韓国大使館、東京の一等地の開設に朝鮮人の敗戦利権とGHQと共産党
韓国大使館が
東京の超一等地に開設できたワケ
在日韓国人の実業家が土地・建物を無償で寄贈
朝鮮日報 2013/07/18 08:21
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/07/18/2013071800465.html?ent_rank_news

東京都港区南麻布で建設が進められていた
在日韓国大使館の新庁舎が18日に開館式を迎える。
新庁舎は地下1階、地上7階建てで、
敷地面積は1万218平方メートル(3091坪)だ。
東京でもとりわけ地価が高いとされる場所に
韓国大使館を開設できたのは、元々在日韓国人の
故・徐甲虎(ソ・ガプホ)氏(1915-76)=写真=が
土地と建物を無償で寄贈したからだった。
現在の蔚山市出身の徐氏は、14歳のときに日本に渡り、
「阪本紡織」を設立するなど
一代で財を成した人物だ。
一時は日本で高額納税者1位に躍り出たこともあった。
1960年代に阪本紡織を設立した徐氏は、韓国の繊維産業の
発展にも大きく貢献した。
62年には朴正煕(パク・チョンヒ)国家再建最高会議議長
(後に大統領)と面会し、大使館用の土地と建物を寄贈した。
韓国政府は2010年、老朽化した大使館の庁舎を解体し、
約800億ウォン(約71億2300万円)の費用をかけ新庁舎を建設した。
大使館側は、徐氏による土地や建物の寄贈について
後世に伝えるため、新庁舎1階に在日韓国公館の歴史を紹介する
資料館を設け、徐氏の雅号にちなんで「東鳴室」と命名した。
東鳴室には徐氏に関する資料を展示するとともに、
胸像も設置される。大使館側は開館式に際し、徐氏の遺族の
ソ・サンオク、ソ・サンウン、ソ・ギョンナムの各氏に
感謝状を授与する。孫のソ・ヘンジャさん(42)は
「誰よりも国を愛した祖父は、
自分だけでなくほかの在日韓国人の企業に対しても、
韓国への投資を積極的に働き掛けた。
祖父の業績が評価されるきっかけになればと思う」 と語った。
★【 在日商工人100年エピソード 第六回 】
《焼跡・闇市からの飛翔》
~李煕健と徐甲虎~①
http://hyogokcci.org/Support/AddEditArticle.aspx?seq=164&cat=8
食糧難打開のため日本政府は外国からの援助を
求めていたが、GHQからは闇市に溢れているから
まずそれを取り締まれ、と言ってきたのである。
そのためこの日、強制封鎖が断行されたのであった。
闇市商店主の大部分は日本人であったが、
鶴橋では「戦勝国民」となった
韓国人が大きな力を持っていた。
(中略)
「団結と自制」に導いた人物が
当時30歳の平田義夫であった。
韓国名が李煕健。
闇市には食料品だけでなく、あらゆる日用品が出回っていた。
統制と公定価格で原材料が縛られていた時代に
どのように入手したのか定かではないが、
「戦勝国民」である韓国人は
GHQをバックにさまざまなルートで
仕入れをしていた。
中でも最も出回っていたのがゴムである。
当時の物流は何と言っても自転車とリヤカーが主流で、
タイヤ、チューブとなるゴムは最大の必需品でもあった。
道路事情も悪く、極端な品不足のため
粗悪な製品でも跳ぶように売れる。
1947年に朝鮮人連盟が発行した資料によると、
大阪市内全事業者836社のうち22%にあたる190社が
ゴム関連業者であったという。
李氏は闇市でタイヤ、チューブを取り扱っていが、
その統率力を如何なく発揮して「鶴橋国際商店街連盟」を設立し、
粘り強くGHQや警察と交渉して遂に1947年3月に
市場再開を認めさせたのであった。
(引用ここまで)
★《焼跡・闇市からの飛翔》
~李煕健と徐甲虎~②
http://hyogokcci.org/Support/AddEditArticle.aspx?seq=165&cat=8

http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=71068&thread=01
李煕健氏は闇市で培ったビジネス感覚と交渉力で
頭角を表し、1960年12月に設立された日韓経済協会の
理事に名を連ねるようになった。
国交回復に向け、韓日経済交流を民間レベルで推進する
事を目的に設立された団体であったが、
顧問に足立正日本商工会議所会頭、会長には植村甲午郎経団連
会長など経済界の大物がズラリと並び、
韓国側もロッテの辛格浩社長らが

理事に名を連ねていた。
こうして
李煕健氏は闇市のタイヤ売りから
たった15年で一挙に
財界トップクラスに飛翔したのである。
★《焼跡・闇市からの飛翔》
~李煕健と徐甲虎~③
http://hyogokcci.org/(X(1)S(dbv34jrca2in0155jdjvoa45))/Support/AddEditArticle.aspx?seq=166&cat=8&AspxAutoDetectCookieSupport=1
■「西の紡績王」
そしてもう一人、ケタ外れの大物が
この日韓経済協会の副会長に座っていた。
1950年代、毎年のように全国長者番付で
トップテン入りしていた阪本紡績の徐甲虎社長である。
徐氏の上には松下、出光、竹中、井植、石橋など、
姓だけで会社名が分かるような人物が並ぶ中で、である。

1947年の阪本産業の広告。
社名も社長名も字が違うが、
明らかに徐甲虎氏の阪本産業と思われる。
(「在日朝鮮人関係資料集成<戦後編>第5巻」より
徐氏は戦後、大阪泉南に反毛や漁業網を製造する
阪本産業を起業し、焼野原の広がる南船場に営業所を構える
青年実業家であった。従業員は100名を超えていた。
また朝連泉南支部委員長にも就任している。
大阪は戦前、「東洋のマンチェスター」と称されるほど
繊維産業が盛んであったが、
戦後再び
「メイド・イン・ジャパン」の衣料が
世界を席巻することを恐れ、
欧米は厳しい対日規制を
行っていたのである。
しかし1947年、GHQは「生活必需品」という名目で
紡績業の復活を許可した。
これらの情報入手や原料、資金の調達に
徐氏の「朝連幹部」の肩書きはモノを言ったのであろう、
1948年3月には
廃棄処分されていた紡績機を
買い集めることに成功して
関西の紡績業界を牽引し、
さらに財閥解体で手放された
川崎重工の工場を買い取って
またたく間に「西日本最大の紡績王」となったのである。
徐氏は1953年に結成された「大阪韓国人商工会」で
歴代会長を務め、1962年には商工人の大同団結を目指した
「在日韓国人商工連合会」の名誉会長に就任した。
朝連は1949年にGHQにより強制解散させられていたが、
徐氏は企業の効果的成長のためには組織化による政治的影響力が
必要であると痛感していたのであろう、
在日商工人団体の結束を先頭に立って推進していたのである。
またその経済力で東京南麻布にあった邸宅を買い取り、
韓国大使館として提供したのである。
このように在日、日本経済、そして本国に貢献した徐甲虎氏は、
韓日両国に大きな影響力を持つようになったのである。
(引用ここまで)
★もう一つの国際経済学:
移民企業家と本国経済
在日コリアンによる
初期本国投資の事例研究
朴 一
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/111C0000004-11101-7.pdf
日本の中の最大のエスニック・マイノリティ集団である
在日コリアンはどうか。
彼らは居住国・日本や母国・韓国の経済成長にどのような
貢献をしてきたのだろうか。
最近刊行された永野慎一郎編
『韓国の経済発展と在日韓国企業人の役割』
(岩波書店,2010年)は,こうした研究の間隙を埋めるものである。
事実,在日コリアンも華僑・華人と同じように,
日本で蓄えた富を彼らの母国である韓国に還流させてきた。
彼らの本国投資は日韓が国交を結んだ1965年から本格化し,
1974年には本国投資の窓口になる在日韓国人本国投資協会が
設立されたことで,その後,件数・金額ともに急増していく
ことになった。
韓国が高度成長を遂げた1965年から78年まで,
在日コリアンが韓国に投資した総額は10億ドルを超えており,
驚くべきことに同期間中の韓国に対する外国人投資の
総額9億3700万ドルを上回っている。
こうしたデータを見るだけでも,在日コリアンの本国投資が
成長途上にあった韓国の外貨不足を補い,
経済成長に大きく貢献してきたことが判る。
在日韓国人の本国投資は資本投資や企業進出だけではない。
彼らの中には,故郷に橋や道路を造ったり,学校を建てたり,
また貧しい農村に食程・衣類・電化製品などの生活物資を
送り続けた者も少なくない。
こうした在日コリアンの祖国に対する有形・無形の援助や
投資が,韓国の経済成長の基盤を造ったと言っても
過言ではないだろう。
Ⅱ.本国投資の先駆者:徐甲虎(阪本栄一)の場合
戦後,日本の紡績王と言われた徐甲虎(日本名:坂本栄一)は,
そうした状況の中で在日コリアンに本国投資の道を
切り開いた先駆者であったと言える。
徐甲虎は1915年,
韓国の慶尚南道蔚州郡三南面に生まれた。
1928年,徐は故郷の慶尚南道を離れ,単身日本に渡ってきた。
当時14歳だった徐は,大阪の商家に丁雅奉公に入り,
しばらく機織り技術を学んだ。
機織り技術を習得した徐は,商家を飛び出し,アメ売り,
廃品回収,タオル工場の油差しなど,数えきれないほど多くの
職業を経験したという。
徐にとってのビジネスチャンスは祖国解放後,突然訪れた。
戟後,軍需物資の売買で一儲けした徐は,
終戦直後に廃棄処分された紡績機を買い集めて,
1948年3月に坂本紡績を設立。
さらに徐は勢いに乗って1950年春には,泉南市にあった
戟時中の川崎重工業の工場を2000万円で買いとり第2工場を建設し,
大阪紡績を設立。
短期間に紡績工場の規模を拡張した徐に確かな勝算があった
わけではない。
しかし,同年6月,工場の規模拡大の時期を見計らったように,
朝鮮戟争が勃発。
この戦争の特需景気の波に乗って,彼の紡績会社は急成長を
遂げることになった。
その後も,徐の勢いはとまらず,1955年には経営不振に陥っていた
常陸紡績を買収。1961年,徐は年商100億円を稼ぎだす
西日本最大の紡績王となり,1500人の従業員と18万錘の
設備を有する阪本紡績グループは,前後日本の経済復興を支えた
10大紡績の一つに数えられる大企業に成長した。
また紡績業で成功をおさめた徐は,
やがて事業を不動産,ホテル,ボウリング場まで拡大するなど,
あらゆるビジネスに旺盛な意欲を示した。
徐が当時,経営者としてどれくらい成功したかを判断する
尺度として,高額所得者ランキング(長者番付)というものがある。
徐は1950年所得1億2000万円を稼ぎだし,いきなりこの年の
大阪府内の長者番付のトップに躍り出る。
全国的にはどれくらいのレベルだったのか。
1950年代の日本全体の長者番付を見てみると,
松下電器(現在のパナソニック)の創業者である松下幸之助が
一貫してトップの座を維持しているが,徐甲虎は驚いたことに
1952年度所得3億6966万円で長者番付第5位,
57年度所得1億332万円で長者番付第8位,
59年度所得1億299万円で長者番付第8位に輝いている。
彼は50年代の「高額所得者ランキング」において,
毎年のように松下幸之助,石橋正二郎,井植歳男,出光佐三など,
そうそうたる財界人たちとしのぎを削っていたのである。
3) 徐が25歳のとき,1940年の時点で阪本紡績の前身となる
大きな紡績工場を買収していたいう論塙もある
1955年,大阪の韓国総領事館を心斉橋に建設したときには
韓国政府に2000万円を寄付し,大阪の民団には毎年500万円の
賛助金を提供し,在日韓国人子弟の民族教育のために大阪に
韓国学校を建設,自ら理事長として年間2400万円も寄付していたという。
さらに当時時価50億円とも言われた東京麻布の超高級住宅街に
位置していた広大な土地
(旧伊達藩の外屋敷,後に元米内光政海相の私邸)を数億円で
買い取って,駐日大使館用の土地として韓国政府に寄付したことは,
余りにも有名である。
(引用ここまで)
*管理人注)
東京都港区南麻布1丁目―の駐日韓国大使館がたつ
その土地は戦前、日本人政治家・松平賴壽伯爵が
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E5%AF%BF
別荘として所有していた。
当時、時価50億円と言われた松平邸を
たったの数億円で買い叩いた経緯が知りたいですね。
*********************************************
http://2010151515p380.wordpress.com/2009/03/18/%e5%9c%a8%e6%97%a5%e9%9f%93%e5%9b%bd%e4%ba%ba%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%ae%e8%b2%a2%e7%8c%ae%e3%81%af%e5%a0%b1%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%8b-%e9%a7%90%e6%97%a5%e9%9f%93%e5%9b%bd%e5%85%ac/
1946年、徐氏が韓国に別荘を無償で提供した
という記録が残されている。それをふまえると、
徐氏が土地と建物を購入した時期は終戦直後だと
考えられる。
当時の南麻布周辺は、日本人なら誰もが憧れる一等地だった。
大使館の土地を現在の市価に換算すると、
1兆ウォン(約1234億円)に達する。
**********************************************
鍵は、この辺りにありそうだな・・・
★松平俊子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%9d%be%e5%b9%b3%e4%bf%8a%e5%ad%90
松平 俊子は、明治時代の華族。侯爵鍋島直大の六女。
生母は側室。
伯爵松平賴壽の弟・海軍大佐胖と結婚した。
賴壽の跡を継いだ伯爵松平頼明
李鍵公妃誠子らの母である。
★戦後の共産党と朝鮮総連の前身の
在日本朝鮮人連盟、
在日朝鮮統一民主戦線との秘話
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n118672
当時を憶えている在日の古老たちによると、
「味噌とか醤油とか木炭を配給したりして、
今でいう生協のようなものだった」
「隠退蔵物資を摘発して、
在日の商工業者へ
原材料を提供することもやっていた」
という。
(引用ここまで)
★[証言3]
宮城県共産党と
仙台の在日朝鮮人社会
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai_b01/tz_b0109.html
彼らは戸ごとに鉄屑、ボロ布古紙類を買い集めて、
ヤミ米を都会に運ぶ「カツギ屋」稼業を日常的に行なって、
夜ともなると暗いランプの下でさまざまな飴菓子や餡(あん)
を造りました。また、木陰、森、縁の下に埋められた一〇数個の
カメでドブロクを醸造して、それらを仙台のヤミ市街や飲食街に
組織的に売りさばいていました。
(略)
ドブロクの取り締まりと配給制度
―R ドブロクの取り締まりはいつごろはじまって、
どのように対応したんですか。
高橋 一九四八年以前からありました。
とにかく戦後、朝鮮の方々が生きるには
それしかなかったんです。
―E そのとき、県の共産党は、朝鮮人側に協力したんですか。
高橋 彼らを救うには、協力せざるをえませんでした。
たとえば彼らが病気になれば、党のシンパの医者に頼んで、
なんとかしてもらいましたし、
そういう世話役が我々の大きな役割でした。
―M 配給制度で朝鮮人に対する
優遇ということがあったんですか。
僕は、ドブロクだけで生きるのではなく、
連合国なみの配給がどこかで紛れこんでいたのではないか
と疑っています。
台湾人は明らかにGHQと同じ扱いで、
大変いいものが配られているのですが、
間に挟まれた朝鮮人たちの配給制度は、
日本人とは違っていなかったんですか。
高橋 仙台に小田原とか原の町という朝鮮人密集地がありますが、
ここで、一九四六年にドブロクの一斉の手入れがあったんです。
大部挙げられたんですが、そのときの県の言い分は、
日本人よりも何合とか米を
余計に配給したということでした。
それをヤミ米として売って、ドブロクを作る材料費にした
ということで、県が我々に対応したことがありました。
―E 刑事側の資料から言うと、国に帰るということで、
特配をしたようですが。
それは一九四六年まででしょう。
高橋 それは間違いないです。
それをなぜヤミ米にする必要があるんだというような
団体交渉があったんです。
朝鮮人側と県との交渉で我々も立ち会って
そのことを知りました。もうひとつ、
秋田で朝鮮人が暴動を起こして、八〇〇人ほどが
ストライキをやりましたが、
そのときもやっぱりもらっています。
―M ぼくは当然だと思います。帰っていく人たちは、
帰る途中の食料を確保しなければならないわけですから。
しかし、全部が帰らないで、
一種、利権化していく、
ヤミ米化していくという問題は、
当時のものを読むと、けっこう出てきます。
(中略)
隠退蔵物資摘発運動と朝鮮人の協力
遠藤 敗戦から一九四七年の二・一闘争まで、
たとえば、国鉄労組の立場からだと、
隠退蔵物資摘発運動というのがあったんです。
仙台にも航空廠があって、その倉庫には大豆が
いっぱいあったりしましたが、それを摘発しました。
また、日本陸軍が、蔵王のふもとの農家の蔵などに、
建築資材と称してバターや缶詰などの食料物資を
隠していました。
その情報をよく知っているのが
朝鮮人だったんです。
釘などの建築資材は、国鉄が引き取って、
その後の鉄道建設の基本材料にしましたが、
報せてくれた朝鮮人たちには、食料などの物資を、
ある程度まとめてポンと渡すということはよくありました。
高橋 共産党が最初に手をかけたのは、隠退蔵物資の摘発でした。
全国的にやりましたが、それを一生懸命手伝ってくれたのが
朝鮮人たちでした。
遠藤 そして、情報をよく知っていました。
―M もしかすると、アメリカ軍が朝鮮人に情報を流したという
ことがあるのではないでしょうか。
GHQが最初日本の軍事物資の処分についてやっていて、
実際の兵器になるものは破壊しているわけですから。
(引用ここまで)

昭和22年、闇米を拒否して栄養失調死
を遂げた青年判事の遺文集。
http://d.hatena.ne.jp/nisikiyama2-14+zero/20130507/1367932629
日共産党は、東京滝野川区と板橋区で
人民食糧管理委員会を結成し、
「食糧の公平な分配」「隠匿物資の摘発」
「天皇制の打倒」を決議した。
共産党系の教員及び労働組合と
反日朝鮮人及び中国人の団体は、
食糧危機突破議会を結成し、
武力で元陸軍造兵廠の倉庫を襲撃して
本土決戦用の物資を強奪した。
朝鮮人や中国人は、
飢えた日本人に分けるのではなく、
闇市で売って大金を手に入れようと
したのである。
・ ・ ・
2月から、食糧不足が深刻な東京で配給が始まった。
前年度の大凶作と農家の米隠匿によって、
農林省が計画していた米の集荷率は低下した。
(中略)
2月27日 日本政府は、食糧緊急措置令を公布した。
GHQも,日本共産党が結成した人民食糧管理委員会の
真の狙いが、天皇制度を打倒して日本を共産主義化する
事にあると分析して警戒して、
アメリカ軍の余剰食糧の放出を許可した。
ワシントンも、日本にソ連の影響力が強まるのを警戒して、
食糧支援を認めた。
(中略)
春。京浜地区のみで1,300人の餓死者が出て、
それ以上の飢餓民が主要都市の焼け野原中で生死の境を
彷徨っていた。
敗戦国の飢餓民は、忠君・愛国という心の支えを失い、
慰め合い励まし合う家族を戦争で亡くして精神的に
追い詰められ、自分の明日への希望も家族との将来への
夢も持てず、ただひとり孤独に餓死するその時を
寒空の下でうずくまって待つのみであった。
絶望の中で孤独死・孤立死・無縁死が、
当たり前の時代であった。
日本政府は、これ以上の餓死者を出さない為に、
食糧確保の為に奔走していた。
公衆衛生局長クロフォード・サムズ大佐は、
5月から8月にかけて
都市住民に大量餓死の危険があると考えた。
・ ・ ・
4月24日 新聞は、主食(米)の遅配は半月となり
深刻な飢餓状態にあると報道した。
東京都下の主食配給所541ヶ所内504ヶ所で、
平均3.7日分の遅配となっていた。
飢えた市民は、
高価なヤミ米を買うか、
地方に食べ物を買い出しに出た。
(引用ここまで)
【まとめ】
朝鮮から無一文で
日本に出稼ぎにやってきた徐甲虎少年が
終戦前後の混乱期に
>軍需物資の売買で一儲けした
一体、
その軍需物資は何処で手に入れたのだろう?
GHQの、在日朝鮮人連盟への横流しですね。
終戦後、日本人が食糧難で飢餓に苦しみ
多くの餓死者を出している中で・・・
>闇市で一儲けした
日本の軍部が、本土決戦を想定して備蓄してあった
隠退蔵物資を日本共産党と共に強奪し、
闇市で高値で売る。
>ヤミ米
日本人への米配給が不足する中
日本政府は帰国する朝鮮人達に”特配”していた。
しかし、居残った彼らは闇市で高値で売り
ヤミ米の利権を握っていた。
>戦後再び
「メイド・イン・ジャパン」の衣料が
世界を席巻することを恐れ、
欧米は厳しい対日規制を
行っていた
日本人経営の紡績会社は操業を禁止され
紡績機は廃棄処分を余儀なくされていた・・・
徐甲虎は朝連幹部の地位を利用して、GHQから
「紡績業復活許可」をいち早く聞き出し
日本人紡績業者よりも早く、
おそらく廃棄処分されていた紡績機を安値で
二足三文で買いたたいてかき集める事に成功したのだろう。
これも、当時スクラップ回収の利権を握っていた
同胞たちの力を借りて・・・
25歳(1940年)で既に紡績工場を手に入れていた
という逸話も信憑性があるね。
戦前、裸一貫で”故郷に錦を飾るため”に日本に出稼ぎに
やってきた彼らの立身出世話。
大阪・鶴橋で闇市を牛耳っていた
平田義夫こと李煕健
http://tinymsg.appspot.com/yB9%E3%80%80%E3%81%99%E3%81%A7%E3%81%AB%E5%BA%9C%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E3%80%81%E5%B8%82%E9%95%B7%E4%BB%A5%E4%B8%8B%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%81%AE%E8%B7%8B%E6%89%88%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AD%E3%81%88%E3%80%82
「西日本最大の紡績王」と呼ばれた
阪本栄一こと徐甲虎
ライバル社を次々と潰したロッテ創業者の
重光武雄こと辛格浩
彼らに共通するのは、敗戦後の日本で
一代で財を成した経緯の怪しさ!
重光武雄こと辛格浩は
★ZAITEN』 2008年1月号
レポート:
日韓をまたぐ「4兆円財閥」の実像
ロッテ 「引き裂かれる重光王国」
ジャーナリスト 田中幾太郎
http://www.zaiten.co.jp/zaiten/200801.shtml
太平洋戦争のさなか、さまざまなアルバイトを
しながら大学に通っていた重光が、
在学中(46年3月卒業)に事業を始めるきっかけとなった
エピソードがある。
「辛(重光)氏自身が語っているところによると、
日頃からつきあいのあった“ハナミツ”という
質屋を営む老人から、6万円を出すから工場をつくって
不足している旋盤用の油を生産してみないかと申し出が
あったという。
それで工場を始めるわけですが、いくら親しくなっていても、
その当時の在日の置かれている立場を考えれば、
日本人がポンと大金を出すとは考えにくい。
しかも、辛氏はまだ学生ですよ。
眉唾としか思えないんですがね」(韓国紙記者)
戦時中と現在の貨幣価値を公務員の初任給や消費者物価で
比較すると、少なくとも1500倍以上。
となると、当時の6万円は9000万円以上ということになる。
日本人か韓国人かは別にしても、それだけの額を
借用書1枚で20代前半の学生に出資するとは、
にわかに信じられない。
また、ハナミツなる老人についても、質屋だったこと以外、
具体的なことはほとんど語られていないのである。
ともかくも、資金を得た重光は東京・大森に工場をつくり、
旋盤用の油の生産に乗り出した。
だが、まもなく空襲を受け、工場は全焼。
次に東京・八王子の民家を手に入れたが、工場が順調に
稼動し始めた矢先に、やはり空襲で全焼してしまった。
終戦の数日前のことだった。
(中略)
徹底した宣伝戦略でライバルを追い落とし、60年代後半には
ガムのシェアの5割を占めるまでになるロッテだが、
重光は気が気ではなかった。68年末に開かれた日米合同会議で、
3年後の72年初頭からガムを自由化するとの話が持ち上がったのだ。
リグレー社が日本に上陸すれば、太刀打ちできないのは
目に見えていた。
(中略)
「重光氏は脅威を感じ、深い関係にあった岸信介氏に
リグレー進出阻止を頼んだ」と話すのは、 政治部OBだ。
「リグレーが日本に進出する72年、
関税率は逆に35%から40%に引き上げられるという事態に
なりました。岸氏の命を受けた筆頭秘書の中村正芳氏が
農林省や大蔵省に強く働きかけたんです」
(中略)
「岸と重光を結びつけたのは
町井久之(韓国名・鄭建永)です。
兄貴分にあたる児玉誉士夫を通して岸と懇意になった町井が、
重光を引き合わせたのだと思われます」
町井は戦後、愚連隊を束ね、暴力団「東声会」を結成。
東京・銀座界隈では「銀座の虎」と恐れられた。
(中略)
「戦争末期の物資がない時代に、
どうやって旋盤用の油の
原料を手に入れたのか。
さらには、
重光は戦争が終わってすぐに、
石鹸や化粧品をつくり始めている。
原料の油脂はどうしたのか。
闇物資を調達するしかない。
どうもこの頃、調達に
町井が介在していた節がある」
(週刊誌記者)
「在日韓国・朝鮮人は
日本の植民地政策で土地を奪われ
強制徴用で連行された人々で
戦前から現在に至るまで
創氏改名を強要され
日本人による差別や貧困と戦いながら
生きざるを得なかったマイノリティである」
・・・と、繰り返し繰り返し刷り込まれてきたけれど
一代で、しかも戦後の一時期に、突如
莫大な富を得た朝鮮出身者達については
「美談」として伝えられても
何故、彼らが巨万の富を手に入れられたのか
解明されていない・・・
ほとんどが、こんな論調
★韓国経済発展への在日韓国人の寄与
大東文化大学 永野 慎一郎 教授
http://www.toyo-keizai.co.jp/news/topics/2009/post_2275.php
さて、当ブログでも
2011年5月に、この徐甲虎産を取り上げている。
彼の
”25歳(1940年)で既に
紡績工場を手に入れていたという逸話”
の謎を取り上げていた。
★日本は誰の物?
君が代条例を批判する反日サヨクの正体。
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-1171.html
「1951年10月に在日韓国人の徐甲號が
現在の大使館の土地および建物を購入し、
韓国政府に無償貸与。
1962年11月11日に寄贈された。」
と記載されている。
終戦からたった6年で、2万坪以上の一等地を
購入できた徐甲號とは一体何者なのだろう・・・
●戦後日韓経済関係の形成における
両国財界人の役割
慶応大学総合政策学部総合政策学科教授 柳町功
(現代韓国論, 東アジア経営史・財閥史(韓国・日本))
http://www.jkcf.or.jp/history/first/3/10-0j_yanagimachi_j.pdf
P6~P7
3-1 在日韓国人企業家の存在と貢献
(1)企業家・徐甲虎
徐甲虎(日本名;坂本栄一)は坂本紡績社長である。
徐甲虎は1928年、14歳のときに日本に渡り、
さまざまな職種を経験したあと、
太平洋戦争末期の軍需品納入で財を成し、
戦後、廉価で紡績機械を集めて
紡績事業を開始した。
注)東洋紡績などは、戦時中は軍事工場になっていた。
(中略)
大阪府泉佐野市の羽倉崎駅周辺に
広大な本社工場があったそうだ。
紡績会社に勤める女工は結婚すると辞めさせられたが、
在日系社員は結婚後も働く事が出来た。
(中略)
歴史的経緯というのなら
終戦直後の占領期に、日本の元軍事施設などから
鉄材などを盗みそれを転売して大もうけをしてきた
「アパッチ族」なる在日集団や
(資源ごみとして収集されている物を不法に回収する人々。
第二次世界大戦後の日本において軍事施設跡・工場跡
などから鉄くずを不法に回収する人々を
「アパッチ族」と呼んだ。
アパッチ族を題材とした小説には、開高健『日本三文オペラ』、
梁石日『夜を賭けて』、小松左京『日本アパッチ族』などがある。)
(中略)
日本軍に協力して儲けた金で
紡績王にまで登りつめた徐甲號こと
通名・坂本栄一の存在を、
サヨク達はどう説明するのだろう?
(以下略)
さて、この【西日本最大の紡績王】
徐甲虎の経営する坂本紡績では、
再三の労働基準法破りの
過酷な労働を従業員に強いていたそうでして・・・
★『阪本紡績事件』
http://www.zenkiren.com/jinji/hannrei/shoshi/01176.html
★大阪労働基準局に出向
― 紡績女子労働者の深夜業と直面―
― 坂本紡績労組結成の経過 ―
月刊「権利闘争」 2007年 7・8月合併号より
http://park8.wakwak.com/~kenmonken/mokuji/keto0707-08.htm
因みに、
当時人気歌手だった「小畑実」は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%95%91%E5%AE%9F_(%E6%AD%8C%E6%89%8B)
徐甲虎の娘婿なのだそうだ。
”歴史認識”、改まりましたか?

政治 ブログランキングへ
東京の超一等地に開設できたワケ
在日韓国人の実業家が土地・建物を無償で寄贈
朝鮮日報 2013/07/18 08:21
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/07/18/2013071800465.html?ent_rank_news
東京都港区南麻布で建設が進められていた
在日韓国大使館の新庁舎が18日に開館式を迎える。
新庁舎は地下1階、地上7階建てで、
敷地面積は1万218平方メートル(3091坪)だ。
東京でもとりわけ地価が高いとされる場所に
韓国大使館を開設できたのは、元々在日韓国人の
故・徐甲虎(ソ・ガプホ)氏(1915-76)=写真=が
土地と建物を無償で寄贈したからだった。
現在の蔚山市出身の徐氏は、14歳のときに日本に渡り、
「阪本紡織」を設立するなど
一代で財を成した人物だ。
一時は日本で高額納税者1位に躍り出たこともあった。
1960年代に阪本紡織を設立した徐氏は、韓国の繊維産業の
発展にも大きく貢献した。
62年には朴正煕(パク・チョンヒ)国家再建最高会議議長
(後に大統領)と面会し、大使館用の土地と建物を寄贈した。
韓国政府は2010年、老朽化した大使館の庁舎を解体し、
約800億ウォン(約71億2300万円)の費用をかけ新庁舎を建設した。
大使館側は、徐氏による土地や建物の寄贈について
後世に伝えるため、新庁舎1階に在日韓国公館の歴史を紹介する
資料館を設け、徐氏の雅号にちなんで「東鳴室」と命名した。
東鳴室には徐氏に関する資料を展示するとともに、
胸像も設置される。大使館側は開館式に際し、徐氏の遺族の
ソ・サンオク、ソ・サンウン、ソ・ギョンナムの各氏に
感謝状を授与する。孫のソ・ヘンジャさん(42)は
「誰よりも国を愛した祖父は、
自分だけでなくほかの在日韓国人の企業に対しても、
韓国への投資を積極的に働き掛けた。
祖父の業績が評価されるきっかけになればと思う」 と語った。
★【 在日商工人100年エピソード 第六回 】
《焼跡・闇市からの飛翔》
~李煕健と徐甲虎~①
http://hyogokcci.org/Support/AddEditArticle.aspx?seq=164&cat=8
食糧難打開のため日本政府は外国からの援助を
求めていたが、GHQからは闇市に溢れているから
まずそれを取り締まれ、と言ってきたのである。
そのためこの日、強制封鎖が断行されたのであった。
闇市商店主の大部分は日本人であったが、
鶴橋では「戦勝国民」となった
韓国人が大きな力を持っていた。
(中略)
「団結と自制」に導いた人物が
当時30歳の平田義夫であった。
韓国名が李煕健。
闇市には食料品だけでなく、あらゆる日用品が出回っていた。
統制と公定価格で原材料が縛られていた時代に
どのように入手したのか定かではないが、
「戦勝国民」である韓国人は
GHQをバックにさまざまなルートで
仕入れをしていた。
中でも最も出回っていたのがゴムである。
当時の物流は何と言っても自転車とリヤカーが主流で、
タイヤ、チューブとなるゴムは最大の必需品でもあった。
道路事情も悪く、極端な品不足のため
粗悪な製品でも跳ぶように売れる。
1947年に朝鮮人連盟が発行した資料によると、
大阪市内全事業者836社のうち22%にあたる190社が
ゴム関連業者であったという。
李氏は闇市でタイヤ、チューブを取り扱っていが、
その統率力を如何なく発揮して「鶴橋国際商店街連盟」を設立し、
粘り強くGHQや警察と交渉して遂に1947年3月に
市場再開を認めさせたのであった。
(引用ここまで)
★《焼跡・闇市からの飛翔》
~李煕健と徐甲虎~②
http://hyogokcci.org/Support/AddEditArticle.aspx?seq=165&cat=8
http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=71068&thread=01
李煕健氏は闇市で培ったビジネス感覚と交渉力で
頭角を表し、1960年12月に設立された日韓経済協会の
理事に名を連ねるようになった。
国交回復に向け、韓日経済交流を民間レベルで推進する
事を目的に設立された団体であったが、
顧問に足立正日本商工会議所会頭、会長には植村甲午郎経団連
会長など経済界の大物がズラリと並び、
韓国側もロッテの辛格浩社長らが
理事に名を連ねていた。
こうして
李煕健氏は闇市のタイヤ売りから
たった15年で一挙に
財界トップクラスに飛翔したのである。
★《焼跡・闇市からの飛翔》
~李煕健と徐甲虎~③
http://hyogokcci.org/(X(1)S(dbv34jrca2in0155jdjvoa45))/Support/AddEditArticle.aspx?seq=166&cat=8&AspxAutoDetectCookieSupport=1
■「西の紡績王」
そしてもう一人、ケタ外れの大物が
この日韓経済協会の副会長に座っていた。
1950年代、毎年のように全国長者番付で
トップテン入りしていた阪本紡績の徐甲虎社長である。
徐氏の上には松下、出光、竹中、井植、石橋など、
姓だけで会社名が分かるような人物が並ぶ中で、である。
1947年の阪本産業の広告。
社名も社長名も字が違うが、
明らかに徐甲虎氏の阪本産業と思われる。
(「在日朝鮮人関係資料集成<戦後編>第5巻」より
徐氏は戦後、大阪泉南に反毛や漁業網を製造する
阪本産業を起業し、焼野原の広がる南船場に営業所を構える
青年実業家であった。従業員は100名を超えていた。
また朝連泉南支部委員長にも就任している。
大阪は戦前、「東洋のマンチェスター」と称されるほど
繊維産業が盛んであったが、
戦後再び
「メイド・イン・ジャパン」の衣料が
世界を席巻することを恐れ、
欧米は厳しい対日規制を
行っていたのである。
しかし1947年、GHQは「生活必需品」という名目で
紡績業の復活を許可した。
これらの情報入手や原料、資金の調達に
徐氏の「朝連幹部」の肩書きはモノを言ったのであろう、
1948年3月には
廃棄処分されていた紡績機を
買い集めることに成功して
関西の紡績業界を牽引し、
さらに財閥解体で手放された
川崎重工の工場を買い取って
またたく間に「西日本最大の紡績王」となったのである。
徐氏は1953年に結成された「大阪韓国人商工会」で
歴代会長を務め、1962年には商工人の大同団結を目指した
「在日韓国人商工連合会」の名誉会長に就任した。
朝連は1949年にGHQにより強制解散させられていたが、
徐氏は企業の効果的成長のためには組織化による政治的影響力が
必要であると痛感していたのであろう、
在日商工人団体の結束を先頭に立って推進していたのである。
またその経済力で東京南麻布にあった邸宅を買い取り、
韓国大使館として提供したのである。
このように在日、日本経済、そして本国に貢献した徐甲虎氏は、
韓日両国に大きな影響力を持つようになったのである。
(引用ここまで)
★もう一つの国際経済学:
移民企業家と本国経済
在日コリアンによる
初期本国投資の事例研究
朴 一
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/111C0000004-11101-7.pdf
日本の中の最大のエスニック・マイノリティ集団である
在日コリアンはどうか。
彼らは居住国・日本や母国・韓国の経済成長にどのような
貢献をしてきたのだろうか。
最近刊行された永野慎一郎編
『韓国の経済発展と在日韓国企業人の役割』
(岩波書店,2010年)は,こうした研究の間隙を埋めるものである。
事実,在日コリアンも華僑・華人と同じように,
日本で蓄えた富を彼らの母国である韓国に還流させてきた。
彼らの本国投資は日韓が国交を結んだ1965年から本格化し,
1974年には本国投資の窓口になる在日韓国人本国投資協会が
設立されたことで,その後,件数・金額ともに急増していく
ことになった。
韓国が高度成長を遂げた1965年から78年まで,
在日コリアンが韓国に投資した総額は10億ドルを超えており,
驚くべきことに同期間中の韓国に対する外国人投資の
総額9億3700万ドルを上回っている。
こうしたデータを見るだけでも,在日コリアンの本国投資が
成長途上にあった韓国の外貨不足を補い,
経済成長に大きく貢献してきたことが判る。
在日韓国人の本国投資は資本投資や企業進出だけではない。
彼らの中には,故郷に橋や道路を造ったり,学校を建てたり,
また貧しい農村に食程・衣類・電化製品などの生活物資を
送り続けた者も少なくない。
こうした在日コリアンの祖国に対する有形・無形の援助や
投資が,韓国の経済成長の基盤を造ったと言っても
過言ではないだろう。
Ⅱ.本国投資の先駆者:徐甲虎(阪本栄一)の場合
戦後,日本の紡績王と言われた徐甲虎(日本名:坂本栄一)は,
そうした状況の中で在日コリアンに本国投資の道を
切り開いた先駆者であったと言える。
徐甲虎は1915年,
韓国の慶尚南道蔚州郡三南面に生まれた。
1928年,徐は故郷の慶尚南道を離れ,単身日本に渡ってきた。
当時14歳だった徐は,大阪の商家に丁雅奉公に入り,
しばらく機織り技術を学んだ。
機織り技術を習得した徐は,商家を飛び出し,アメ売り,
廃品回収,タオル工場の油差しなど,数えきれないほど多くの
職業を経験したという。
徐にとってのビジネスチャンスは祖国解放後,突然訪れた。
戟後,軍需物資の売買で一儲けした徐は,
終戦直後に廃棄処分された紡績機を買い集めて,
1948年3月に坂本紡績を設立。
さらに徐は勢いに乗って1950年春には,泉南市にあった
戟時中の川崎重工業の工場を2000万円で買いとり第2工場を建設し,
大阪紡績を設立。
短期間に紡績工場の規模を拡張した徐に確かな勝算があった
わけではない。
しかし,同年6月,工場の規模拡大の時期を見計らったように,
朝鮮戟争が勃発。
この戦争の特需景気の波に乗って,彼の紡績会社は急成長を
遂げることになった。
その後も,徐の勢いはとまらず,1955年には経営不振に陥っていた
常陸紡績を買収。1961年,徐は年商100億円を稼ぎだす
西日本最大の紡績王となり,1500人の従業員と18万錘の
設備を有する阪本紡績グループは,前後日本の経済復興を支えた
10大紡績の一つに数えられる大企業に成長した。
また紡績業で成功をおさめた徐は,
やがて事業を不動産,ホテル,ボウリング場まで拡大するなど,
あらゆるビジネスに旺盛な意欲を示した。
徐が当時,経営者としてどれくらい成功したかを判断する
尺度として,高額所得者ランキング(長者番付)というものがある。
徐は1950年所得1億2000万円を稼ぎだし,いきなりこの年の
大阪府内の長者番付のトップに躍り出る。
全国的にはどれくらいのレベルだったのか。
1950年代の日本全体の長者番付を見てみると,
松下電器(現在のパナソニック)の創業者である松下幸之助が
一貫してトップの座を維持しているが,徐甲虎は驚いたことに
1952年度所得3億6966万円で長者番付第5位,
57年度所得1億332万円で長者番付第8位,
59年度所得1億299万円で長者番付第8位に輝いている。
彼は50年代の「高額所得者ランキング」において,
毎年のように松下幸之助,石橋正二郎,井植歳男,出光佐三など,
そうそうたる財界人たちとしのぎを削っていたのである。
3) 徐が25歳のとき,1940年の時点で阪本紡績の前身となる
大きな紡績工場を買収していたいう論塙もある
1955年,大阪の韓国総領事館を心斉橋に建設したときには
韓国政府に2000万円を寄付し,大阪の民団には毎年500万円の
賛助金を提供し,在日韓国人子弟の民族教育のために大阪に
韓国学校を建設,自ら理事長として年間2400万円も寄付していたという。
さらに当時時価50億円とも言われた東京麻布の超高級住宅街に
位置していた広大な土地
(旧伊達藩の外屋敷,後に元米内光政海相の私邸)を数億円で
買い取って,駐日大使館用の土地として韓国政府に寄付したことは,
余りにも有名である。
(引用ここまで)
*管理人注)
東京都港区南麻布1丁目―の駐日韓国大使館がたつ
その土地は戦前、日本人政治家・松平賴壽伯爵が
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E5%AF%BF
別荘として所有していた。
当時、時価50億円と言われた松平邸を
たったの数億円で買い叩いた経緯が知りたいですね。
*********************************************
http://2010151515p380.wordpress.com/2009/03/18/%e5%9c%a8%e6%97%a5%e9%9f%93%e5%9b%bd%e4%ba%ba%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%ae%e8%b2%a2%e7%8c%ae%e3%81%af%e5%a0%b1%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%8b-%e9%a7%90%e6%97%a5%e9%9f%93%e5%9b%bd%e5%85%ac/
1946年、徐氏が韓国に別荘を無償で提供した
という記録が残されている。それをふまえると、
徐氏が土地と建物を購入した時期は終戦直後だと
考えられる。
当時の南麻布周辺は、日本人なら誰もが憧れる一等地だった。
大使館の土地を現在の市価に換算すると、
1兆ウォン(約1234億円)に達する。
**********************************************
鍵は、この辺りにありそうだな・・・
★松平俊子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e6%9d%be%e5%b9%b3%e4%bf%8a%e5%ad%90
松平 俊子は、明治時代の華族。侯爵鍋島直大の六女。
生母は側室。
伯爵松平賴壽の弟・海軍大佐胖と結婚した。
賴壽の跡を継いだ伯爵松平頼明
李鍵公妃誠子らの母である。
★戦後の共産党と朝鮮総連の前身の
在日本朝鮮人連盟、
在日朝鮮統一民主戦線との秘話
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n118672
当時を憶えている在日の古老たちによると、
「味噌とか醤油とか木炭を配給したりして、
今でいう生協のようなものだった」
「隠退蔵物資を摘発して、
在日の商工業者へ
原材料を提供することもやっていた」
という。
(引用ここまで)
★[証言3]
宮城県共産党と
仙台の在日朝鮮人社会
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai_b01/tz_b0109.html
彼らは戸ごとに鉄屑、ボロ布古紙類を買い集めて、
ヤミ米を都会に運ぶ「カツギ屋」稼業を日常的に行なって、
夜ともなると暗いランプの下でさまざまな飴菓子や餡(あん)
を造りました。また、木陰、森、縁の下に埋められた一〇数個の
カメでドブロクを醸造して、それらを仙台のヤミ市街や飲食街に
組織的に売りさばいていました。
(略)
ドブロクの取り締まりと配給制度
―R ドブロクの取り締まりはいつごろはじまって、
どのように対応したんですか。
高橋 一九四八年以前からありました。
とにかく戦後、朝鮮の方々が生きるには
それしかなかったんです。
―E そのとき、県の共産党は、朝鮮人側に協力したんですか。
高橋 彼らを救うには、協力せざるをえませんでした。
たとえば彼らが病気になれば、党のシンパの医者に頼んで、
なんとかしてもらいましたし、
そういう世話役が我々の大きな役割でした。
―M 配給制度で朝鮮人に対する
優遇ということがあったんですか。
僕は、ドブロクだけで生きるのではなく、
連合国なみの配給がどこかで紛れこんでいたのではないか
と疑っています。
台湾人は明らかにGHQと同じ扱いで、
大変いいものが配られているのですが、
間に挟まれた朝鮮人たちの配給制度は、
日本人とは違っていなかったんですか。
高橋 仙台に小田原とか原の町という朝鮮人密集地がありますが、
ここで、一九四六年にドブロクの一斉の手入れがあったんです。
大部挙げられたんですが、そのときの県の言い分は、
日本人よりも何合とか米を
余計に配給したということでした。
それをヤミ米として売って、ドブロクを作る材料費にした
ということで、県が我々に対応したことがありました。
―E 刑事側の資料から言うと、国に帰るということで、
特配をしたようですが。
それは一九四六年まででしょう。
高橋 それは間違いないです。
それをなぜヤミ米にする必要があるんだというような
団体交渉があったんです。
朝鮮人側と県との交渉で我々も立ち会って
そのことを知りました。もうひとつ、
秋田で朝鮮人が暴動を起こして、八〇〇人ほどが
ストライキをやりましたが、
そのときもやっぱりもらっています。
―M ぼくは当然だと思います。帰っていく人たちは、
帰る途中の食料を確保しなければならないわけですから。
しかし、全部が帰らないで、
一種、利権化していく、
ヤミ米化していくという問題は、
当時のものを読むと、けっこう出てきます。
(中略)
隠退蔵物資摘発運動と朝鮮人の協力
遠藤 敗戦から一九四七年の二・一闘争まで、
たとえば、国鉄労組の立場からだと、
隠退蔵物資摘発運動というのがあったんです。
仙台にも航空廠があって、その倉庫には大豆が
いっぱいあったりしましたが、それを摘発しました。
また、日本陸軍が、蔵王のふもとの農家の蔵などに、
建築資材と称してバターや缶詰などの食料物資を
隠していました。
その情報をよく知っているのが
朝鮮人だったんです。
釘などの建築資材は、国鉄が引き取って、
その後の鉄道建設の基本材料にしましたが、
報せてくれた朝鮮人たちには、食料などの物資を、
ある程度まとめてポンと渡すということはよくありました。
高橋 共産党が最初に手をかけたのは、隠退蔵物資の摘発でした。
全国的にやりましたが、それを一生懸命手伝ってくれたのが
朝鮮人たちでした。
遠藤 そして、情報をよく知っていました。
―M もしかすると、アメリカ軍が朝鮮人に情報を流したという
ことがあるのではないでしょうか。
GHQが最初日本の軍事物資の処分についてやっていて、
実際の兵器になるものは破壊しているわけですから。
(引用ここまで)
昭和22年、闇米を拒否して栄養失調死
を遂げた青年判事の遺文集。
http://d.hatena.ne.jp/nisikiyama2-14+zero/20130507/1367932629
日共産党は、東京滝野川区と板橋区で
人民食糧管理委員会を結成し、
「食糧の公平な分配」「隠匿物資の摘発」
「天皇制の打倒」を決議した。
共産党系の教員及び労働組合と
反日朝鮮人及び中国人の団体は、
食糧危機突破議会を結成し、
武力で元陸軍造兵廠の倉庫を襲撃して
本土決戦用の物資を強奪した。
朝鮮人や中国人は、
飢えた日本人に分けるのではなく、
闇市で売って大金を手に入れようと
したのである。
・ ・ ・
2月から、食糧不足が深刻な東京で配給が始まった。
前年度の大凶作と農家の米隠匿によって、
農林省が計画していた米の集荷率は低下した。
(中略)
2月27日 日本政府は、食糧緊急措置令を公布した。
GHQも,日本共産党が結成した人民食糧管理委員会の
真の狙いが、天皇制度を打倒して日本を共産主義化する
事にあると分析して警戒して、
アメリカ軍の余剰食糧の放出を許可した。
ワシントンも、日本にソ連の影響力が強まるのを警戒して、
食糧支援を認めた。
(中略)
春。京浜地区のみで1,300人の餓死者が出て、
それ以上の飢餓民が主要都市の焼け野原中で生死の境を
彷徨っていた。
敗戦国の飢餓民は、忠君・愛国という心の支えを失い、
慰め合い励まし合う家族を戦争で亡くして精神的に
追い詰められ、自分の明日への希望も家族との将来への
夢も持てず、ただひとり孤独に餓死するその時を
寒空の下でうずくまって待つのみであった。
絶望の中で孤独死・孤立死・無縁死が、
当たり前の時代であった。
日本政府は、これ以上の餓死者を出さない為に、
食糧確保の為に奔走していた。
公衆衛生局長クロフォード・サムズ大佐は、
5月から8月にかけて
都市住民に大量餓死の危険があると考えた。
・ ・ ・
4月24日 新聞は、主食(米)の遅配は半月となり
深刻な飢餓状態にあると報道した。
東京都下の主食配給所541ヶ所内504ヶ所で、
平均3.7日分の遅配となっていた。
飢えた市民は、
高価なヤミ米を買うか、
地方に食べ物を買い出しに出た。
(引用ここまで)
【まとめ】
朝鮮から無一文で
日本に出稼ぎにやってきた徐甲虎少年が
終戦前後の混乱期に
>軍需物資の売買で一儲けした
一体、
その軍需物資は何処で手に入れたのだろう?
GHQの、在日朝鮮人連盟への横流しですね。
終戦後、日本人が食糧難で飢餓に苦しみ
多くの餓死者を出している中で・・・
>闇市で一儲けした
日本の軍部が、本土決戦を想定して備蓄してあった
隠退蔵物資を日本共産党と共に強奪し、
闇市で高値で売る。
>ヤミ米
日本人への米配給が不足する中
日本政府は帰国する朝鮮人達に”特配”していた。
しかし、居残った彼らは闇市で高値で売り
ヤミ米の利権を握っていた。
>戦後再び
「メイド・イン・ジャパン」の衣料が
世界を席巻することを恐れ、
欧米は厳しい対日規制を
行っていた
日本人経営の紡績会社は操業を禁止され
紡績機は廃棄処分を余儀なくされていた・・・
徐甲虎は朝連幹部の地位を利用して、GHQから
「紡績業復活許可」をいち早く聞き出し
日本人紡績業者よりも早く、
おそらく廃棄処分されていた紡績機を安値で
二足三文で買いたたいてかき集める事に成功したのだろう。
これも、当時スクラップ回収の利権を握っていた
同胞たちの力を借りて・・・
25歳(1940年)で既に紡績工場を手に入れていた
という逸話も信憑性があるね。
戦前、裸一貫で”故郷に錦を飾るため”に日本に出稼ぎに
やってきた彼らの立身出世話。
大阪・鶴橋で闇市を牛耳っていた
平田義夫こと李煕健
http://tinymsg.appspot.com/yB9%E3%80%80%E3%81%99%E3%81%A7%E3%81%AB%E5%BA%9C%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E3%80%81%E5%B8%82%E9%95%B7%E4%BB%A5%E4%B8%8B%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%81%AE%E8%B7%8B%E6%89%88%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AD%E3%81%88%E3%80%82
「西日本最大の紡績王」と呼ばれた
阪本栄一こと徐甲虎
ライバル社を次々と潰したロッテ創業者の
重光武雄こと辛格浩
彼らに共通するのは、敗戦後の日本で
一代で財を成した経緯の怪しさ!
重光武雄こと辛格浩は
★ZAITEN』 2008年1月号
レポート:
日韓をまたぐ「4兆円財閥」の実像
ロッテ 「引き裂かれる重光王国」
ジャーナリスト 田中幾太郎
http://www.zaiten.co.jp/zaiten/200801.shtml
太平洋戦争のさなか、さまざまなアルバイトを
しながら大学に通っていた重光が、
在学中(46年3月卒業)に事業を始めるきっかけとなった
エピソードがある。
「辛(重光)氏自身が語っているところによると、
日頃からつきあいのあった“ハナミツ”という
質屋を営む老人から、6万円を出すから工場をつくって
不足している旋盤用の油を生産してみないかと申し出が
あったという。
それで工場を始めるわけですが、いくら親しくなっていても、
その当時の在日の置かれている立場を考えれば、
日本人がポンと大金を出すとは考えにくい。
しかも、辛氏はまだ学生ですよ。
眉唾としか思えないんですがね」(韓国紙記者)
戦時中と現在の貨幣価値を公務員の初任給や消費者物価で
比較すると、少なくとも1500倍以上。
となると、当時の6万円は9000万円以上ということになる。
日本人か韓国人かは別にしても、それだけの額を
借用書1枚で20代前半の学生に出資するとは、
にわかに信じられない。
また、ハナミツなる老人についても、質屋だったこと以外、
具体的なことはほとんど語られていないのである。
ともかくも、資金を得た重光は東京・大森に工場をつくり、
旋盤用の油の生産に乗り出した。
だが、まもなく空襲を受け、工場は全焼。
次に東京・八王子の民家を手に入れたが、工場が順調に
稼動し始めた矢先に、やはり空襲で全焼してしまった。
終戦の数日前のことだった。
(中略)
徹底した宣伝戦略でライバルを追い落とし、60年代後半には
ガムのシェアの5割を占めるまでになるロッテだが、
重光は気が気ではなかった。68年末に開かれた日米合同会議で、
3年後の72年初頭からガムを自由化するとの話が持ち上がったのだ。
リグレー社が日本に上陸すれば、太刀打ちできないのは
目に見えていた。
(中略)
「重光氏は脅威を感じ、深い関係にあった岸信介氏に
リグレー進出阻止を頼んだ」と話すのは、 政治部OBだ。
「リグレーが日本に進出する72年、
関税率は逆に35%から40%に引き上げられるという事態に
なりました。岸氏の命を受けた筆頭秘書の中村正芳氏が
農林省や大蔵省に強く働きかけたんです」
(中略)
「岸と重光を結びつけたのは
町井久之(韓国名・鄭建永)です。
兄貴分にあたる児玉誉士夫を通して岸と懇意になった町井が、
重光を引き合わせたのだと思われます」
町井は戦後、愚連隊を束ね、暴力団「東声会」を結成。
東京・銀座界隈では「銀座の虎」と恐れられた。
(中略)
「戦争末期の物資がない時代に、
どうやって旋盤用の油の
原料を手に入れたのか。
さらには、
重光は戦争が終わってすぐに、
石鹸や化粧品をつくり始めている。
原料の油脂はどうしたのか。
闇物資を調達するしかない。
どうもこの頃、調達に
町井が介在していた節がある」
(週刊誌記者)
「在日韓国・朝鮮人は
日本の植民地政策で土地を奪われ
強制徴用で連行された人々で
戦前から現在に至るまで
創氏改名を強要され
日本人による差別や貧困と戦いながら
生きざるを得なかったマイノリティである」
・・・と、繰り返し繰り返し刷り込まれてきたけれど
一代で、しかも戦後の一時期に、突如
莫大な富を得た朝鮮出身者達については
「美談」として伝えられても
何故、彼らが巨万の富を手に入れられたのか
解明されていない・・・
ほとんどが、こんな論調
★韓国経済発展への在日韓国人の寄与
大東文化大学 永野 慎一郎 教授
http://www.toyo-keizai.co.jp/news/topics/2009/post_2275.php
さて、当ブログでも
2011年5月に、この徐甲虎産を取り上げている。
彼の
”25歳(1940年)で既に
紡績工場を手に入れていたという逸話”
の謎を取り上げていた。
★日本は誰の物?
君が代条例を批判する反日サヨクの正体。
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-1171.html
「1951年10月に在日韓国人の徐甲號が
現在の大使館の土地および建物を購入し、
韓国政府に無償貸与。
1962年11月11日に寄贈された。」
と記載されている。
終戦からたった6年で、2万坪以上の一等地を
購入できた徐甲號とは一体何者なのだろう・・・
●戦後日韓経済関係の形成における
両国財界人の役割
慶応大学総合政策学部総合政策学科教授 柳町功
(現代韓国論, 東アジア経営史・財閥史(韓国・日本))
http://www.jkcf.or.jp/history/first/3/10-0j_yanagimachi_j.pdf
P6~P7
3-1 在日韓国人企業家の存在と貢献
(1)企業家・徐甲虎
徐甲虎(日本名;坂本栄一)は坂本紡績社長である。
徐甲虎は1928年、14歳のときに日本に渡り、
さまざまな職種を経験したあと、
太平洋戦争末期の軍需品納入で財を成し、
戦後、廉価で紡績機械を集めて
紡績事業を開始した。
注)東洋紡績などは、戦時中は軍事工場になっていた。
(中略)
大阪府泉佐野市の羽倉崎駅周辺に
広大な本社工場があったそうだ。
紡績会社に勤める女工は結婚すると辞めさせられたが、
在日系社員は結婚後も働く事が出来た。
(中略)
歴史的経緯というのなら
終戦直後の占領期に、日本の元軍事施設などから
鉄材などを盗みそれを転売して大もうけをしてきた
「アパッチ族」なる在日集団や
(資源ごみとして収集されている物を不法に回収する人々。
第二次世界大戦後の日本において軍事施設跡・工場跡
などから鉄くずを不法に回収する人々を
「アパッチ族」と呼んだ。
アパッチ族を題材とした小説には、開高健『日本三文オペラ』、
梁石日『夜を賭けて』、小松左京『日本アパッチ族』などがある。)
(中略)
日本軍に協力して儲けた金で
紡績王にまで登りつめた徐甲號こと
通名・坂本栄一の存在を、
サヨク達はどう説明するのだろう?
(以下略)
さて、この【西日本最大の紡績王】
徐甲虎の経営する坂本紡績では、
再三の労働基準法破りの
過酷な労働を従業員に強いていたそうでして・・・
★『阪本紡績事件』
http://www.zenkiren.com/jinji/hannrei/shoshi/01176.html
★大阪労働基準局に出向
― 紡績女子労働者の深夜業と直面―
― 坂本紡績労組結成の経過 ―
月刊「権利闘争」 2007年 7・8月合併号より
http://park8.wakwak.com/~kenmonken/mokuji/keto0707-08.htm
因みに、
当時人気歌手だった「小畑実」は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%95%91%E5%AE%9F_(%E6%AD%8C%E6%89%8B)
徐甲虎の娘婿なのだそうだ。
”歴史認識”、改まりましたか?
政治 ブログランキングへ
スポンサーサイト