富野監督作品の魅力とは何か。
世界観、富野台詞、皆殺し展開、エキセントリックなキャラ。
監督自身が提唱する映像の原則に則った、自然な繋がりのある映像。
おそらくそれだけではない。
少し前にsiwasuさんの
「ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ」を読みながら、昨日「機動戦士ガンダム F91」を見て確信した。
富野作品の魅力は「芝居」(所作)そのものにある。
siwasuさんが富野作品の芝居について、簡潔明瞭に語っている。
ストーリーをみようとすると、芝居という枝葉に邪魔されて、発見できない(笑)だろう。
このあたりは、富野の欠点でもあり魅力でもある。
ストーリーなど気にせずに、場面場面の芝居を堪能すれば、おのずと作品世界の息遣いを感じることができるようになる。
そうなれば、あとは芳醇な悦楽が待っている。
『ガンダム Gのレコンギスタ』を第九話まで観た(ネタバレなし)「ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ」
芝居、もしくは芝居に伴うポージングが富野作品をみて飽きさせないのではと思う。
実際に逆襲のシャアから見てみよう。
クエスがシャアの機体の中に飛び込み、シャアがクエスを抱えるシーン。
シャアとクエスという男女の身体が密着する、
極めてパーソナル性の高い芝居をさせる。
こういう画を見せられるだけで、
この二人のシーンで何が起こるのかを期待せずにはいられない。
ここでシャアがバイザーを開けるのも良い。
富野作品は細かい芝居を入れてくる。
かつての盟友、安彦良和さんも富野さんの芝居・コンテについて以下のように語る。
富野さんの絵コンテは、余分なことがいっぱい描いてあるんですよね。それで、非常に作画受けが悪い。例えば主役が、画面の中央で何か芝居をしますよね、その時に脇の方で、関係ない通行人が何かやっていたりするんです。
「富野由悠季全仕事」より
作画にとっては大変なのだろうが、
こうした芝居があることが富野作品の魅力につながっている。
シャアとナナイの夜のシーン。
男女の関係をこれでもかと芝居で見せてくる。
芝居の強さが、アニメとして物語としての強度に繋がる。
庵野秀明さんの逆シャアについての意見を引用しよう。
庵野 セックスを連想させてくれるのは、富野さんのアニメだけなんですよ。「逆シャア」というのは、特にそれを感じてですね。シャアとナナイに(この辺りは力説している)。
「逆襲のシャア友の会」より
富野さんのアニメにはセックスがあると、庵野監督に思わせるぐらいの力があり、
その力は芝居から生まれているのだと思う。
逆シャアラスト近辺のアムロのコクピット内のシーン。
座席にしがみつく、見た目はカッコ悪いポーズをとるアムロ。
こういうカッコ悪いポーズ(でもやっている事はかっこいい)
というか芝居をさせることができるのが、富野作品の魅力だと思うのだ。
逆シャア以外を振り返ると、特にイデオンは
湖川友謙さんのアオリの効いた作画も相まって芝居が極まっていると感じる。
ドバ総司令が全てを悟りつつも自らの業を
ロゴダウの地球人にぶつける覚悟を決めた瞬間。
芝居がかったともいえるかもしれないが、
これぐらいやってくれると、見ごたえがある。
またGレコでも、よくキャラが何かに頓いたり、ぶつかるのも
芝居としての面白さ。
マッシュナーが自身のイヤリングを顔に当てるのもコミカルで面白い。
まとめ
以上、簡単ながらに富野作品の芝居について見てきたが
各キャラがどんな芝居や所作をするのかに着眼して
富野監督作品を見てみると、発見があってみられるのではないかと思う。
全体的には、生々しい、人間らしい芝居が多いという印象。
大仰な芝居と細かい所作を合わせながら、
映像を紡いでいくのが、富野作品なのだと思った。
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(特にこれは某ガンダムまとめ関連の幾つかのところでも常套手段よろしくでもされてる)
だがキチンとその辺の演出だけでなくそのシーンでの前後という部分で見ると意外にパズルのピースのようにピシッとハマるのもあるという
少し脱線するがつい先日の某番組でザンボット3とイデオンが「切ない作品」のベスト3に入っていたというのがある、だがハッキリ言えば「切ない」というワードでこの2作品を語れるというのは少し違うのもそうだろう
確かに両作品とも話の流れ等からすればそういう一面があるのもそうだろう、だが「切ない作品」と言われたらそれはイコールとはまず言えない
この辺もそういう意味で言えばちゃんと全話を観てるか否かというところもある
話を戻せばこの2作も富野作品の芝居として見ればその一言で終われる作品でないのは確実に見えてくる、それはそれぞれのキャラのアクションを見てれば尚更でもある
そして何よりそうだが時代に応じてその芝居にも変化はあるのもそうなのでは?
同じガンダムの中でも初代とGレコで見てもそうだろう、単純にどちらが優れてるなんて計り方をしていれば間違いなくこの辺は理解できずにどちらかをdisするしかないという顛末になるという
(実際そういうのが多々目立つのもどちらかで秤をかけて、というのもあるし)
まだまだ富野作品には見るべき部分があるのだけは確かとも言えるだろう