ぼりです!
門出の季節として多くの学生が「夢」に向けて「社会人」としてのスタートを切りますね。
この時期に転職や独立をするって人も少なくないんじゃないかと思います。
多くの夢を持った人がいる中で、「夢がない」とか「夢がある人が羨ましい」って人も多くいる。
僕自身「夢がない」というスタートから「夢」を掲げるに至って感じた事と、そもそも「夢」ってなんなのか?って事をまとめます!
夢はなくたっていい
まず最初に「夢がない事」で残念がっている人ってたくさんいると思います。
夢に向かって頑張っている人って輝いて見えるものだし、実際にとても素敵です。
だけどそれを他人と自分を比べるのは全く別物。
夢がなくても自分が「心地いい」と感じる幸せな生活を送っている人は世の中にたくさんいます。
他人と「幸せ」を比べる事によって自分の幸せを感じられなくなってしまうのは本当にもったいない。
自分なりの幸せを見つける事自体を「夢」と呼んだっていいんじゃないかと思う。
「羨ましい」という人に欠けている事
幸せを他人と比べるものではないと頭でわかっていても夢がある人がやっぱり羨ましいって人には決定的に欠けているものがある。
夢を目標として掲げる事=決断力
ほんと、たったこれだけの事なんじゃないか。
周りにいるキラキラした人達の事を想像してみてほしい。
みんな昔からその「夢」を掲げていましたか?
もちろん小さい頃から大きな夢を追いかけて実現させたサッカー選手の本田圭佑さんみたいな人もいます。
だけどそのほかの多くの夢を掲げる人はみんな「決めてきた」んです。
夢を決める力
夢を細分化して考えると
思いつく→行動する→違うと思ったらやめる→思いつく、以下繰り返し。
その中でこれだっ!って思えた事に対して全力を注ぎ込む。
これが夢を見つけて夢に向かっていく人の道のりだと思う。
でも、もっと細分化するところがあって、それが「決める力」です。
思いつく→行動する(行動する事を決める)
違うと思ったらやめる→思いつく(やめるという事を決める)
これだっ!を見つける(目標を決める)
この「目標を定める」って事を決める力があるかどうかが夢を持てる人かどうかの違い。
夢をもっている人は「夢を見つけた」というのはあくまで「夢として決めた」だけ。
夢という目標を自分の意思で決定してそこに向かい始めただけなんです。
かの有名なマザーテレサは幼い頃に汽車の中で見た夢を自分の人生の目的と掲げて修道女の道を選んだそうです。
以下抜粋
汽車に乗車中に「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受け、神の愛の宣教者会を設立。飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人、のために働くことを目的とする。
これってハンパじゃない行動力だと思うんです。
だってたかだか電車の中で居眠りした時の「夢」ですよ!?
僕は正直、マザーテレサと同じ夢を今晩みたとしてもその道には進みません。
だけど夢で見た光景でも人から言われた一言でも、何かのきっかけを自分の道だと決める力。
この力がマザーテレサの人生を大きく動かしたのだと思っています。
だから「夢がない」と言う人にはもう一度考えてみてほしい。
夢はある日突然、雷でも落ちたように脳みそがスパークリングして見つけられるものではなく、あくまでいままでの経験と情報から「決める」事なのだという事。
まとめ
偉そうにつらつらと書きましたが、僕はいま「板前」として将来自分の店を出して「人が笑顔で食事を楽しめる空間」を作る事を「目標=夢」として日々、修行しています。
僕が板前を目指し始めたきっかけはただ単に飲みに行った小料理屋さんのカウンター席に座って食事していた時に「カウンターの向こう側に立つのって楽しそうだな」と思った事がきっかけでした。
そこから実際にアルバイトとして皿洗い程度の事をさせてもらっていたら楽しかったので「板前」を「夢」として掲げた。
本当にたったそれだけです。
だからこそ今「夢がない」と口にしている人にはとりあえず気になった事を試す事を「決めて」ほしいと思う。
「夢」がある人は間違いなく全員、夢を夢として「決めて」います。
そうやって目標を持って行動している状態を「夢がある」と呼ぶ。
小さな事でもいい。
映画を見る、旅行する、気になる人に連絡してみる。
どんな事にきっかけがあるかもわからずに「夢がない」と嘆くのはもったいなさ過ぎる。
小さな日常に転がる「きっかけ」を「気づき」に変えて「決める」事できっと誰でも夢は見つける事ができると本気で思う。
以上、ぼりでした!