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青猫文具箱

青猫が集める、本と文具と思考のかけら。

モラルと紳士協定とルールと。

本と日常
小学校時代通っていたスイミングスクールは送迎バスがあって、「食べた後のごみは持ち帰りましょう」の張り紙が運転手席の後ろに貼られてたんです。それがある時「バス内での食事は控えてください」になり、自分が卒業する頃には「飲食厳禁」でした。あるグループのトラブルが原因だったんですが、その子たちが卒業した後も「飲食厳禁」の張り紙はそのまま。

今にして思うと、あれはモラルがルールに転換するプロセスだったんですよね。
「こうしましょう」というモラル頼りの約束事だったのが、「こうすべきです」になり、最後「してはならない」というルールになった。
モラルとルールについて、自分の言葉で説明する能力がないので本から引用するんですが、

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モラルは、私たちが目指すべき中心点です。中心に近ければモラルが高く、同心円状に離れていくほどモラルは低くなります。ルールは、モラルからこれ以上離れては言えないという限界を示す境界線です。ルールは、守るか守らないか。一線を越えたらアウトです。
モラルから離れないように、律するためのルールが作られる。「悪貨は良貨を駆逐する」「無理を通せば道理が引っ込む」の堤防になるわけです。
そうしてできたルールは、よほど意識的に運用しない限りはどんどん厳しくなります。だって削るより付け足していく方が簡単ですし。書いてないよりあった方が(運用側として)安心ですし。あの送迎バスも、多分最初は張り紙すらなかったんじゃないかな。

働いてる今も似たような経験をすることがあります。
業界の紳士協定で成り立ってた領域に、新参の企業がそれを知らずに入ってくる。暗黙の了解を知らないが故のトラブルが起きて、二者間どころか業界全体に派生する。その反省から誰もがわかる形に明文化しようという話になって、自主規定が作られます。それまでモラルに頼った不文律だったものが、ルールとして明文化される。
それで収まればいいんですが、一般消費者が絡んでくると、自主規定では不十分だと行政が口を出してきて「法制化を」なんて話になる。そんなことになれば、手続で時間を食われるわ、改正するにも時間がかかるわと面倒です。だから「いやいや業界できっちりやりますから」と、示しをつけるために厳格な自主規定をつくる羽目になる。

結果、紳士協定で緩くやってた頃と比較して、硬直的な対応になってくわけです。
元となるモラルを理解できる人がいるうちはまだ良くて、責任者が変わり担当者が変わるうち、モラル部分が引き継がれなくなります。規定を守ることが目的化して、モラルが軽視される逆転現象が起きはじめる。
もちろん、法制化なんてされた日には、そこに行政の口出しや資料提出なんてものまで発生する訳で、それよりはましなんですけどね。ただ、不毛だなとは思う。

企業人としてこなれてきてからは、ルールは面倒なのでモラル領域で収めたいな、と考えるんですが、ただこれって、自分が既得権益っぽい環境にいるからなんですよね。
自分が切り込んでいく側だとすれば、外から伺い知れないモラルや紳士協定は面倒だし、明文化されたルールの方が判断しやすいと考えるのは想像つきます。
それに、暗黙の了解が成り立つ閉鎖的コミュニティでは変化に弱いですし。それで「環境に適合していくために多様性を」なんていい出すと、モラル頼りはおぼつかないから、ルールで厳格に縛るしかなくなる。そうして、結局はモラルよりもルールが求められる状況になっていく。

そんなことをふわふわと考えて、ハイコンテクストよりローコンテクストは面倒だなと思って、でも、偉い人たちがルールを逆手にとり望む方向に誘導しているのを見ると、ああ自分まだまだだなと襟を正す気持ちになる、そんな話でした。