国立大学での国旗掲揚・国歌斉唱の強制がなぜ憲法問題なのか

それぞれの学校で、入学式が始まろうとしている。2015 年6 月16 日、下村博文前文部科学大臣は、全国86 の国立大学の学長に対し、卒業式・入学式での国旗掲揚と国歌斉唱を要請した。岐阜大学は国歌斉唱を行わないと決めたが、これに関して馳浩・現文部科学大臣は2016年2月、「国立大学として……恥ずかしい」と繰り返し発言した。これに対して全国の憲法研究者有志はこの発言の撤回を求める声明を発表し、3月14日には記者会見を行った。なぜ、この要請と発言が憲法問題なのか。声明と記者会見に関わった憲法研究者たちに見解を寄せてもらった。(記事コーディネイト・志田陽子)

 

 

本 秀紀(名古屋大学大学院法学研究科教授)

 

同調圧力の中で声を上げる

 

本 氏

本氏

 

 

昨年6月、下村前文部科学大臣が全国の国立大学の学長に対し、卒業式等での「国歌」斉唱を求めたとき、えも言われぬいやぁな感じを覚えた。もちろん、憲法が保障する大学の自治の侵害といった問題もあるが、真っ先に感じたのは、そのような法的観点というより、個人としての抵抗感だったように思う。

 

安倍政権になってからとりわけ、政権担当者の考え(だけ)が正しく、それ以外は「おかしな考え」であるかのような風潮が強まってきた。メディアに対するあからさまな統制は、その最たるものだろうし、検定教科書を通じて、多様な考え方を学ぶのではなく政府の見解を教え込むという傾向がさらに顕著となったのも一例である。

 

これは、それまでにもしばしば見られた(「いろいろな考えはあってもいいけど、こういうのはダメ」という)自由に対する個々の制約のレベルを超え、国家権力担当者が日本という国家を(したがってその国民を)特定の考え方で一色に染め上げようとする企てにほかならない。この同調圧力はすさまじく、こうした国家の姿勢に乗っかって「異端者」を排除しようとする空気が社会の中にも伝播し、たとえば特定個人への殺害予告という形で「出る杭」を打とうとする。

 

しかもやっかいなことに、この「思想統一」は、戦前のように必ずしもストレートな権力行使ではなく、そうした社会の共鳴盤を利用し、あるいは財政的な誘導(平たく言えば、カネで頬を張るやり口)を通じて、黙していたり易きに流れればすぐさま絡め取られてしまう手法で迫り来る(下村前大臣の「お願い」もその例である)。

 

私の「いやぁな感じ」は、日本社会の中で数少なくなった、自由がまだ存在するはずの大学にまで「魔の手」が延びてきたかというおののきと、それを許せば、この国の自由が圧殺されるという危機感であったに違いない。今回の馳大臣の「恥ずかしい」発言を受けて、ここで黙っていたら「あれよあれよ」という間に抵抗できなくなってしまうという想いで、憲法研究者有志の声明を呼びかけることとなった。

 

大学の事柄に大学教員が反対するという今回の声明を見て、一般市民の皆さんは、「自分たちが強制されるのがイヤだから反対しているのだろう(私たちには関係ないし)」と思われるかもしれない。しかし、考え方の「統一」は、個人の自由を重んじる憲法と根本的に相容れないからこそ、その一環としての「国歌」斉唱の「お願い」に対して、憲法研究者が声を上げるのは、一つの社会的責任の果たし方だと私は思う。じわじわと「国定」の考え方しか認められない息苦しい社会になっていくのが望ましいかどうか、自分の問題として考えていただければ幸いである。

 

 

笹沼弘志(静岡大学教育学部教授・憲法専攻)

 

国旗国歌の強制と自立し自律する創造的人間の教育

 

笹沼氏

笹沼氏

 

 

竹刀大量破壊教育を自賛していた馳浩文部科学大臣が、国から運営費交付金をもらっている国立大学が下村前大臣の「お願い」を拒否して国旗掲揚・国歌斉唱をしないとは「恥ずかしい」と発言をした。これに対して約100名の憲法学者が馳大臣の発言の撤回を求める声明を出した。これは極めて情けない事態だ。

 

そもそも下村前大臣のお願いとは一体何だったのか。いかなる性質、中身のものだったのか。

 

昨2015年4月、国会で安倍総理が「税金でまかなわれていることを鑑みれば、新教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないか」と答弁したことをうけて、下村前大臣が全国の国立大学長に口頭で「国旗掲揚や国歌斉唱が長年の慣行により広く国民に定着している。国旗および国歌に関する法律が施行されたことも踏まえ、国立大学におかれては適切に判断するようお願いする」と卒業式・入学式などで国旗掲揚・国歌斉唱を行うよう「お願い」した。

 

この「お願い」の性質は何か。法的な根拠(授権)に基づく権限の行使なのか、ただの「お願い」なのか。国が国立大学に国旗掲揚・国歌斉唱を求める法的権限がないのは後述のように明白である。国が持つある権限をテコに、大学に対して権限外のことを強制しているということであれば、これは越権行為で違法である。

 

中身としては、一体何なのだろうか。国旗掲揚・国歌斉唱を求めるというのはオリンピックや国体などにおけるような単なる儀式の要請なのだろうか。馳大臣は単なる儀礼であるかのようにも発言しているが、そうではない。

 

国旗掲揚・国歌斉唱を求める「お願い」というのは、学生への教育内容についてのお願い、このような内容の教育をしなさいということにほかならない。学校での国旗掲揚、国歌斉唱要請が教育内容についての要請であることを、文部科学省は十分認識している。だから、学習指導要領で定めているのだ。ただし、学習指導要領はただの行政命令に過ぎないので、これが憲法や法律に違反するのであれば当然違法となる。しかし、これについては、敢えてここで論じない(注)。ともかく文科省は学習指導要領を根拠に学校を指導しているのは事実である。

 

(注)詳しくは、笹沼弘志『臨床憲法学』(日本評論社、2014年)13章及び19章参照。

 

これに対して、大学に文科省が特定の教育内容を教えるように指導する権限は法的に存在しないし、だから大学の学習指導要領も存在しない。

 

学校教育法施行規則により小中学校、高校等の教育課程は学習指導要領によるものと定められているが、大学については学習指導要領がなく、大学設置基準の定めるところによるとのみ規定されている。大学設置基準19条は「大学は、当該大学、学部及び学科又は課程等の教育上の目的を達成するために必要な授業科目を自ら開設し、体系的に教育課程を編成するものとする」と教育内容については大学が自主的に定めるものとされており、国が教育内容を左右する権限は排除されている。それはなぜか。日本国憲法23条が学問の自由を保障しているからである。

 

安倍総理は昨年の国会答弁で国旗掲揚・国歌斉唱が「新教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべき」だと主張した。確かに第1次安倍政権が戦後レジームの総決算の第1弾として制定した2006年新教育基本法は、2条5号で「我が国と郷土を愛する……態度を養うこと」を教育の目標として定めている。しかしそれは、「学問の自由を尊重」するという条件つきである。また、7条2項は「大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」と定めている。安倍総理肝いりの教育基本法をもってしても、大学の教育内容に国が介入することは許されず、政府が大学に国旗掲揚・国歌斉唱を求めることはできないのである。

 

それを分かっていてもなお、国が金を出しているのだから、国旗掲揚・国歌斉唱は当然だという感覚が馳大臣にあるのだとすれば、これは極めて危険である。権限がないのにもかかわらず、金の力で国立大学を服従させようということであって、たとえ腹の底で思っていたとしても決して口に出してはならない性質のものである。

 

あえて言うまでのことでもないが、国が金を出しているのだから、教育内容については国が決めることができるのだという単純な話は成り立たない。憲法26条は教育を受ける権利を保障しており、国に教育制度・施設を整備する義務を課している。国は金を出す義務があるが、内容について決定する権限があるわけではない。

 

教育を受ける権利を保障するために国が金を出し、しかし、学問の自由があるから、国は大学の教育内容に対して口を出せないのである。もちろん、大学がある教育内容を教える時にも、ルールがあるのは確かだ。それを定めているのが学校教育法や大学設置基準である。しかし、これらは上述のように内容を左右するものではない。

 

政府が自ら権限がないにもかかわらず、金という力を背景にして、ある教育内容を教育するように大学に要請し、なんとか実現させようとしているというのが、今回の事態である。

 

わかりやすい例を出そう。安倍政権は日本国憲法には欠陥があるから改正すべきだと主張している。だから、国立大学に対して日本国憲法にはこれこれの欠陥があるから、このように改正すべきだと教えてくださいと「お願い」したとする。国が金を出しているのだから、お願いを受け入れるのが当然だと言えるのか。そもそも、そんなことになったら憲法99条憲法尊重擁護義務違反である。

 

ところで、今回の大学の国旗国歌問題に関しては、もう一つ、そもそも教育の目的とは何なのかという点からコメントしておきたい。ここでは教育一般についての目的というのではなく、安倍政権・文部科学省自らが掲げる目的に限定しておこう。

 

安倍内閣の2013年6月14日閣議決定「教育振興基本計画」は「一人一人の自立した個人が多様な個性・能力を生かし,他者と協働しながら新たな価値を創造していくことができる柔軟な社会」を目指すとしており、自主的に考え、自律的に行動し、創造性を発揮できる人間の養成を目的としている。

 

はたして、このような人間を、何の意味があるのかわからずただ命令に従って旗を拝み、歌を歌えという指導を通じて養成しうるのだろうか。それが可能だと思い込んでいるのだとしたら、教育という人間の営みについて全く理解しない机上の空論だといわざるを得ない。教育について考えていない者たちが教育内容に強引に口出ししようというのであれば、恐ろしい話である。

 

自主的に考え、自律的に行動する創造力を持った個人というのは、一方的に他人の命令に従っているだけで生みだされるものではない。むしろ、自立的自律的個人というのは、他者の言葉に従うだけの依存的な状態から敢えて脱け出すことなくして、生みだされることはない。例えば教師が学生に向かって「自分の頭で考えよ」と命じたところで、学生が自分の頭で考えられるようになるわけではない。

 

近代哲学を代表するカントは、『啓蒙とは何か』において、人間が他者に依存し自らの理性を使おうとしない状態を未成年状態だとし、そこから脱け出すためには自ら理性を使う勇気を持つことが必要だとして、「自らの理性を使う勇気を持て」と檄を飛ばした。しかし、このように発破をかけて、学生たちが理性を使うようになり、未成年状態から脱け出すことができるようになるというのは極めて甘い考え方だ。どうしたら、この啓蒙、教育の課題を達成しうるのか。それは、カント自身が提起している理性の公的行使による以外にない。

 

カントは、啓蒙の課題を達成しうるのは、「理性の公的な利用」だけだという。理性の公的な利用とは、あれこれの職責に応じた理性の行使、すなわち理性の私的使用と区別されるものであり、ある人が「学者」としてパブリックに、すべての市民に対してみずからの理性を自由に行使して語りかけることである。教師が、教師という職業の枠に止まり、上司や行政の命令に従って職責に応じた理性の行使をしているだけでは、自立的自律的で創造力をもった個人を養成することなど不可能なのである。

 

だからこそ、大学については、現代のこの日本国においても、あえて教育内容については大学が自主的、自律的に定めるものとし、教師が学者として自由に理性を行使することを保障しているのである。これは、第1次安倍政権でさえ、決して侵すことができなかった一線である。

 

大臣はもう一度、自らの理性を自由に行使して、教育の普遍的な意義を思い起こし、自らの態度を律する自律能力を発揮すべきであろう。

 

 

成澤孝人(信州大学教授)

 

「恥ずかしい」発言の歴史的意味について

 

成澤氏

成澤氏

 

 

今回の馳大臣の発言は、全国の大学に対して、入学式・卒業式で国歌を斉唱するよう事実上の圧力をかけるものである。わたしが危惧したのは、ここで誰も声をあげなければ、問題が問題として認識されずに、事態がなし崩し的に進行してしまうのではないか、ということである。

 

憲法をないがしろにする政治がエスカレートし、万が一、大学の自治が失われるような事態に至るとしても、戦前と違って、学問の自由を明文で保障する日本国憲法が存在するのである。「いつの間にかそうなっていた」ということでは、後に続く人たちに申し訳が立たない。権利は主張しなければ失われる。そして、わたしたち大学に所属する研究者には、学問の自由と大学の自治の侵害に抗議する「主張適格」があるはずである。

 

国旗掲揚・国歌斉唱を許しても、学問研究そのものの自由は失われていないと考える人もいるかもしれない。しかし、「国費が投入されている」という理由は、大学の決定を批判する理由としては、まったく理にかなっていない。結局、言われていることは、「国旗・国歌」なんだから掲揚しなければならないし、斉唱しなければならない、ということでしかない。そうであるとすれば、大学がこの要請を受け入れることは、自らの存在根拠を失うことであるとわたしには思われる。なぜなら、このような理由のない「力」の解明をする場所こそが、大学だからである。

 

ところで、大学に国費が費やされているのはなぜだろうか。大学に国費が費やされているのは、「大学に国旗掲揚・国歌斉唱を徹底させたい」という、時の権力者の「想い」を実現するためではない。大学に国費が費やされているのは、大学に属する研究者が自由に研究活動をおこなうことが、社会の発展につながると想定されているからである。大学が時の権力に従属すれば、大学で行われる研究は、時の権力におもねるものになりかねない。

 

その結果、大学は、真理を追究することによって善き社会の実現に寄与するという大学本来の役割を果たせなくなるだろう。つまり、大学がその本来の社会的意義を果たさなくなるような社会へ向かって、明らかに一歩踏み出したのが、今回の馳発言の歴史的意味である。しかし、国費は、時の権力のためではなく、社会全体のために使われなければならない。とするならば、大学に費やされている国費が真に社会全体のために使われるためにも、大学に所属する研究者は、馳大臣の発言に抗議しなければならないのではないだろうか。

 

今回、短期間の意見集約であったにもかかわらず、100名の憲法研究者が、「憲法23 条の趣旨に違反することは明らか」だと主張した。恐らく、同様に考える憲法研究者は、まだまだ存在すると思われる。今回は、わたしたち、憲法の専門家が声をあげたが、他の分野の大学人もわたしたちに続いて欲しい。この問題は、まさに、「学問の自由と大学の自治」という大学に属するすべての研究者にとっての切実な問題であり、また、日本社会の今後に関わる話だからである。

 

 

中川 律(埼玉大学准教授)

 

大学の自治と社会的責任

 

中川氏

中川氏

 

 

私からは、大学の社会的責任の果たし方という観点から、今回の馳大臣の発言について、憲法上、どのような問題があると考えられるのかを述べたいと思います。

 

憲法研究者で学問の自由の研究の第一人者であった高柳信一は、その主著『学問の自由』(岩波書店、1983年)で次のように述べていました。

 

「大学は自由にして独立の思考者としてのみ社会のサーヴァントたりうるのである」(126頁)。

 

私も、大学は社会のサーヴァント、すなわち、社会に奉仕すべき責任を負った存在であると考えます。しかし、高柳は、大学が、社会に奉仕しうるためには「自由にして独立の思考者」でなければならないと言います。これは、大学は、非主体的に社会の要求に追従することではその社会的責任を果たしえず、社会の要求から一定程度の距離をとって、研究や教育の内容・方法について自律的に決定できなければならないということを意味しています。

 

なぜ、こう考えなければならないのでしょうか。

 

それは、大学は、学問・高等教育機関であり、そこに所属する学問研究・教育者が、それぞれの学問領域の固有の法則に則って、その成果を社会に還元することではじめて、社会的責任を果たしうるからです。

 

各学問領域では、その領域である程度の説得的な主張を展開できるために必要な知識や技術、能力などが固有の法則性をもって、研究者の間である程度共有されています。学問研究・教育者は、そうした各学問領域の固有の法則性を長い年月をかけて獲得した専門職です。

 

例えば、私は、憲法学を専攻する研究者です。私は、ある憲法学上の課題について、憲法学の領域において、どのような見方や考え方をすれば説得力のある議論を提示できるかを日々考えて訓練を積み、一定程度説得力ある議論を展開しうる憲法学の固有の法則を身につけてきました。だからこそ、私は、大学において、憲法を研究し、学生に教える立場にいます。

 

それゆえ、私は、大学において、憲法学の領域の固有の法則に基づいて、研究と教育を行うことを期待されています。そんな私が、例えば、政府の言っていることが正しいと言わないと給料を下げられそうだからとか、そう言わないと今の社会情勢では反感を買い、大学を辞めなくてはいけなくなりそうだからという理由で、憲法学の領域の固有の法則に則ることを止めたらどうでしょうか。ただ学生に対して政府の言っていることが正しいのだと教え、そうした趣旨の論文を社会に発表するということです。これは端的に、大学に所属する憲法の研究者としての責任放棄です。これでは憲法学の学問的成果は、社会に還元されません。

 

そうであるならば、大学に所属する学問研究・教育者は、大学の内外からの物理的・経済的・社会的な圧力によって、各学問領域の固有の法則を捨て去らざるをえない状況にならないことが確保されなければなりません。これを確保するのが、憲法23条の学問の自由です。すなわち、学問研究・教育者は、憲法23条で、大学での教育や研究の内容・方法を自律的に決定する権限を保障されなければ、各学問領域の固有の法則に誠実でいることができなくなってしまいます。

 

また、こうしたことは、大学全体での教育・研究の方向性の見極めやカリキュラムの策定の方針などの決定に関しても当てはまります。大学全体での教育や研究の内容・方法に関しても、大学が、学問研究・高等教育に携わる専門職である学問研究・教育者の共同体として、各構成員がそれぞれの専門的職能に基づいて智慧を出し合って、大学外の政府や社会とは一定程度の距離を保って自律的に決定できるべきです。このために、憲法23条が大学の自治をも保障していると考えられてきました。

 

もちろん、こうした学問の自由や大学の自治の保障は、大学や学問研究・教育者は、社会の要求やニーズを全く無視してよいということを意味するわけではありません。大学や学問研究・教育者は、ある課題についての社会の要求に関して、その意味や効果、あるいはその要求の具体化の方法を各学問領域の固有の法則に照らして分析し、評価する責任を負っており、ただ単に社会の要求に追従することでは自らの責任を果たしたことにならないということです。

 

例えば、「日本で首相の公選制を導入すべきだ」とか、「ヘイト・スピーチを法律で規制すべきだ」という憲法学の領域にも関わる社会の声に対しては、憲法研究者である私は、単に「そうだそうだ」というのではなく、憲法学での議論の蓄積を踏まえて、それらにどのような憲法問題が含まれるのか、仮にそうした社会の声を実現すべきだとしたらどのような方法が採られるべきかなどをきちんと提示する必要があるということです。

 

私が憲法研究者として話す場合には、首相公選制の導入にはどのような利益と不利益があるのか、ヘイト・スピーチを規制すべきだとしたらどのような法律上の仕組みが整えられるべきかなどを明らかにする責任を負っているということです。

 

これに対して、学問の自由や大学の自治が十分に確保されないで、大学が、国家や社会の要求を過度に忖度して、学問研究・高等教育機関に携わる専門職である教育研究者の共同体としてのあり方を歪めることをしてしまっては、大学は、その社会的責任を裏切ることになってしまいます。

 

こうした大学のあり方を許す社会では、どのようなことが起こるでしょうか。まずは、学問的成果が大学から社会に還元されなくなります。さらには、そうした社会では、ある物事について、学問上の科学的な裏づけを持つ考え方よりも、時の政府の都合が優先されてしまう可能性があるでしょう。

 

例えば、原子力政策について、学問的な科学的根拠に基づいて考えれば採用すべきではない政策でも、時の政府がどうしても推進したい場合には強行されてしまうことも見過ごされてしまう可能性があります。果てには、学問的な成果から得られた科学的な根拠に基づいてある課題を理性的に考えて、解決策を探るのではなく、その時に力を持つ者の恣意や専横がまかり通る社会になってしまいます。

 

さて、こう考えると、今回の馳大臣の発言の問題点は明白です。今回の大学の卒業式等での国旗掲揚・国歌斉唱の取り扱いという問題は、大学での教育内容に関わるものです。そうした教育内容に関して大学の自律的判断を事実上否定する馳大臣の発言は、大学の自治の趣旨に反することが明白であり、日本社会が学問的な考え方を尊重しつづける社会であり続ける上で、大学だけでなく社会にとっても大きな損失をもたらしかねないものです。今回の馳大臣の発言は、憲法学での議論の蓄積を参照すれば許されるものではない、と私は考えます。

 

最後に、今回の問題が、高等教育機関としての大学のあり方にとっても極めて重要な意味を含むことも考えておく必要があります。大学が高等教育機関であるということは、憲法26条で保障された国民の教育を受ける権利を充足するための機関であることを意味します。今回の問題は、そうした機関である大学での教育のあり方がどうあるべきかということに関わります。

 

国民の教育を受ける権利を充足することのできる大学での教育とは、教育研究者が各学問領域の固有の法則に基づいて自律的に教育内容と方法を決定したものであるべきです。そうではなくて、時の政府がこう言っているからという理由で、各学問領域の固有の法則が歪められ、教育内容が左右されることになるならば、その教育はもはや学生の教育を受ける権利を充足するという機能を果たしえないものです。今回の馳大臣の発言は、国民の教育を受ける権利という観点からも極めて大きな問題点を含むものだと言うことができます。【次ページにつづく】



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