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JR東海が「不通路線」を復旧した本当の理由

東洋経済オンライン 4月2日(土)6時0分配信

 北海道新幹線の開業で日本中が沸いた3月26日、別の列車に手を振っていたエリアがある。三重県津市の美杉町と白山町を中心した一帯だ。このエリアは三浦しをんの小説「神去なあなあ日常」の舞台として知られ、清流と森林が広がる静かな山あいの町である。

 同地区にとって唯一の鉄路であるJR名松線(松阪―伊勢奥津間)が2009年10月の台風18号で被災し、家城―伊勢奥津間が不通となっていた。被災から6年5カ月を経て復旧工事が完了し、ようやく運行開始となったのだ。9時35分、大勢の地域住民に祝福されながら、伊勢奥津からの一番列車が松阪に向けて出発した。

 「北海道新幹線と比べたら規模は小さいが、私たちは胸を張っていい。名松線のほうが地域に愛されている鉄道であることは間違いない」。鈴木英敬・三重県知事が感無量の表情で言う。「地域に愛されている鉄道」という言葉にうそはない。名松線の復旧には鈴木知事がこう言い切るだけの紆余曲折があったのだ。

■ 競合路線が先に開業

 名松線は松阪から名張までを結ぶ計画だったことから、両地名の頭文字を取って名松線と名付けられた。1929年に松阪―権現前間が開通したが、翌1930年に参宮急行電鉄(近畿日本鉄道の前身)が先に名張―松阪間を別ルートで開通させた。そのため名松線は、1935年の伊勢奥津間までの延伸を持って、名張までつながることなく、終わってしまった。

 都市間を結ぶ構想がついえた名松線は利用者が伸びず、国鉄時代には廃止対象となったことがある。その後も利用者は年々減少の一途をたどり、被災前の家城―伊勢奥津間は、1日の乗車人員わずか90人という全国屈指の赤字区間だ。

 そこへ2009年10月に台風が直撃。線路内への土砂流入や盛土の流出など被害は甚大で、復旧費用が膨大な金額に及ぶことは容易に予想された。被災後はバスによる代行輸送が行なわれていたが、このまま復旧されることなく路線バスに移行されるのではと、住民の誰もが危機感を募らせた。

 「鉄路を残さなあかん」。5900人の沿線住民が立ち上がった。2006年に旧・美杉村や白山町など9市町村と合併して現在の姿になった津市にとっても、「市民の心を一つ」にする機会だった。津市だけはない。隣の松阪市の住民も動いた。竹上真人・松阪市長はこう振り返る。「名松線の”松”は松阪の”松”やろ、とおしかりを受けました」。

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最終更新:4月2日(土)17時35分

東洋経済オンライン

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