もう20年近く、ずっと死にたい。
小学生の頃のことはほとんど記憶がないから正確なことはわからないけれど、少なくとも15年間以上は、ずっと死にたいと思ってきた。
死にたいと思わなかった日はない、といえば嘘になる。
だけど人生の半分くらいは死にたいと思っていて、人生の半分くらいは自分自身を殺したいと思ってきた。
自殺願望と自己嫌悪だけの人生だった。
理由なんてない。
昔はあったかもしれないけど、忘れてしまった。
特に不幸な環境だったわけではない。むしろ、とても恵まれていたと思う。
昔は、誰かの思考に自分のことが浮かぶだけで死にたくなったように思うけど、いつの間にかこれは解消された。
今は、誰かと会話するだけで自殺ポイントが貯まり、飲み会に参加した日は特にひどい(飲み会は、知り合いの葬式よりもつらいイベントだ)けど、それだけが理由ではないはず。
いずれにしても、20年近くそれしか考えなければ、思考回路が固定されて理由なんて必要なくなる。
もし机に拳銃や毒薬が入っていたら、これまで数え切れないほど死んでいたはず。
日本で良かった(悪かった)。
もちろん日本でも拳銃や毒薬は手に入らないわけではないはずだけど、少しでもハードルがあるということは重要らしい。
ビルの屋上や橋に設置された柵は、結構効果的だと思う。
昔は周りの人を見て、自殺願望に耐えてそんな年齢まで生き残っているだけで尊敬に値すると思っていたけど、
どうやら、死にたいと思う頻度が低い人の方が多いらしい。
「頻度が低い」とは、具体的にはどれくらいだろうか。
週一回か、月一回か、年一回くらいか。
それと、ネット上の方が死にたがりは多いらしい。
死にたいと思うのは、体を壊して鬱状態だからだろうか。
自分の記憶ほど信じられないものはないし、特に過労で体を壊した前後は曖昧だけど、鬱状態だから死にたい、というわけではない。
逆に、死にたくて限界以上に色々なことに取り組んできた結果、体を壊したのだ。
中学生の頃に「自殺はしない」という自分ルールを決めたものの、その後の俺は愚かにも「過労死は自殺に含まれない」と考えたわけだ。
※ 安楽死は自殺に含まれますか?
中二病真っ盛りの俺は、逆に自殺願望と自己嫌悪を利用してやろうと考えてしまった。
死ぬ気でやれば何でもできるというけれど、「死ぬために」やれば、もっと結果が出せるのではないかと。
そして自分が嫌いであれば、自分が苦しむ様なことをすることに躊躇がない。
※ 「若い頃の苦労は買ってでもしろ」というのは、かなり正しいと思う。他人に勧めるのはどうかと思うけど。
死にたくて自分を殺したいような人間であれば、リスクがリスクでなくなるはず。
そんな人間にしか、できないことがあるはず。
他の人にとってハイリスクハイリターンな戦略でも、俺にとってはリターンしかない。運が良ければ結果を出せて、運が悪くても死ぬことができる。
結局そんなうまい話はなく、
それなりの成果は出したものの、
体を壊して、
さりとて死にきれず、
前にも後ろにも進めない状態に陥った。
そして、より強化された自殺願望と自己嫌悪だけが残った。
正直もう人生とかどうでもいい。
どうやら、死ぬ気でやっても、死ぬためにやっても、できることはとても限られているようだ。
ところで、この「司令塔たる脳自身が損傷することで、逆に全体の崩壊を防ぐ」という防衛機能は少し興味深い。
結局、内的要因だけで過労死するほど自分を追い詰めることはできないらしい。
毎日眠気が限界になるまで研究をして、そのまま椅子で寝て、起きたらすぐに研究を再開するような生活を続けても、過労死には至らなかった。
もう少しのところまで追いつめることはできていたと思うけど、なかなかにしぶとい。
しかしそうすると、世の中の過労死した皆様はどれほど過酷な状況だったのか。
単に俺の意志力が足りないだけかもしれないが。
とにかく、人間はかなり死に難いようにできている。
それと、この戦略は、結局は完全に間違いだったものの、それなりにいい線いっていたのではないかと今でも思っている。
天才、強者、リア充の人たちは、守るべきものがあるから死ぬようなリスクは取れないはず。
「凡人が彼らに勝つためには、リスクを取るよりほかにない」というのは間違ってはいないはず。
短期的な成果を重視しすぎて、長期的な視点がなかったのが敗因か。
だからと言ってどうすればいいのかは、もうわからん。
人生を勝ち負けで考えている時点ですでに負けている、ような気はする。
この自殺願望は、今まで誰にも話したことはない。20年近く、一度もない。
これまで自殺未遂をしたこともないし、誰にも気付かれてはいないはず。
「アサーション」とかなんとか、自分の気持ちを伝えるのが大切なんだというけれど、
そんなことをしたら、俺は「死にたい」しか言わなくなる。
シニタイデスロボ。
そんな人間がいたらドン引きだし、そんなこと言われてもどうしようもない。
むしろ親しい人にほど隠したい。
不要な心配はかけたくないし、心配されて干渉されるほど死にたい気持ちは強まる。
そんな人間は放っておくのが一番だ。
※ そういえば一度だけ、研究プロジェクトの最後の頃に、Slack(チャットサービス)の分報チャンネルに「死にたい」と書いてしまっていた。消しとこう。
あと、俺は俺のことが殺したいほど嫌いなので、俺のことを評価してくれる人とは基本的に意見が合わない。価値観と音楽性の違いです。
というか「自殺未遂」ってなんだ。
直前に躊躇うなんて、わかりきったこと。それも見越して死に切れるような自殺をするべきだ。
自殺するようなメンタルの人間でも、自分自身の意志力を過大評価しているのか。
それともやっぱり、人間の生存本能はそれほど強いのか。
もちろん、このブログもこの記事も、遺書のつもりはない。そうならなければいいと思っている。
別に死にたくなくないわけではない。
死にたいけれど死にたくない。
死にたくない。
中学卒業したら死のう。だから、それまで頑張ろう。
高校卒業したら死のう。だから、それまで頑張ろう。
大学卒業したら死のう。だから、それまで頑張ろう。
大学院卒業したら死のう。だから、それまで頑張ろう。
※ 中学生の頃の「自殺はしない」ルールなんて、俺が律儀に守るわけはない。
そうやって、騙し騙し生きてきたから、もう少しぐらい頑張ってみよう。
これまでの弱い自分は死んだのだと、自分を騙しながら。
なんでこんなこと(今まで誰にも話したことがなく、墓まで持っていくつもりだった自殺願望)を、ブログに書いたのか。
それは、もう何もかも吐き出さなければ、前にも後ろにも進めない状態になってしまったから。
体感年齢的には、もう人生の半分を過ぎているらしいし、
人生で一度くらい、愚痴を言っても許されるだろう。
※ 誰に許されるのかといえば、「俺自身に」だ。まったく、死ねばいいのに。
「正直もう人生とかどうでもいい。」といったな。あれは嘘だ。
まだあきらめられない。
そういえば、「やりたいこと」と「やらなければいけないこと」があったんだった。忘れていた。
これを思い出せただけでも、この記事を書いた意味があった。
しかしまったくほんとうに、
人生は、ままならないなあ!!!