ラヂオアクティヴィティ[Ra.] 第二部・国境なき恐怖 128ベクテル社 マイクがカメラに向かって語る。 「戦後の十年間、アメリカではウラニウム・フィーバーが起きました。アメリカ政府がインディアンに譲った見かけは価値のない土地が、アメリカのウラン鉱床の大きな部分を占めていたのでした。鉱山労働者は、放射能の影響で死亡したり身体障害者となったりしました」 勇気が語る。「IAEA(国際原子力委員会)の幹部の多くは原子力産業、研究所、アメリカの国家的原子力機関に関係しています。アメリカの原子力機関のルーツをたどっていくと、やはり日本へ投下した原爆を開発したマンハッタン計画に行き着くのです。このチームが戦後、原子力エネルギー委員会(AEC)になりました」 原爆を平和目的に使用するつもりだったようである。 しかし、それが可能かどうか後回しになっていたとしかいいようがない。 「AECは一九七五年にエネルギー研究開発局(ERDA)と、原子力規制委員会(NRC)に分かれました。七七年にはERDAがエネルギー省(DOE)へ改組されることになりました。研究所の名前もそうそうたるものです。原爆製造にかかわったバッテル・メモリアル研究所、ロスアラモス科学研究所、オークリッジ国立研究所。そして特に重要な機能を果たしたシカゴ大学。シカゴ大学から派生したアルゴンヌ国立研究所。ここは原爆の起爆剤の研究で特に有名です。そしてブルックヘイヴン国立研究所。こういった原爆開発を中心に出発した研究機関や企業、国際機関などがIAEA幹部の出身母体、あるいは兼任している組織になっているのです。戦後AEC総合勧告委員会委員長、つまり原子力産業のボス。ちなみに初代委員長はあのマンハッタン計画のリーダーとして著名なオッペンハイマーなのです」 ナショナルパワーグループと文字が画面にでる。 「一九五四年には、そのなかで最も熱心な七つの公益企業とベクテル社が組んで、“ナショナル・パワー(全米電力)・グループ”という団体を結成しました。シカゴに本拠地を構えるこの合弁会社は、経済性と企画設計に関する研究をAECのためにおこない、さまざまなタイプの基本的な原子炉を評価して、どれが商業用発電にふさわしいかを判定したのです」 アイゼンハワー大統領の写真。 「アイゼンハワー大統領は、一九五八年夏の終わり、AECと国防省の協力による核兵器工場の建設が自分の手に負えなくなった、と側近に告げたのです。軍事利用を目的とする全ての核実験停止に断固として取り組む、と大統領は語りました。この核実験停止案は、キューバに対する核弾頭ミサイルに熱を上げていたマコーンから猛烈な反対を受け、ケネディー政権になるまで実現しなかったのです」 季が深刻な口調で話す。 「しかし、平和利用の一貫として、トンネルをほるために核爆弾使用を考えました。アイゼンハワーは、マコーンが支援するプロジェクトのひとつを思い通りに処理しました。そのプロジェクトは、ベクテル社のような民間企業が深い地底から石油を採掘し、山間部でトンネルを掘るのに、何と小さな核爆弾を利用するという計画だったのです」 弁護士は、咳払いをしてから話す。 「アイゼンハワーは五六年の再選後、ベクテル社に手紙を書いた。「あなたの好意には心から感謝している」この言葉以上にアイゼンハワーは、ベクテル社の助言を求め、具体的に、栄誉ある数々の政府ポストをベクテル社に与えました」 原発の写真。 「最初の原子力による電気はアメリカの高速増殖炉で起こされました。だが、この成功から四年後に炉心が熔融してしまったのです。デトロイトに近いアメリカの高速増殖炉は一九六六年から一九七二年まで運転されたましが、商業用電力を生み出さずに終わりました。その炉心の部分熔融で、デトロイトの人たちの避難が検討されたということが報告されています」 原発輸出という文字が画面にでる。
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