祝言
白い被毛に指を突っ込み、畳の上に胡坐をかいたグレートピレニーズが頭を掻く。
どこもかしこも造りが大きい、どっしりとした大兵肥満の若者である。
ランニングシャツから伸びた逞しい両腕は、肩から指先に至るまであちこちで、岩場に跳ねた白波のように毛が跳ねており、
履いたハーフパンツは特注サイズでありながら太腿がパンパン。靴下も履いていないラフな格好だが、心身ともに着飾らない
自然体が根付いているこの巨漢には、それが良く似合っている。
体は小山のように大きいが、ひとのよさそうな愛嬌のある顔立ちで、威圧感はなかった。
名は暮戸力丸。相撲取り、と素性を聞けば誰でも納得する、逞しい巨漢である。
座した八畳の和室は、左右の二面がツヤツヤの木柱が顔を出す白い真壁。廊下を挟んで庭を望む、出入口でもある一辺が雪
見障子になっている。部屋の奥にあたる面は、日の出富士が描かれた襖の押入れ。脇に位置する床の間には素焼きの瓶に挿し
た梅の枝と、「非常口」と記されたやたら達筆な掛軸。捲ると実際に抜け道がある。
呉服屋黒田淵の母屋にあるそこで、白い巨漢はふたりの古馴染みと向き合っていた。
クレドのやや右前方には、シャキッと背筋を伸ばして姿勢よく正座した、黒い柴犬。
少し背が低めで、線が細く、ハイティーンと間違えられる童顔ながら、鼻筋通った上品な顔立ち。目の上にはポンポンと、
丸い白がアクセントになっていた。
身に着けた燕尾服は、毛色とは少し暗さが異なる青みがかった黒。その生地は、下面を上げられた雪見障子から入る午後の
陽で、艶やかに光っている。オーダー品なのだろう。柴犬の細身にしっかり馴染んだシルエットを形成していた。
柴犬の名は土黒風音。先日までドイツに留学していたピアニストであり、クレドの幼馴染。
緊張の面持ちで正座するヒジクロの横には、ずんぐり幅のある黒豚が胡坐をかいている。
こちらが身に着けているのは紋付の羽織袴。灰色の袴は太めの縞。本人も長着も羽織も黒いので、真っ白な足袋と両胸の家
紋、平打ち紐が良く映える。成人の折にあつらえた品だが、体型の変化もなく、卸した当日と変わらない着心地である。
目つき顔つき共に厳めしく、恰幅も肉付きも良いので帯が下腹を持ち上げており、羽織袴でどっかと座った姿が実に様になっ
た偉丈夫振り。とても二十代前半とは思えない、老舗の跡取りに相応しい堂々たる貫録があった。
黒豚の名は黒田淵鉄男。クレドとヒジクロの一つ上で、ふたりからすれば幼馴染の兄貴分。幼少時から相撲で土と馴染んで
きたが、今は呉服屋の若旦那である。
三名の前には、半月型の盆に乗った、焦げで虎縞模様をつけた黄色いどらやきと、竹楊枝が添えられた栗羊羹と、湯呑に入っ
た熱い煎茶。
沈黙が落ちた和室で、誰もそれらに手を付けないまま、ゆっくりと時間が過ぎる。
「四月一日に身内で祝言を挙げる。友人代表って事で、お前とジュウタロウにも出て貰いたい」
静寂を破り、表情一つ変える事なく告げたクロダブチ。クレドは「四月か~…」と頭を掻く。
「四月は悪いか」
「悪くねーけど急過ぎだぜぃ。何で一日なんだ?」
「わたぬき、って言ってな。呉服屋じゃあ冬物から春物に衣類が変わる節目扱いで、特別な日なんだよ」
「節目かー。つまり験担ぎって訳だな」
「驚かないんだな?お前」
少し意外そうに眉を上げ、腕を組んだクロダブチに「驚いてるぜぃ?」とクレドは応じる。
「驚き過ぎて、どんな風に驚けばいーか判んなくなっちまった」
「そういうモンかもな」
クロダブチは湯呑を掴むと、煎茶を啜って口を湿らせた。
一方で、ヒジクロは相変わらず一言も発さず、チラチラと隣のクロダブチ、そして向かいのクレドを窺っている。
「まぁ、なんつーか…。おめっとさん?で良いんだよな?」
「だろうな」
混乱は収まらず実感は湧かず、戸惑い気味に祝福するクレドに、クロダブチは他人事のように頷いた。その顔からは照れも
喜びも見て取れない。
「あ、そうだクロ?」
「うん?」
突然話を振られたヒジクロは、「ドイツの彼氏、どーすんだ?」とクレドに尋ねられると…。
「ああ。あれはウソ」
「ウソかー」
「いつも演奏を聴きに来てくれてるお客さん」
「客かー」
「あれ?ビックリしないんだね。もしかしてとっくにバレてた?」
「ビックリしてるぜぃ?でも、先にビックリし過ぎてハーフビックリだ」
困り顔で胸元に手を突っ込み、ワシワシ胸を掻くクレド。普段ならテンションが高くなるのだろうが、強烈過ぎる不意打ち
の衝撃は根強く、驚くのも喜ぶのも祝うのも中途半端である。
「てっつぁんは知ってたのか?」
「とっくにな」
「いつからだよ?」
「お前、卒業式の時に俺の第二ボタンの行方、気にしてたな?」
「あ~!だっただった!懐かしーなー!」
「あれは、あっちじゃそういう風習がなくて、記念のボタンも手に入らないってボヤいてたクロに郵送するためだ」
「だはーっ!?とっくじゃん!?」
「そう言った」
(…参ったぜぃ。もうどんな顔すりゃ良いんだかわかんねーな…。ま、てっつぁんらしいって言やぁらしいけど…。だはは…)
鮮やかに決められて度肝を抜かれてしまった今の状況も含め、掛け手の名手であるこの兄貴分らしい不意打ちだなぁと、ク
レドは苦笑いした。
「判った、顔出さして貰うぜぃ。で、ジューさんは何て言ってたんだ?祝言出るって?」
「ジュウタロウにはこの後、話をするつもりだ」
「うぇ?オレのが先だったのかー」
それなら一緒に呼べばよかったのでは?と思ったクレドに、クロダブチはしれっと言う。
「お前はクロの元彼だからな」
「だは…!」
「………」
軽く仰け反ってうなじを掻くクレドと、モジモジと俯くヒジクロ。
「もう七年も前の話だぜぃ?」
「たったの七年前だ」
「あの時、ちゃんと話もして別れるって決めたんだ。そっから後はクロはクロのモンだし、オレに義理立てする事なんかねー
じゃん?」
今更改まって気を遣う間柄でもない、と述べるクレドだったが、クロダブチはフンと鼻を鳴らし、やや身を乗り出して斜に
構え、姿勢を崩した。
「なに言ってやがる、逆だこんダラァ。他でもねぇ弟分に義理も通せねぇようじゃあ、こっから先、兄貴面なんぞできねぇだ
ろうが?」
「言い方ずりぃなぁてっつぁん…!」
困っているような苦笑いで、クレドは尾を振りながら破顔した。
「てっつぁんの親御さん達と、クロのおじさんとおばさんは?祝言決まってるって事は、どっちも賛成してくれたのか?」
「まあね」
「まあな」
姿勢を正したままの黒柴と、姿勢を戻した黒豚は同時に顎を引く。
「ボクの方は二つ返事だった。テツさんなら安心して任せられるって」
それは、一人息子を男に嫁がせる親という事を考えれば、あまりにもあっさりし過ぎた物言いだったが…。
「そっかー!良かったなぁクロ!」
モメなかったという事実に安堵して、クレドは喜ぶ。ツッコミ不在である。
「こっちは、「呉服とピアノの融合」を営業方針に打ち出して説得した」
「ゴフクと…ピアノの…ユーゴー…?だは?なんだソレ?」
「最近流行りのコラボレーションだ」
別に最近流行り始めた事ではないのだが、「おお!コラボか!」と納得するクレド。
「例えば…、クロがコンサートで、羽織袴でピアノを弾く」
「スポーツ選手のユニフォームに、スポンサーのマークとかが入るみたいに、お客さんに着物でアピールするんだ」
「つまり、大相撲で言う懸賞旗みてぇなモンだな」
違うだろう?とは突っ込まず、「だはっ!いい宣伝になるじゃん!」とバフバフ手を叩いて喜ぶクレド。
「それと、ピアノをイメージした品も売り出す」
「鍵盤柄のちゃんちゃんことか、音符柄の手ぬぐいとか、いろいろ考えてるんだ」
それ逆じゃね?とは突っ込まず、「いいじゃんソレ!ぜってぇ売れる!」と身を乗り出すクレド。
「それから、呉服屋をイメージしたピアノ曲をクロが作る」
「えへへ…!」
何処へ向かって何処まで行こうと言うのだ?とは問わず、
「マジかー!来てんなー未来!いつできんだ!?楽しみだなー!」
と、大いに盛り上がるクレド。
「他にもいろいろ提案したが、まぁとにかく、ウチの親も乗り気になった」
驚異のツッコミ不在は祝言までの進行でも同様だったようである。
「ん…?」
クロダブチは不意に眉根を寄せて袂を探り、スマートフォンを取り出すと、表示された名前を確認して腰を上げた。
「ジュウタロウからだ。丁度いい、この後に会う段取りをつけてくる」
クロダブチがのっそり席を外し、ふたりきりになると…。
「グリカラさんにも、報告に行かなきゃ」
ヒジクロは口元に薄く、照れから来る微笑を浮かべてそう言った。
「じゃあオレはそれまで黙っとくぜぃ。すげぇビックリ…は、しねぇかな、あのひとの場合…。…ん?待てよ?もしかしたら
もう知ってて、わざとオレに黙ってた…?」
「うん?」
「いや、何でもねー!」
パタパタと手を振り、クレドは話題を変える。
「いつからてっつぁんと付き合ってたんだ?」
「え?う~ん…」
クレドが小声で尋ね、ヒジクロは考え込んだ。
「どこからが付き合いになるのか、ちょっと曖昧なんだけど。テツさんが陽明相撲部を引退した、高三の夏からになるのかな」
大学へは進学せず、実家の呉服屋を手伝う事にしていたクロダブチは、部活引退後は受験勉強も就職活動もなく、手が空い
た。それから頻繁にやりとりをするようになったのだが…。
「国際電話じゃお金かかるでしょ?それでテツさん、ボクとやり取りする為にパソコン勉強したんだ」
「急に詳しくなったの、そのせいだったのかー…。あの頃はシステム仙人になる気なのかと思ってたぜぃ」
しかし双方の時差は8時間。平日ではクロダブチが帰宅する頃にクロが登校するため、やりとりはほぼ休日限定だった。そ
の時差からくる不自由さが、会おうにもままならない距離が、逆に…。
「くっつけたんだねぇ…」
「そっか。判るよーな判んねーよーな…」
遠い目で振り返るクロと、首を傾げながら頷く器用なクレド。
「ケッコンはいつ決めたんだ?」
「半年くらい前」
「そっかー。って…、半年って結構最近じゃん?」
「うん」
「どっちからプロポーズしたんだ?クロか?」
「テツさん」
「マジかー!そん時てっつぁん、何て言ったんだ?」
あのクロダブチがどういう状況で何と言って口説いたのか、興味津々で訊ねたクレドは…。
「「嫁に来い」って。メールで一言…」
「…らしいぜぃ…。ってか、らし過ぎだぜぃてっつぁん…」
変に感心してしまうクレド。
そのプロポーズ後、ドイツでピアニストとしてやっていくつもりだったヒジクロは進路変更。音大を卒業するこの春で帰国
する事に決めたのだという。
「正直、迷ったし、いろいろ考えたんだけど…、昔の事を思い出しながら考えを整理してたらね、こっちでやっていくのもい
いなぁ、って…。ボクにとってこっちは、生まれた町よりも「故郷」なんだなぁって、思った」
「そっかー…」
クレドは目を細めて微笑んだ。
ヒジクロにはあちらで恋人が居ると思っていた。クロダブチには浮いた話もなかった。だからふたりがくっつく事など考え
もしなかった。
しかし、いざこうして祝言の話まで聞くと…、ああ、そうだなぁ。お似合いかもなぁ。…と違和感もなくすんなり思える。
考えてみれば、ヒジクロもクロダブチを慕っていたし、クロダブチもよく世話をやいていた。時々贔屓されているような気
持ちになって、やきもちを妬くほどに。
「…そういえば、あの勝負さー」
「勝負?」
「別れた時の、どっちが先に~…、っての」
「ああ、アレね」
「クロの勝ちだな」
「え?そうじゃないよ。ボクの方はウソの恋人だから…」
「だってオレ、祝言あげてねーもん」
「ゴール、ソコだったっけ?」
「まぁとにかく、おめっとさん!」
ニカッと笑ったクレドは、ヒジクロが「ありがとう」と恥ずかしそうに笑うと、湯呑を取ってズズッと茶を啜った。
煎茶はまだ充分熱いのに、どういうわけか、やけに渋かった。
店の小上がりに腰を据え、巨漢が二頭、向き合っている。
一方はクレドで、もう一方はグレートピレニーズに負けず劣らず大きな河馬。
本来は定休日にあたる今日、店内に他の客の姿はない。
「家内が気を利かせてくれた。帰りにでも一言、美味かったと言ってやってくれ」
蛍烏賊の酢味噌和えに、茹でズワイガニ、椎茸のバター焼き、ホウボウのあら汁。卓に乗った、必要以上には手をかけてい
ない旬の肴と珍しい一升瓶を眺め回しているクレドに、作務衣姿の河馬は言う。
「会津中将じゃん?懐かしーなー、どーしたんだコレ?」
「昼にアズマ君が訪ねてくれてな。土産にくれた」
「もしかしてって思ったら、やっぱアズマか。今こっち来てんの?」
「卒業旅行で、全国の知り合いのところを回っとるそうだ」
「てっつぁんちでトラ焼き出てきたの、それでかぁ…」
「リキマルにも会いたいと言っとった。明後日までこっちに居るらしい、明日あたり連絡が行くかもしれんな」
遠慮せず瓶の封を開けたクレドが一升瓶の口を向けると、「済まんね」と、河馬は目を細めてぐい飲みを差し出した。
河馬の名は蒲谷重太郎。クロダブチとは竹馬の友であり、クレドとヒジクロからすればもうひとりの兄貴分。特にクレドに
とっては、幼少期から追いかけ、結果として越えられないまま引退されてしまった、最強にして最高の、永遠の憧れ。
高校卒業後は調理学校に通い、今では実家であるこの店で、父と母と妻と共に、急に狭くなった調理場に立つ日々を送って
いる。
夢に手が届く寸前で、惜しまれつつも土俵を降りた判断が功を奏したようで、一度は壊れる寸前まで悪化した膝も、日常生
活に一切支障をきたさないほど回復している。頻繁には無理だが、古巣の石垣道場で子供達を指導する恩師を手伝ったり、ク
ロダブチやクレドと一、二番組み合うぐらいは問題ない。
「そら」と促され、酒を注ぎ返されながら、クレドは口を開いた。
「クロ、嬉しそうだったなー」
「そうだな」
一升瓶をゴトンと下ろし、カバヤは頷く。
「クロ、昔よりもっと綺麗になってたなー」
「そうだな」
ぐい飲みをかざして促し、カバヤはクレドと乾杯する。
「クロ、幸せだよなー」
「…そうだな」
一口で飲み干したカバヤが、ぐい飲みを卓に戻す。
「なのに…」
クレドが見下ろす、手に乗せたぐい飲みの中で、漣がいくつも重なり合う。
「なんでオレ、泣いてんだろなー…」
透明な滴が、酒の上に落ちて溶け込んだ。
「「女々しい」、って言うんだよなー、こういうの…」
クレドが漏らした言葉に返事をせず、カバヤは手酌で二杯目を注ぐ。
「辛いかね?」
「判んねー。でもたぶん、ちびっと辛いかも…」
ズビッと鼻をすすったクレドに、カバヤは問いを重ねる。
「寂しいかね?」
「たぶん。でも近くに居るから、寂しくねーはずなんだよな…」
チビリと酒を舐めたクレドに、カバヤはなおも問う。
「嬉しいかね?」
「そりゃあ間違いねーよ。相手はてっつぁんだ、安心だぜぃ」
「そうか。「安心」できたか」
「…「安心」…?」
自分の発言から単語を拾われたクレドは、カバヤから瓶の口を向けられ、涙杯をあおって飲み干した。
「…だな、「安心」は確かにしてんなー…。それも間違いねー」
「リキマル。その、全部が、だな…」
カバヤは弟分に酒を注いでやりながら、目を細めて微笑む。
「全部が全部「ほんとう」だ。他の誰かではないクロ君の事だ、君は当たり前に寂しいだろうし、辛いだろう。こういう事は
理屈じゃあない。終わった関係だと理詰めで整理できる事ではない。ひとの気持ちとはそういう物だろう」
酒をなみなみと注がれたぐい飲みの上で、ゆったりと揺れる波を見つめるクレドに、カバヤは続けた。
「だが、それでも君は安心して、嬉しいと感じる事ができた。それもきっと、君が培ってきた「度量」による物だよ」
「…「度量」…かぁ…」
「そうとも」
また一口で酒を飲み干して、カバヤは「飲もう」と、クレドにぐい飲みを突き出した。
「祝い酒だ。兄弟分達の前祝いに、今夜は潰れるまで飲もう」
「…おうよ!」
ニカッと笑ったクレドは、
「ここならきっと、カモガワ先生も見とらんだろう。泣きたかったら泣けばいい。だから…、祝言の時は、泣いてやるな」
杯から注ぎ口がずれ、カバヤの分厚い手に酒がパタタッとかかった。
兄貴分の言葉に手が震えて、零してしまったクレドは…、
「………」
口を真一文字に結んで、肩を震わせている。
「泣け。今はまだ、泣いていいさ」
カバヤはぐい飲みを引っ込め、一口に干して顔を壁に向けた。
じっと見ていては、弟分が泣くに泣けまいと…。
「おやすみなさい、テツさん」
裏庭に面した和室で、湯涼みしながら新聞を広げているクロダブチに、襖を開けて正座したヒジクロが就寝の挨拶をする。
傍らに盆に乗せた牛乳パックを置き、三月だというのに腰タオル一枚で涼んでいるクロダブチは、ヒジクロをちらりと一瞥し、
「ああ。おやすみ」
短く応じて再び新聞に目を落とした。
「………」
ヒジクロは静かに襖を閉めて、足を忍ばせるようにして廊下を引き返す。
ヒジクロの母はドイツ。父は北街道。長年過ごした地元とはいえ、ここにはヒジクロが住まう家が無い。そのため、帰国し
て以降は黒田淵家に住まわせて貰い、祝言前だが同居生活を始めている。
しかし…。
(テツさん…)
与えられている仮の居室に戻り、後ろ手に襖を閉めたヒジクロは、灯りもつけずにその姿勢で立ち尽くす。
充電器にセットした携帯と、ノートパソコンのランプ、目覚まし時計の文字盤が、暗い中にポツポツと浮かんでいる。カー
テンを閉めていない窓は通りに面していないので、街路灯などから直接光が入る事もなく、足元もよく見えない。
(テツさんの本心が…見えない…)
項垂れて、闇にも映える自分の白い足を見つめる。
嫁に望まれたあのメールのやりとり以降、ヒジクロはクロダブチから、甘い言葉の一つも囁かれた事が無い。
クロダブチはまるで帳簿を纏めている時のように淡々と事を進めていて、照れ笑いも見せなければ、怒ったふりで嬉しさを
隠す様子もない。
帰国してこの家を訪ねた時からそうだった。長旅を労ってはくれたが、ニコリともしなかった。そんな態度だったので、甘
えようにも気が引けた。
それから今日までがずっとそうである。一緒に居た頃の思い出話に花が咲く事もなく、それぞれの七年について話すでもな
く、祝言までの日取りや次第など、必要な打合せでなければ長々と言葉を交わす事もない。
(どこか、冷たく感じる…)
祝言に向かって滞りなく万事が進められてゆく中、ヒジクロは不安を消せない。
自分は、本当に好かれて望まれてここに居るのか?と…。
こちらに居たのは中学まで。その後の七年間は、手紙やメールなどでやり取りしていたものの、以前のように顔を合わせて、
一緒に遊んだり出掛けたりしていた訳ではない。
七年…。ひとが変わるには充分過ぎる時間が経った。隔たりができるには充分過ぎる時間が経った。自分も、クロダブチも、
昔のままではない。
嫁に来い。
あのメールが何を思って送られてきたのか、日が経つうちにさっぱり判らなくなってしまった。
横に手を伸ばし、手探りで灯りをつけ、眩しさに目を細めたヒジクロは、
「…もうちょっと、喜んでくれるかなぁって、思ってたんだけどな…」
小さく、寂しげに呟いた。
クロダブチとヒジクロの祝言は、黒田淵家の母屋、襖を取り払って繋いだ三間でおこなわれた。以前、クレドがクロダブチ
と変則相撲を取ったり、カバヤとヒジクロと四人で泊まったりした部屋である。
参加者は自前か、黒田淵家の用意した貸衣装による和装だが、クレドだけは趣が異なる。
着用しているのは、裾に白波が踊る青い法被。背中には、円の中に「力」をあしらった赤の染め抜き。祭りの衣装そのもの
だが、これがクレドにとっての正装…ハレ着である。
お神酒合わせに始まり、誓盃の三々九度、親子固めの杯と滞りなく進んだが、酒に弱いヒジクロは、この時点でもう胸がト
クトクし始めた。
赤い水引の輪を互いの指に結ぶ時には、指先が思うように働いてくれず、手間取ってしまった。
そこからは、カバヤの実家が用意した御膳で酒宴となった。
タラノメ、フキノトウ、ゼンマイ、茄子、南瓜、海老などの天ぷらと、白魚と玉ねぎのかき揚げ。鰻の白焼と肝吸い。筍、
人参、蒟蒻と牛蒡の煮物と牛たたき。帆立と鱈、春菊と榎茸などの寄せ鍋。そして目にも鮮やかで可愛らしい手毬寿司。丸ご
と一匹茹でズワイガニ。
豪勢な御膳に舌鼓を打ちながら、両家親族が親交を深め、主役のふたりに祝いを述べて酒を注ぐ。
律儀に全て飲もうとするヒジクロは、見兼ねたクロダブチに「無理しなくていい」と、横から囁かれたが、頷きながらも、
捨てるのは勿体ない、受けないのは失礼、と生真面目さを発揮して全部飲み干してしまう。
そこへ、番を待ってのっそりやって来たクレドが、どっかと腰を下ろした。
「改めて、おめっとさん!」
「ああ」
「ありがとう、リキマル」
表情を崩さないクロダブチと、微笑んだヒジクロが、口々に応じて酒を受ける。
クレドはふたりのやり取りで気付いたようで、クロダブチにはなみなみ注いだが、ヒジクロの杯には形ばかり、ちょろっと
垂らす。
「何だよてっつぁん、緊張してんのか?」
「かもな」
普段同様にそっけないクロダブチ。
「今日ぐれー笑ったらいいじゃん。ハレの日だぜぃ?」
「俺が笑ったら鬼どころか福も逃げるぞ?」
「だっはっはっはっ!」
巨体を揺すって笑うクレドは、ヒジクロの記憶の中のグレートピレニーズと、殆ど違わなかった。体はさらに大きくなった
し、逞しくもなったが、全体の印象も笑顔も子供の頃からちっとも変わっていない
先に祝いに来てくれたカバヤもそうだった。昔から落ち着いていて大人びていた事もあり、貫録は増したがそれほど変わっ
た気がしない。
(テツさんは、どうだったっけ…)
クレドに二杯目を注がれるクロダブチを横目で窺うが、こちらも変わっていないような気がする。ただ、昔はもっと気をか
けてくれた、ぶっきらぼうなようで優しかった、とも思う。
(それとも、変わったのはボクなのかな…?優しくして欲しいって、そういう願望で甘えが出てるのかな…?)
「………ロ?」
「………したんだ?クロ?」
(それとも、昔から本当はこうだったのかな…?)
「もしか………酔っ………?」
「…おい。だから言っ……」
(記憶が都合よく改竄されて、テツさんがすごく優しかったように、勝手に思ってるだけなのかな…?)
「クロ?ちょ、お前さん船漕い…」
「…ったく、こんダラァめ…」
(そういえば…、口調も違う…。ボクには…、昔みたいに、砕けた口調では話してくれない…)
遠く聞こえる笑い声。
実感のない祝いの席。
本当に、自分は帰って来たのか。
本当に、自分は求められたのか。
(ボクは…、テツさん…、ボクは…、ちゃんと望まれて、ここに居るの…?)
酒に揺られて溺れて沈み、物思いをそのまま抱えてたゆたうヒジクロは、遠のく意識と感覚が消える体が、まとめて浮かぶ
ような感覚に囚われ…。
開けた薄目に、丸く滲んだ光が飛び込む。
眩しさに一度目を瞑り、呻いて額に腕を乗せ、それからもう一度目を開くと、板張りの天井と、丸い蛍光管の光が見えた。
しばしぼんやりして、自分が布団に入っていない事に気付いて、それから…。
(あ…。祝言…?祝言は…えぇと…?)
途中から、記憶が全くない。
慌ててガバッと身を起こしたヒジクロは、
「目が醒めたか」
そこで初めて、自分の他にもひとが居た事に気付いた。
そこは、クロダブチがいつも湯涼みしている、濡れ縁のある裏庭に面した和室。ヒジクロの脇で、背を向ける格好で窓の外
を眺めていたのは、春の寝間着…濃紺の作務衣に着替えた黒豚。
その傍らには、半月型の盆に乗った四合瓶とお猪口。さらには肴の紅白蒲鉾。酒も蒲鉾も既にだいぶ減っていた。
「て、テツさん…」
声をかけたヒジクロは、窓の外の暗さに気付いて絶句する。
祝言は昼からだった。なのに、柱にかかった時計を見遣れば、時刻はもうじき午後十時。正装は解かれ、パジャマに着替え
させられている。
「ぼ、ボク…、途中で寝ちゃった…?」
さーっと青くなった黒柴に、黒豚は背を向けたまま「だから無理するなと言った」と応じて、お猪口を口元に運んだ。
「ごっ、ごめんなさい…」
耳を倒して項垂れるヒジクロ。
主役が酔い潰れ、途中退場。大失態の恥ずかしさに、血の気が引いたばかりの顔が火照った。
クロダブチは答えない。手酌で酒を注ぎ、チビリと啜る。
耳が痛くなるほどの静寂に、ヒジクロは微かな耳鳴りを聞く。
親は、親類は、クレドとカバヤはどう思ったろう?何より…。
(台無しにされて、テツさんはどう感じたろう…)
恐る恐る上目遣いで見遣ったヒジクロは、クロダブチが首を巡らせたので、慌てて視線を下げた。
目を合わせるのが、怖かった。
しかしクロダブチは時計を一瞥したきり、視線を庭に向け直す。
また、少しの間沈黙が降りて…。
「…まぁ、いい思い出になるんじゃねぇか?」
(…え?)
ヒジクロは耳を立て、顔を上げる。
「祝言なんて一回きりだ。そいつを失敗できんのも一回だけだ。ダメになって別れて、もう一回やらねぇ限りは。失敗も、な
かなか経験できる事じゃねぇ」
お猪口を傾け、空にして置いたクロダブチは、盆を押して前に出す。そして尻をずらして少し左に動き、肩越しに振り向い
てヒジクロを見遣ると、ポンポンと、畳を叩いて促した。
「おい。いつまでも手酌で飲ませんな」
あれ?と、ヒジクロは目を丸くした。
横に来い、と誘うクロダブチは、不機嫌そうな仏頂面だった。
そう。照れ隠しや笑い隠しで作る、昔から何度も見てきたあの顰めっ面…。口調も昔のように、少しがさつな砕けた物になっ
ている。
戸惑いながらも黒豚の横に這い進み、ちょこんと正座した黒柴は、お猪口を掴んだクロダブチに「ん」と鼻で催促されると、
慌てて四号瓶を取り、酌をする。
ヒジクロの目覚めを待っていたのだろう。見れば盆の上には箸がもう一組、お猪口も一つ余計に置いてある。
「あの…、テツさん…?」
「ん?」
のろのろ注がれる酒を見ながら、クロダブチは鼻で返事。
「怒ってないの…?」
「今は別に怒ってねぇ。忠告聞かねぇで潰れられた瞬間は、本気で「こんダラァ」思ったけどな」
「ご、ごめんなさい…!」
「だがまぁ、いい。酔い潰れるのは体質もある。うちの親戚連中は言ってたぜ、「可愛い嫁でよかったな」ってよ」
「は、恥ずかしい…」
瓶を抱くように引っ込めたヒジクロの隣で、クロダブチはクイッとお猪口を傾ける。
「やっぱり、注がれた方が美味ぇ」
「そう?」
「そうだ」
黒豚が少し横にずれて迎えたので、ふたりは窓の眺めを半分こする恰好。恥ずかしさに照れを被せた黒柴は、庭の祠…氏神
の住まいを見遣る。
「腹減ってねぇか?御膳もあんまり食ってなかったろ。蒲鉾食え」
「うん。ありがとう」
「足りねぇようなら、お前の御膳の残りを下げた分がある」
「うん…」
「酒は、今日はもう控えた方がいいだろうが…、せっかくだ、一献だけ付き合え」
「うん…」
ヒジクロが改めて酌をすると、瓶を取り上げたクロダブチは、黒柴のお猪口の底を浅く覆う分だけ酒を注ぎ、杯を掲げた。
「乾杯」
「乾杯…」
掲げあって盃を合わせ、片手でぐいっとお猪口を干す黒豚。チビリ、と舐める黒柴。
「あっちじゃ、飲む酒はワインだったか?」
「だいたいそう。あとビール」
「前に送って寄こした、黒猫のヤツな。甘さに慣れたら美味くなった」
「それ、もうちょっと早く言ってよ。「甘い」って一言のあと無反応だったから、嫌いになったとばかり…」
「クロは何が好きなんだ?」
「あまり飲めないけど、ワインかな?甘口の」
「送って寄こしたヤツみてぇなのか」
「うん」
「ウチにはビールと焼酎と日本酒しかねぇな。明日にでも、一緒に酒屋を覗きに行くか。好きなワイン教えろよ」
「うん…」
ヒジクロは、祝言前とは打って変わって口数が増えたクロダブチを横目で見遣る。
「テツさん、何だか急に態度が変わった気がする…」
「あん?」
眉根を寄せたクロダブチが顔を向けると、ヒジクロは見返して「だって…」と切り出した。
再会してからずっと、態度がそっけなく感じられていた事。
口ではっきり言ってもくれなかったので、不安を覚えた事。
本心が判らなくて、距離を感じて、混乱気味にもなった事。
自分が知っているクロダブチの態度に戻ったので、その安堵もあって立て続けに訴えるヒジクロに…。
「お前、自分が鉄の忍耐を持ってるって、自信はあるか?」
「…え?」
クロダブチは、答えになっているとも思えない事を言った。
「何があっても揺らがねぇ、鉄芯みてぇな意志の強さがあるって、言えるか?」
「いや、それは…」
戸惑うヒジクロに、クロダブチは続ける。「俺にはそこまでの自信はねぇ」と。
「むしろ、たいして我慢強い方じゃねぇと思ってる。すぐ怒るしな」
「えぇと…」
眉根を寄せて考え込むヒジクロ。もしかして自分はまだ酔っぱらっていて、それで話が理解できないのだろうか?と疑って
しまう。
「一回きりだから、ズル立ちなんざしたかねぇだろ」
「????????」
混乱するヒジクロに、クロダブチは不機嫌そうな顔でガシガシ頭を掻いた。
「待ったも取り直しもできねぇ、たった一回の立ち合いだ。だからしっかり始めてぇだろ」
不機嫌な声も、顔も、昔と同じ照れ隠し。
「祝言が終わるまでは、お前は俺のモンじゃねぇ。それまでは何もできねぇ。何せ俺は…、片方の弟分の昔の恋人を貰うんだ。
もう片方の弟分からは、これからの人生を貰うんだ。ケジメはしっかりつけなきゃならねぇ」
だが…、とクロダブチは言う。自制心を保つのも大変なのだ、と。
「祝言前に下手な事言ったら、うかつな真似したら、辛抱できなくなる気がした。それでベタベタしちまったら、リキマルが
どう思おうが俺自身は祝言に納得できねぇ。示しがつかねぇし、ケジメも付けられねぇ。だから…、今日までは、ってな…」
クロダブチはヒジクロをジロリと睨んだ。恥ずかしいのを我慢して説明しているのだ。判れ。…と。
「お…」
ヒジクロは、目を真ん丸にして…。
「お堅い…!お堅いにも程がある…!なにそれ!?ボクもリキマルも踏ん切りつけてるのに、テツさんだけ何でそんなケジメ
とか義理立てとかハードモードソロプレイしてるの!?いつの時代のひとなのテツさん!堅過ぎだし古過ぎだよ!」
耳を立て、尻尾を巻き上げ、声を大きくした。
「自覚してんだよ、そんな事は」
「なにそれバカみたい!」
「バカなのも自覚してんだよ。怒ったか?」
横目で窺い、お猪口を煽った黒豚に、「一瞬だけ」と応じた黒柴は、しかしすぐにため息をつく。
「でも、まぁ…、いいや。テツさんらしい理由だし、納得」
「ん」
空のお猪口を目の前に突き出され、酌を催促されたヒジクロは、「ちゃんと聞いてる?」と流石に鼻白んだが、諦めたよう
なため息を漏らし、四号瓶を取って酒を注ぐ。
「俺らしいか?」
酒で満たされたお猪口を顔の前に翳し、クロダブチはその向こうに庭を眺める。
「らし過ぎだよ」
応じるヒジクロも、まだほんの少し酒が残るお猪口を両手で胸に捧げ持ち、静けさに微睡む裏庭を見遣る。
「そうか」
「うん」
「そうか…」
「うん…」
「…そうか…」
「…うん…」
会話が進まなくなって、ヒジクロはお猪口を煽って空にし、盆に戻した。
その肩に…。
「あ」
黒柴の細い体が傾き、トフッと、黒豚にもたれかかる。
肩に腕を回し、抱き寄せたクロダブチの横顔を、ヒジクロは少しぼんやりしながら見た。
背は、昔と比べ随分伸びたと思う。それでもクロダブチとは差があるものの、子供のころと比べれば目線は近付いていた。
(あの頃は、本当に差があった…。リキマルとも、カバヤさんともそうだった。それは今でもそうだけど…、でも…)
あの頃も、今も、もっとも自分と目線が近かったのは、近づけてくれていたのは、この兄貴分かもしれない。今夜初めて、
そう思った。
その、近くなった目を合わせようとせず、庭を睨むように見ている黒豚の顔には、いつもと同じ不機嫌そうな表情。ただ、
普段よりも固く見えるのは、きっと…。
「テツさん、酔ってる?」
「酔ってる」
「腕、あったかい…」
「酔ってるからな」
「嬉しい?」
「まあな」
「嬉しいなら笑えばいいのに」
「俺が笑っちゃ福まで逃げる」
「鬼も福も逃げたとしても、嫁は逃げないよ」
「………」
クロダブチは無言のまま、ヒジクロをギュッと、より強く抱き寄せた。
嬉しい事を言ってくれる。
口では何も言ってくれない、照れ屋の気難し屋は、その腕でヒジクロにそう言っていた。
「「あの日」以来…だね」
「ん?」
「こうやって抱かれるのが。ボクがテツさんに「叱って」って押し掛けた、あの日以来…」
「………………そんな事、あったか?」
「忘れちゃったの?」
「ああ」
「じゃあ説明する」
「…いい…」
「あの時、テツさんは叱ってって言ったボクを…」
「いいって」
「「お断りだ」な~んて言いながら、結局叱ってくれて…」
「いいって言ってんだろ」
「その後には、お風呂で慰めてく…」
「あー!判った判った!覚えてる!」
誤魔化そうとしたクロダブチだったが、観念して遮った。
「ウソツキ」
「ふん」
ニンマリ笑うヒジクロ。鼻を鳴らすクロダブチ。
「テツさんは照れ屋さんだね」
「かもな」
そろそろからかうのを辞めろ、と言うように、クロダブチの腕がギュッと締まり、ヒジクロはクスクス笑って口を閉じた。
しばし、沈黙が居間を潤す。
会話が必要ない。やり取りも要らない。何かが満ちて、潤沢にある、そんな沈黙。
聞こえる息遣いが、感じる温もりが、目を動かせば傍に見える相手の横顔が、言葉なしに幸福感を高めてくれる。
「…最初、な」
かなり長いだんまりの後、口を開いたのは黒豚だった。
「リキマルが連れてきて、お前を初めて見た時…」
クロダブチは、言い淀んで言葉を切る。自分は何を言おうというのか、言ってどうするのか、そんな思いが喉を詰まらせた。
しかし…。
「うん。最初に会ったとき?」
ヒジクロが促すと、意を決したように再び口を開く。
「最初にお前見た時、少し怖かった」
「怖かった?」
聞き返すヒジクロと、頷くクロダブチ。
意外を通り越して不思議というか、ヒジクロはそんな事など、思ってもみなかった。むしろクロダブチは、どんな相手にも
怯まず臆さず、逆に恐れられる存在だったと思う。怖い物など何もないひとだと感じ続けていた。
「テツさんが?」
「ああ。怖かった」
胸のつかえが取れたように、クロダブチはほっと、息をつく。
「おかしいだろ?ジュウタロウも、リキマルも、ナンブクだって怖かねぇ。どんなに強ぇヤツだろうが、警戒はしても怯えた
事はねぇ。…けどな、俺はお前が怖かった。まだ小学生の、ちんまい子供がな…」
「どうして?テツさんは…、だってテツさんは誰が相手でもいつも通りで、怯んだり竦んだり、そういうのとは無縁で…」
「リキマルは、お前と仲が良かった」
クロダブチはヒジクロの顔を見ないまま言う。
「アイツと友達になったお前は…、でも俺とは無理だろう。そう思った。…俺は、土俵の外の連中との付き合い方を知らねぇ。
取っ組み合う以外に付き合い方を知らねぇ。華奢で、小さくて、下手に触ったら壊れそうで、どう扱えばいいか見当もつかな
かった。だからお前もすぐ、離れて行っちまうんだと思ってた。…リキマルが紹介してくれたって、俺は上手くやれねぇ、ア
イツはすぐにガッカリするだろうって思った。それでお前が怖かった…」
なのに、とクロダブチは言う。「お前は、俺を怖がらなかった」と。
「それで少し、自信が持てた。お前のおかげで、土俵の外の連中とも何とか上手くやってこれた。お前と会わなきゃ、俺はきっ
と、今でも土俵の外の連中を避けてた。そして、それでいいって思ってただろうよ」
ヒジクロは、答えられなかった。
実は、実際に会うまでは、クレドから聞いた話で人物像を想像し、クロダブチを怖い男だと思っていた。
しかし、確かに顔や態度や顔や顔、そして顔などは、初見では怖い気もしたが、怖い顔もすぐに気にならなくなった。
つっけんどんな態度で気を遣ってくれたし、ぶっきらぼうな口調で話しかけてくれたし、ニコリともせず世話を焼いてくれ
た。本人が言うように扱い方や接し方が判らなくて、過度な気遣いもしていたのだろうが、そのおかげで、つるむ四匹の中で
唯一相撲取りでなかったヒジクロも、さほど疎外感を抱かずに済んだ。
だから…。
「だから、感謝してんだ」
言葉を先取りされた気分で、ヒジクロはクロダブチの横顔を見遣った。
「ボクも、感謝してる…」
頭を黒豚の厚い肩に預け、ヒジクロは目を閉じた。
「テツさんがいつだって、三人で取っ組み合う土俵の傍に、ボクの席を空けててくれたから…。そこで待ってろって、顎で指
しててくれたから…」
肩を抱える太い腕に、そっと手を這わせる黒柴。
闘うために鍛えた、太く逞しい黒鋼の腕。
膂力も瞬発力も並程度で、才能と呼べるほどの物もなく、体格も相撲取りとしては特に大きいと言えない。そんなクロダブ
チが土俵の上で他者と渡り合う為に、納得行くまで練り上げ、鍛え込んだ、創意工夫と努力が詰まった腕。
その腕が、今は武器として力む事なく、恥じらいでほんの少し硬くなって、伴侶となった自分を抱いている…。
自分だけの特権かもしれないなぁ、とヒジクロは喜びを噛み締めた。
「もう遅いな」
月が随分移動した空を見上げ、クロダブチは言う。語尾が、やや上ずっていた。
「風呂、行くか」
そう、少し硬い声で言って、
「…一緒に…」
小声で付け足しながらグッと肩を抱き寄せたクロダブチに、
「はい…!」
ヒジクロは毀れそうになる笑いと、「かわいい」の一言を、何とか飲み込んで頷いた。