のインタビューとはまったく異なる重苦しい空気で、井上さんが間に入って話をつなげてくれます。
緊張と焦る気持ちのなかで何とか3人に口を開いてもらおうと、頭を回転させながら質問をひねり出していたことが、昨日のことのように思い出されます。
ぼくは切り札として、あらかじめ用意していた言葉をぶつけました。
「スローバラード」は素晴らしい作品で日本のロックの歴史に残る傑作だと、自分が聴いた正直な感想を伝えたのです。
それでもまだ、沈黙が続きます。
そこでアメリカから来日してレコーディングに参加したタワー・オブ・パワーについて、リップ・サービス気味に「ホーン・セクションも良かったですね」と付け加えました。
すると疑い深そうな目の清志郎さんから、初めてきちんとした言葉が返ってきたのです
「演奏もアレンジも気に入ってないんだ。
あれはオレたちの音じゃない。
スタッフと星勝がやったんだ」
意外な発言が飛び出してきたのでかなり動揺しましたが、ぼくはメンバー3人と同学年だということや、音楽では中学生の時からローリング・ストーンズが大好きで、オーティス・レディングもよく聴いていると話しました。
そんなことから少しは親近感を持ってもらえたのかもしれません。
とにもかくにも取材開始から3~40分が経過して、やっと少し打ち解けて話ができるようになっていったのです。
清志郎さんは取材を終える時間が来る頃になって、周りのよくわからない事情で『シングル・マン』が2年近く発売できなかったこと、本来なら次のアルバムの曲がもう全部できているのに、レコーディングはぜんぜん実現しないし、もうそっちの話がしたかったんだというようなことを、本当に悔しそうに言ったのが印象に残っています。
一切のリップ・サービスを排して本当の言葉だけを話す人、音楽だけですべてを表現しているアーティストなのだと、ぼくは清志郎さんのことを少しだけ理解できた気がして取材を終えました。
それから40年後、清志郎さんの誕生日に流れたニュースで発見された創作ノートが、「次のアルバムの曲がもう全部できている」と言っていた作品だったのかもしれない、そう気がついてあらためて出会いの日の情景を思い出していたのです。