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第六話 進級試験 書籍化該当部分2
ダウディング商会とサバラン商会の合同名義で発売が開始された洗髪料は国内外で大反響を巻き起こした。
発注に次ぐ発注が相次ぎ、ダウディング商会をもってしても生産量が追いつかないらしい。
原材料も十分高額だが、もちろん販売価格もそれに見合った高額になっており、在庫的にも一部の富裕な大貴族しか手に入れられない状況となりつつあった。
そのため財力に余裕のない貴族の間では値下げを求める声が強くなっている。
「全く、当商会でもこれほどの大商いは久しぶりのことですよ」
これを超える金額の商いとなると、あの戦役の時ぐらいしか思いつかないほどである。
目のくらむような収入と、各国の要人とのパイプを一石二鳥で手に入れたダウディング商会は、ライバルたちを引き離し、王国でも一頭飛びぬけた存在となった。
もちろん、そのダウディング商会と対等の業務提携を結んだ商会として、サバラン商会は大きな注目を浴びていた。
セリーナが美しく、身寄りのない一人娘であるということが知れると、各商会から下級貴族まで交際を結びたがるものが続出であるらしいが、ほとんど相手にされずに一蹴されているようだ。
先日に懲りて護衛も増員しており、現在はセルとミランダとグリムルが交代で警護にあたっている。
「まあ、うちはバルド一筋やし」
と面とむかってバルドに言えないのは花も恥じらう乙女心というものなのかもしれないが、いずれにしろセリーナと強い結びつきがあると誰の目にも明らかなバルドの存在は下級貴族にとっては目の上のたんこぶと言うべきものであった。
そうでなければ貴族の権威にものを言わせようという粗忽者が、おそらくは何人かは出ることになったであろう。
王国法により平民の権利は保障されているとはいえ、貴族間のコネと連帯は今でも馬鹿に出来ぬ力を持っているのだ。
―――――一方、雅春が強硬に主張したブラジャーの開発は生産という点で暗礁に乗り上げていた。
技量を必要とする手作業で、かつ立体縫製をサイズに応じて調整しなければならないブラの量産は不可能あった。
髪のような一目見てわかる違いがないことも需要の拡大にはマイナスの要因だった。
上流貴族にまさかバストのサイズを図らせて、ということも困難、というより事実上不可能であり、ブランブランと無節操に揺れる胸を保護しようという雅春の悲願は現状達成が難しいと言わざるを得なかったのである。
しかし現代人の記憶のあるものにとっては現状が非常に目の毒であるということも確かであった。
『生乳のまま素で服着るとかありえん!ありえんのじゃああああ!』
と雅春が叫んだかどうかは定かではない。
しかし幸いにしてセリーナとセイルーンは寄せてあげるブラで、さらに美乳度が増してスタイルの向上に貢献しとてもご満悦であったという。
――――――不幸にもAAカップのシルクには目立った変化はないようであったが。
「お母様………どうして私に胸を与えてくれなかったのですか………」
騎士学校は喧噪に包まれている。
今日は久方ぶりの進級試験であるからだ。
本来の騎士学校は4年の教育期間があるが、実力のあるものに関しては飛び級が認められていた。
今回、バルドにシルク、そしてブルックスのほかに2名を加え、5名の1回生が2回生への進級試験に臨んでいた。
試験は座学に加え、最後に2回生との模擬戦でその実力を測ることとされていたが、いかに優れているとはいえ1回生が2回生の精鋭に勝つことは難しいのが通常である。
これには2回生も面子がかかっているために、えりすぐりの精鋭を送り込んでくるのが普通であった。
しかしバルドを含め、進境著しいシルクもブルックスも到底普通ではない。
本来ならば格好よく受けて立つ立場の2回生が、規格外の後輩を前に意気消沈してしまうのも無理からぬことなのかもしれなかった。
「お前、誰とあたった?」
「ハーミスとか言う奴かな」
「うわっあたりじゃん!俺のブルックスと代わってくれよ!」
「お前はまだいいじゃん、俺なんてバルドだぜ………」
後輩に手も足も出ず敗北するなど2回生の面汚しもいいところである。
同じ2回生のなかでも間違いなく彼らは優秀な戦闘者であったが、それゆえプライドが傷つくことが悔しくもあり情けなくもあった。
同じころ、午前の地獄の筆記試験を終えたブルックスはようやく苦手の座学から解放され、ぐったりと机に突っ伏していた。
「終わった……とにかく終わった……!」
「終わるだけじゃダメだろ。何のために勉強に付き合ってやったと思ってるんだ?」
「ありがとよ。こんなに勉強したのは俺の人生でも初めてだよ」
バルドとシルクが進級試験を受けると知って、もっとも発奮したのがブルックスだった。
せっかく得たライバルであり友人でもある二人に置き去りにされてはたまらない。
二人のいなくなった1回生などぬるま湯もいいところである。是が非でも合格してついて行かなくてはならなかった。
そして苦手な座学の克服にバルドの協力を仰ぎ、連日連夜の特訓の末ついに合格レベルまで学力を引き上げることに成功したのだった。
「よしっ!あとは派手に暴れるだけだ!」
基礎以外ろくに訓練もできなかった鬱憤を、ブルックスは2回生との模擬戦で晴らすつもり満々であった。
対戦する2回生はブルックスのあまりの戦意の高さに面食らうことになるだろう。
「まさかあのブルックスが本当に合格するとはねえ………」
ブルックスのかつての怠慢ぶりを知るハーミスは、そもそも座学を本気で勉強するブルックス自体が驚きであった。
あまりバルドたちとの接点はないが、父を騎士に持つ代々の騎士爵家の出身でオールラウンダーに優秀な成績を修めている。
「剣を振ることしか能がなかったからな」
もう一人の1回生ネルソンも半ばあきれ気味に笑った。
どうやらブルックスの座学嫌いは相当根の深いものであったようだった。
ネルソンは男爵家の二男で、兄のスペアであることに我慢できず自分の力で身を立てるために騎士を志したという変わり種であった。
大抵の世襲貴族の場合、二男は長男に何かあったときのスペアで、長男に子供が生まれると同時に臣下として分家されることが多い。まさに体のいい飼い殺しである。
とはいえ絶縁を覚悟でネルソンのように自活しようとする人間は稀有であると言ってよい。
「大きなお世話だ。俺だってやるときゃやるんだよ………」
強くなるためなら、どんな嫌いなことでも努力できる。
バルドという刺激を得て、自分がどれだけ強くなったか自覚があるだけにブルックスは切実にそう思っていた。
「それでは午後の考査を始める」
講師のバッカニアがバルドたちを呼びに来たのはそれから半刻ほど過ぎたころであった。
1回生側の先発はブルックスである。
どうやら筆記試験の順位を反映しているらしく、ブルックスが最下位であったのは予想通りというべきか。
そんなこともお構いなしにブルックスは久しぶりに腕を振るえることの悦びを隠そうともせず獰猛に笑った。
対する2回生は悲愴である。バルドはともかくハンスとネルソンには、いや、出来ればブルックスかシルクに勝利して勝ち越しで模擬戦を乗り切りたいというのが彼らの偽らざる願望であった。
「頼むぞカニンガム!生意気な1回生をぶちのめせ!」
「おおっ!任せておけ!」
ブルックスの対戦相手であるカニンガムは身長180cmを超える堂々たる体躯で、少なくとも体格という点ではブルックスより遥かに優越していた。
しかし戦闘力とは必ずしも体格だけで決まるものではない。
「楽しいなあ。こんな楽しいのは久しぶりだぜ」
遠慮する必要のない上級生を相手に、友人や講師という観客を前にして剣を振るう。
自分に注目が集まっているのがブルックスには何とも言えず心地よかった。
まるで童話の世界の英雄になったような、そんな年齢相応の子供らしい錯覚すら覚えていた。
「始め!」
講師の号令とともに、一礼を交わしたブルックスとカニンガムは滑るように疾走する。
ともに身体強化を完了した二人はまるで一筋の閃光のように激突した。
さすがに身体強化ではカニンガムに一日の長があったのか、盾ごとブルックスは押し込まれてしまう。
(ちぃっ!やっぱり真っ向からじゃ分が悪いか……)
出来れば力でも負けたくなかったが、どうやらそこまで2回生の壁は甘くないということらしい。
本来ブルックスは技術型のファイターである。
槍の技量という点においてはバルドと唯一比肩しうる腕を持つ。
そして………。
「くそっ!ちょこまかと………!」
カニンガムの槍があたらない。
膂力に勝るカニンガムは盾で防御させるだけでも優位に試合を運べると考えていたが、全くかすりもしないことに焦燥を覚え始めていた。
まるで攻撃の瞬間から軌道を見切られているような感覚、事実ブルックスはカニンガムの攻撃がどこを狙い、いつ動くかその全てを把握していた。
ほかの誰よりも優れたブルックスだけの特殊な才能、人並み外れて動体視力がいいということの優位は身体強化を経て一段と高いレベルに昇華されていたのである。
「おい……なんかすげえぞ」
「信じられねえ……」
2回生からすれば悪夢としか言えない光景であったろう。
体格に恵まれ、攻撃の速度では2回生でもトップクラスのカニンガムの攻撃が全く通用しないのだ。
それも紙一重でありながら笑みさえ浮かべて悠々と躱し続ける様子から察するに、一枚どころか二枚はブルックスが上なのは明らかだった。
「どうした?躱してばかりじゃ勝てねえぞ?」
カニンガムは攻撃をいったん中止してブルックスを挑発した。
どんな達人であろうとも、攻撃の瞬間がもっとも防御がおろそかになることは変わらない。
カウンターを狙うためにカニンガムは重心を落としてブルックスの攻撃に備えた。
「それじゃお言葉に甘えて………」
ブルックスは一歩を踏み出す。
無造作な一歩であったが次の瞬間、ブルックスの姿は虚空に消えた。
否、消えたと思うほどに急速に加速したのである。
「部分強化、だと?」
通常の身体強化ではここまでの速度は出せない。
ほかの強化を削って瞬発力を強化したに違いなかった。
部分強化は強化された部分以外とのバランスが損なわれるために実戦で使えるものは4回生でも数えるほどしかいない。
いかに早く動こうと、その速さに見合った判断と行動が伴わなければ意味はないからだ。
常人を超える動体視力を持つブルックスだからこそ出来た技であった。
「ぐふっ!」
ほとんど無防備に一撃を浴びてしまったカニンガムは腹を抑えて悶絶する。
丸い布で緩衝が図られている槍先とはいえ、目にも止まらないような速度で受ければ無事には済まない。
慌てて駆けつけた魔法士がカニンガムの治療を開始するのを見た2回生たちはまるで災厄にでも出会ったかのように顔を見合わせた。
「そこまで!ブルックス・アーバインの勝ち!」
「痛てて………やっぱ一撃しか使えねえか」
一息ついたブルックスはどっかりと尻もちをつくように腰を下ろした。
たった一度の加速でふくらはぎの筋肉や足首の関節も悲鳴をあげていた。
ブルックスの技量をもってしても、まだまだ部分強化を制御することはかなわなかったのである。
しかし外したらおしまい、というスリルが何とも言えず楽しかった。
そして何より、1回生の先鋒として幸先よく勝利を得ることが出来たということが誇らしく、ブルックスは屈託のない雄叫びをあげた。
「勝ったぞ!!」
2回生としては痛恨の一敗である。
これで彼らが勝ち越すためにはバルド以外の全員に勝利することが必要となったのだ。
カニンガムが決して弱い男でないと十分に承知しているだけに、彼らのショックは大きかったと言える。
しかしそこでなお闘志を奮い起こせるのは、彼らが同じ騎士を志す者であるからなのかもしれなかった。
「もう負けは許されん!頼んだぞ!」
「おうとも!」
さすがは王国防衛の要たる騎士の卵というべきか。
満足そうに講師が微笑むなか、1回生からはハーミスが立ち上がる。
「ああも盛り上がられちゃ、こっちだって頑張らないわけにはいかないよね」
正直ブルックスのあの見事な試合の次に戦うのは気が引けるのだけれど。
苦笑いを浮かべつつ、それでもハーミスは全身からどうしても抜けなかった緊張から解放されていくのを感じていた。
戦いは激闘だったと言っていい。
お互いにそつのないオールラウンダータイプということもあって戦いは長引いたが、最終的には経験と体力がものを言った。
ほんのわずかに反応が遅れたハーミスの肩先を2回生の槍が打ち抜く。
「そこまで!アイランズ・ディセンドの勝ち!」
「よっしゃああああああ!」
沸きあがる2回生たち。
「すまん」
「いや、十分見せ場はあったから」
本来であればこれが普通なのだ。
2回生の高い壁にどこまで食い下がれるか、その努力と根性が試されるのが本来の模擬戦なのであり、あくまでブルックスやバルドたちが例外なのであった。
「さて、せめて俺もいいところ見せますかね」
つい対抗意識で盛り上がったため忘れがちだが、これはあくまでも進級のための試験なのである。
戦う以上勝利を目指すことは当然だが、騎士としての気概と戦士としての実力を測ることが目的である以上、その評価を得るためにもネルソンは十全に実力を発揮する必要があるのだった。
ネルソンはハーミスのようにオールラウンダーではなく、どちらか言えばブルックスに近い攻撃型である。
もちろん水準以上に防御もこなすが、こうした傾向は多分に性格に由来するところが大きく、
どうしてもその出来に差が生まれてしまうものなのだ。
防御に回っては到底本来の力を発揮することなどできない。
相手が格上だと知ってなお、自ら攻勢に出ることをネルソンは決めていた。
「行きます!」
「来いっ!」
試合はハーミスの技術戦とはうって変わった打撃戦となった。
相手もファイター型でとあって、どちらも一撃を食らえば即試合終了という打撃の応酬が続く。
しかし互いに渾身の打撃をギリギリで回避する消耗戦は、経験の浅いネルソンには明らかに不利であった。
(痛そうだけどやるしかないか………!)
苦渋の決断にネルソンは嫌そうに嗤う。
結局は自分の実力の足らなさが原因なのだから仕方がなかった。
迫りくる相手の一撃を、避けようともせず逆に一歩踏み込んでネルソンは後の先を狙った一撃を放つ。
ネルソンの技量ではよくても相討ちにしかならないことを覚悟しての一撃だった。
「何ぃ!?」
想定外の攻撃に2回生のアランはほんのわずかに逡巡してしまう。
そのほんの一瞬の逡巡がネルソンの捨て身の一撃をギリギリで間に合わせた。
といっても相討ちに、という意味ではあるが。
「ぐっ!」
「がはっっ!」
同時に打ち付けあった一撃は、二人をぶつかりあう玉のように軽々と弾き飛ばした。
しかし同時である以上、そのダメージはそのまま二人の実力差通りに表れてしまうのは致し方のないことであろう。
完全に気を失ってしまったネルソンに対し、対戦相手のアランは片膝をつきながらではあるが、かろうじて立ち上がったのである。
「今年の1回生はどうかしてんじゃねえのか………?」
「そこまで!アラン・テイムズの勝ち!」
まさか相討ちを狙ってくるとは思わなかった。
そもそもまともな人間なら自分の一撃を避けもせず受けようなどとは思わない。
「…………あがってくるのを楽しみにしてるぜ」
これだけ戦える人間は2回生の同級生を見渡してもそういるものではない。
アランは強敵が2回生に増えるであろうことを確信していた。
1回生の1敗先行で迎えた次はシルクの出番である。
バルドともっとも多くの時間槍を合わせた彼女はブルックス以上に進境著しいと言える。
しかし彼女に敗北すればそれは事実上2回生の敗北であり、2回生は最後のバルドではなく、ここに最強の首席を用意していた。
「悪く思うな。侯爵家のご令嬢でも手加減はせん」
「―――――手加減していただくほど私が柔弱でないことを証明して見せましょう」
いささか気分を害したようにシルクは答える。
力を求めて騎士の道を選んだシルクにとって貴族の令嬢扱いをされることは侮辱以外の何物でもなかった。
デイビット・グラスゴーは1回生のころから首席の座を譲ったことのない将来を嘱望されている期待の星である。
その期待度はバルドを別にすればシルクに勝るとも劣らない。
確かにシルクの天賦の才は脅威だが、1年才に溺れず努力を積み重ねた自分が負けるはずがない、否、負けるわけにはいかないとデイビットは闘志を燃やしていた。
シルクも限界を感じていた壁を乗り越えさせてくれたバルドのためにも、この戦い決して負けるわけにはいかなかった。
先手を取ったのはシルクであった。
閃光の一撃がデイビットに襲いかかる。その一撃の速さはデイビットの予想を上回っていた。シルクはすでにブルックスほどの爆発力はないがある程度のレベルで部分強化を使いこなしつつあったのだ。
「ちぃっ!」
それでもデイビットの許容外の速さではない。
正直初戦のブルックスの一撃を躱す自信はデイビットにはないが、シルクの攻撃にはなんとか対応できる余裕がある。
しかしデイビットの攻撃もシルクを捉えることができない。
まるで優雅な舞を見せるかのような無駄のない動きでシルクはあっさりデイビットの攻撃を躱していく。
「さすがだ。だが部分強化は君だけの専売特許ではないぞ!」
シルクが天賦の才があるように、デイビットもまた天賦の才の持ち主である。
手元で急に槍を加速させたデイビットの一撃は完全にシルクの不意を衝き、彼女を捉えたかに見えた。
もはや絶対に避けられぬかに思われたこの一撃を、シルクは同じく急加速させた槍の柄で下から上に弾き、その軌道をギリギリでそらすことに成功した。
「………今のは危ないところでした」
「まさかこのタイミングで弾かれるとか、自信なくすぜ」
ここでようやく二人はお互いの技量を正しく見定めた。
そこにはいかなる侮りも偏見もない、ともに槍を合わせたものだけが知る互いの技量への敬意があるのみだった。
「シルク・ランドルフ・トリストヴィー参ります」
「デイビット・グラスゴー受けて立つ!」
シルクが攻め、デイビットが受ける。
その姿はまるで2回生が1回生の技量を正しく測っているようでもあり、同時に才ある1回生が2回生を物怖じせず追いつめているようでもあった。
的確なコンビネーションを見せるシルクの攻撃を、これも的確に予測しひとつひとつを無駄なく捌くデイビットの技量に、その場で見守る互いの生徒は思わず息を呑み見惚れた。
ブルックスですら二人の攻防の高度さに羨望の念を禁じ得なかったほどだ。
「ちっ!俺があいつと戦いたかったぜ」
実力が伯仲した高度な騎士同士の勝負は、あたかも詰将棋のように互いの手の内の読みあいになることが多い。
その読みあいが致命的な誤りを犯さないかぎり、やはりデイビットの勝利は動かないであろう。
シルクには現在の均衡を崩すだけの切り札がない。ならば経験も体力も勝るデイビットに敗北する道理がなかった。
先ほどからデイビットが基本的には防御に回っているのには、そうした冷徹な勝利への読みという理由があったのである。
こんなとき、バルドならどうするだろうか?
シルクにもデイビットと同じ未来の絵図が見えていた。
このまま打開策が見つけられなければ、いずれ力を温存したデイビットが攻勢に転じたとき、シルクは持ちこたえることはできないだろう。
隙のない攻撃を続けつつシルクは自問する。
確かにバルドの強さは圧巻だが、その強さは決して身体強化や武術の技量にあるのではない。
シルクが本気で恐れ、羨望するのはその判断力と思考の柔らかさだ。
一見何の手もないような状況から、それを覆す新手を見出すのがバルドの本質なのである。
(………均衡を打開するには……身体強化ではだめ。彼にはまだ余裕がある、分の悪い賭けに出るべきではない……)
フェイント?それも不可能に近い。先ほどから幾度となく試しているが、デイビットにはそれも含めて想定して捌ききる技量がある。
苦し紛れのフェイントなど墓穴にしかなるまい。
バルドは――――格上を相手にどう戦ったのだったろうか?
シルクは意を決したかのようにいったんデイビットから距離をとった。
それはデイビットに戦いの主導権を渡すということでもある。
もしかして予想より早く体力が尽きたか?油断せずデイビットはシルクの出方を探る。
しかしシルクの行動はデイビットの予想を完全に裏切るものであった。
魔力が大きく膨れあがったかと思うと、シルクの周囲からもうもうと砂塵が立ち上る。
空高く立ち上った砂塵は風に押されるようにしてデイビットとシルクの前に立ちふさがった。
「解除」
デイビットは魔法の解除を唱えるが、すでに慣性の法則で移動する砂塵には効果がない。
魔法の効果は消せても、すでに発生してしまった物理法則には影響できないのが解除という魔法であった。
たちまちデイビットとシルクの間には、もうもうという砂塵が立ち込め二人の視界を奪った。
「くそっ!なんて手を………」
視界を奪われた以上鍛え抜かれた自分の感覚を信じるしかない。
神経を研ぎ澄ましデイビットは砂塵に紛れて訪れるであろうシルクの攻撃を待った。
「そこかっ!」
砂塵を突き抜けるように電光石火の槍がデイビットを襲った。
しかしいかに視界が悪かろうと、それだけで通用するほどデイビットの武は甘くはない。
この俺を甘く見たか!
なんなくデイビットが弾いた槍はキン、と甲高い音を立てて砂塵のかなたへと消えた。
そのあまりの手ごたえのなさにデイビットは己の失態を悟る。
「囮か!」
「崩落、二重展開」
念を入れデイビットの足場を崩したシルクは低空を疾走したまま、その運動エネルギーを余すことなくデイビットの腹部を打ち抜いた。
部分強化まで使用された素手の拳は決して槍の攻撃力に劣るものではない。
まともに食らったならば内臓が破裂してもおかしくない一撃である。
咄嗟に後ろに跳んで衝撃を逃そうとしたのは、デイビットの非凡さを示すものであったが、震脚まで効かせたシルクの一撃はデイビットに再び立ち上がることを許さなかった。
「そこまで!シルク・ランドルフの勝ち!」
「やった!やったよ!バルド!」
得意そうに振り返るシルクの笑顔からは、とても先ほどの一か八かの賭けに打って出た勝負師のものとは想像できない。
可愛らしくはしゃぐシルクにバルドは思わず抱き寄せて頭をなでたい衝動にかられたが、涙をこらえる思いで手を振るにとどめた。
バルドの勘は、貧乏くじを引いたのが決してシルクではないことを告げていたからである。
「やっぱり……僕だけが楽できるわけ……ないよね?」
一見バルドの相手は平凡で取り立てて警戒する必要もないように見える。
同じことを仲間の2回生も思っているらしく、シルクにエースが敗れたことで、彼らの士気は見るも無惨に低下していた。
「あと少し……あと少しだったのに……」
「ていうかこんな奴らが5人もあがってくるのかよ……」
げんなりとした顔で彼らは俯く。
味方であれば頼もしい仲間だが、同時にライバルでもある新たな同級生の存在は、良きにせよ悪しきにせよ彼らに多大な影響を与えずにはおかないはずであった。
「………よろしくお願いします」
「こちらこそ、お手柔らかに」
にこやかに笑う姿からは威厳の欠片も感じられないが、身体の奥に秘められた武の気配は隠しきれるものではなかった。
(………2回生の隠し玉………か?)
それにしては2回生の空気が微妙だ。やはりシルクが相手にしたのが最強であったのだろう。
とするとこの男は味方にもその実力を隠していたということになる。
間違っても油断のできない男であった。
互いに礼を交わして二人は期せずして槍の穂先を合わせる。
同時に気合とともに踏み込んだ二人は、激しい勢いで槍を突き出した。
まるで鏡に映った虚像であるかのように、二人は巧妙に盾で槍をそらして離れざま薙ぎを見舞う。
華麗なバックステップでそれを躱した二人は再び開始位置へと戻って静止した。
傍目には最初から示し合わせた演武を見ているかのような戦いぶりだった。
「………おい、いつの間にアルベルトの奴あんなに腕をあげやがったんだ?」
「信じられねえ、デイビットより速いぞ」
おそらく、先ほどまでの試合の人間ならすでに決着はついている。
その力量の違いがわかるだけに、2回生の仲間たちは半信半疑で仲間のアルベルトを見つめている。
踊るように槍を交わし合う二人は神速の一撃を存分に突き、薙ぎ、叩きあった。
そんななかでおそらく二人だけは、わずかな技量の差に気づいていた。
(やばいな。こいつ僕よりも強い……!)
驚くべきことに講師すら凌ごうというバルドよりも、相手のアルベルトのほうが強い。
しかもその差はわずかなように見えるが、まだ本気を出していない節すら感じさせる。
(試してみるか………)
この世界の槍術はちょうど西洋の騎士が使っていたランスのものに近い。
破壊力重視で直線的な動きが多く、先ほどまでの戦いでほとんど薙ぎが使用されなかったのはそのためだ。
これに対し、左内がいた日本の戦国時代には宝蔵院をはじめとして数多くの槍の流派が見られたが、その型のなかに中国の槍術の影響を受けたものも少なくなかった。
槍を単純な刺突武器としてではなく、杖術として独自の発展を遂げたものさえある。
左内が目にした戦場では足軽はもっぱら槍を持ち上げて、下に向かって叩くのが通常だったものだ。
左内の知る中国槍術封閉法では外回し、内回し、突きという三つの動作を基本としているが、そのうち回すという行為は極めるとほんの一瞬で相手の槍を抑えこんでしまうことが可能だった。
蛇のようにアルベルトの槍にからみついたバルドの槍が、完全にアルベルトの槍の自由を奪う直前、ほんの一瞬驚くほどの膂力でアルベルトは槍を強引に引き戻した。
否、引き戻させられたというべきか。
もしそうしなければ今頃アルベルトの槍は地に落ちて二度と動くことは叶わなかったであろう。
「解除」
呆れたように肩を竦めてバルドは魔法の解除を宣告する。
なんら魔法が使われた気配を感じなかった観客たちは不審そうにバルドの突然の行動を見守るが、次の瞬間、アルベルトと思われていた男の姿が全く別人へと変わっていることに気づいた。
誰も気づかぬうちに高度な幻影魔法が使われていたらしかった。
「手がこみすぎですよ、校長」
「やれやれ、隠し通せると思ったんじゃがな」
ポリポリと頭をかきながら悪びれもせずラミリーズは笑う。
いたずらにちょっと失敗した悪がきのような屈託のない微笑みだった。
いい年齢してこの爺は………。
「バレてしまっては賭けはわしの負けじゃな」
「はっ?賭けって大切な進級試験に何やってくれちゃってるの?」
そう言いつつ、バルドは最初に感じた嫌な予感が膨れあがってくるのを感じた。
逃れようのない特上級の災厄が襲ってくるような……これと似た恐怖をバルドは確かに感じた覚えがあった。
「ま、まさか……………」
全身を貫く寒気と悪寒。
もしこの予感が当たっているとすればもはやバルドは詰んだに等しい。
「王都の温さに鈍ったのではないかい?我が息子」
意訳
「会いたかったわ、マイサン」
眩しいほどの銀の煌めきを背負い、年齢を感じさせぬ若々しさで獰猛な武威を発散する最強の戦士。
嫌になるほど見続けてきた暴力の女神がそこにいた。
「ご無沙汰しております、お母様」
―――――詰んだ。終わった。あとは非道の蹂躙に耐え抜くのみ。
「少し故郷の厳しさを思い出してもらわないとねえ………」
――――――その後の死闘を……あるいは虐待と評すべきかもしてないが……目の当りにした誰もがバルドの強さの理由を知らずにはいられなかった。
むしろなぜ今まで生きていられたのか不思議になったほどである。
「そらそらっ!寝るのは死んでからにしな!」
「くそっ!このドSめ!」
バルドの身体能力を持ってさえ完全には防御しきれぬ銀光の連撃、そのいくつかがバルドの身体を打ち据えたかと思うと、大地に倒れることすら許さず大上段からの追撃が飛ぶ。
かろうじてバルドは横っ飛びして体勢を立て直すが、空振りしたその一撃は石畳に深い溝を刻みこんでいた。
痛みによるダメージで、わずかでもバルドが硬直して逃げ遅れれば間違いなく命のない致死的な一撃であった。
これにはさすがのラミリーズでさえこめかみから滴る冷や汗を禁じ得ない。
こんな教練を騎士隊で実施したら、訓練だけで部隊が壊滅することは確実だった。
正直、ラミリーズにもなぜ今バルドが生きているのか理解できない。
その理由は決して余人にわかってはもらえない、絶大な母の愛こそがなせるわざであったのだが。
「逃げ足だけは一人前になったじゃないか」
意訳
「会わないうちに腕を上げていてうれしいよ」
―――――――どこまでもわかりにくい女であった。
かろうじてバルドが戦闘力を失わずにいられるのはこれまでのマゴットとの戦闘の経験があるからだ。
しかしそれ以上にマゴットはバルドの反応とその思考の傾向まで、ほとんど全てを知悉していると言ってよく、戦い続けるギリギリの線で手加減をしているからこそできる芸当だった。
されるほうにすれば地獄が長引くだけという、あまりにも重すぎる母の愛ではある。
重い打撃音とともにバルドの小さな身体が、弾かれ、叩かれ、飛ばされ、それでも決して倒れ伏すことを許されない。
迂闊に横たわろうものなら容赦なく命を奪う一撃が飛んでくるのである。諦めた瞬間こそがまさに死の瞬間であった。
その拷問としか思えない一方的な蹂躙にシルクは思わず目を覆う。
自分はバルドの強さに憧れたはずなのに、ボロボロのバルドに胸が痛むのはなぜなのか。
今は血を分けた息子に血も涙もない暴力を振るうマゴットに憎しみすら覚えていた。
だが同時に、マゴットに対して不思議な親近感、まるでずっと昔から知り合っていたような既視感を覚えてシルクは訝しむ。
少なくともシルクの記憶にある限り彼女とは今日が初対面であるはずだった。
一方的にマゴットに嬲られていたバルドだが、ただ耐え続けていられるほど被虐的な趣味があるわけではなかった。
隙あらば仕返しする機会を虎視眈々と狙っている。
実力差は覆すべくもないが、せめてマゴットの肝を冷やしてやらなければ気が済まない。
(嫌がらせではあるが………)
戦国期に槍の宝蔵院と謳われた宝蔵院流槍術は、突かば槍、薙げば薙刀、引かば鎌と呼ばれた。
片鎌槍に代表されるように、戦国期の槍はそうした戦いの汎用性が突出している。
マウリシア王国の槍術には突きと薙ぎはあっても、引き技が存在しないことをバルドは承知していた。
ダメージが増えるのを承知で踏み込んだバルドはマゴットの首筋めがけて突きを見舞う。
造作もなくそれを避けたマゴットだが、突いたと見せかけてバルドは腰をきりつつ、渾身の力をこめて槍を引いた。
見た目には何の変哲もない動作であったが、もしも鎌がついていたならばマゴットの頸動脈は寸断されていたはずである。
ともに槍を合わせていたマゴットは、首筋に走った冷たい殺気の悪寒を確かに感じ取っていた。マゴットが傑出した戦士だからこそ感じ取れたのだ。
「小賢しい………とりあえず実家には連れ帰らなくて良さそうだね」
「ありがとうございます……(いつかカマドウマを背中にねじこんでやる!)」
「―――――今日は死ぬにはいい日だね?」
「滅相もありません、お母様」
気が抜けたバルドの膝から力が抜けて前のめりにゆっくりと倒れこむと、シルクは反射的に駆け出していた。
「バルド!大丈夫?」
ためらいもなくバルドを薄い胸に抱きかかえる見慣れぬ美少女に、マゴットの目がスッと細められる。
早くも愛する息子に悪い虫がついていたか。全く、セイルーンは何をしていたんだ。
値踏みをするようにマゴットはシルクを見つめる。
バルドには及ばないが、年齢にしてはなかなかに鍛えられた娘である。
顔立ちも気品と気の強さと素直な性格がそのまま顔に表れたかのようで、なかなかにマゴットの好みであった。
不思議とマゴットの心を捉える横顔である。将来が絶望的な薄い胸にも親近感を覚える。
おそらくはどこかの貴族の娘だろうが、バルドの嫁にするにはなかなか悪くない人材かもしれなかった。
「息子が世話になっているようだね。名前を聞かせてもらえるかい?」
まさかマゴットから話しかけてくるとは思わなかったシルクは、先ほどの理不尽な憎しみも忘れて反射的に答えた。
「シルク・ランドルフ・トリストヴィーです、お母様」
「…………お母様?」
「い、いえっ!失礼をいたしました。銀光マゴット様の勇名はかねがね」
探るような目をシルクに向けたマゴットは、何かを悟ったかのように深々とため息をつくと肩を竦めて低く笑った。
「嫁に来るなら構わないが、バルドは婿には出せないよ?大切な跡取り息子だからね」
「か、勘違いしないでください!私とバルドはそんなんじゃ!」
首筋まで真っ赤に染めてあたふたと慌てふためくシルクは、抱きしめていたバルドの上半身から無意識に手を放してしまう。
支えを失ったバルドが固い石畳に思いっきり後頭部を打ち付ける鈍い音が、むなしく闘技場に響き渡った。
砂糖、金メッキ、マヨネーズ、そして洗髪料、それらが生み出す莫大な利益とランドルフ侯爵家や王家にまで浸透したパイプ。
コルネリアス領の片隅で、隠れるようにして細々と砂糖を生産していた、いつ貴族の食い物にされてもおかしくない脆弱なころとは違う、莫大な資産と信用、そして後ろ盾を得たバルドはもはや自重しなかった。
「金とはこういう時に使うためにあるのだ」
農場の拡張と生産工場の新設、さらに区画整理事業と四輪作普及のための財政支援を推し進めるためバルドは貯めこんだ資産を惜しみなく注ぎ込んでいる。
四輪作の効果が出てくるのはしばらく先であろうが、すでに家畜も調達して繁殖にも着手しているだけに農家の余力と生産性はすぐにも多少の向上が見られるだろう。
いささか懐は涼しくなったが、いずれ何倍にもなって返ってくるのだから何も問題はない。
利殖家である左内は、より多くの金を手にするためには、まず与えることが必要であるということを熟知していた。
コルネリアス領は時ならぬ好景気に沸き、流入するよそ者から治安を守るため、ジルコを中心に傭兵たちによる自警団が組織されているそうだ。
戦の少なくなった大陸で仕事にあぶれた連中としては実にありがたい仕事であろう。
さらにその一部はサバラン商会の私兵団として護衛の任務を与えられている。
有事には戦力に早変わりする彼らの存在と、コルネリアス領の経済的復興はセルヴィー家の人間には頭の痛い問題であるに違いない。
おそらくは戦力が低下しているうちに攻めこみたかったというのが彼らの本音であったに違いないのである。
今頃は歯噛みして次の機会を狙っているだろうか。
さすがに無謀に勝算の低い賭けに打って出る余裕はないはずだが。
いくらなんでも今度勝手な真似をして敗北するようなことがあればセルヴィー侯爵家は断絶を免れまい。
「ふふふ………まだだ。私はこんなところで満足してはいられないのだよ」
厨二病全開で独演を続けるバルドをセイルーンは冷ややかな目で見守っていた。
「そろそろ正気に戻りませんか?坊っちゃま」
「そこは空気読もうよ、セイ姉」
2回生に進級したバルドは先日13歳の誕生日を迎えていた。
久しぶりにコルネリアスに戻って開かれたパーティーは盛大で、これまで出席したこともないような大貴族が参加してくれたことは記憶に新しい。
あんな辺境に十大貴族の一角たるランドルフ侯爵家がわざわざやってきてくれたことの影響は大きかった。
もはやコルネリアス家は少なくとも表向きは貴族の間の鼻つまみものではなくなったと言っていいだろう。
もともと戦役の英雄として、軍部での評価は高かっただけに、中央貴族での評判を取り戻したコルネリアス家は経済力さえ回復すれば王国でも有数の大貴族の仲間入りをする可能性すらあったのである。
もちろん、そうした空気に敏感な貴族たちの間ではバルドは非常に魅力的な婚姻相手と映っているのは間違いなかった。
事実マゴットは相手にもしないが、遠回しな縁談の要請はすでにコルネリアスには数件打診されていたのだ。
(――――――そういえばテレサの奴が何か言っていたな………。)
久しぶりに会ったテレサは前に戦った時からさらに腕をあげていた。
それでも結局はバルドに負けてしまったことがよほど悔しいらしく、しばらくセイルーンに抱き着いて離れようとしなかったが。
セイ姉には悪いことをしてしまった。
(確か面白いものを送るとかなんとか………)
そんなとりとめのないことを考えているうちに教室についたバルドは、すでに到着していたブルックスとシルクに声をかける。
「おはよう二人とも」
「おはよう」
「おはよう、バルド」
このところ蕾が咲いたようにぐっと綺麗になったシルクが華やいだように微笑んだ。
先日のパーティーでも何やら母と話していたようだが、はて、いったいどこが母のお気に召したものやら。幸いシルクもいやがってはいないらしい。
「なんでも1回生に転入生がいるらしいぜ。随分と転入生の多い年じゃねえか」
耳の速いブルックスが、今日仕入れてきたばかりの情報を披露する。
通常転入生は数年に一人程度であり、そもそも軍事教育施設である騎士学校に途中編入するということは秩序の維持的には非常に問題のあることなのだ。
よほどの才能を見せなければ認められるものではない。
転入してきたという1回生もよほどの実力の持ち主であるに違いなかった。
(―――――なんだろう……嫌な予感がする)
マゴットが来たときのような生命にかかわるような深刻な危機感とは違う、はた迷惑な厄介事に巻き込まれるような不思議な感覚だった。
そしてその感覚は、わずか数時間ほどで現実のものとなる。
「バルド・コルネリアス――――今すぐ俺と来てくれ」
馬術の訓練を終わり厩舎から戻ったバルドを待ちかねたように講師のランバルドが、廊下で腕組みをして待ち構えていた。
竹を割ったようなさっぱりした性格で、勇猛だが普段は温厚な紳士であるランバルドがこのように苦虫を噛み潰したような表情をしていることは珍しい。
「何かあったんですか?先生」
仮になんらかの問題が起こったにしても、それでバルドの力が必要になる事態が思いつかない。それでなくともランバルドは大人の責務として生徒の力を借りることをよしとしない男である。
「今日転入してきた1回生だがな。いきなり進級試験を受けさせろと言ってきやがった。本来ならこんなバカな要求が通るはずはないのだが――――やんごとない事情で断るわけにもいかんのだ。構わんからぐうの音もでないほど叩きのめしてやってくれ」
「――――あまり深い事情を詮索しないほうがよさそうですね……承知しました」
ランバルドがこれほど激昂しながらも従わなくてはならない相手というと、よほど立場の高い人間ということになる。
とはいえ軍事組織である騎士学校にも超えてはならない一線がある。
権威にものを言わせて試験を受けることができたとしても、こと試験に関しては完全に実力主義が認められており、これには国王といえども口を挟むことは許されない不文律になっている。
バルドが少々思い上がったドラ息子に鉄槌を下したとしても、それを咎めることは誰にもできないのだ。
まあ、場合によっては裏稼業から暗殺者を回される危険性もあるが、ことバルドにかぎってはその心配はない。
「先生!俺もついていって構いませんか?」
「私も!お邪魔はしませんから私も連れていってください!!」
「心配しなくともお前たちにも来てもらうつもりだ」
(さて、いったいどんな若様がいらっしゃってるのか――――楽しみだな)
願わくばせめて強敵であって欲しいものだ。
生意気なだけの見かけ倒しには興味がないのだから。
「やあ、バルドじゃないか。約束通りやってきたよ」
「って何やってんだよテレサ!!」
目の覚めるような見事な赤毛を肩口のあたりで切りそろえた、美しい幼馴染の姿がそこにあった。
ていうか何が約束通りだ!
「面白いものってお前自身かよ!」
「驚いたろう?」
「お前の思考回路が驚きだよ!」
突っ込みすぎて疲れるわ!
「転入生って……テレサさんだったの?」
「おおっ!シルク殿、パーティー以来だな。相変わらずお美しい」
本当にブレないな、テレサ。
お前パーティーじゃセイルーン一筋とか言ってなかったか?まあセイルーンはむしろシルクに興味が移ってくれたほうが喜ぶだろうけど。
「……………それじゃ僕がこの馬鹿を相手にすればいいんですか?先生」
まるで漫才のような掛け合いを呆然と眺めていたランバルドは正気を取り戻したかのように、ゴホンと咳払いをすると苦々しい顔のまま首を振った。
「ブラッドフォード嬢が知り合いとは知らなかったが、そちらはブルックスかシルクに任せる。バルドに相手をして欲しいのはもう一人のほうだ」
ランバルドの視線の先を見ると、そこには腹を抱えて苦しそうに笑っている一人の少年がいた。
笑い声を必死に押し殺してくつくつと息を引きつらせるようにして笑うその少年を、バルドは初めて会うが、それが誰であるのかはすぐに想像がついた。
明るい蜂蜜色の髪に鳶色の瞳、長身で運動能力の高そうな体躯、父親譲りの甘いマスクと生まれ持った天性のカリスマ。
後ろでシルクがハッと息を呑んでいるが、十大貴族である彼女は何度か直接会ったことがあるのだろう。
智勇に優れ将来を楽しみにされているが、噂にもやんちゃでいたずら好きであると聞いた気がする。
末っ子の気安さなのか、あるいは兄を凌ぐ才能を持て余しているのか、奇矯な行動を好み、身分を気にせず城を抜け出しては平民と泥だらけになって遊ぶこともあったという。
なるほど彼であればやりかねないし、学校側も彼の要求を拒むことは難しいだろう。
「お初にお目にかかります。イグニス・コルネリアスが一子バルド・コルネリアスでございます。殿下の相手を務めさせていただくこと、まこと我が悦びといたすところでございますが…………」
一度言葉を切って息を整えると、意地悪そうにバルドは口元を歪めた。
「いささか酔狂が過ぎるのではありませんか?ウィリアム王子」
「………初めて会うというのによくわかったな」
「立場上情報収集は欠かせませんので」
人を食ったようなバルドの物言いにも、ウィリアムは興味深そうな笑みを浮かべただけだった。
「姉上や母上が見違えるように美しくなってな。いつか会いたいものだと思っていたよ」
「あれはサバラン商会とダウディング商会の商品でございますが」
「考えたのはお前だ。そうだろう?」
自重を止めたとはいえ、バルドの情報はまだほとんど知られていなかったのだが、やはり王宮はそのあたりの情報には敏感だということか。
表情にはおくびにも出さずバルドは警戒を強める。
「一貴族ならばともかく国を相手に隠し事が出来るとは思わないほうがいいぞ?俺がこの話を聞いたのも父上からだからな。巷で有名な金細工や砂糖菓子もお前の仕込みだそうじゃないか」
「いえいえ、私などはほんのわずか手伝いをしただけですので」
「今はそういうことにしておくさ」
国王の耳にも入ったか。統治手腕の優れた王だが、同時に性格が悪いと国外はおろか国内でも噂される王である。
余計な厄介事に巻き込まれなければよいが。
「お前にその気があるのなら騎士などではなく財務書記官として登用したいらしいぞ?」
「光栄なお話ですが、私は父の跡を継ぐ身ですので」
「イグニスならあと50年は現役でいてくれるさ」
いくらあの脳筋でも50年は無理だろう。
いや、脳筋だし、部下に任せて座っているだけでいい………のか?
イグニスが聞いたら泣き出しそうな失礼なことを考えつつバルドは首を振った。
宮仕えに自分が向いているとは到底思えなかったからである。
「まさかそれだけのためにこの騒ぎを起こしたわけではありませんよね?」
「楽しそうだと思ったのは確かだが、遊びや酔狂で無茶をしているつもりはない。己の力に見合った環境を要求するのは当然だろう?」
王族として生まれ育った者の傲慢だろうか。
少なくとも力量に見合った実力主義を受け入れるだけの器量はありそうだが、この世界は何も武量だけで組織の中の自分の立場を決められるほど単純なものではない。
「ならば伝統に倣い、先達として殿下に身の程を教えて差し上げましょう」
バルド達という例外があったとはいえ、本来は上級生が高い壁となって下級生の模範たることを示すことがこの模擬戦の伝統である。
それはバルドが2回生になっても当然変わることはない。
身分を考えれば不遜ともいえるバルドの言葉を、ウィリアムは好戦的な笑顔で受け止めた。
「―――――それでは見せてもらおうか、先輩」
ウィリアムはマウリシア王家の四男として生を受けた。
上に三人の姉がいる七人兄弟の末っ子である。兄の一人は幼くして早世したために、実質的には三男にあたる。
王太子は21歳になる長男のリチャードが大過なく務めており、先日王太子妃の懐妊が明らかになったためウィリアムと二男のエドワードは晴れて兄のスペア役を御免となったわけだ。
生まれてくる子供が男であるとは限らないが、王位継承権はリチャードの子供のほうが上になる。
すると二人は新たに公爵家を立ち上げるか、後継ぎのいない大貴族に婿養子として迎えられるか、あるいは自分で就職先を探すという選択を迫られることになる。
吝嗇家で有名な父が名ばかりの公爵家に年金をはずんでくれる可能性は零に等しかったし、かといって他家に婿入りして肩身の狭い思いをするのも御免こうむる。
いずれにしろ臣籍降下が避けられない以上、ウィリアムとしては自分の得意とする武術によって身を立てたいという希望があるのだった。
もっとも好き好んで働き口を探すウィリアムは例外で、普通は出来るだけ条件のよい婿養子先を探すのがほとんどだ。
すでにエドワードのほうは十大貴族のひとつであるエディンバラ公爵家への養子縁組が内定しているらしい。
王室の変わり種であるウィリアムはなぜか姉には非常に可愛がられた。
そのやんちゃぶりが母性本能を刺激したのか、はたまたウィリアムが天然のたらしの素質があったためかはわからないが、本人の自覚のないままに割と女性の関心を惹きつける男である。
これが雅春なら間違いなく「リア充爆発しろ」と叫んでいるところだ。
本人さえその気があれば婿養子先など引く手あまたであるのだが、今のところウィリアムにその気はない。
それだけ自分に自信があるためだとも言える。
ウィリアムは正の構えから悠然と待ち構えるバルドを見た。
年齢は下であるはずなのに、まるで教官のような貫録を感じさせる構えであった。
同年代でライバルというものを持ちえなかったウィリアムは、王宮での教師を唸らせた自分の武がどこまで通じるか、純粋な興味で高鳴る胸を抑えることが出来なかった。
「いくぞ」
「いつでもどうぞ」
虎でも軽く吹き飛ばせそうな勢いでウィリアムが突進とともに薙ぎを飛ばす。
身体強化ばかりでなく全身のばねと腰の回転を生かした見事なものだ。
バルドは部分強化で咄嗟に軌道を逸らしながら、ウィリアムに対する認識を改めた。
少なくとも王族であることを鼻にかけていばるだけの男ではない。
ランバルドがわざわざバルドを呼びに来たのも、実際に2回生で相手を出来るのがバルド以外にいないからなのだろう。
ブルックスの一か八かの賭けみたいなのを別にすれば、だが。
「まさか一歩も動かせないとは思わなかったよ」
プライドを傷つけられたかのように唇を歪めてウィリアムは肩を竦める。
部分強化まで使った、当たれば盾ごと吹き飛ばすほどの一撃だったはずだ。
それを無造作に一歩も動かず受け流されてしまっては、さすがのウィリアムも心穏やかではいられない。
現役の武官である教師ですら、こんな受け止められ方をしたことはないのだ。
「―――――下手をすると動くことすら出来ずに殺されかねない人(母)がいましたのでね」
「世の中は広いな」
なぜかブルックスとシルクが真剣な表情でうんうんと頷いていた。
それを見たバルドは胸にせつないものがこみあげてくるのを抑えることが出来なかった。
事情のわからないウィリアムだけが取り残されて首をかしげていたが、とにかくバルドはよほど厳しい教師に習ったらしいということで納得した。
「速度と膂力は素晴らしいものを持っています。部分強化の制御もなかなか。ですがまだまだ身体能力に頼りすぎていますね。経験も足りません」
ほとんど生まれて初めて駄目出しをされたウィリアムは直感的にバルドの言葉が正しいことを承知していたが、不機嫌な様子を隠そうともせず、イライラした口調で答えた。
「随分と俺のことがわかってるんだな、先輩」
「わかる、ということも強さの一つです。覚えておきなさい、後輩」
いかに身体能力で劣ろうとも、勘と経験と身体に覚えこませた武の本領はそんな差を軽く凌駕するだけの強さを持つ。
そうした武の深さを、ウィリアムは経験させてもらえなかったのだろう。
最小限の動きで見舞われたすばやく小さな突きをウィリアムは余裕をもって弾き返した。
「なんだ?この程度が―――――――」
その先をウィリアムは言えなかった。
小さいが矢継ぎ早の連続攻撃を捌くのに集中しなければならなかったからである。
一撃一撃を防御することはそれほど難しくないが、防御するのが精いっぱいで、攻撃に転じるような余裕はない。
さらに腹、胸、顔と狙いの変わる攻撃を捌くうちに、いつの間にか体を崩され、捌くことすら困難になり始めた。
どうにかしなくてはならない、と思うが、事態を打開するだけの技も経験もウィリアムにはない。焦りがさらにウィリアムの防御を窮屈なものにした。
「握りが甘い」
突きと見せかけて軽く薙ぎ払いを見せただけで、ウィリアムの槍は甲高い音を立てて宙に舞った。
「技は一つだけではありません。常に三手先を読んで攻防を組み立てるのです。そうでないと結局こうして敵の術中に落ちます」
あまりにあっさりやりこめられた――――最初から最後までバルドの思い通りに動かされたということを理解したウィリアムは呆然と立ち尽くすしかなかった。
騎士団でも十本の指に入るという騎士にもそんなことを指摘されたことはなかった。
自分の才能は騎士団でも十年に一人であると絶賛され、勝てはしなかったものの現役の騎士をてこずらせる程度には実力があると信じていた。
もしかして俺はおべっかを真に受けていい気になっていただけなのか………。
「勘違いのないように言っておきますが殿下は決して弱くはありません。ただ私から言わせてもらえば基礎がおろそかでバランスが悪くなっております。それさえ叩き込めばまだまだ強くなられるかと」
「…………お前が言うのならそうなのだろう。悔しいがどうしてそこまで強くなれた?」
「生き延びるためには強くならねばなりませんでしたので」
再び力強くうんうんと頷くブルックスとシルクにウィリアムは思わず苦笑する。
「コルネリアスはそれほど生きるのがつらい土地なのか」
「…………聞かないでください」
なぜか負けたウィリアム以上にがっくりと肩を落とすバルドに、完敗した悔しさが癒されていくのを感じる。
ようやく素直に自らの未熟を認めたウィリアムはこみあげる笑いの衝動に身をゆだねた。
こんなに腹の底から笑ったのは初めてかもしれなかった。
「それまで!バルド・コルネリアスの勝ち!」
ランバルドの宣告を聞いたウィリアムは慇懃に腰を折る。
「今日のところは潔く負けを認めよう、先輩」
「負けることは何も恥じるものではありません。生きて進む勇気があるのならば胸を張りなさい、後輩」
「ほう………あのウィリアムの手綱を取った男がいたか」
「はい、それがあの件の少年だそうで」
「間違っても父の血筋ではないな……母……もどうかわからんが」
イグニスが聞いたら涙を流して嘆きそうな主君の冷たい一言であった。
どうやらイグニスは王宮でも脳筋で名が知れているらしい。
「末恐ろしいとはこのことですな。反目するかと思いきや懐に抱え込んだ様子。あのウィリアム王子をですぞ?」
「我が息子を協調性障害のように言わんでくれるか?」
「殿下がいったいどれだけの人間を再起不能にしてきたか知って言いますか?」
「――――――正直すまんかった」
最後に生まれた奔放な末っ子が一番可愛く思えるのは世界が違っても同じであるらしかった。
ケチだ、性格が悪いと評判のウェルキンだが、そうしたところは別に普通の親と変わるところはないのである。
「ウィリアム王子がひとまず落ち着かれたのは喜ぶべきことです。騎士学校で智勇を磨かれれば将来的に騎士団を任せるにしろ、養子に出されるにしろ王家にとって有益となることでしょう」
「全くだな。イグニスの息子もついでに引き抜きたいものだが」
「今となってはそれは難しいでしょうね」
またぞろ悪巧みを始めそうな国王に宰相のハロルドはにべもなかった。
国王の手腕は国内外で評価も高いが、いささか手段を択ばない傾向にあって現実的な障害を軽くみることが多い。
そこでソフトランディングのため苦労を強いられるのがハロルドであった。
女房役とは、まさに彼のためにある表現と呼んでいいのかもしれなかった。
12年前のハウレリア王国との戦役―――――通称アントリム戦役あるいは盲腸戦役などとも呼ばれる――――コルネリアス領の北西部からハウレリア王国内に細長く突出したアントリム子爵領の境界線をめぐって国境警備隊同士が偶発的に戦闘状態となり、連鎖的に各方面での衝突を呼び込んだ戦争である。
アントリム領の形状からマウリシアの盲腸などとも呼ばれ、当主一族が戦役で全滅したことで現在は王室の直轄領となっている。
当時、宰相となって半年にもならなかった彼は初の対外戦に逸る国王をいさめることにも、保守的な貴族を懐柔することにも失敗した。
結果、講和もままならず、軍部の暴走も止められず、ほとんど奇跡のようなコルネリアス伯爵の勝利によってかろうじて王国が救われたことをハロルドは片時も忘れたことはない。
当時王都では援軍として騎士団の再編成が行われていたが、根こそぎかき集めても兵力はハウレリア侵攻軍の七割に届かなかった。
あのまま決戦を強いられていれば王国は本当に滅亡していたかもしれない。
二度とあの絶望を味わうことのないよう、ハロルドは国王のバランサーとして現実主義の徒であることを自身に課していた。
その後マウリシア王国の復興に手腕を発揮し、国王の補佐及びお目付け役としてハロルドはなくてはならない存在として王宮に確固たる地位を築いている。
「軍部はともかく辺境領主の不満はそろそろ危険水域です。国内経済の復興のため目をつぶってきましたが、そろそろ財務省の色は変えるべきかと」
「――――そうか。俺も連中の戦争恐怖症にはうんざりしていたところだ」
国土の荒廃と労働人口の減少をもたらした戦役後、ウェルキンとハロルドは経済復興を最優先の課題とした。
長期的に見てそのほうが余剰戦力を蓄えることができると判断したためである。
税率の軽減やインフラの整備などの経済政策は、幸いにして効果を発揮してここ数年でマウリシア王国はかつてを上回る繁栄を築こうとしていた。
しかしその余力を軍事費に振り分けようとすると財務省は激しい抵抗を示した。
利権を有する大貴族を抱き込み、軍部を拡大すればまた暴走して王国に仇なすとして頑として軍事予算の増額を認めようとはしなかったのである。
予算という巨大な利権を有した彼らの抵抗を排除することは専制君主たる国王と宰相の力をもってしても容易ではなかった。
丸々と肥え太った羊が護衛をケチればどうなるか、狼の善意を期待するほど愚かなこともないのは子供でも分かる理屈なのであるが。
とはいえ財務官にとって戦争とは悪夢であることも確かである。
相手を滅亡させて植民地として占領するならばともかく、互角の国との争いは消耗戦になり、人材も物資もただ消費していくだけで何の生産性もなく利益ももたらさない。
そればかりか自分たちが運営していた貴重な予算は圧縮され、軍事費ばかりが増大していくのだ。
ハウレリアとの戦いはまさにそうだった。
戦争を歓迎する財務官僚は自殺願望があると言っても過言ではない。
財務に携わる人間というものは、とかく金で利益を測りたがる傾向がある。それが結果として売国同然の所業につながるなどとは思ってもみないのだ。
仮に無人の荒野の領有をめぐって争いがあれば、そんな荒野はくれてやったほうが結果的に予算と人命を失わずに済むと考えるのが彼らである。
しかし荒れ果てた不毛の荒野でも、人が住んでいないゆえに軍事基地化することが容易であり、地下資源があるかもしれず、荒野を通行する自国民の安全保障にもつながるという目に見えにくい部分を彼らはあえて無視して自らの利権の確保を優先する。
こうなると腐敗した官僚は国家を内部から食いつぶす獅子身中の虫でしかない。
「連中はコルネリアスや辺境の繁栄を喜ぶまい」
地方の自発的な繁栄は彼らの利権構造を根底から揺るがしかねなかった。
中央政府の予算が地方の死命を握る、そうした権限の拡大こそが彼らの権力の源泉となる。経済的に独立した地方など彼らにとってみれば商売敵以外の何物でもなかった。
すでにコルネリアス領での砂糖の生産方法を国家事業として取り上げるため、情報を公開させるべきであると主張する官僚の要望があがっていた。
ウェルキンはこれを握りつぶしていたが、ダウディング商会という販路を手に入れたサバラン商会が国外にまで広がった流通を拡大していくようなことを黙ってみているはずがない。
利権派閥を動員してでも妨害工作に出るはずであった。
もっともイグニスの影響力は彼らが馬鹿にするほど弱いものではなく、むしろイグニスがその気にさえなれば、軍部を扇動してクーデターを起こせるほどに強力なのである。
戦場で心から背中を預けられる男というのは宝石よりも貴重なのだ。
ともにイグニスと戦った男ならば、その価値に気づいて友誼を結びたいと考えるのは当然であった。
財務省と辺境貴族の全面衝突はマウリシア王国にとっては厄災にしかならないということでウェルキンとハロルドの考えは一致していた。
「――――監視を強化しておきましょう」
「あの小僧とその仲間にも気を配っておいてやれ。俺の勘ではいずれこちらの切り札になるはずだ」
「御意」
「やあ、セイルーン!そのメイド服もまた愛らしいじゃないか!」
「えええええっ!どうしてここにテレサ様が………!」
バルドとウィリアムの戦いの後、シルクと対戦したテレサはほぼ互角の戦いを繰り広げた。
最終的にはシルクがテレサを敗ったものの、内容的にはシルクが危ない場面のほうが多かった。
このところバルドと稽古していなければ勝利していたのはテレサのほうであったろう。
そう考えるとシルクは素直に勝利を喜べずにいた。
負けたテレサのほうは落ち込むかと思いきや、シルクに抱き着いて彼女の実力を褒め称えた。
「実にすばらしいお手前であった。是非とも手ずからご教授いただきたい、お姉さま!」
「―――――お姉さま?」
ゾクリと背筋を震わせて、身の危険を感じたらしいシルクは慌ててバルドの背中に隠れる。
「ふふふ……恥ずかしがり屋だな、お姉さまは。これは明日からの楽しみが増えた」
「私はその気はないから違う相手を探してちょうだいっ!」
「誤解されては困るが、僕は綺麗な女性が好きなだけさ!」
「いやいや、誤解してないし」
相変わらずのテレサの性癖にバルドは困ったように苦笑する。
長い付き合いのテレサだが、はて、いつからこんな女性好きになったものか。
記憶を辿るが明確な答えは思いつかない。
少なくともセイルーンと三人で遊んていたときにはもうこの有様であったと思うのだが。
試合を終えて食堂に向かったテレサはそこでセイルーンとの再会を果たし、感激の熱い抱擁を交わしていた。
(助けてください!バルド坊っちゃま!)
(ごめん、無理)
いつになくハイテンションなテレサはメイド服の上からセイルーンの身体を弄ぶ。
そしてこのところ成長著しい胸の感触を感じ取ったのか、ニヤリと嗤うとテレサはおもむろにセイルーンの胸に手を伸ばした。
「形といい、柔らかさといい申し分ない!素晴らしいよ、セイルーン!」
「やぁんっ!どこ触って………ひゃああんっ!」
テレサの手の中でポヨポヨと形を変える柔らかな魅惑の塊。
そして鼻にかかったような甘い声でセイルーンが悶える様子は健全な青少年には刺激が強すぎる光景であった。
「ブフーーーーーーッ!」
鼻血を噴き上げてブルックスが後頭部から床に倒れこむ。
ブルックス以外にも恍惚とした表情で、血の海に沈む男子生徒が続出していた。
姉弟同然に育ったバルドですら、見たことのないセイルーンの色っぽさに下半身の血流が激しくなるのを我慢できない。
「…………不潔……」
「ええっ?責められるの僕?」
生ごみでも見るような目でシルクに責められたバルドは、そのあまりの理不尽さに涙した。
「感じやすいセイルーンも素敵さ」
「もう許してええええ!」
カオスと化した食堂にセイルーンの哀しい悲鳴が響き渡っていた。
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