【動画】谷崎潤一郎が朗読する「春琴抄」
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■文豪の朗読

《谷崎潤一郎「春琴抄」 いとうせいこうが聴く》

 谷崎の朗読は数年前、『新潮』の付録CDで『瘋癲(ふうてん)老人日記』の主役を務めているのを聴いたことがある。その時も驚いたのだが、文章に句読点の少ない谷崎が、ぷつりぷつりと意味を伝えるのに的確な位置で、しかしまるで子供の音読のような読み方をする。ほとんどの人にはそのまま最後まで「棒読み」に聴こえるだろうと思う。

 がしかし私には、ひいきし過ぎているだろうか、すぐにその「棒読み」がたいした技であるように感じられたのだった。彼が歌舞伎や浄瑠璃といった芸能によく耳を傾けていたことが私にはよく伝わってきたのだ。

 古典芸能のセリフ回しは、新劇以降のリアリズム演劇のように感情をこめない。情の芸である浄瑠璃でさえ、ベタベタと人間描写に浸ってはならないことになっている。例えば老母をあらわす太夫の声は、老父よりも低く発せられる。表現は再現ではなく、あくまでも“そう聴かせたらええんや(当代竹本住太夫談)”というのが日本の芸なのだと言える。

 今回の『春琴抄』でも、谷崎はその芸がよくわかっているに違いない。なにしろ、ほぼ感情を入れない。徹底的に誤読を避けるようなわかりやすい読み方でテンポも変えない。いかにも「下手」である。けれどもその「下手」、つまり演劇的でない朗読がやがて聴く者の脳裏に素直に映像を送り込んでくる。

 しかもほんのわずか、劇的になる。それが作者としての熱量の変化なのか、表現としてそうなのかはわからない。それはある種名人芸の特徴である。古今亭志ん生のろれつが回っていないのをどう評価すべきかわからないのに似ている。

 私にとって『春琴抄』は大事な小説で、自分の新刊長編の下敷きでもある。だから谷崎自身の区切り方、「春琴」のアクセントを知れることなどもまたきわめて刺激的である。

 けれども圧倒的に芸として勉強になる。(作家)

     ◇

 1960年代に発表された朝日新聞が所蔵する文豪たちの自作の朗読を、識者が聴き、作品の魅力とともに読み解きます。

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