2016-04-04 Mon [ ゲームについて::理屈のこと ]
■ルーク・スカイウォーカー問題
■ゲームとシナリオの奇怪な関係
上記2つの記事でゲームとシナリオの関係について書いてきたけれど、整理もかねてまとめておきたい。
これが最初のルーク・スカイウォーカー問題で取り上げた、ゲームを体験とみるのか、それともストーリーをある程度の自由性を持ってなぞるものなのかという、クロフォードの議論だ。
確かにクロフォードの指摘と考えてたことはスゲえと思うのだけど「だからAIによってオチまでコントロールされる1回性の体験こそがゲームの未来じゃあ!」と言われると「いやいやいやいや、強い(基本は一本道の)ストーリーがあるのもいいもんですよ」と、いくら尊敬するクロフォード先生の言葉でも異議を唱えたくなってしまう。
「あの名場面をもう一度見たい」とか、そんな理由で、何度クリアしたかわからないFF10みたいなゲームもあるわけで、そういった方向の再現性が低くなるAIコントロールがすべてを満たすとも思えない。
だから体験至上主義的なクロフォードの思想は尊重しつつも、失敗してのやり直しの繰り返し構造(学習による上達)による概ね一本道の進行も、ゲームである以上は認めようというのが、第一の考え方。
そうすると「クライマックスの難易度はどうするのか?」という問題が現れる。
これについては、前回の記事で
こういうコメントをくださった方がいたが、ゲームデザイナーとしては失敗してほしくないから難易度を下げたのは間違いない。
しかし奇怪な関係で書いたとおり、難易度をいくら下げても失敗する人はいる。だからといってどんどん難易度を下げると絶対に失敗させないために極限まで難易度を下げた状態=何もしなくても成功になり、最初から最後までムービーで作るのが一番いいことになって、ゲームではなく映画とか小説になって、ちょっと待ってくれっ! って話になる。
ここで自分の考え方をはっきりと書くと、ストーリー展開を重視して絶対に失敗させたくないなら、ゲームというメディアは向いていない。
ユーザーの自由なプレイを許すのは、いわばスクリーンテストがカケラも行われていない役者を主役として選び、さらにシナリオライターや監督の意志を無視した演技を許容することだ。
言い換えるならユーザーのプレイ(演技だ)の上手い下手がある以上、一回性の体験はあきらめるし、失敗してほしくない場面で失敗することも(ある程度)許容して、作らざるを得ないのがゲームではないか? という話になる。
では「どんな難易度がいいのか?」になるが、ここで重要なのが、誰もが達成感を味わえる完璧な難易度なんて出来るわけもないことだ。
R-TYPEの1面の最初の敵弾に当たる桝田さんとか、さくま先生の遊ぶアクションとか、4方向しか歩かなくて済むRPGでうまく歩けない広井王子なんて人や、それともどんちゃんの確率計算のできなさ加減、バトルでの予測能力の低さを見ていれば、全世界のすべての人にバッチリのバランスなんてもんがあるわけない、あるとしたら操作しないだけだと達観できるようになる。
だから達成感を(なんとか)維持しつつ、できるだけたくさんの人にエンディングに至れるゲームを作ろう…と考えたとき、取れる手段は実質的にRPG(成長)メカニクス一択になる。なぜならRPGメカニクスは基本的には投入した時間がゲーム内のプレイヤーの能力に反映されるので、たいていのユーザーが時間を投入することでクリアできるのを保証できるからだ。
つまり--
…ここまでが、僕のゲームと映画やドラマのような一本道に近いシナリオの関係についての今の基本的な考え方だ。
しかし失敗を許容すると「クライマックスで失敗するぞ問題」が残ってしまう。
そして失敗を繰り返すと、今度はプレイヤーの動機と、ゲームのキャラクタの動機が乖離する問題が出てくる。
これが奇怪な関係で書いた問題で、シリーズの最初の問題設定になっている、デススターのトレンチでのバトルの話に対応した引用が以下。
つまり『プレイヤーがストーリーの先を見たいためにゲームを何度失敗してもプレイするのは、ストーリー自体がゲームを進めるためのエサになっており、本来あるべきキャラクタへの感情移入からはかけ離れている』ということだ。
そして話はこれでは終わらない。
上記のシチュエーションならバランスの問題としてとらえることも出来るのだけど、ストーリーとプレイヤーの動機が乖離している問題は実はゲームでは別の形でも出てきて、それが深刻だ。
例えばオープンワールドゲームで、街で人をお気楽に撃ち殺し、車を乗り散らかして、山の上まで逃げてと無軌道な暮らしをしているプレイヤーキャラクタが、ムービーが始まると深刻な表情で家族との関係について語りだしたり、それとも、逃げて隠れて、あらゆる卑怯な手段で戦っていた王家の子孫…ということになっているキャラクタが、シナリオの上で強制的にプレイヤーのプレイからはかけ離れた英雄的な行動をするとか、違和感に満ち溢れた展開になるのはよくある話だ。
そして、さらにゲームシナリオ的に不幸な話を始めると、例えばシナリオ展開として仲間を見捨てなければいけないなどのプレイヤーに不利な選択を行ってもらうのは極めて難しいので、そういうシビアな選択はムービーに逃げざるを得ないことが多い。するとムービーの中で理不尽なことが起きて、プレイヤーにはゲーム(の主にシナリオ)に対する理不尽さが生まれ、キャラクタへの感情移入が壊れてしまう。
ゲームは感情移入させる力が圧倒的に大きいからこそ起こってしまう問題なのだけど、これを避けようとするとプレイヤーにとってイヤなことができない、すなわち僕がよくいうハッピーエンドの呪いが降りかかる。
感情移入が強ければ強いほど、プレイヤーゲームのキャラクタに完全無欠なハッピーエンドを望み、それを回避するのはむつかしいのだ。
では、近代的なムービーでストーリーが演出される強いストーリーを持つゲームで、プレイヤーの動機や行動と、ゲームの中で与えられているキャラクタとしての役割が乖離する問題にはゲームデザイナーやシナリオライターはどう立ち向かっているのか?
尊敬する重馬さんはこういった。
24年前から、この解決策はシナリオライターによる努力以外はないわけである。
ところで、この手のゲームのシナリオが持つ他にない様々な問題について書きながら、ゲームのシナリオとはどのようにあるべきで、どんなふうに作ればいいのかについて書いている本が以下。
表紙や雰囲気からは想像もつかない素晴らしい内容なので、ゲームのシナリオについて真剣に考えてみたい人にはお勧めしておきたい。
■ゲームとシナリオの奇怪な関係
上記2つの記事でゲームとシナリオの関係について書いてきたけれど、整理もかねてまとめておきたい。
ドンパチやってる⇒死ぬ⇒舌打ち⇒途中からコンティニュー⇒今度は倒す
パズルとしては全く正しいが、途中からコンティニューは体験としておかしいじゃないかという指摘だ。
体験とは本質的には時系列順に並んでいる一回性のもののはずなのに、それが(一本道の)ストーリーやパズルメカニクスと組み合わさった結果、学習することで先に進む構造になっている。これはパズルとして見れば問題ないが、ゲームを体験とみなした時、本来あるべき体験の一回性や連続性が壊れているではないか、根本的なゲームと(ストーリー)体験の関係性が破綻しているではないかという指摘だった。
パズルとしては全く正しいが、途中からコンティニューは体験としておかしいじゃないかという指摘だ。
体験とは本質的には時系列順に並んでいる一回性のもののはずなのに、それが(一本道の)ストーリーやパズルメカニクスと組み合わさった結果、学習することで先に進む構造になっている。これはパズルとして見れば問題ないが、ゲームを体験とみなした時、本来あるべき体験の一回性や連続性が壊れているではないか、根本的なゲームと(ストーリー)体験の関係性が破綻しているではないかという指摘だった。
これが最初のルーク・スカイウォーカー問題で取り上げた、ゲームを体験とみるのか、それともストーリーをある程度の自由性を持ってなぞるものなのかという、クロフォードの議論だ。
確かにクロフォードの指摘と考えてたことはスゲえと思うのだけど「だからAIによってオチまでコントロールされる1回性の体験こそがゲームの未来じゃあ!」と言われると「いやいやいやいや、強い(基本は一本道の)ストーリーがあるのもいいもんですよ」と、いくら尊敬するクロフォード先生の言葉でも異議を唱えたくなってしまう。
「あの名場面をもう一度見たい」とか、そんな理由で、何度クリアしたかわからないFF10みたいなゲームもあるわけで、そういった方向の再現性が低くなるAIコントロールがすべてを満たすとも思えない。
だから体験至上主義的なクロフォードの思想は尊重しつつも、失敗してのやり直しの繰り返し構造(学習による上達)による概ね一本道の進行も、ゲームである以上は認めようというのが、第一の考え方。
そうすると「クライマックスの難易度はどうするのか?」という問題が現れる。
これについては、前回の記事で
スペースチャンネル5が
ラストで全員集合して大団円に向けてのクライマックスの際
ミスってやり直しは興ざめだよな、という事で
土壇場で難易度下げた、みたいな記事を読んだ事があります
これも似たような問題なんですかね?
ラストで全員集合して大団円に向けてのクライマックスの際
ミスってやり直しは興ざめだよな、という事で
土壇場で難易度下げた、みたいな記事を読んだ事があります
これも似たような問題なんですかね?
こういうコメントをくださった方がいたが、ゲームデザイナーとしては失敗してほしくないから難易度を下げたのは間違いない。
しかし奇怪な関係で書いたとおり、難易度をいくら下げても失敗する人はいる。だからといってどんどん難易度を下げると絶対に失敗させないために極限まで難易度を下げた状態=何もしなくても成功になり、最初から最後までムービーで作るのが一番いいことになって、ゲームではなく映画とか小説になって、ちょっと待ってくれっ! って話になる。
ここで自分の考え方をはっきりと書くと、ストーリー展開を重視して絶対に失敗させたくないなら、ゲームというメディアは向いていない。
ユーザーの自由なプレイを許すのは、いわばスクリーンテストがカケラも行われていない役者を主役として選び、さらにシナリオライターや監督の意志を無視した演技を許容することだ。
言い換えるならユーザーのプレイ(演技だ)の上手い下手がある以上、一回性の体験はあきらめるし、失敗してほしくない場面で失敗することも(ある程度)許容して、作らざるを得ないのがゲームではないか? という話になる。
では「どんな難易度がいいのか?」になるが、ここで重要なのが、誰もが達成感を味わえる完璧な難易度なんて出来るわけもないことだ。
R-TYPEの1面の最初の敵弾に当たる桝田さんとか、さくま先生の遊ぶアクションとか、4方向しか歩かなくて済むRPGでうまく歩けない広井王子なんて人や、それともどんちゃんの確率計算のできなさ加減、バトルでの予測能力の低さを見ていれば、全世界のすべての人にバッチリのバランスなんてもんがあるわけない、あるとしたら操作しないだけだと達観できるようになる。
だから達成感を(なんとか)維持しつつ、できるだけたくさんの人にエンディングに至れるゲームを作ろう…と考えたとき、取れる手段は実質的にRPG(成長)メカニクス一択になる。なぜならRPGメカニクスは基本的には投入した時間がゲーム内のプレイヤーの能力に反映されるので、たいていのユーザーが時間を投入することでクリアできるのを保証できるからだ。
つまり--
■ゲームである以上失敗があるのは仕方ない。だからストーリーを重視するなら、一回性の体験の要素は諦めてやり直しは許容しよう。
■クライマックスの難易度は高くないと達成感が得られない。これは失敗と表裏一体なので、失敗を乗り越えられるようにするために、RPGメカニクスを採用するのはいい方法だろう。
■クライマックスの難易度は高くないと達成感が得られない。これは失敗と表裏一体なので、失敗を乗り越えられるようにするために、RPGメカニクスを採用するのはいい方法だろう。
…ここまでが、僕のゲームと映画やドラマのような一本道に近いシナリオの関係についての今の基本的な考え方だ。
しかし失敗を許容すると「クライマックスで失敗するぞ問題」が残ってしまう。
そして失敗を繰り返すと、今度はプレイヤーの動機と、ゲームのキャラクタの動機が乖離する問題が出てくる。
これが奇怪な関係で書いた問題で、シリーズの最初の問題設定になっている、デススターのトレンチでのバトルの話に対応した引用が以下。
プレイヤーはルークに感情移入して「レイア姫を、反乱軍を救うために、無理とわかっていても成功させなければならない」と思っていて欲しいし、そうでなければ困るのだ。クリアした瞬間に「ざまあみろ、クソ(ゲーム|レベル)デザイナー !」ではなく「やったー! エンディングが見られる!」でもなく、理想的には「やりましたよ! レイア姫」だとか「やりましたよ! オビワン!」であって欲しいが、もちろん、たいていはそうではなく前者2つのどっちかだ。
つまり『プレイヤーがストーリーの先を見たいためにゲームを何度失敗してもプレイするのは、ストーリー自体がゲームを進めるためのエサになっており、本来あるべきキャラクタへの感情移入からはかけ離れている』ということだ。
そして話はこれでは終わらない。
上記のシチュエーションならバランスの問題としてとらえることも出来るのだけど、ストーリーとプレイヤーの動機が乖離している問題は実はゲームでは別の形でも出てきて、それが深刻だ。
例えばオープンワールドゲームで、街で人をお気楽に撃ち殺し、車を乗り散らかして、山の上まで逃げてと無軌道な暮らしをしているプレイヤーキャラクタが、ムービーが始まると深刻な表情で家族との関係について語りだしたり、それとも、逃げて隠れて、あらゆる卑怯な手段で戦っていた王家の子孫…ということになっているキャラクタが、シナリオの上で強制的にプレイヤーのプレイからはかけ離れた英雄的な行動をするとか、違和感に満ち溢れた展開になるのはよくある話だ。
そして、さらにゲームシナリオ的に不幸な話を始めると、例えばシナリオ展開として仲間を見捨てなければいけないなどのプレイヤーに不利な選択を行ってもらうのは極めて難しいので、そういうシビアな選択はムービーに逃げざるを得ないことが多い。するとムービーの中で理不尽なことが起きて、プレイヤーにはゲーム(の主にシナリオ)に対する理不尽さが生まれ、キャラクタへの感情移入が壊れてしまう。
ゲームは感情移入させる力が圧倒的に大きいからこそ起こってしまう問題なのだけど、これを避けようとするとプレイヤーにとってイヤなことができない、すなわち僕がよくいうハッピーエンドの呪いが降りかかる。
感情移入が強ければ強いほど、プレイヤーゲームのキャラクタに完全無欠なハッピーエンドを望み、それを回避するのはむつかしいのだ。
では、近代的なムービーでストーリーが演出される強いストーリーを持つゲームで、プレイヤーの動機や行動と、ゲームの中で与えられているキャラクタとしての役割が乖離する問題にはゲームデザイナーやシナリオライターはどう立ち向かっているのか?
尊敬する重馬さんはこういった。
24年前から、この解決策はシナリオライターによる努力以外はないわけである。
ところで、この手のゲームのシナリオが持つ他にない様々な問題について書きながら、ゲームのシナリオとはどのようにあるべきで、どんなふうに作ればいいのかについて書いている本が以下。
表紙や雰囲気からは想像もつかない素晴らしい内容なので、ゲームのシナリオについて真剣に考えてみたい人にはお勧めしておきたい。
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