先日、サイボウズ式というサイトでお声がけを賜り、女のプロである川崎貴子女史と対談して来ました。
途中、かなり込み入った話になったり、いったりきたりしてしまったので大変な対談だったのですが、見事にポイントを押さえた素晴らしい原稿になって返ってきてびっくりです。あんなのどうまとめるんだろうと思ってたんですが、杞憂でした。
この手の話をすると、大抵において「もう取り返しのつかない独身高齢者に対して失礼だ」とか「子供がほしくてもできない家庭に配慮しろ」などというお話がくるわけなんですが、私は私の人生しか歩んでおらず、投資先や社員といえど彼らの人生のすべてに責任を持つことはできないし、ましてや読者の個々の状況において配慮し責任を持つことなど無理であります。女が「男には女の気持ちが分からない」のは、男は女でないからであって、女性は産む道具ではないのはごもっともとしても女性が産んでくれないと子供が増えず、社会が維持されないので、いままでの昭和時代の働き方を改め、必要であれば女性の社会進出も支援し、公的な扶助も増やしていこうよ、という話ですね。
だからこそ、人生には解がなく、また誰かが手を差し伸べてくれるものでもない、だからこそ、自分自身で解決していかなければ絶対に駄目なのだとも言えます。子供ができないのは社会が悪いからだ、政治がよくないからだ、政策が不足しているからだ、と言い、それが一部そのとおりだとしても、一定の年齢になってもなお結婚できないとか、高齢になって出産できなくなって子供がほしくなったなどの話は、社会や政策や知識も含めたその個人の合理的な選択の結果や、状況に流された所以でしかないでしょう、という話です。
私なんかは、本当に奇跡的に結婚できただけの人間ですから、神に感謝しつつも自分がもし伴侶と巡り合えなかったらと思うとゾッとします。でも、その結婚できたことも物凄く細い糸のような可能性の結果であって、一歩間違えばゴールインしなかったかもしれないことを思い返すと謙虚にならざるを得ません。産経新聞「iRONNA」とBLOGOSメルマガやプレタポルテで書いたのは、結局のところ共感を呼ぶ文章をいくら書き綴ったところで意味がないのではないかという問題意識からきています。具体的なアクションを求める人が行い、自分の人生を作り上げていくことへの支援が必要だ、解そのものを与えることなどできないので、自分で考えて実現していくしかないのだ、という自助論的な精神です。
おそらくは、公共と自助の観点はこれからどんどん問題が出てくることでしょう。この辺の議論は、いつ蒸し返しても興味深いところになるので、『自助論』や『家族でできる 7つの習慣』でもどうぞ。
どうもこの辺の話は、以前流行したライフワークバランスみたいな議論の延長線上にある、当たり前だけどあまり立場表明しにくい問題のひとつじゃないかと思ってます。個人的には、共働きだから保育園に補助を出す、ということよりも、子供が生まれた場合は保育園に預けようが預けまいが助成を出して社会全体の支援を行い、選択肢を与えていくほうが望ましいように思うわけですね。
そして、今後はもっと世の中は厳しく、苦しく、やりづらくなっていきます。それは仕方ないこととして、それでも自分の人生を輝かせるために、幸福を得るために何をしなければならないのかを、考えつめていくことが大事なんじゃないかと思いました。
まあ、仕事入れすぎて年度末に死ぬほど苦労した私が言うべきことではないのかもしれませんが。
いろいろ遅れててほんとすいません。
途中、かなり込み入った話になったり、いったりきたりしてしまったので大変な対談だったのですが、見事にポイントを押さえた素晴らしい原稿になって返ってきてびっくりです。あんなのどうまとめるんだろうと思ってたんですが、杞憂でした。
「料理は手作りこそが愛情」という同調圧力が、日本の子育てをつらくする──山本一郎×川崎貴子
それでも結婚し、子どもを持つ意義はどこにある?──山本一郎×川崎貴子
この手の話をすると、大抵において「もう取り返しのつかない独身高齢者に対して失礼だ」とか「子供がほしくてもできない家庭に配慮しろ」などというお話がくるわけなんですが、私は私の人生しか歩んでおらず、投資先や社員といえど彼らの人生のすべてに責任を持つことはできないし、ましてや読者の個々の状況において配慮し責任を持つことなど無理であります。女が「男には女の気持ちが分からない」のは、男は女でないからであって、女性は産む道具ではないのはごもっともとしても女性が産んでくれないと子供が増えず、社会が維持されないので、いままでの昭和時代の働き方を改め、必要であれば女性の社会進出も支援し、公的な扶助も増やしていこうよ、という話ですね。
だからこそ、人生には解がなく、また誰かが手を差し伸べてくれるものでもない、だからこそ、自分自身で解決していかなければ絶対に駄目なのだとも言えます。子供ができないのは社会が悪いからだ、政治がよくないからだ、政策が不足しているからだ、と言い、それが一部そのとおりだとしても、一定の年齢になってもなお結婚できないとか、高齢になって出産できなくなって子供がほしくなったなどの話は、社会や政策や知識も含めたその個人の合理的な選択の結果や、状況に流された所以でしかないでしょう、という話です。
私なんかは、本当に奇跡的に結婚できただけの人間ですから、神に感謝しつつも自分がもし伴侶と巡り合えなかったらと思うとゾッとします。でも、その結婚できたことも物凄く細い糸のような可能性の結果であって、一歩間違えばゴールインしなかったかもしれないことを思い返すと謙虚にならざるを得ません。産経新聞「iRONNA」とBLOGOSメルマガやプレタポルテで書いたのは、結局のところ共感を呼ぶ文章をいくら書き綴ったところで意味がないのではないかという問題意識からきています。具体的なアクションを求める人が行い、自分の人生を作り上げていくことへの支援が必要だ、解そのものを与えることなどできないので、自分で考えて実現していくしかないのだ、という自助論的な精神です。
「保育園落ちた日本死ね」から考える政策が必要な人に届かない理由
乙武洋匡さんの問題が投げかけたもの
http://pret.yakan-hiko.com/2016/03/31/yamamoto-6/ おそらくは、公共と自助の観点はこれからどんどん問題が出てくることでしょう。この辺の議論は、いつ蒸し返しても興味深いところになるので、『自助論』や『家族でできる 7つの習慣』でもどうぞ。
自助論〔改訂新版〕 [ サミュエル・スマイルズ ] |
家族でできる7つの習慣 [ 伊原直司 ] |
どうもこの辺の話は、以前流行したライフワークバランスみたいな議論の延長線上にある、当たり前だけどあまり立場表明しにくい問題のひとつじゃないかと思ってます。個人的には、共働きだから保育園に補助を出す、ということよりも、子供が生まれた場合は保育園に預けようが預けまいが助成を出して社会全体の支援を行い、選択肢を与えていくほうが望ましいように思うわけですね。
そして、今後はもっと世の中は厳しく、苦しく、やりづらくなっていきます。それは仕方ないこととして、それでも自分の人生を輝かせるために、幸福を得るために何をしなければならないのかを、考えつめていくことが大事なんじゃないかと思いました。
まあ、仕事入れすぎて年度末に死ぬほど苦労した私が言うべきことではないのかもしれませんが。
いろいろ遅れててほんとすいません。
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