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シカゴに来て4年;人生の引き際・散り際を考える

今日はきれいに晴れ上がってすがすがしい気候だ。通勤路にも、白、紫、黄色の花が咲き始め、歩いていて気持ちがよかった。

そして、今日でシカゴに来て、ちょうど4年になる。長いような、短いような4年間であった。この時期になると日本が恋しくなる。それは、東京大学医科学研究所に毎年咲き誇っていた、美しい桜の姿を眺めることができないからだ。桜の花は美しいが、私が最も魅かれる点は、その散り際の潔さだ。枝枝をピンク色に染めて、鮮やかさが最高点に達した時に、春風に吹かれて散っていく様は最高に美しい。そして、なぜか、無念な想いで散っていった神風特攻隊の人たちが思い浮かぶ。彼らの死は、決して美しいと表現すべきではない。しかし、その彼らが、自分の死を持って守った日本という国の誇りを捨て、自分たちの利権のために奔走する人たちが腹立たしい。

私は、この桜の散り行く様を見る度に、自分の人生の散り際を想定してきた。歌手の山口百恵さんのような引退が理想だ。周りから後押しされて、無理矢理に引退に追い込まれるような見苦しい姿は、真っ平ごめんだ。それもあって、引き際の目安となる自分のゴールを設定してきた。2000年の頃には、論文発表数が1000に達したときに辞めようと考えていた(2000年終了時に667編)が、予想よりもはるかに早く2009年に到達してしまった。まだ、50歳代半ばだったし、多くの責任を抱えていたので、辞めるタイミングではなかった。そして、もうひとつの目標であった、論文被引用回数(他の人の論文に自分の論文が参考資料として引用された回数)10万回は、2013年シカゴ大学に来て1年後に到達した。これも、タイミングが悪すぎる。

もちろん、オンコセラピー・サイエンス社を立ち上げていたので、自ら手がけた薬がひとつも世に出ないうちは、引退できない。2001年会社設立時には、「10年後にはひとつくらい新薬を」と考えていたが、創薬は想像していたよりもかなり難しかった。朝日新聞事件、内閣官房在籍時の東北大震災、シカゴ大学への異動と、10年前には予想だにしなかった出来事もあり、ワクチン開発にも影響が出た。欧米でのすざまじい、がん新薬開発ラッシュで、治験を実施することが、予想以上に競争が激しくなったこともある。昨日の腫瘍内科学のセミナーでも、演者は、ここ数年は免疫チェックポイント抗体が脚光を浴び、低分子化合物の新薬への患者さんのエントリーが遅れたと述べていた。しかし、これらの抗体医薬の波もひと段落したように思うので、新たな動きになるだろう。

シカゴに来て、私に起こった最も大きな変化は、若い研究者たちと間近で接するようになり、教育することの楽しさをはじめて学んだことだ。それまでは、必死で走り続ける自分の背中を見せて、「何かが伝わるものだけついて来い」という気持ちだったが、時間にゆとりができたためか、自分が学んだことを、若者に伝えることが楽しくなってきた。

その一方、私が20年前に提唱した「オーダーメイド医療」が「プレシジョン医療」と名を変えて、医療に大きな変革をもたらしつつある状況と、その潮流から大きく遅れつつある日本の動きが気になりもする。何とか、日本から一矢報いたいという思いも強い。あれもこれもと考えて、はっきりとした目標を定めないでいると、醜い姿を晒してしまいそうな自分が怖くもある。これだけは避けなければ。

そして、シカゴに来て4年目の今日、心の中ではっきりと目標を定めた。美しい散り際、それを演出するためには、それなりの準備が必要だ。「患者さんに希望を提供する」のが、人生最大の目標だ。時間は無限ではないので、そのゴールに到達できるように全力で、寄り道することなく、走り続けるしかない。数十年間に蓄積した知識と残された気力を最大限に利用して。その先に、エメラルド色の海を眺め、ゆったりと読書を楽しんでいる自分の姿を夢見て。

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