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青猫文具箱

青猫が集める、本と文具と思考のかけら。

ピアニッシモの音が聞こえない。

本と日常

ネットで強い言葉ばかり目にしていると、弱い言葉が目に入らなくなるんじゃないかと思うことがあって。以前この記事を書いたんですが、

ヘッドホンから、バンド曲のドラムが初めて聞こえた日。

その逆ですね。スピーカーの爆音に煽られて、耳がイかれたらどうしようと想像するんです。しかも無意識に慣れちゃって、聞こえないことにも気づけなかったら怖いなと思う。

 

子供の頃、情報発信はそれなりに敷居が高いもので、だからネットに登場するのは特別な才能ある人たちだと思っていたんです。ホームページのコメント欄に書いて送信するだけでも1時間くらいドキドキしたし、好きなテキストを書く管理人さんがホームページを更新しなくなると本人に何かあったんじゃないかと心配した。

インターネットが広く普及してからは、特別な才能のある誰かより、同じような目線で世界を見てる、でも出会えない誰かのテキストを読むのが好きになりました。自分にとっては深刻な悩みを、さらりと日常に組み込んで話す人がいると、肩の力が抜けて呼吸しやすくなったりした。そしてそれを簡単に読めて書けるのが楽しいと思った。

それに、自分が好きなものを、自分とは違う形で好きという誰かのテキストや、似たような考え方に見えるのに、同じものを好きじゃないという誰かのテキストを見つけると、その差異に人間的な温度を感じて嬉しくなるんです。

 

嬉しくなるんですけれど、最近なんだかそういうテキストを見つけるのが難しいなとも思ったりしてます...単に自分のたゆたうインターネットの海が「そういう」ところなのかもしれないですけれど。

SEOに最適化された温度のない言葉や、炎上でアクセスと被リンクを集める強い言葉を、正直恨みがましい目で見る気持ちがあるんですよ。アフィリエイトに対しては特に思ってなかったけれど、アドセンスは罪深いと思う。普通の日記まで強い言葉を使う必要性なんて持たせなくてもよかったのに、とか考えてしまう。Googleの検索窓にキーワードを打ち込んでも探してる人が引っかからない。

自分が知るインターネットの海は、誰に受け取られるか考えてないボトルメッセージが、気まぐれに誰かの浜辺にたどり着いて、疎ましがられたり励ましたりささやかに影響を与えたりする、そういうものなんですけれど、今はむしろポストに絨毯爆撃的に投げ込まれるチラシっぽさを感じる。しかもそこに人間の温度が読みとれないので不安になる。死や性までも強い言葉のデコレーションに使うのを見ると、その戦い方の有用性は理解するんですが、慣れたら怖い気がするんですよね。次はもっと強い武器が必要になるわけですし。

 

ピアノの譜面でずっとフォルテッシモの曲を弾くの難しいじゃないですか。抑揚のない煩い音になってしまいかねない。だから色んな音の強弱があった方が良い気がして、しかもそれがちゃんと聞こえる方が嬉しいなと。ピアニッシモの音も、とても弱くささやかだけれどちゃんと鳴っていて、それが拾える耳でいたいな、なんてことを考えてました。

 

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