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《与太話》 レオ、夢を見る
※エイプリルフールに浮かれたお目汚しネタですので、本日中に下げさせていただきます。
※閑話ですらない、毛ったいな与太話です。閲覧ご注意ください。
「ん……うう……」
枕に広がってなお艶やかな黒髪に、瞳を閉じていてなお美しいとわかる小さな顔。
いつもは健やかな寝息を立てている少女の顔は、しかしこの日、耐えがたい現実に挑むかのように、苦しげに歪められていた。
「あん……ひ……、……っ!」
寝言だろうか、弱った猫のような悲痛な呟きが可憐な唇から洩れるが、しかし、なぜか時折びくりと肩が揺れ、それは途中で掻き消えてしまう。
冷たいばかりだった夜の空気に、ほんの少し寒さの緩んだ風が混じりだした、ある晩。
――少女は、夢を見ていた。
***
「なんだ? ここ」
レオは、ふと視線を上げた途端飛び込んできた光景に、ぎょっと目を瞠った。
それもそのはず。彼はなぜか、今まで見た事のないような断崖絶壁を前にしていたのだから。
ちらりと除く崖の下は、荒れ狂う大海原。波は崖にぶつかるたびに白く砕け、未練がましく大量の泡沫を飛ばしながら引いていく。
空はどんよりと曇り、時折雷が落ちているようだった。
しかし、異様なのはそれだけでない。
レオの立つ崖には、あと二人――レオの大変よく知る人物が佇んでいた。
「オスカー先輩。いい加減に真実を白日のもとに晒してはいかがですか。あなたにとってはささやかな欺瞞でも、積み重なればいつか大切な人を傷つけます」
一人は、輝く金髪に、「精霊の愛し子」とも称される美貌を持った、アルベルト皇子。
彼は、普段穏やかな光を湛えているアイスブルーの瞳に、それこそ凍えるような冷たさを滲ませて、まるで刺すように相手を見据えていた。
「……は、随分な言いようだな。持てる者はいつでも傲慢だ」
対峙するのは、精悍な顔立ちに獣のようなしなやかな長躯が特徴的なオスカー。
彼は、甘い藍色の瞳を、今ばかりは不穏に細めて皇子を睨みつけている。
睨み合う二人に突然挟まれるような格好となったレオは、「え、え」と視線を彷徨わせながらうろたえるだけであった。
(な、なんだ? この状況。二人は何を言い争ってるんだ?)
突然この場に放り込まれ、状況がさっぱり読めない。
が、皇子の言う「欺瞞」であるとか、オスカーの言う「持てる者」という発言を総合すると、なんとなく浮かびあがってくる主題はあった。
(オスカー先輩が周囲を騙すように隠していて、皇子が持っているもの……?)
それは、アレのことだろうか。
無意識にごくりと喉を鳴らしたレオに答えるように、アルベルトが嘆かわしげに息を吐いた。
「……あなたは、あくまでも隠そうと言うのですね。その髪のことを」
(やっぱそれかああああい!)
最近はすっかり仲が良くなったように見える二人なのに、なぜアルベルトがいきなりオスカーの地雷を盛大に踏み抜いたのかがわからない。
わからないが、しかし、状況は大変剣呑であるということだけはわかったレオは、内心で盛大に絶叫した。
オスカーは何も言わず、ただ眼光鋭く皇子を睨みつけている。
すっかり遣り取りに取り残されているレオは対応に悩んでいたが、しかしそこで皇子が思わぬ行動に出た。
「……ならば仕方ありません」
不意に、自らの輝ける金髪を、さっと掻きあげてみせたのである。
「な……――っ!?」
ぎょっとしたのはオスカー、いや、レオも同様だった。
なぜならば、皇子がその眩い金髪をなびかせた瞬間、カッと、まるで太陽が落ちてきたかのような閃光が辺りに広がったからである――!
「く……っ、眩しい……!」
恐らく、眩しいという状況は、オスカーにとって最も禁忌に近い状況である。彼は庇うように頭を抱えると、がくっとその場に膝をついた。
「オ、オスカー先輩!? え、ちょっと大丈夫っすか!? 先輩!」
レオは慌ててオスカーのもとに近寄り、蹲る彼の肩を揺さぶった。
が、そんなレオに、皇子はその塑像のように整った顔のまま「よすんだ、レオノーラ。彼に触れては君が危ない」と冷たく言い放つ。
レオノーラ? と咄嗟に自身の体を見下ろしてみれば、自分はここ数カ月ですっかりなじんできた少女の体をしている。
(うげえ、夢の中までこの体なんかよ)
そう、この突飛極まりない状況が、夢の中だということはレオも薄々察していた。
だが、夢の中でまで自分が少女の体をしているというのはなんだか腹立たしい。せめてもの救いは、暴言封印の魔術だけは解けているということくらいだろうか。
がしかし、夢の中とはいえ、頭を押さえて苦悶の表情を浮かべている先輩をそのままにはしておけず――なにせ彼には、今日も奢ってもらったばかりだ――レオはひとまず自分の状況はさて置き、オスカーの救助に専念することにした。
「オスカー先輩、しっかりしてください! 頭が痛いんですか!?」
「く……、頭皮が、焼けるようだ……。いっそ、これを、外してしまいたいくらいだ……!」
そう言って彼が押さえたのは、自らの頭髪である。
彼は両手に髪を握り込むようにしてそれを引っ張ろうとしたが、レオは咄嗟にその手を掴んで叫んだ。
「だめだ!」
きっと、ソレを外した先には、新しいオスカーが出現してしまう。
いや、オスカーならば恐らくどんな髪型でもかっこいいのだとは思うのだが、本人が判断能力を失うほど追い詰められた状況で他人がそれを見てしまうというのは、少々申し訳ない気がしたレオだった。
「だが……。奴の魔力で焼かれては、もはや新たな生命が茂る余地はない。俺に出来るのは、せいぜい風通しをよくすることくらいだ……」
「そんな、オスカー先輩……!」
やはり夢の中だからなのだろうか、冷静に考えれば因果関係がさっぱりわからない話なのだが、なぜかレオは、オスカーの悲壮な言葉に胸が張り裂けそうなほどの衝撃を覚えた。
レオはその衝撃を怒りに昇華させ、きっと皇子を睨みつけた。
「アルベルト皇子……あんた、ひでえよ! せっかくの魔力を、そんなことに使うのかよ!」
手負いの獣のように、悲痛な声でレオが叫んだのと同時に、崖に煽られた風がごおっと音を立てて吹き渡る。
その時背後で何かが吹き飛んだ気配がしたように思ったレオは、視線を前方に固定したまま、慌てて自らがまとっていた夜着のカーディガンをオスカーの頭に掛け、ぎゅっとそれを両腕で抱きしめた。
睨みつけられた格好の皇子は、しかし何も言わない。
彼はその精霊のような美貌でただじっと、オスカーを守るように跪くレオのことを見つめていた。
ややあって、彼はふっと自嘲的な笑みを浮かべる。
それは、普段の彼からは考えられないような、ひどく昏く――哀しみに満ちた表情だった。
「魔力など。奇跡だなんだと持て囃されてはいるが、つまるところ龍の呪い――全てを蹴散らすための禍々しい力に過ぎない」
「毛散らす、だって……?」
あんまりな言い草を呆然と反芻しながら、レオはふと眉を寄せた。
(皇子――?)
なんだかいつもと様子が違う。
確かに皇子は、レオとカー様を引き裂かんとする悪の皇子・悪ベルトだが、一方的に相手を攻撃したり、あんな昏い笑みを浮かべるような人物ではなかったはずだ。
特にオスカーとは最近とみに仲が良く、二人して真剣に今後の世の中の展望を語りあったりもしていたのに。
「皇子……」
それに最初こそ、レオのことを恫喝してきたり、金貨をぶら下げて取りあげたりしてきた彼だったが、最近では常に礼儀正しい距離を取って話しかけ、よく花や小菓子だって恵んでくれるようになった。
レオだって、最近は彼のことを本当はいい奴じゃないかと思い掛けていたのだ。
「あんた、一体……」
しかし、レオの呟きは、ある人物の登場によって遮られた。
「オスカー! 大丈夫か!」
「その声は……兄貴!?」
これまた突然の、ベルンシュタイン家長男フランツの参上である。
声で正体を判別したのか、オスカーはカーディガンの下からくぐもった声を上げた。
「ふん、オスカー、大層な姿だな」
彼は口ではそんな嫌味を言いつつも、皇子にきっと鋭い一瞥をくれてから、素早く弟の下に駆け寄ってきた。
「さあ、顔を上げるんだオスカー。年下の女の子に庇ってもらうなど、我が家の名折れだぞ」
「あ、ああ……だが……」
「大丈夫だ」
フランツはふっと笑みを浮かべると、おもむろに、自らの豊かな栗色の髪に手を差し入れた。
「温情と施しは目上の者の義務だからな」
俺の髪を分けてやるよ――
フランツがそう告げた瞬間、ぱあっと鋭い光が辺りに満ち、次の瞬間、彼は中央だけに頭髪を残した、モヒカンのような髪型になっていた。
「ぐ……っ」
しかし、レーナの言うところの、命そのものという髪を譲渡したのがいけなかったのか、フランツは途端にその場にがくりと膝をついた。
「兄貴……!? 兄貴……!」
尋常ならざる事態に、己に掛けられていたカーディガンをがばりと跳ねのけて、オスカーがフランツの肩を掴む。
ちなみに、オスカーは蹲っていた間に例のブツをどうにか再装着したのか、一見した限りでは変わらぬ黒髪のふさふさであった。
しかしフランツは、息も絶え絶えといった様子である。よろりと力無く腕を伸ばし、焦点の合っていない瞳で弟の姿を探した。
「……ふん、これ、しきのことで、慌てるなんて、情けねえな……」
「兄貴!」
一方オスカーは鬼気迫った表情である。男らしく整った顔を紅潮させて、「もう喋るな!」と兄の腕を取った。
「すぐに実家に連絡を取る。一緒に医魔術師の元に通おう。だから……!」
「いいや……。いいか、オスカー、よく聞け」
フランツは、その貧相な相貌からは想像できないほどの迫力を滲ませ、力強く言葉を紡いだ。
「陣が広まれば、この国の全てが変わる。陣を魔術布に縫い止めるんだ。だが、濫用と悪用、そして価格の暴落を防ぐために、魔術布は個別に追跡され、管理されるよう工夫を施さねばならない」
「兄貴! そんなことを話してる場合じゃねえだろ! 頼むから、もう喋らないでくれ!」
「トレーサビリティは商売の基本……。いいか、オスカー。個体識別管理だ。魔術布には魔力の籠った記号を記して、それで……」
だがそこでいよいよ体力が尽きたらしく、フランツは「ぐう……っ」と苦悶の表情を浮かべた。
「兄貴!」
「縞状記号、と……名付け……」
よろりと伸びた腕は、最後に力無くオスカーの髪を撫で、ぱたりと地に落ちる。
「兄貴ィイイイイイ!」
周囲に、獣の慟哭のような、オスカーの悲痛な叫びが響き渡った。
「フランツさん……! フランツさん……!」
レオももはや涙目である。心の友にして尊敬すべき師匠、フランツが、全てを毛散らす恐ろしき魔力のもとに倒れてしまった。
レオはしばらくオスカーと一緒にフランツの体を揺さぶっていたが、やがて我に返るとはっと顔を上げた。
(何をやってるんだ。泣いても叫んでも、フランツさんが報われる訳じゃねえ。俺が今すべきこと――それは、オスカー先輩に持てる全ての髪を譲って、フランツさんの遺志を全うすることだ)
いや違う。人道的に今すべきことは、まだ息のあるフランツを死人扱いせずにさっさと救助することである。
しかし、すっかり悲劇のシチュエーションに呑まれたレオは、おもむろに立ち上がると、自らの黒髪をがしっと掴んだ。
長く、大量の、黒髪。
(そういうことか――)
レオは、夢の中でまでこの姿をしていた理由がようやくわかった気がした。
これだけの量があれば、オスカーがどんな状況であっても絶対に助けられる。
その事実に体中の血液が逆流する程の歓喜と勇気を覚え、レオは叫んだ。
「オスカー先輩! 俺の髪も持っていってくれ! これがあれば、たとえつるっパゲでも縞模様状に……いや、M字くらいには持ち直せるはずだ!」
「レオノーラ!?」
オスカーがぎょっとしたように振り返る。
レオの意図を悟ったらしい彼は、「やめろ!」と長い腕を伸ばしてきた。
だが、そこで止めては男ではない。レオはにっと不敵な笑みを浮かべ、
「持ってけ泥棒!」
ぐっと艶やかな黒髪を引っ張った。
現実世界では到底あり得ないことだが、引っ張るだけでその黒髪は、ざくっと切れそうな手ごたえがしたのである。
――パアアアアアアッ!
不思議なことに、レオが肩の辺りで髪をねじ切った瞬間、先程のアルベルトが放った数倍の強さの光が辺りに広がった。
曇天だったはずの空は、一瞬昼のような明るさとなり、そしてまた元に戻った。
「く……!」
強烈な閃光から誰もが咄嗟に顔を背ける中、苦悶の唸り声を上げたのは、なんとアルベルトである。
彼は、先程のフランツのようにがくりとその場に膝を付くと、胸を押さえて呻吟の声を上げた。
「ぐ……、……っ」
そうして、地面に額を擦りつけるようにしてひとしきり苦しむと、やがて彼はゆっくりと顔を上げた。
「……僕は、一体、何を……」
困惑を湛えて周囲を見回す、その瞳は空色。今のこの曇天のような暗い色ではなく、どこまでも澄んだ、知性と慈愛を感じさせる色である。
彼は蹲るフランツの姿を認めると、さっとその秀麗な顔を青褪めさせた。
「なんということだ……!」
どうやら彼は、その一瞥だけでおおよその状況を悟ったらしい。
「アルベルト皇子……」
いつもの彼に戻ったようであることを察したレオが、そう呼び掛けると、彼は厳しい表情のまま頷いた。
「僕は大変なことをしてしまったようだ。こんなことで許されるとは思わないが、僕にも、オスカー先輩と、そして彼の兄君の元の姿を取り戻す手伝いをさせてくれないか」
「あ、はい……」
突如として王者の威厳を漂わせ出した彼の、その気迫に呑まれたレオは、言葉少なに頷いた。
オスカーもフランツの肩に手を掛けたまま、息を飲んで皇子を見つめている。
「皇族の魔力を以ってすれば、どのように荒れた大地にでも生命を根付かせることが可能だ」
どうやら魔力というのは、毛散らすだけでなく、植えたり育てたりすることもできる力であるらしい。さすが掟破りだ。
アルベルトは、端整な容貌に凛々しい表情を浮かべ、厳粛に呪文を唱えた。
「芽吹け!」
――カッ……!
その瞬間、彼らがいた場所に一陣の風が吹き渡り、再度太陽と見紛うばかりの光が辺りに炸裂する。
風と光が収まった瞬間、レオは全てが解決されたのを感じ取った。
「アルベルト皇子……」
オスカーがぽつりと呟く。
僅かに残った風が、そよ、と彼の髪の一部をなびかせた。
実に自然なフォルムだった。
(ん? いやいや待てよ、こっちは例のブツの方のはずだから、実際どうなったかは、それを外してみないことにはわかんねえよな?)
レオはふと、当然のことに思い至り、ことんと首を傾げる。
目の前では、地面に蹲ったままだったオスカーに、アルベルトが詫びながら手を差し伸べ、すっかり髪の全量が戻ったフランツが意識を取り戻し、と、なんだか感動的な光景が繰り広げられているが、それが視界に入らなくなる程度には、気に掛かる懸案事項だった。
(俺の髪は相変わらず短いまんまだし、髪が全ての持ち主にそれぞれ戻ったわけじゃねえんだよな? ってことは、俺がオスカー先輩にあげた髪は、どこに行ったんだ?)
と、ぎこちなく起き上がったフランツの髪を見て、レオはぎょっと目を見開く。
――栗色だったはずの彼の髪は、一部金髪混じりになっていた。
「はあああああああ!?」
おぞましい想像が、一瞬で脳裏を駆け巡る。
フランツの髪は栗色。レオの髪は黒。皇子の髪は金色。
皇子の魔力が、単に金髪を追加で移植するだけのものだったとしたら、そして、オスカーが三人からの髪全てを持っている状態だったとしたら、
いったい、ブツの下はどんなことになっているのだろう。
「あ、あのあの、あの、オスカー先輩、ちょ、ちょっと、そのブツを……」
盛大にどもりながら、レオはおろおろとオスカーの黒髪を指差す。
「なんだ、どうした?」
オスカーは、様子のおかしい少女に怪訝な眼差しを向け、しかしその指されたものを理解すると、「ああ」と声を上げた。
「気になるか?」
そうして、まるで零れた前髪を掻きあげるような、自然な仕草で――
***
カイは、内扉の向こうから、主人が悲鳴を上げるのを聞きつけ、ぱっと目を覚ました。
侍従用の簡素な寝台から勢いよく身を起こし、素早く時刻を確認する。
明け方、いまだ鶏も鳴かぬ時分。
しかし、聞くだけで胸が張り裂けそうになる悲痛な声を思い出し、彼は取る物も取りあえず寝室に向かった。
「レオノーラ様! レオノーラ様! いかがなさいました!?」
開放的な性格の彼の主人は、寝室の扉に鍵を掛けることなどしない。
その分逆に、カイは常に彼女のプライバシーを損ねないよう細心の注意を払っていたが、今ばかりは緊急事態だとして、許可なくその内扉を開けた。
「あ……ああ……」
果たして彼の大切な主人は、その大きな紫水晶の瞳を見開き、薄暗い部屋にあってなお蒼白とわかる顔色で、ぎゅっと布団を握り締めて震えていた。
(もしや、また悪夢に……?)
再召喚の後、主人が毎日のように悪夢に飛び起きていた苦い記憶が、この時もまたカイの脳裏をよぎった。
「レオノーラ様、どうされたのですか!」
慌てて駆け寄り、震えている手を取ると、幼い主人ははっと我に返ったように顔を上げ、やがて、
「……夢……」
ぽつんと、小さく呟いた。
その言葉で、やはり彼女は悪夢に魘されていたのだとカイは確信する。
男が怖いという主人を怯えさせないよう、そっと適切な距離を取りながら、彼は努めて穏やかな声で話しかけた。
「悪い夢をご覧になられたのですね、レオノーラ様。ですが、もう大丈夫。夢は夢です。あなた様のお傍には、こうして私も付いております」
「夢は、夢……」
「はい。悪い夢は人に話すと福に転じるとも言います。よければこのカイに、悪夢の内容をお話しになってはみませんか?」
夢の内容を聞き出すのは、カウンセリングであり、同時に彼女を追い詰めたという卑劣漢の手掛かりを少しでも掴むためだ。
しかし、彼女は難しい表情でじっと虚空を見つめると、ややあってから、
「いいえ……。忘れる、しまいました……」
残念そうに呟いた。
起きた途端に、砂が手から零れ落ちるように忘れてしまう。それが夢というものである。
「そうですか……」
「オスカー先輩、危機一髪、それはよく、覚えています……」
「ベルンシュタイン様に危機が迫る夢だったのですね」
記憶を手繰るように、途切れ途切れに話す少女に、カイは真剣な面持ちで相槌を打った。
なにせ真実を見通すハーケンベルグの瞳を持つ主人である。もしかしたら、本当に彼に何か降りかかることを――または彼女がそれに巻き込まれることを、暗示しているのかもしれない。
そう思うと、カイはそれだけで心臓が冷たい手で撫でられたような不安を覚えた。
「皇子が、毛散らして……」
「そうなのですか」
だが、幸いにも、敵を蹴散らし彼女を救う皇子も登場していたようだ。
夢の中で彼女の騎士として現れるのが、自分ではなく皇子であることに、カイは少々の悔しさを覚えたが、それを従者の矜持のもとに押し殺し、にっこりと笑みを浮かべた。
「アルベルト皇子殿下が、レオノーラ様とベルンシュタイン様を救ってくださったのですね」
しかし、その言葉に少女はきょとんと首を傾げた。
「え? 救ったのは、フランツさん、です。……いえ。だった、ような」
フランツ。
その名前に、無意識にカイの眉が寄る。
ベルンシュタイン邸に招待されたとき、大切な主人を思うさま詰り、小銀貨を投げて寄越すような侮辱を働いた彼のことを、カイは許してはいなかった。
そういえば、あの厚顔な男からは、その後何度も熱烈な手紙が送られてきている。
やれ陣の開発がどうだとか、やれ名称決定会議に参加してみないかとか、市民を想い陣の普及を願う主人の興味分野をちらつかせているようだが、カイからしてみれば何を図々しいと思うばかりだ。
――カイは、彼の想像するよりずっと誠実に、フランツが仕事に取り組んでいることを知らなかった。
しかし、悪意であろうと下心であろうと、人から向けられる感情を全て厚意として受け止めてしまう善良な主人は、フランツからの手紙にいつも丁寧に目を通し、楽しそうに返事を書いている。それがまた、カイの焦燥を掻き立てるのだが。
「そういえば、名称決定会議、もうすぐでした」
フランツの話で思い出したのか、主人がぽつりと呟く。
なんでも、陣を縫い止める布を識別し管理する手法の名称を決める会議を開くそうで、小難しい名前ではなく、女子供でも口に馴染む名前を検討したいとのことで、彼女も参加を誘われているのであった。
「バーコード……」
「え?」
主人がぼそっと呟いた言葉は、小さすぎて聞こえなかった。
が、カイが慌てて聞き返すと、少女は「なんでも、ないです」と首を振り、ふあ、と小さく欠伸を漏らした。
「変な時間、起こしました。ごめんなさい。私、寝ます。カイも、寝ましょう」
震えるほどの悪夢に飛び起きたというのに、彼女は起こしてしまった従者のことまで心配してくれるらしい。
その相変わらずの優しさに深く感じ入り、カイは、「ありがとうございます」と深く首を垂れた。
そうこうしている内に、寝付きの良い主人はふにゃふにゃ言って、再び眠りの世界へと落ちていく。
その寝顔が安らかであることを確認し、カイはほっと胸を撫で下ろしてから、寝室を辞した。
後日、会議での少女の発案を受け。
陣を描いた貴重な魔術布を管理するために、魔力を込めた縞模様状の識別子が織りこまれるようになるのは、――もう少し先のお話。
というわけで冒頭の寝言は、「あんた、ひでえよ!」の略なのでした。
ハッピーエイプリルフール!
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最終掲載日:2016/03/29 00:00
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平凡な若手商社員である一宮信吾二十五歳は、明日も仕事だと思いながらベッドに入る。だが、目が覚めるとそこは自宅マンションの寝室ではなくて……。僻地に領地を持つ貧乏//
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最終掲載日:2016/03/20 14:35
異世界食堂
しばらく不定期連載にします。活動自体は続ける予定です。
洋食のねこや。
オフィス街に程近いちんけな商店街の一角にある、雑居ビルの地下1階。
午前11時から15//
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最終掲載日:2015/08/15 07:49
賢者の孫
あらゆる魔法を極め、幾度も人類を災禍から救い、世界中から『賢者』と呼ばれる老人に拾われた、前世の記憶を持つ少年シン。
世俗を離れ隠居生活を送っていた賢者に孫//
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最終掲載日:2016/03/24 01:31
リビティウム皇国のブタクサ姫
リビティウム皇国のオーランシュ辺境伯にはシルティアーナ姫という、それはそれは……醜く性格の悪いお姫様がいました。『リビティウム皇国のブタクサ姫』と嘲笑される彼女//
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最終掲載日:2016/03/11 22:00
公爵令嬢の嗜み
公爵令嬢に転生したものの、記憶を取り戻した時には既にエンディングを迎えてしまっていた…。私は婚約を破棄され、設定通りであれば教会に幽閉コース。私の明るい未来はど//
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最終掲載日:2016/03/13 19:34