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2012-01-31

鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(4)〜場所の記憶、新宿帝都座から日活名画座へ

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空気座の舞台「肉体の門」が初演された帝都座五階劇場を階上に含む帝都座は、日活映画の封切り館として昭和6年(1931)に完成した。新宿三丁目で現在は伊勢丹向かいのマルイ本店がある場所である。ムーランルージュ新宿座がオープンしたのも同年で、帝都座のほうが開業が少し早い。施工したのは大林組で鉄筋コンクリートの五階建て、昭和初期のモダニズム建築に多く見られるルネッサンス様式である。ここに挙げた三枚の写真は、当時の建築雑誌に掲載された、完成当時の様子を伝えるもので、上から下に正面の外観、一階ロビー喫煙室、切符売り場となる。これを見ると建物だけでなく内装も非常に豪奢で、どこに行っても代わり映えのしない、昨今の無機質な映画館とは天と地ほどの差がある。 オープン当初、五階は劇場ではなくダンスホールとしてスタートした。「肉体の門」の原作者、田村泰次郎も早大生だった頃に帝都座のダンスホールに通っていた、と後に五木寛之との対談で語っている。劇場となるのは昭和15年(1940)に日活の経営悪化に伴い帝都座が東宝傘下になってからで、この年の10月31日をもって東京中のダンスホールが日本国の指示により閉鎖させられたからである。それは年々苛烈になる戦争によって、日常生活の総てが国による統制を受け始めた一環としてあった。通称「贅沢禁止令」や、学生の劇場・映画館への平日入場が禁止されたのもこの年である。またディック・ミネミス・ワカナなどの英語に由来するカタカナ名を持つ芸能人が、内務省の指示により日本名に改名させられた。秦豊吉が育成した日劇ダンシングチームも東宝舞踏隊と改めた。

帝都座は終戦の翌年である昭和21年(1946)から営業再開する。一面の焼土と化した新宿であったが、帝都座、伊勢丹、三越があった辺りだけが焼け残った、という証言がある。それは空爆による直撃をうけずにすんだことと、鉄筋コンクリートだったため延焼を免れたからであった。帝都座と同じ年に出来たムーランルージュ新宿座は跡形もなく焼失した。空気座がムーランルージュの残党によって結成されたのも、本拠としていた建物が無くなってしまったことがひとつの理由である。終戦から二年後の昭和22年(1947)には、帝都座五階劇場にて額縁ショウ、空気座による舞台「肉体の門」が初演され、そののち都内各所の劇場を転々とし、地方公演もこなす大ヒットとなったことは第一章で述べた通りである。翌年の昭和23年(1948)になると、ストリップ熱は浅草へと移り、秦豊吉の公職追放も解かれ、帝都座五階劇場は閉場となるが、すぐに映画館へと衣替えが施され「帝都名画座」として再出発する。日活が帝都座の大株主となり経営権を握るのが明けて昭和24年(1949)からで、ここから洋画専門の名画座として一時代を画するスタートとなる。
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昭和26年(1951)には名称を帝都座から新宿日活と改め、それにともなって帝都名画座も日活名画座となった。この写真はその頃のものであるが、いっけん帝都座と何ら違わないようでいて、よく見ると建物上部にあったローマ字の看板「TEITOZA」が無くなっている。もう1枚の写真は階段にぎっしり並んで、日活名画座への入場を待つ人を上から撮影したもの。日活名画座は五階にあったが、戦後はエレベーターの運行を停止していた。となると帝都座五階劇場だった頃も当然そうだったわけで、舞台「肉体の門」を観るために、九十五段あったという階段を下から上へと登っていった、当時の人々のうだるような熱気が垣間見えるようだ。
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日活名画座が今でもよく知られているのは、和田誠が日活名画座のポスターを描いていたためである。それはまとめられて一冊の本になっているほどだ。映画エッセイや映画監督としても知られる和田誠が、日活名画座のポスターを描き始めたのは昭和34年(1959)からで、その後、八年間に渡って会社勤めのかたわら続けられた。ポスターを描いているのにもかかわらず、日活名画座にお金を払って入場していたのは、その仕事が日活名画座からではなく、ポスターを作っていたシルクスクリーンの印刷所経由だったためで、和田誠がポスターの絵を描きたいという一心から引き受けたからである。さらに驚くべきことにはノーギャラという条件を呑んだ上でのことだった。鈴木清順「肉体の門」が封切られた昭和39年(1964)の日活新宿には、肉体の門のポスターと並んで、和田誠が描いた日活名画座のポスターが貼られていたことになる。
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鈴木清順との関わりの深い映画評論家の石上三登志は、雑誌「映画評論」の読者論壇から頭角を現し、やがて読者という立場から離れて本誌に寄稿する、という形で映画評論家としてのキャリアをスタートさせている。鈴木清順が本格的に取り上げられた最初の記事は、昭和41年(1966) 11月号における「映画評論」の「呪文に魅入られてー鈴木清順の霊峰ー」という記事で、鈴木清順の他に美術の木村威夫、「映画評論」の編集長だった佐藤重臣石上三登志の四者による会談である。和田誠石上三登志は、1950年代から60年代にかけて名画座で映画を学んだ第一世代とでもいうべき人たちで、当時は日活名画座の他にも、池袋人生坐(現在の新文芸坐)、エビス本庄、目黒パレス、目白白鳥座などがあった。石上三登志の文章は、これまでの映画評論の主流であった、政治的な傾向や世代論的な対立といった構図に基づいて、一つの映画を分析し掘り下げていくものとは違い、俳優やセリフ、映画における文法(スタイル)といった切り口で、ジャンルや洋画邦画の区別なく自由に映画を横断していくのが特徴で、これは名画座第一世代に共通する特徴といってもいいのではないか。それはいうならば名画座における特集プログラムの組み方を、方法論として映画評論を書く上での枠組みとして敷衍したものといえるかもしれない。

日活名画座は「イタリア映画大鑑」とか「日活名画座巴里祭」と銘打って盛んに特集上映を催した。そこにある括りは、イタリア映画、フランス映画というだけで製作年代やジャンルに共通点はない。何の先入観も持たずに映画に接する、という態度は石上三登志和田誠の文章に共通するものだ。鈴木清順評価の気運が、映画評論家ではなく、無名の映画ファンによる読者論壇から盛り上がってきたのは前述したが、名画座第一世代に属する彼らが、プログラムピクチャーとして埋もれていた鈴木清順の映画を発見するのは象徴的である。彼らは映画に対する態度が自由で構えがなく、映画評論家の相手にしないどんな映画でも貪欲に吸収した。新宿日活がその五階に日活名画座を擁することで、そんな彼らが日活映画のプログラムピクチャーを身近に感じていたことは、双方にとって幸運なことであった。
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舞台「肉体の門」を観たことがある都内在住の四十代以降の人々が、映画「肉体の門」を見ようと思い立った時、映画館は何処にしようか迷ったりはしなかっただろう。建物は変わってしまったとはいえ、帝都座があった同じ場所に新宿日活があり、その五階には舞台「肉体の門」が演じられた帝都座五階劇場ならぬ日活名画座があるからだ。いやむしろ舞台と同じ場所で映画がかかったからこそ、重い腰を上げて新宿日活へと向かったに違いない。舞台「肉体の門」を観に行った時と同じ道筋をたどり、己の戦後史と重ね合わせながら、その変貌ぶりを確認しつつゆっくりと…。折しも新宿駅は封切直前の5月18日に、新宿民衆駅(ステーションビル、現在のルミネの前身)として商店、食堂が250店舗がはいり、新しく生まれ変わったばかりである。泥と汗にまみれた猥雑なバラックのマーケットが立ち並んだ終戦直後の新宿駅前から、20年の歳月を隔てて清潔で近代的なステーションビルとなった新宿駅に降り立った時、彼らの脳裏をよぎったものは何だったのだろうか。

新宿日活が帝都座と同じ場所にありその五階が日活名画座だったことが、若い世代や四十代以降の双方の観客動員につながったこと。これが「肉体の門」がヒットした第三の理由である。昭和46年(1971)におこなわれた雑誌対談で、「肉体の門」の原作者である田村泰次郎五木寛之に、戦前に帝都座五階のダンスホールに通っていた、と語ったことは冒頭に書いた。ところが五木寛之はこの話をこれ以上広げようとはせずに、次の話題へと話は移ってしまう。五木寛之はエッセイ集「風に吹かれて」のなかで、日活名画座に触れ、映画勉強の場だったと書いていることを考えると、対談の聞き手としてはいかにも手抜かりである。時を隔てて同じ場所で、かたやダンスに興じ、かたや洋画にかじりついていたのである。話の持っていき方はいくらでもあったはずだ。ダンスホールだった帝都座五階が劇場となり、終戦直後には舞台「肉体の門」で人気を博し、その後は帝都名画座、日活名画座へと変遷していく歴史がそこで語られることはなかった。新宿日活(この時代には日活新宿オスカーと名前を変えていた。2009年に閉館した歌舞伎町の新宿オスカーとは別)はこの対談の行われた翌年の昭和47年(1972)にマルイに売却されて、帝都座から数えると41年の歴史に幕を下ろす事になる。

2012-01-24

鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(3)〜昭和39年とはどのような年であったか

映画「肉体の門」が公開された昭和39年(1964)について語るには、その前年から話を始めたほうがいいかもしれない。キネマ旬報に1963年度の映画界を振り返った記事があり、テレビ普及率の増加と、映画観客動員数の急激な落ち込みから、1962年に東宝の藤本真澄専務が発した非常事態宣言がさらに悪化したことで、日本映画五社が資金難のため旧作映画のテレビ放出を決め、邦画五社のうち、松竹、日活、大映が無配当となったとある。年間映画観客数は最多の昭和33年(1958)と比べると、43%の減少となっている。この年に日活の江守清樹郎専務が「今後、斜陽という言葉は禁句にしたい」と発言したのは、映画産業の斜陽化が恒常化したためである。ではどうすればテレビに対抗できるのか?そのためにはテレビで放映できないコンテンツを増やす、という方向へと向かうのは当然といっていいだろう。それはまず、今までにはみられなかった激しい暴力描写を含む映画が、黒澤明監督「用心棒」(1961年公開)を皮切りに、「残酷ブーム」とよばれた一連の映画が生み出されることになる。「切腹」「武士道残酷物語」「陸軍残酷物語」などである。その後をうけて、やはりテレビでは放映できないセックス描写を含む映画が昭和39年(1964)にブームを迎えることとなる。
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昭和39年(1964)といえば戦後最大のイベントである東京オリンピックが10月10日より開催された年である。東京オリンピックは戦前の昭和15年(1940)にいちど開催が決定していたが、日中戦争のあおりで開催を返上し、戦後においては東京オリンピックの四年前にあたるローマオリンピックの時にも、開催地として立候補し敗れた経緯がある。積年の念願がかなった東京開催が決定したのが昭和34年(1959)のIOC総会で、それ以降まさに国の威信をかけてオリンピックに向けて準備を進めることになる。オリンピック開催が映画産業に与えた直接的な影響としては、オリンピックがTV中継されることがテレビ購入のさらなる弾みとなり(開催前年度の1963年において88.7%の普及率)、映画観客動員数の激減につながる要因になったことと、洋画の輸入自由化が挙げられる。それまでは大蔵省の統制を受け、業者ごとに洋画の輸入本数割当が決められていて、保護貿易状態だったものを自由化したのは、先進国である日本と国際都市「東京」を国外にアピールする一環としてあった。このことは明治初年にキリスト教が禁教でなくなり、信仰の自由が法律によって認められた事と似ている。禁教令撤廃は列国に対する、新生日本の文明国としてのアピールが目的だった。
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斜陽化にあえいでいた邦画業界にとって洋画の輸入自由化は泣きっ面に蜂だったが、東京オリンピック開幕直前の6月から実施された洋画自由化に先立って、映倫規定が事実上緩和されたのは、表現の自由が(芸術の名のもとで)保証された先進国としての体面を示すとともに、ジリ貧の邦画業界に対するお目こぼし的な意味合いもあったに違いない。具体的には同年2月に封切られた、勅使河原宏監督「砂の女」における岸田今日子の全裸演技が、必然性のある「芸術」というお墨付きがあったにしろ、成人映画ではなく、一般向き指定で上映され大ヒットを記録したことがキッカケとなり、これに後押しされた形で邦画五社はこぞって裸映画を競作することとなる。代表的なものをあげると東映「二匹の牝犬」「越後つついし親不知」、大映「卍」「悶え」、東宝「女体」、松竹「白日夢」「紅閨夢」、日活「月曜日のユカ」「猟人日記」そして「肉体の門」となる。野川由美子が全裸で吊るされのは、東京オリンピックの年に始まった裸ブームの真っ只中のことであった。

この中で最も興行的に成功したのは松竹配給の武智鉄二監督「白日夢」である。製作したのは武智個人が主宰する第三プロダクションで、一説によると製作費が五百万から八百万に対して、松竹の買取価格が一千七百万、配収が三億円といわれている。この映画は文豪、谷崎潤一郎原作を旗印とすることで映倫審査を乗り切った。衰退する大手五社を尻目に、少ない製作費でその数倍の興収を上げる、通称エロダクションといわれたエロ映画専門のプロダクションが目立って台頭するのもこの年である。ピンク映画とよばれたエロ映画に出演する女優も、大手五社で日の当たらなかった女優が起用されたりした。「白日夢」に出演した松井康子は松竹在籍中に牧和子の変名で、エロダクションの老舗、国映で「妾」に主演した。また日本初の本格的SM映画とされる、小森プロダクション製作の「日本拷問刑罰史」が封切られたのも、東京オリンピックが終わったすぐ後で、「妾」と同じく大ヒットした。「肉体の門」と「日本拷問刑罰史」に共通するのは、東京オリンピックと連動した映倫規定の緩和とともに、テレビ普及率の増加によってもたらされた「残酷」と「裸」という映画界の二大潮流にうまく乗ったことである。これが「肉体の門」がヒットした第一の理由である。
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昭和39年(1964)は終戦から数えてちょうど二十年目にあたる(数え年と同じ数え方、昭和20年を一年目とする)。二十年といえば人間で言えば成人となり、終戦の年に生まれた子供が数えで二十歳になる節目の年である。「肉体の門」の伊吹新太郎のように、終戦で戦地から復員してきた二十代の若者も、社会の中枢を担う四十代の働き盛りとなっている。そんな壮年となった彼らも含む戦争体験者が、戦後二十年という節目にあって人生を振り返った時、おのが若き日々を戦争というものにささげ、また奪われたことに対する自問自答が、社会全体を覆う情念となって広がっていた。それはたとえば、この年に出版された昭和戦争文学全集や、林房雄の「大東亜戦争肯定論」などの広告リードにも端的に示されている。それは戦争を否定、あるいは肯定するにせよ、歴史学的な分析用語ではなく、暗黒、悲しみ、情熱といった「情念」を感じさせる言葉によって語られているからだ。そのことはまた二十年というスパンが、戦争というものを客観的に見つめ直すにはまだ生々しすぎた、ということかもしれない。
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戦後二十年たった節目の年に、戦争の記憶をあらたに甦らせたのが東京オリンピックである。環七、首都高速一号、四号などの新設道路、国立競技場、日本武道館などの競技場施設、ホテルニューオータニなどの海外観光客のための宿泊施設などの建設ラッシュが相次いだ。また外国人に対して恥ずかしくない国際都市としての体裁を整えるために、景観の規制やこの時代にはまだ残っていた、終戦直後の雰囲気が残るスラム街の撤去なども行なわれた。日本最大の土木事業となった東海道新幹線開通のための工事も重なり、それらの工事に伴う徹底した「破壊と再生」は、戦争体験者にとって終戦直後の国土の「荒廃と再生」をフラッシュバックさせたはずである。終戦直後の作品である「肉体の門」の再映画化が東宝と日活で競作という形になったのも、戦後二十年という区切りと東京オリンピック開催によってもたらされた、終戦直後へと回帰する集団的な情動の現れであろう。また映画離れが進んでいた四十代以降の人々を、再び映画館に呼び戻すという目論見もあったはずである。それは昭和戦争文学全集などが出版された動きと連動していた。

「肉体の門」とは小説よりも空気座による舞台の知名度が先行し、大変な人気を博したことは第一章で述べた。昭和23年(1948)のマキノ正博による最初の映画化「肉体の門」はGHQによる検閲を見越して、大幅な改訂を施され舞台版とは全く別物の映画となっていた。当時の雑誌記事にこの映画を評して「エロを期待すると肩透かしをくう」といった内容の記述がある。舞台「肉体の門」はエロの期待を満足させたが、それから16年後の再映画化となった鈴木清順「肉体の門」に、終戦直後の苦いノスタルジーに誘われて映画館へと足を運ぶ観客が期待するものは、舞台「肉体の門」を食い入るように見つめていた、若き日の己との再会であったはずである。エンタテインメントを第一義とするプログラムピクチャーは、観客の期待に沿わなければならない。プログラムピクチャーの監督である鈴木清順のなすべき事は自ずとみえてくるはずだ。それは舞台では半裸で行なわれたリンチシーンを全裸とし観客のエロ期待値を上回ること、そして舞台を忠実に再現することである。もしそこに「清順美学」なるもので潤色が施されていたとすれば、彼らがこの映画を支持したとは思えない。そこにあるのは舞台「肉体の門」とは別物であるからだ。彼らは映画を見終えた後、職場や地域コミュニティで自身の戦後史を「肉体の門」を通して仲間に語りたくなる衝動に駆られた。なぜなら舞台を忠実に再現した映画を通してまざまざと終戦直後を追体験できたからだ。そのようにして観客が観客を呼んだ。映画離れしていた四十代以降の人々を取り込むことが出来たこと、それが「肉体の門」がヒットした第二の理由である。

空気座の舞台と鈴木清順の映画を比較した、同時代の映画評は全く見あたらない。それどころか主要新聞紙、映画雑誌などでは黙殺である。それは単なる裸ブームの時流に乗ったエロ映画の一本として、例えば週刊現代の「'64年を裸で稼いだ女優たち」という記事の中で野川由美子を通して言及される、といった程度である。空気座の舞台を知らない若い世代からは、次第に変なスタイルを持つ監督として、前章で取り上げた大林宣彦のように、読者投稿の中で注目されるようになる。空気座の舞台との関係を、鈴木清順に直接確認できればそれに越したことはないが、軽くはぐらかされることは目に見えている。誤読を誤読として楽しむことも映画を読む快楽の一つだ。ただ誤解しないでいただきたいのは、ここで述べているのは「肉体の門」に限定してのことであって、清順的と言われる演劇的でケレン味溢れるスタイルが、「肉体の門」にあってはそのまま「芝居の映像化」である可能性が高いのにも関わらず、その本質が忘れ去られて、「清順美学」という枠組みで簡単に片付けてしまうのは如何なものか、と提言しているだけである。

鈴木清順「肉体の門」は言うまでもなく日活作品であることがヒットした第三の理由として考えられる。それは空気座による舞台「肉体の門」が初演され、秦豊吉がプロデューサーだった帝都座五階劇場を含む、新宿三丁目にあった帝都座は戦前に日活封切館として建てられたからである。(以下続く)

2012-01-18

鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(2)〜舞台を再現した映画としての「肉体の門」

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鈴木清順「肉体の門」は当初、浅丘ルリ子主演で企画された。同年9月に「肉体の門」よりほぼ四ヶ月遅れで公開されることになる団令子主演、恩地日出夫監督の「女体」も、田村泰次郎の小説「肉体の門」が原作だが、二作品共に映画化権を取得したのが同じ時期で、ここに取り上げた記事はそのことを伝えている。日活と東宝で競作となった「こんにちは赤ちゃん」に続き、「肉体の門」が競合するので見出しが「こんどはお色気の競作」となっている。鈴木清順「肉体の門」にパンパンとして登場する五人の女優が全て日活専属ではないのは、リンチシーンやヌードシーンを吹き替えなしでやる、という方針を拒否したことで、浅丘ルリ子をはじめとする日活女優全員が降板したためである。スターである浅丘ルリ子を外し、これが映画初出演となる新人の野川由美子を起用してまで、なぜ吹き替えなしで映画化することにこだわったのか。それはリンチシーンやヌードシーンを編集やカット割りで映画的に処理するのではなく、あくまで空気座による舞台「肉体の門」を映像としてみせることを優先させたためだと思われる。リンチシーンやヌードシーンを顔を除いたアップで撮り、表情のアップと繋ぐという方法を取らずに、体全体をワンショットに収めなければ、舞台的な臨場感を出すことができない。
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映画冒頭に、敗戦後に林立したバラック建てのマーケットをキョロキョロしながら歩くマヤ(野川由美子)のバックに、しわがれた声で唄われる曲が流れる。「こんな女に誰がした」のフレーズで有名な「星の流れに」という曲で、使われているのは菊池章子が歌うオリジナル音源ではなく、この映画が公開された昭和39年(1964)ごろ、R&B歌謡を歌っていた青山ミチを思わせるドスのきいた歌い方だ(歌手は不明)。この映画が公開される十年前の、昭和29年(1954)に出版された丘十四夫「歌暦五十年」にはこの歌に関して次の記述がある。

敗戦と共にやってきた生活難とともに、肉体を提供して生活の資とするパンパンが街にあふれてきた。終戦直後21年には立川や有楽町に発生し、当時五百名ぐらいだったものがこの年(昭和22年のこと、歌謡曲「星の流れに」、舞台「肉体の門」が共に大ヒットしていた頃=筆者注)には数千を超え、最初はモンペやサンダルといった服装が進駐軍を相手にかせぎ、特異な存在で文学や映画、演劇、流行歌もこれらを主題としたものが現われた。ことに田村泰次郎原作「肉体の門」を上演した空気座は、半裸の娼婦群とリンチ場面で人気を呼び、清水みのる作詞の流行歌「星の流れに」の「こんな女に誰がした」は時代の流行語となり、つづいて姉妹歌「こんな女と誰がいう」が出て世の非難をあびた。

「星の流れに」の姉妹歌としてあげられた「こんな女と誰がいう」は、「星の流れに」と同じ清水みのる作詞で、マキノ正博監督「肉体の門」の主題歌であり、この映画に主演した轟夕起子が歌ってヒットした。パンパンを主題とした文学や映画、演劇、流行歌はこの時代の息吹と連動して集中的に登場した。鈴木清順「肉体の門」の冒頭に流れる歌が「星の流れに」だったのは、単にこの時代のヒット曲だったからではなく、この歌以外ではありえなかった必然性があったからだし、ドスのきいた歌い回しが、この映画が公開された1964年の空気感も体現していた。鈴木清順「肉体の門」の脚本を書いたのは棚田吾郎といい、「星の流れに」のヒットによって後追い的に映画化された、山本薩夫監督「こんな女に誰がした」(昭和24年公開)の脚本にも名を連ねている。棚田はパンパンがたむろしていた時代からのシナリオライターであり、彼が舞台「肉体の門」をよく知る人物だったことで起用されたということだろう。新潮文庫版「肉体の悪魔・肉体の門」の解説を書いている奥野健男によれば、「この芝居を見ないと戦後の日本人として何か資格に欠けるような気がして、インテリも学生も労働者も、帝都座に押しかけて行った」とある。
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鈴木清順「肉体の門」には二重写しが多用されているが、二重写しの場面がひどく唐突な印象を与えるシーンがある。それは隠れ家に怪我をして闖入してきた伊吹新太郎(宍戸錠)に、マヤ(野川由美子)が「早く出て行け!」と怒鳴られ、出入口の階段に登りかける直前に現れる、鬼のお面を頭に引っ掛けた伊吹との二重写しのショットである。これは後になってマヤのセリフで、伊吹がマヤの兄に似ている、という思い出として鬼の面のエピソードが説明されるが、最初は何のことか分からずビックリさせられる。このシーンが稚拙な感じを与えるのは、二重写しが始まった途端に画面全体の色調が少し白っぽくなり、単なる技術的な欠陥であるかのような印象を与えるからだろう。それはかつて特撮の手法だったスクリーン・プロセスよって合成された二つの画面が、明らかに画面解像度が違って見えたことと似ている。だが例えば人妻の町子(富永美沙子)のリンチシーンに被る、マヤの顔のアップが非常にスムーズで違和感のない二重写しになっていることを考えると、このシーンは意図的に稚拙めかしているのではないか?

そう考えたのは無茶を承知でいわせてもらうと、このシーンにおける二重写しが、舞台「肉体の門」における幻燈の使用をなぞっているのではないのか、と思ったからだ。客席の方角から舞台に向かって強い光源を当てると、光源の影響で舞台全体が一瞬、白っぽく浮かび上がる。舞台「肉体の門」がグラン・ギニョール座に影響されていることは前章で述べたとおりだが、グラン・ギニョール座が色々な技術を用いて、舞台におけるショック効果を試みていたことは、2010年に出版された「グラン=ギニョル傑作選 ベル・エポックの恐怖演劇」のアニェス・ピエロンによる、日本語版に寄せた序文でもうかがい知ることが出来る。以下その一部を引用する。

日本の伝統文化とグラン=ギニョル劇の類似点を示す三つの例を挙げてみることにしよう。ピエール・ロティは「お菊さん」(1887)の中で自らの日本体験を語っている。(中略)「この登場人物は明らかにこの劇において邪悪な役を演じている。それは腹黒く血に飢えた、年老いた食人鬼にちがいない。最も恐ろしいのは、白い幕の上にくっきりと映し出されたその影である。どういう仕掛けなのかはうまく説明できないが、その影はまるで本物の影のように老婆の動きに従っているものの、狼の影なのだ……」。特殊効果で怖がらせること、これもまたグラン=ギニョル劇のねらいである。

この序文で解ることは、日本の芝居において明治時代より光源を用いたショック演出をしていたことと、グラン=ギニョル劇も特殊効果で怖がらせることを狙いとしていたことである。秦豊吉がパリでグラン=ギニョル座を観劇し、舞台「肉体の門」をプロデュースした際に力を入れたことは、リンチシーンにおける凄惨なエロティシズムとともに、戦前からある幻燈を用いてある種のショック演出を考えたであろうことは十分に予想できる。ただし当時の舞台を見た人の文章に残されたものは、半裸の女性のリンチシーンに限られているので、これはあくまでも想像にすぎない。ただ、鬼の面を頭に引っ掛けた伊吹新太郎の登場の仕方が、まるで電源のスイッチを入れたように唐突に浮かび上がり、電源が切れたようにプツンと消える。二重写しの際によく使われるゆっくりとしたフェイドイン、フェイドアウトではないのだ。舞台では幻燈を用いて伊吹を登場させ、ショック効果と共にマヤの心象を表現したものを、スムーズでない稚拙めかした二重写しで映像化したのではないか、と勘ぐってみたのである。
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空気座による舞台「肉体の門」の写真は、今の所ここに挙げた一枚しか確認できていないが、モノクロに色味を想像して着色した写真と並べてみた。人物のキャラクターによって、かなり計算された衣裳設計になっていることは、さすが戦前に欧州で本物のレヴュウや演劇を見聞した秦豊吉ならでは、と思う。まず中心にいる縄を引っ張る女性だけが横縞のストライプの入った柄物の上着と、格子縞のスカートを着用し、残りの三人は無地であることから、この女性がリーダー格の小政のせんとみて間違いあるまい。暖色系の色はモノクロだと黒くなるからストライプの色は赤だと判断し、さらに赤のストライプといえばアメリカ国旗をシンボライズする、と考えてスカートは青地にしてみた。左端のリンチを受けている女性はマヤではなく、人妻の町子だと思うのは、彼女だけが足の露出が少ない長めのスカートを着用しているからだ。清順版「肉体の門」の町子は、彼女だけ着物をきているが、時間勝負のパンパン稼業において、着脱に時間のかかる和装というのはやはり映画的なウソであろう。貞淑というイメージが、映画では和装、舞台では長めのスカートによって表現された。色も地味目の茶系のスカートに白っぽい上着と思われる。ハシゴの上でリンチを見つめているのはマヤ、右端のロープを支えているのはお六か、お美乃でいづれにせよ二人共に無地で寒色系の、パンパンらしい派手で色違いの洋服を着ているのであろう。パンパンが進駐軍から手に入れた米軍内の購買部(PX)から入手したと思われる、日本にはない原色の派手なレインコートを着ていた、と田村泰次郎の「わが文壇青春期」にもあった。

してみるといかにも清順らしいといわれる原色による洋服のヴァリエーションも、ある程度は舞台「肉体の門」の再現ではないのか、と疑われてくる。照明に関しても、見ず知らずのお客相手として伊吹新太郎と寝る時の、小政のせんに当たるスポットライトが有名だが、舞台の「臆面もないあからさまな再現」が清順的なのであって、映画においてスポットライト照明を用いることが清順的なのではない、といえるかもしれない。
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美術セットにおいても細部にいたるディテールの造り込みが感じられるパンパンたちの隠れ家に対して、いかにも舞台の書割的な背景場面があり、その落差が映画「肉体の門」の不思議な魅力にもなっている。特に原作小説には登場しない牧師が、マヤの誘惑に負けてしまい、教会の前でのセックスを暗示する場面においては、背景の教会が意図的に書割そのものだ。その前でマヤの顔に舞台のライトアップのような下方からの照明が当り、「町子は悪魔だ。新ちゃんの身体を虜にする悪魔だ。あたしもその悪魔になるんだ!」とマヤの声でナレーションが入る。マヤが後でリンチを受けるのを承知の上で伊吹と寝る前の、心の動きを分かりやすく見せてくれる場面である。小説ではマヤの内面を言葉で説明する心理描写を、アクションで見せることは舞台や映画においては大切だが、そのためにこそ秦豊吉は、舞台で牧師を狂言回しとして登場させたのだろう。マヤが牧師とセックスすることは、リンチシーンの前フリとして重要であると共に、悪魔はキリスト教において堕天使であり、牧師の行為が悪魔であるマヤと一体化して、マヤと同じサタンになるという、日本の舞台の西洋化を考えていた秦豊吉好みのテーマも浮かび上がる。

舞台の「肉体の門」においては前掲した写真でも解るように、リンチが行なわれる隠れ家が舞台のメインセットであり、その他のシーンは書割を背景に演じられたであろうことは、容易に想像がつく。したがって舞台では書割の教会の前で演じられた場面をそのまま映画でも再現した、ということになりはしないか。

クライマックスのマヤのリンチシーンについては秦豊吉自身が書いた、空気座による舞台の模様を描写した文章を引用してみる。

女は見物に背を向けているが、真白な背中の肉が、何も隠さぬ胸へかけて、盛り上がって白く輝く。ぶたれて気を失った女が、吊るした縄をゆるめられて、くるりと躰をくねらして、床の上に倒れる。背から胸にかけて、照明を受けて、雪のように白かった。「肉体の新宿」という感がした。これで私は日本の芝居を、少し西洋らしくしたと思った。
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この文章で解ることは、マヤの身体が雪のように白く輝くほどに、強烈な照明を当てられていたことである。その照明効果をさらに際だたせるためには、舞台全体を暗くする必要がある。その時に例えばブルーのカラーフィルタを装着した弱い光の照明を使い、舞台を丸ごと蒼い異空間に変えることは舞台照明としてはよくある手法だ。映画「肉体の門」においては全裸で吊るされたマヤを中心として、その周りがマヤのシンボルカラーであるグリーンに染められている。このシーンにおける論考で、1964年11月号の雑誌「映画評論」の読者論壇に掲載された数毀涼介(後に石上三登志によって大林宣彦であることが明かされた)による文章を引用してみる。

例えばリンチ場面。これ程凄まじいにも拘わらずこれ程リリシズム溢れた画面がかつて日本の映画にあっただろうか?カメラワークで変に逃げず真正面から女の全裸像(効果として)を捉えたのは作者の卓見であった。テレて布切れを纏わせたりする所から堕落は始まるのだが、作者自身がまるでサディストででもあるかのように極めて趣味的に悠々と楽しんでいる。だからこそぼくらは絵本の一頁を眺めるような、或るいはカレイドスコウプを覗きみるような、恍惚感に浸れるのだ。リンチの終わった後の空漠とした時間、全裸の女は天井からぶら下がり、他の女達は手拍子を打ちながら気怠そうに舞っている。両面の端は緑色に滲み、ロウソクのチロチロとした炎が足の裏を嘗める。ぼくの耳元を心地良くくすぐるのはメサイアの…ところが実際に聞こえてきたのは女達の唄う低俗極まる流行歌であった。

この論考のタイトルは「鈴木清順よ、音楽にもっと愛情を…」といい、大林宣彦が26歳の時の文章である。引用した文の最後に出てくる低俗極まる流行歌というのが、冒頭でふれた「星の流れに」で、若い大林宣彦にとってはこの曲が我慢ならなかったらしい。この論考は60年代の中頃から始まる鈴木清順評価の機運が、主に当時の若い世代によってなされたことが分かることでも意義があり、彼らは無論、空気座による舞台は見ておらず、低俗な流行歌「星の流れに」の出自も知らなかった。60年代以降、鈴木清順を論ずるときに今だに有効性を持つ枠組み、いわゆる「清順美学」といわれるものが、映画「肉体の門」にあっても単純にあてはめてもいいものなのか、はなはだ疑問である。清順美学といわれてきた「肉体の門」における数々の仕掛けを、舞台「肉体の門」の再現であると仮定して、その舞台再現がこの映画が公開された昭和39年(1964)という年にいかに機能したのか?それにはこの年を検証することから始めなくてはならない。(以下続く)

2012-01-11

鈴木清順「肉体の門」はなぜヒットしたのか?(1)〜肉体の門と獄門島、ストリップ前夜

昭和39年(1964)5月31日、東京オリンピック開催を目前に控えた時期に公開された「肉体の門」は6月17日まで続映を重ね、合計で18日間公開となり、監督の鈴木清順としては日活時代最大のヒット作となった。その理由を次に上げる四つの要素から多角的に探ってみたいと思う。
(1)肉体の門と獄門島、ストリップ前夜 (2)舞台を再現した映画としての「肉体の門」(3)昭和39年とはどのような年であったのか (4)映画館の記憶、新宿帝都座から日活名画座へ

鈴木清順「肉体の門」にはチコ・ローランド扮する黒人の牧師が登場する。主人公であるボルネオ・マヤ(野川由美子)を善導しようとするが、逆にマヤの誘惑に負けて交情し、最後は自責の念から自殺してしまう。マヤがリンチ制裁を覚悟の上で、お金を受け取らずに復員兵の伊吹新太郎(宍戸錠)と寝てしまうことの伏線となる、重要な脇役なのだが田村泰次郎の原作小説には登場しない。また昭和23年(1948)に公開された最初の映画化作品、マキノ正博監督「肉体の門」では牧師役を水島道太郎が演じている。なぜ原作には無い牧師が、マキノ版と清順版の「肉体の門」には登場するのであろうか?それはマキノ正博監督「肉体の門」が田村泰次郎の小説を原作としているのではなく、空気座という劇団によって演じられた舞台版「肉体の門」を元にした映画化であり、鈴木清順監督「肉体の門」のシナリオは舞台版「肉体の門」と、原作小説との折衷から出来ているからだ。

昭和33年(1958)6月の「図書新聞」に掲載された田村泰次郎のエッセイ、「“肉体の門”の思い出」に次の記述が出てくる。

劇団「空気座」が「肉体の門」の上演をはじめ、これが新宿や日劇で、延々とロングランを続け、そのあと田舎をまわり、観客動員数は記録破りにのぼったので、それにつれて、本もよく売れた。(中略)なにしろ本の広告は一行も新聞などに出さずにあれほど売れた本は、ほとんど空前絶後に違いない。
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マキノ正博監督「肉体の門」が舞台版「肉体の門」を元に映画化されているのは以上の理由がある。当時の人々にとって「肉体の門」といえば小説ではなく、むしろ芝居の演目としての知名度が先行したということである。その芝居を上演していた空気座という奇妙な名をなのる劇団は、終戦後の翌年、昭和21年(1946)10月に結成された。メンバーは有島一郎、堺駿二、左卜全、沢村いき雄らの喜劇人で、水の江滝子が主宰していた劇団「たんぽぽ」に在籍していたが、「たんぽぽ」の理事だった小崎政房によって結成された空気座に集結した。堺駿二以外は戦前のムーランルージュ新宿座のメンバーで、空気座の「空気」も、おそらくムーランルージュ新宿座のキャッチフレーズだった「空気、めし、ムーラン!」からきていると思われる。人間にとって必要不可欠なもの、という意味で付けられたキャッチフレーズである。
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空気座の舞台「肉体の門」で復員兵の伊吹新太郎を演じた田中実は、戦前に堺駿二と同じ劇団「たんぽぽ」に在籍していた。終戦後、伊吹新太郎と同じく復員してきて「たんぽぽ」に戻るが、トラブルがあって「たんぽぽ」を離れた浪人時代に「肉体の門」の出演依頼を受ける。出演話を持ち込んだのは小崎政房と小沢不二夫で、二人ともにムーランルージュ新宿座の元文芸部員であり、「空気座」設立メンバーでもあった。小崎政房は演出、小沢不二夫は脚本、田中実が主演で、舞台「肉体の門」は公演回数1,200回を超える大ヒットとなり、映画化にあたっては舞台スタッフがそのまま引き継いだ形となった。ただし演出は小崎政房とマキノ正博の共同名義になっていて、小崎政房は製作にも名を連ねている。伊吹新太郎を演じた田中実はこれが映画デビューとなって新東宝入りし、舞台「肉体の門」を観ていた監督の阿部豊に起用されて映画「細雪」に出演する際に、芸名を田崎潤と改める。

田崎潤の著書「役者人生50年」によれば、映画「肉体の門」は田中実(田崎潤)だけではポスターバリュウがないので、芝居ではちょっとだけ出てくる牧師の役をいい役にして水島道太郎が演じた、とある。舞台「肉体の門」に牧師が登場する、というソースは自分の知りうる限りこの記述のみであるが、舞台と映画が同じ脚本家である小沢不二夫によって書かれていることから間違いはないであろう。ではなぜ原作小説にはない牧師を登場させたのか?それは舞台「肉体の門」が初演された、新宿帝都座五階の「帝都座ショウ」のプロデューサーだった秦豊吉の強い意向だった、と思われるのだ。以下その理由を述べる。

「帝都座ショウ」が有名なのは昭和22年(1947)年の新春に上演された「ビィナス誕生」によってである。二十七景からなるこのショウの、ほんの一景にすぎない四、五秒の間、額縁の中に裸の女を入れて、名画のポーズをさせるという活人画、いわゆる額縁ショウによって日本ストリップの歴史が始まった、とされているからだ。この時にはまだストリップという言葉は使われておらず、最初にストリップショウという名目で行なわれたのは、翌昭和23年夏の正邦乙彦構成による浅草常盤座でのショウがその嚆矢といわれている。秦豊吉はその額縁ショウの発案者として知られるが、一筋縄ではいかない人物であったことは、森彰英によって書かれた評伝「行動する異端 秦豊吉丸木砂土」に詳しい。
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秦豊吉は東大卒業後、三菱商事に入社し商社マンとしてドイツに長期滞在している。帰国後に小林一三に乞われ東宝に入社して東京宝塚劇場、帝劇社長を歴任し、その間にも日劇ダンシングチームを育てている。戦後はGHQによって公職追放され、帝都座のプロデューサーだったのは公職を離れていた間のことであった。また丸木砂土マルキ・ド・サドのもじり)のペンネームで、夫婦のセックスを扱った雑誌「夫婦生活」に艶笑随筆を書いたりした。舞台「肉体の門」は「帝都座ショウ」の合間をぬって公演された出し物のひとつで、額縁ショウが始まった同年、昭和22年(1947)年の夏に初演された。前述した田崎潤の著書によれば、公演は一年間もの間、大当たりを続け、毎日三回、日曜祭日は四回公演された。場所は帝都座五階以外にも日劇小劇場(後の日劇ミュージックホール)、浅草ロック座、浅草花月劇場(空気座は発足時に吉本興業の後援を受け、映画「肉体の門」も吉本映画と太泉スタヂオとの提携作品)と場所を変え、地方公演もこなした。

秦豊吉はベルリン在住の商社マン時代に本場ヨーロッパのレビュウを見聞し、日本にもなんとか本物のレビュウを根付かせようとした。日劇ダンシングチームの育成はその一環にあたるが、日本の演芸が西洋に比べて貧困なのは、ジャンルに乏しいからだという持論を持っていた。秦豊吉が舞台「肉体の門」のプロデュースを思い立った時、秦の念頭にあったのはパリのグラン・ギニョール座のことであった。秦の著書「劇場二十年」の中に次の記述がある。

モンマルトル横丁の、ひっこんだところにある、この劇場は、1897年の開場以来、殺人劇好色劇と喜劇ばかり上演して、パリ名物となっている。客席は272名だけで、お寺を改築した入口の透かし彫りには、私が行った時は、日露戦争当時のロシアのポスターで、日本兵士が銃剣を持って、ロシアの民衆を虐殺している、血だらけの絵が高く貼り出してあった。(中略)私はこういうジャンルの劇場があることに、大いに興味を持っていた。日本の劇界の人が、演劇だと信じているものは、いつもカブキであり、新劇であり、これ以外の新しい異色あるジャンルを少しも演劇だとは思わない。

グラン・ギニョール座と同じく定員420名の小劇場だった帝都座五階において、舞台「肉体の門」が大当たりしたのは、女性が半裸にされて受ける二度のリンチシーンが評判になったことがその理由だったことは、多くの人の書き残した文章によって知ることが出来る。舞台の演出をした小崎政房は、戦前に結城重三郎の名で剣戟スターとして活躍し、演出家としては「生きてゐる佐平次」で知られる鈴木泉三郎の「火あぶり」を演出している。「火あぶり」は責め絵で知られる伊藤晴雨とその女をモデルに書いたといわれる小説で、その残酷シーンは浅草で有名になったという。製作者、演出家がともにサディズムへの嗜好があれば、舞台「肉体の門」のリンチシーンが迫真性を帯びるのは必然で、その殺伐としたエロティシズムが敗戦直後の混乱した世相とマッチしたのだろう。SM雑誌として著名な「奇譚クラブ」が創刊されたのも、ちょうど舞台「肉体の門」が大当たりしている時期と重なるのは偶然ではないと思われる。

秦豊吉が原作にはない牧師を登場させたのは、牧師とのやり取りを通してマヤの心理の変化を、舞台として分かりやすく可視化させるためという以外にも、グラン・ギニョール座があった場所が礼拝堂を改築した建物だったことが理由ではないかと思われる。また日本の芝居を西洋化したい、という願望も持っていた。日劇ダンシングチームの育成もその現れだろう。秦豊吉マルキ・ド・サドをいち早く日本に紹介した人物であることを考えると、芝居におけるこの役は、牧師であるよりもカソリックの神父だったのではないか?マヤの誘惑に負けるのは、神父のほうが牧師より背徳的なイメージに勝るし、涜神的という意味ではサドとの関連性において繋がりを持つだからだ。ただ映画化されるときにはGHQによる検閲が厳しい時代でもあったので、リンチシーンも含めて大幅な改訂を余儀なくされた。実際、マキノ正博監督「肉体の門」の水島道太郎が演ずる牧師(神山という役名)は、清順版と違って大活躍しパンパンたちを見事に神の御許にかしずかせるのである。以下、その部分のシナリオを引用する。

その十字に組まれたその影が、焼けビルの内部に大きな十字架となって浮き出した。未だ、嘗ての焼けビルの中に、見たことのないそれは荘厳な美しい場景であった。そのバラ色の太陽にきっと顔を向けていたせん(関東小政のこと、轟夕起子の役=筆者注)は、一瞬、羞恥と悔恨と、慙愧の泪が、あふれ出る。その、せんの美しい激情は、他の娘たちの心にも、力強くしみ入った。突然、せんは、激しい嗚咽ともにうつ伏した、うつ伏した彼女の頭上に、朝霧をとおして、バラ色の太陽が描いた、美しい十字の彫像があった。それは十字架にぬかづく、敬虔なる求道信者の姿に似ていた。「神さま!おれは、また帰って来ました!」嗚咽の中から、せんの心はそう叫んでいる。その姿をみている、三人の娘たちの顔にいままでにない清純ないろがよみがえってきた。

この映画より16年後の鈴木清順監督「肉体の門」では、リンチシーンも含めて過剰なまでに演劇的な演出となってよみがえる。それは舞台「肉体の門」の再現でもあった。(以下続く)
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昭和24年(1949)に封切られた映画「獄門島」の広告(左)と、同年に映画より先んじて公演された空気座による「獄門島」。空気座は「肉体の門」、「續肉体の門」、「獄門島」以外にも幾つか演目があったが、どれも「肉体の門」のようには当たらず、この年の12月に解散した。二つを比較してわかることは、映画のスチルが空気座による緊縛写真を参照していることだろう。スタッフなどの直接的な関連性は薄いが、しいてあげれば映画「獄門島」のプロデューサーが「肉体の門」の監督であるマキノ正博の弟、マキノ光雄であること。製作会社でいえば「肉体の門」を製作した太泉スタヂオ(太泉映画)と、「獄門島」の東横映画が、東京映画配給を加えて昭和26年(1951)に東映株式会社となることである。空気座による「獄門島」は、左下、右上の写真などグラン・ギニョール座の広告やステージ写真から学んだと思われる構図や表情をしている。それにプラスして、グラン・ギニョールの日本的展開としての伊藤晴雨的な緊縛実演を考えたのだろう。演出は「肉体の門」と同じ小崎政房である。変格物といわれる江戸川乱歩横溝正史などの探偵小説は、総じて日本におけるグラン・ギニョール的感性を体現していた。

2011-12-21

魔子幻想〜魔子の淵源を辿って

マコという呼び名は真理子や雅子、牧子などの三文字の名前を短くした愛称や名前として親しまれてきた。昭和に子供時代を過ごした人ならば、必ず周りにマコちゃんと呼ばれた子がいたはずだ。しかしひとたび漢字で魔子の字をあてると、平凡な呼称がにわかに不穏な気配が漂う不吉な名前となる。そんな「魔子」をタイトルにした小説を初めて書いたのが龍胆寺雄で昭和6年(1931)のことである。同年には吉行エイスケと共に新宿に出来た新しいレヴュー劇場「ムーランルージュ新宿座」の顧問となるが、顧問に就任する前に二人揃って新宿に関するエッセイを書いている。吉行エイスケは「華やか、新宿繁昌記」、龍胆寺雄は「新宿スケッチ」と題するもので、共に銀座と並ぶモダンな都会、新宿に関する点描を流行の新興芸術派らしい才気走った文章でつづっている。龍胆寺雄の「新宿スケッチ」よりその一部を引用してみる。

かくして新宿は昼も夜も生活の渦だ。が、ーー待て。問題はこの「生活」にある。百貨店の新宿、カフェやレストラントの新宿、円タクの新宿、露天夜店の新宿、花屋と果物店の新宿、ストリートガールの新宿、映画の新宿、これをしも単に生活と云うべきか?然り!新宿に於いてはこれが生活なのだ。そこにはおのづから、浅草や銀座や神楽坂と異なった「巷」の雰囲気が出現する。

ここに書かれた百貨店とは三越、レストラントは中村屋、果物店は高野で三越を除けば現在でも新宿でお馴染みの店である。映画館は武蔵野館で、このエッセイが書かれた当時はまだ無声映画全盛時代で徳川夢声が弁士をつとめ、大変な評判を集めて新宿名物となっていた。龍胆寺雄の小説「魔子」はまだ18歳の少女ではあるが、主人公である私と同棲していて産婦人科の病室場面から小説は始まる。魔子は身体的特徴としては「艶の良いゆたかな髪、ひどく派手で印象的な目鼻立ち、均整のとれた華奢な骨格」とされてていて、中でも眼の描写が微細を極めている。

眼が印象的で素晴らしく大きい。ちょっと野暮で下向いている睫毛は長い。非情にはっきりと彫みの深い二重瞼で、心持ち目尻が吊ってゐる。白味が神経質らしく蒼く燐色に光っている。何かしら悲しい深みを湛えた大きな黒瞳だ、こいつが長い睫毛の蔭で時々刻々色んな表情をしてゐる。

と、まだまだ続くのだが、ともかく魔子は眼が印象的で素晴らしく大きく、心持ち目尻が吊っているという動物を思わせる眼、いわゆる猫眼だったということだ。魔子は妊娠していることがわかると、食の好みが変わり果物ばかりを食べるとか、週二回も通っていたほどの熱狂的な映画好きだったものが、急に無関心になるなど嗜好や言動が気まぐれで、本能的に行動する動物を思わせる。つまり女というよりもメスに近い魔子に翻弄されながらも、マゾヒスティックに彼女の言いなりになる主人公の一人称小説は、龍胆寺雄の初期における代表的な短編であり、まだ戦争前のモダンだった新宿という街の記憶と合わせて、魔子という字面を持つ名前は当時の文学青年やインテリの、記憶のアーカイブに刻み込まれることとなる。
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昭和20年(1945)に終戦となり、龍胆寺雄吉行エイスケが軽快な筆致で描いたモダン都市、新宿も焼土と化したが、程なく駅前にバラック建ての通称ハーモニカ横丁という飲み屋街が出来る。その素早さを思うと人間の飲酒への欲望は食欲、性欲に次ぐ第三の本能ではないかと疑われるほどだ。浅見淵の昭和文壇側面史によれば、新宿ハーモニカ横丁とは次のようなものである。

当時は高野果物店ならびにその隣りのパン屋の中村屋は終戦の混乱に乗じて唐津組に占拠されていてまだ開店の運びにいたらなかった。その廃屋然とひっそりした高野のコンクリートの横壁に平行して、道路を隔ててバラック建ての片側町が焼跡に急造された。いずれも一間間口(一間は約1.8m、筆者注)の奥行き二間といった全く同じ型の店が、屋根を同じくして棟割長屋風に七、八軒立ち並んだ。(中略)まるでハーモニカの吹き口をならべたような街づくりだったので、いつだれが名付けるともなくハーモニカ横丁とこのあたりをみんなが呼ぶようになったのである。

名付け親は丹羽文雄らしいのだが、ハーモニカ横丁にたむろして夜毎に酒を酌み交わした作家たちがいた。田辺茂一のエッセイによればそのメンバーたるや錚々たる顔ぶれで、伊藤整高見順火野葦平梅崎春生江戸川乱歩井伏鱒二田村泰次郎上林暁井上靖柴田錬三郎吉行淳之介中野好夫内田吐夢三好達治草野心平村山知義吉田健一谷崎精二田中英光坂口安吾佐多稲子城昌幸らに加えて映画やラジオ放送関係者がいた。同じ新宿で例えるならば1960年代のゴールデン街を彷彿とさせるが、ゴールデン街と違うのは喧嘩沙汰の伝説が無いことぐらいだ。このハーモニカ横丁にその名も「魔子」という店があり、魔子と名のる女性が一人で切り盛りしていた。「魔子」という小説を知るものにとって、そのお店は戦前の華やかだった新宿の記憶と結びついて関心を引いた。ハーモニカ横丁の常連だった巌谷大四によれば、当時のジャーナリストや作家たちに人気があったそうだ。中でも「秋津温泉」の作者として知られる妻子持ちの藤原審爾がその女性に道ならぬ恋をした。その体験を元に書かれたのが藤原審爾の小説集「魔子」である。藤原は小説の中の江見という登場人物にこう言わせている、「魔子ちゃんの眼は綺麗だね」「その眼だけが好き」。
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映画監督の渡辺祐介もこのお店「魔子」の常連だったに違いない。なぜなら彼は魔子と名乗る女優の名付け親だからだ。渡辺祐介は静岡高校時代に一級上の吉行淳之介と同人誌を出す文学仲間だった。その後吉行と同じ東大に進学しているが、旧知の間柄で共にハーモニカ横丁の「魔子」に通ったのだろう。吉行淳之介は父である吉行エイスケと親交のある、龍胆寺雄の小説「魔子」と同じ名を名乗る女性に興味を持つのは自然の流れだと思うからだ。龍胆寺雄が「眼が印象的」と書いた小説の中の架空の女性が、はたしてそこには実在していた。渡辺祐介は新東宝時代に脚本家からスタートしているが、三条魔子がまだその名をなのる前に、シークレットフェイスとして初登場した「金語楼の海軍大将」の脚本を書いているし、三条魔子を芸名として初めて出た映画「美男買います」も渡辺の脚本である。また自身の監督デビュー作である「少女妻 恐るべき十六才」にも三条魔子を出演させている。もっともそれだけの理由で渡辺祐介が三条魔子の名付け親だと強弁するつもりはない。渡辺は新東宝倒産後に東映に移籍しているが、昭和39年(1964)に監督した「二匹の牝犬」において、小川真由美の妹役を探していた。そのときテレビドラマ「廃虚の唇」に本名である小島良子で出ていた女優をスカウトし、緑魔子の芸名を付けて映画デビューさせたのが他ならぬ渡辺祐介だからである。三条魔子、緑魔子は二人ともに眼が印象的な女優である。渡辺監督は緑魔子のスカウトのきっかけについて当時の週刊誌でこう語っている。「目を見たとたんに、“あ、これだ”と思いましたよ」
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三条魔子が映画界にスカウトされたきっかけは昭和33年(1958)にフランソワーズ・アルヌール主演のフランス映画「女猫」日本公開の宣伝を兼ねて催されたミス女猫コンテストにおいて約500人の応募者の中から選ばれたことによる。新東宝入りしてから最初の三本の出演作は、前述したように売り出しの宣伝作戦として、シークレットフェイスとしてクレジットされており芸名は明かされなかった。後のインタビューで「猫のイメージから魔子という芸名を付けられたけど、なんかスゴイ女みたいな感じがあって最初は馴染まなかった」と語っているが、「魔子」という小説があり実在の人物がいたことは、当人は全く知らなかったようだ。それよりも彼女の頭にあったのは、デビューの4年前である昭和29年(1954)に封切られた、やはり猫顔である根岸明美主演の「魔子恐るべし」があったのかもしれない。何しろ魔子恐るべしというくらいだからスゴイ女であることは確かである。

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「魔子恐るべし」の原作者は宮本幹也といい、昭和8年(1933)、「サンデー毎日」の懸賞映画小説に入選し、その後、日活の多摩川撮影所脚本部に入社している。戦後は小説家となるが世代的には龍胆寺雄とさほどの違いはない。「魔子恐るべし」の魔子には、龍胆寺雄の書いた「魔子」像がかなり投影されている。小説「魔子恐るべし」の冒頭すぐに魔子の容姿に触れて、「大きな黒い瞳、長い睫毛」とあり、龍胆寺雄の描写した「眼が印象的で素晴らしく大きい。ちょっと野暮で下向いている睫毛は長い」から文学的要素を差し引いた、大衆小説的なわかり易い描写となっている。「魔子恐るべし」は新聞「東京タイムズ」に連載されたが、映画公開日と連載開始がほぼ同時なので、小説自体が主演である根岸明美を最初からイメージして書かれていることは間違いない。根岸明美は日劇ダンシングチームに所属していたところをジョセフ・フォン・スタンバーグ監督に見出され、映画「アナタハン」でいきなり主役デビューした。当時の記事を見るとシンデレラガール扱いだが、外国人監督に見出されたということは、根岸明美が映画のモデルとなったアナタハンの女王、比嘉和子と同じく、つり目で外国人が思い描く東洋人のステレオタイプだったからだろう。主に外国映画で活躍した根岸と同時代の谷洋子と共通する眼だ。
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昭和46年(1971)公開の「不良少女魔子」で主演した夏純子はその前年に、デビュー当時に緑魔子と比較され“第二のマコ”といわれた大原麗子と共に、「三匹の牝蜂」に出演しているのが目を引く。龍胆寺雄の「魔子」が女というよりもメス的だったように、タイトルに「牝」がつく映画に出演している女優は概して動物的な鋭い眼差しを瞳に宿している。緑魔子のデビュー作が「二匹の牝犬」だったように、野川由美子江波杏子梶芽衣子などがそうだ。夏純子が本名である坂本道子で出演したデビュー作「犯された白衣」において、最期まで生き残る看護婦役だったのはあの瞳を持っていたからこそだろう。「不良少女魔子」は龍胆寺雄の「魔子」やハーモニカ横丁の魔子とは直接の繋がりはないが、眼のイメージが時間をへだてて積み重ねてきた記憶の累積が感じられる。
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龍胆寺雄はサボテン研究家としても知られていて、 昭和49年(1974)に出版された著書「シャボテン幻想」にはサボテンの魅力として以下の「怪奇な生態」があげられている。サボテンは植物にもかかわらず、這いまわること、危険から逃げ出すこと、空中でも生きること、擬態すること、とある。つまりは動物的な植物であることが龍胆寺にとってサボテンの魅力なのだ、それは彼にとって女の魅力がそうであるのと同様に。「シャボテン幻想」の書き出しはこう始まっている。

麻薬を、ここでは魔薬というあて字にすりかえたほうが、感じが出る。いったいこの魔薬の魅力というのは何だろう。いってみればそれは、ごく具体的な手段で、いきなり人間を、レアリズムの世界から逃避させて、ロマンティシズムの世界へと飛躍させる薬だといえばよさそうだ。

メスカリンなどの麻薬はサボテンの一種であるペヨーテの成分から作られた。魔子の魔は魔薬の意でもあったのだ。そういえば麻子(アサコ)をマコと呼ぶ愛称もあったことを思い出した。