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異世界転生騒動記 作者:高見 梁川
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第五話 三人よれば姦しい? 書籍化該当部分2

 騎士学校の休日は8日に一度である。
 一年は365日で一日は24時間なのに、週の単位が違うのだ。
 これは8という数字が大陸最大の宗教組織、エウロパ教において完全数として尊ばれているからということらしい。
 天地の創造は8万年の長きに渡り、8柱の神の努力によって完成した。
 そして出来たのがこのアウレリアス大陸と七つの島である。
 つまり8つの大地が創造されたというわけだ。
 そんなわけでようやくの休みが訪れようとしていたわけなのだが………。

 「私と買い物に付き合っていただけませんか?バルド様」

 セイルーンの何気ない一言で張りつめた緊張状態を保っていた食堂は極低温の氷の世界に包まれた。
 
 「お、おれも一緒に行っていいかな?」
 「ごめんなさい」

 ブルックス、終了。
 一部の隙もない笑顔で容赦なく切って捨てるセイルーンの鬼畜っぷりに、なぜか背筋にゾクゾクするものを感じてしまうソフトMなブルックスであった。

 「別にいいじゃないか。ブルックスが一緒でも」
 「お前は空気を読めええええ!」

 なぜかブルックスに鉄拳制裁を食らった。せっかく誘ってやったのに、謎だ。

 「こんなことが許されていいのか?」
 「いつまでこの試練は続く?」
 「諦めるな!必ず打破の道はある!」

 ひそひそと話し合っていたクラスメイトは何かを決意した男の顔で、シルクのもとへと向かった。

 「いいんですか?あいつらに好き勝手させておいて」

 …………所詮他人頼りであったという。
 これを一概に責めることはできない。現状彼らとバルドにはそれほどの武力の差があることも確かなのである。
 真っ向からバルドに対抗できるのはブルックスとシルクあるのみ。
 ブルックスが消極的ながらもセイルーンを応援する立ち位置である以上、彼らにとって頼りは消去法でシルクしか残っていないのだった。

 「うん」

 すると何かに対して頷いたシルクは、やにわに立ち上がるとバルドに向かって歩き出した。
 期待のこもった熱い視線を集めたシルクが、バルドの前に立ちふさがるようにして宣言する。

 「私もついていく。この間防具を見てあげるって言った約束を守って」
 「そっちかあああああああああああ!!!」

 セイルーンの目論見を粉砕してくれることを願った男たちは、シルク自身がいっしょに出かけたいという気持ちを軽く見すぎていた。
 人は自分の見たいものだけを見るとはこのことか。
 その後食堂では抱き合って男泣きする異様な光景が見られ、たまたま訪れた講師の目を剥かせたという。

 「まだだ!まだ俺たちの戦いは終わっちゃいない!」
 「そうだ!いつか奴の背中を追い越し、彼女を振り向かせてみせる!」
 「お前には渡さん」
 「セイルーンは俺の嫁!」

 さっそく仲間割れを開始した彼らに未来はあるのか?
 それは神のみぞ知る。





 翌日の王都は綺麗に晴れた青空だった。
 セイルーンは相変わらずメイド姿だが、シルクは薄いピンクのブラウスに白いパンツルックという出で立ちである。
 ほとんど私服を見たことがないせいか、どこか新鮮に感じてしまうのは男心の埒のないところであるかもしれない。

 「さて、どこから行く?」
 「今日は後から無理に押し掛けたんだから私は最後で構わないわ」
 「私も、バルド様とご一緒ならどこでも構いません」
 「それじゃまずうちのご用達から行ってみようか」

 王都を南に進むと比較的裕福な平民の住宅街が広がっており、その中の一角に店の外にまで行列が出来た小洒落た軽食屋が見えてきた。
 『こげ茶亭』と白い樺に彫られた看板が、花で飾られて通りに立てかけられている。
 実は今王都で話題の甘味所である。

 「当たるとは思ってたけど、まさかこれほどとはなあ………」

 レシピの使用契約と、砂糖の安価な供給契約を結び、少し高価だけれど平民がふつうに食べることのできるお菓子があれば人気が出るのではないか、というバルドの考えはまさに的中した。
 貴族は確かに上客ではあるのだが、購買が不安定で何かと交渉に気を使わねばならないのが玉に疵なのである。
 平民から広く薄く利益を得られるならば、収入の安定にはむしろ貴族よりも優良な客となる。このバルドの構想にセリーナも同意し、こげ茶亭オープンの運びとなったのである。
 これまで貴族しか食べられなかった、否、貴族ですら食べられなかった稀少なお菓子が食べられるとあって店は連日の大行列となりオープンから8日目にしてすでに2号店の開店が決定していた。
 この客すべてがバルドにとってはレシピ使用料の収入源である。
 のど元からこみあげる至福の悦びをこらえて、どうにかバルドは「ぐふふ」と低く笑いを漏らすに留めた。
 もっともセイルーンだけはバルドが何を考えているのかお見通しであったが。


 店の前で行列を整理している元気そうな茶色のカフェエプロンを付けた少女に、バルドは近づいて声をかける。

 「予約していたバルドだけど、いいかな?」
 「バルド・コルネリアス様ですね?店長から申し付かっております!」

 いったいどんな紹介のされかたをしていたのか、少女は非常に緊張した面持ちで慌ててバルドを店内の奥へと案内した。
 実質的にバルドはこげ茶亭のオーナー同然なのだから彼女の緊張はむしろ当然なのだが、バルド自身はまるで気づいていなかった。

 「この店はコルネリアス領に所縁か何かなの?」
 「いや、ちょっとした伝手があるだけのはずなんだけどね」

 レシピと必要不可欠な砂糖の購入元を抑えているのは伝手とは言わない。

 「ようこそお越しくださいました。私が当店の店長フリッガでございます。つたない腕でございますが、精一杯腕を振るわせていただきますのでご堪能いただければ幸いでございます」
 「楽しみにしてきましたが、そんな肩肘を張らずにお願いします」
 
 店長以下店員勢揃いで出迎えられ困惑するバルドである。

 「ちょっと、これで本当に関係ないの?」
 「いや、大したことはしてないはずなんだけどな………」
 「とんでもありません!」
 「キャッ!」

 突然割り込んできた破鐘のような声に驚いたシルクとセイルーンが可愛らしい悲鳴をあげた。
 背高なコック帽にエプロンとネクタイに身を包んだ30代ほどの男性が興奮に顔を紅潮させて今にも拝み倒しそうな勢いでバルドを凝視している。
 
 「当店のメインパティシエを務めますタイロンと申すもの。あなたのレシピを見たときの私の感動をほんのわずかでも味わっていただけるなら、これに勝る喜びはありません」

 ウェイトレスが焼きあがってきた菓子を乗せた陶器の皿をテーブルに置いた。
 何を隠そう先日のカステラである。
 コルネリアスで試食を済ませたカステラを売りこむべく、セリーナはすぐさま王都でのパートナーを探し始めたのだ。
 そのなかで頑固一徹なパティシエとしてちょうど前のカフェを解雇されたタイロンと、新たなコンセプトを求めて商会の間で情報収集を行っていたフリッガと知己を得ることができたのである。
 ほとんど奇跡のような僥倖であった。
 たまたまコルネリアス産の砂糖の商談中であったセリーナとフリッガが出会い、その使い道について立ち話をしているところにたまたま通りかかって熱弁を振るい始めたのがタイロンだった。
 カステラを初めて製作したタイロンは感動で滂沱と涙を流しながら、菓子の歴史が変わったと独語したという。
 セイルーンはすでにカステラを知っていたが、初めてカステラを見るシルクは控えめながら興味をひかれたように首をかしげた。

 「よくわからないけど、これもしかしてバルドが考えたの?」
 「厳密には知っていた、だけどね」
 「どうぞお召し上がりください。新たな菓子の歴史の1ページでございます」

 タイロンのすすめられるままにカステラを口に含んだシルクの表情が変わる。
 このときばかりは隣にバルドがいるのも忘れて、至福の甘味に陶然となってしまうのをシルクは自覚した。
 男性にも甘味好きはいるが、女性の甘味好きはもはや本能に近いものがあり、その幸福感は単なる味覚を超えて脳内麻薬と密接に結びついている。
 その証拠にすでに食した経験のあるセイルーンも、バルドそっちのけでカステラの口福に酔っていた。
 ふっくらとした柔らかさを残しながらしっとりとした食感も残した生地。そして上品でありながら蕩けそうな甘さ。
 子供から大人まで楽しめる極上の菓子であった。
 完食してフォークを空になった皿の上にさまよわせていたシルクは、ハッとなって現実への帰還を果たした。
 
 「いかがでしたか?」
 「すごいです!こんな素敵なお菓子食べたことないわ!」
 「貴族のお嬢様にそう言っていただけると鼻が高いですな」

 面はゆそうにタイロンは鼻をこすった。
 名乗ったわけではないが、シルクはどこから見ても貴族の御嬢さんにしか見えないからわかって当然であろう。

 「………甘さが苦手の男性客にはお茶を混ぜたほうがいいかもしれないな」
 「お茶?おおっ!なるほどお茶の香りと渋さで砂糖の甘さを中和するのですな!なんと心躍るアイデア………これはこうしておれん!」

 バルドからすれば雅春が当たり前に食べていた抹茶カステラや紅茶シフォンを思い出しただけなのだが、タイロンにとっては神の啓示に等しい重大な言葉であったらしい。

 「ま、待ってください!チーフ!お客様の注文が山のように待ってるんですよ!」
 「ぬぬっしかし俺は諦めん!注文もこなす!新しいメニューにも挑戦する!」
 「無理ですよ!何考えてんですかぁ!」
 「男には負けるとわかっていても戦わねばならない時があるのだ!」


 厨房から絶叫と悲鳴が上がっている気のせいだろうか。
 迂闊に呟いてしまったことの影響にどん引きしながらも、企画した商売の成長を確信したバルドは上機嫌でこげ茶亭を後にしたのだった。


 こげ茶亭を出たバルドが向かったのは防具屋であった。
 貴族でもあるシルクは上等な防具を所有しているが、身体強化に才能のあるシルクにとってその防具は相性が悪い――――というか枷にしかならないとバルドが忠告したために、代わりを見つくろう約束になっていたのである。

 「さすがに王都は大きいなあ………」

 コルネリアス領では武器や防具だけでなく、鍋釜の補修まで請け負う町の便利屋さん的な店であったが、さすが王都は専門店が複数立ち並ぶにぎやかさである。

 「いらっしゃいませ。今日はどんなものをお求めで?」
 「彼女のレッグガードとアームガードに質の良い素材を見つくろっていただきたいのですが。クッションの強いブーツも」
 「――――誠に失礼ながら、こちらのお方はどちら様でいらっしゃいますか?」
 「騎士学校の生徒です」

 上品な衣装に人目を惹く美貌のシルクが、一線の戦闘職を志望しているのがよほど意外だったのだろう。
 店主は驚いたように目を見張ると頭を下げた。

 「なるほど、身体強化用というわけですな」

 身体強化は身体にかかる負担が大きく、特に関節部の保護は筋力に劣るシルクには特に必要である。
 加減を間違うとあっさり骨がぱっきり逝ってしまうだけに本当に洒落にならない。
 実際にバルドは一度膝の関節と、拳や上腕部を数度骨折している。
 問題はこの関節部ガード、少々見栄えが悪いのだ。
 豪奢な装飾の銀細工であしらわれた今シルクが使っているものとは天地の差である。
 とはいえ、負担を正確に緩和できる精妙な身体強化の域に達するまでは必要である、とバルドは判断していた。
 足首の負担を和らげるクッションの大きなブーツも必須である。
 そのあたりは店主もわかっているらしく、シルクのためにピンク色でデザインの凝ったレッグガードとアームガードを倉庫から取り出してきた。

 「こちらですが女子用に設計されておりまして関節部を守りつつ、伸縮性にもある程度気をつかったものになっております」

 身体強化による急激なストップ&ゴーを緩和し、重要な関節部を守る。
 その重要さはシルクも十分に理解していた。
 それに理由はわからないが、バルドのアドバイスで、というのがなんとも言えず心地よい。

 「それではこちらでお願いします」

 メルグ牛の皮で作られた伸縮性とクッション抜群のブーツも手に入れ、シルクはほくほく顔で防具屋を出たのだった。




 その後、セイルーンの小物買いに付き合った二人はバルド自身のメインである、とある商会を訪れようとしていた。
 王都でも一流の商会が立ち並ぶ目抜き通りの一角に、少々くたびれてはいるが、古式ゆかしい格式と伝統を感じさせそうな店構えの看板には、大きくサバラン商会と書かれていた。

 「お邪魔します」
 「あああ!バルド!待っとったでえ!」

 扉をくぐるとそこには女主人風にめかしこんだセリーナが歓喜の笑みで待ち構えていた。

 「バルド!うち、会いたかったぁ!」

 ぐわしっっっ

 そのあまりに異様な光景に不覚にも沈黙の時が流れた。
 バルドに飛びつこうとしたセリーナの顔を、シルクのしなやかに長い手がしっかり鷲掴みにしていたのである。
 本人も無意識の行動であったらしく、口を塞がれてもがもがと呻くセリーナの声が聞こえると、シルクは慌ててセリーナの顔から手を放した。

 「あ、あらっ?ごめんなさい……」
 「ぷはあああっ!何さらすんや阿呆!乙女の顔を断りもなく鷲掴みにするとはどういう料簡や!」

 ようやく息苦しさから解放されたセリーナは顔を真っ赤にして激昂する。
 それはそうだろう。気になる男の胸に飛び込んだつもりが、隣の女にアイアンクローされた日には誰だって怒らないほうがおかしい。

 「というかあんた誰や?セイルーン!あんたがついていながら何悪い虫つけさせとんねん!」
 「…………面目次第もございません………」

 がっくりと肩を落とすセイルーンだが、ある事実に気づくと途端に般若の形相になって声を張り上げた。

 「って、なんであなたが王都ここにいるんですか!」
 「ふっふっふっ……うちが黙ってコルネリアスでおとなしくしてるとでも思ったんか?」
 「さすがにそこまでは思ってませんが、それにしても早すぎでしょう?」

 セイルーンの予想では出店の準備と、コルネリアスでの引継ぎで最低でも三か月はかかるとみていたのだ。出来れば半年は来ないでほしいというのがセイルーンの偽らざる希望だった。

 「ええ………と、バルドのお知り合い?」
 「うん。サバラン商会の会頭でコルネリアスでの幼馴染みたいなものかな?こう見えてやり手だよ?」
 「会頭?随分若い商会なのね………」

 セリーナは先日19歳になったばかりだが、それでも商会を率いる年齢としては十分以上に若い。まともな商会であればまだ番頭どころか手代になれれば御の字というところだろう。

 「セリーナや。よろしゅう。ところでどなたか聞いてもよろしいか?」
 「私はシルク・ランドルフ。バルドのクラスメイトよ。こちらこそよろしくお願いするわ」

 表面上はにこやかに挨拶を交わしながらも、そこで激突する視線は危険な不可視の火花を散らしていた。
 二人ともここに新たな敵が誕生したことを確信していた。



 「サバラン商会ってのはここかい?」

 一触即発の危険な空気にのこのこと姿を現したのは、お世辞にもまっとうな人間とは言い難い男であった。
 その男の後を追うように人相の悪い男たちがゾロゾロと続く。
 店の中に入らきらない人間まで含めればおよそ20人ほどにはなるのだろうか。
 しかし人相や品性の悪さこそ伝わってくるものの、プロの武人が自ずから発する武威もなければ殺し屋が纏うような静謐な殺気のようなものも感じられない。
 要するに素人のチンピラにしか見えないというのが正直なところである。

 「うちに何の用や?今大切なお客が来てるところやから出てってくれんか?」
 「へっ、気の強いだけじゃ世の中渡っていけねえぜ、姉ちゃん」

 台詞まで三下そのものである。
 いつもであればグリムルかセルが問答無用で駆逐したのだろうが、たまたま二人はコルネリアスからの輸送の護衛に赴いており、残るミランダは生理休暇中であった。
 この場にバルドがいたのはまさに僥倖と呼ぶほかはない。

 「なんだあ?随分別嬪が揃ってるじゃねえか。ついでに顔を貸してもらおうかねえ」

 男はセイルーンとシルクに粘ついた視線を向けると厭らしそうに唇を歪めた。
 頭の中ではすでに美少女三人を意のままに扱う、極彩色の自分の未来が想像されていた。
 「何だ?この無礼な男たちは?」
 「不愉快だからこちらを見ないでください。もぎますよ?」

 口ぐちにシルクとセイルーンは男たちに挑戦的な言葉を向ける。
 もちろん絶対的な自負と主人に対する信頼があればこその態度だった。

 「口の減らねえ娘どもだ。いつまでその態度が続くかな?」
 「取り込み中すいませんが――――」

 極上の笑顔で、目だけは少しも笑わずにバルドは初めて口を開いた。

 「サバラン商会にどんな御用でしょう?」
 「俺たちはこの街をしきる組織闇の梟のメンバーさ。礼儀知らずの田舎もんがうちに挨拶もなく店を出したって聞いたもんで落とし前をつけてもらおうってわけよ」
 「聞いたことがありませんね?闇の梟とかどこの厨二病ですか。だいたいとっくに地下ギルドには話を通しているのにこんな真似して大丈夫なんですか?」

 地下ギルドに話を通しているというバルドの言葉にはっきりと男の顔色が変わった。
 決して表に出ることはないが、大なり小なり王都での非合法活動は地下ギルドの統制を受けている。
 万が一地下ギルドに逆らったなどと判断された日には自分たちの命は道端の草より簡単に刈り取られることだろう。

 「じょ、冗談言っちゃいけねえ………餓鬼が驚かせやがって………」

 王都では絶大な影響力を持つ地下ギルドだが、同時に非常に用心深い組織でその首脳部と連絡を取ることは一般人には不可能に近い。
 末端のチンピラである彼らにしても噂に聞くだけで、組織の代理人にさえ会ったことがないのが実情なのだ。
 小さな少年に間違っても連絡がとれるはずがなかった。

 「と、とにかくてめえらは怒らせちゃいけないお方を怒らせたんだよ!餓鬼もひっくるめてみんな娼館に叩き売ってやる!」
 「―――――お方、ね」

 彼らは所詮徒党を組んで使わるだけの小悪党である。
 その彼らが白昼こうして行動を起こした以上、それなりの後ろ盾がいるに違いない。
 もっともその後ろ盾は彼らの考えなしの行動に頭を痛めている可能性が高いだろうが、とバルドは内心で嗤った。

 「そのお方とやらを聞かせてもらうとしましょうか」
 「はあっ?そんなことより自分の心配をしやが………!」

 男は最後まで言葉を発することができなかった。
 一陣の風と化したバルドが瞬く暇も与えずに男たちの大半をなぎ倒していたのである。
 セイルーンにはバルドの機嫌が相当悪くなっているのがよくわかった。
 本来バルドは素人に分類される人間には力を振るわないのだが、殺されこそしないものの男たちのほとんどは骨折かそれに類する怪我を負っていたからである。

 「よく相手は選ばないと、後悔してからじゃ遅いんですよ?」
 「ひいいっ!た、助けてくれ!」

 内部での悲鳴を聞きつけた待機組が加勢に駆けつけようとするが、見えない壁に突き当たったかのように吹き飛ばされ石畳に身体を打ち付けられることになった彼らは理由もわからずに激痛に身を悶えさせた。
 魔法解除は魔法の初歩だが、チンピラに魔法が使えるはずもない。
 突風の魔法で彼らは全滅に近い損害を受けていた。

 「さて、改めて聞きましょうか。あのお方とは誰です?」
 「し、知らねえ!本当に知らねえんだ。信じてくれ!」

 つい先ほどまで弱者をいたぶる暗い悦びに浸っていた男は、実は自分こそが弱者であったという事実に泣きわめきたい思いであった。
 いったい誰が信じるというのか。
 10歳になったかならないかくらいの少年に、腕自慢の大の大人が二十人もそろって一瞬で叩きのめされてしまったのである。
 しかもさきほど表の仲間を吹き飛ばしたのはおそらく魔法だ。
 つまり、少年は相当上流の英才教育を受けている可能性が高かった。


 「――――身体強化というのはね、筋力や骨組織、神経の伝達速度に干渉して無理やり限界を超えた力を引き出す魔法です。こんな子供にあっさり骨まで折られたわけですから、どれほどのものかおわかりでしょう?」

 壊れた人形のようにこくこくと必死に男は頷く。
 もし逆らったらどんなことになるか想像しただけでも小便が漏れそうなほどに恐ろしかった。

 「さて、ここで問題です」

 相変わらず目だけはいっさい笑わぬままに、バルドは男が腰を抜かしそうなほど獰猛なほほえみを浮かべた。

 「僕があなたの痛覚神経を強化した場合、その痛みに人間は耐えられるでしょうか?」


 「―――――クランです!ダウディング商会のクラン部長!!」


 微塵の躊躇もなく、一刻も早くこの死神の魔の手から逃れようと男は言ってはいけないはずの名を絶叫した。

 「クランやと?」
 「知ってるの?セリーナ」

 あえて知っているのか雷電とは言わない。
 メタ的な意味で。

 「王都に店出した途端、店を売れとか言ってきた失礼なおっさんや。うちに高級商材の市場を荒らされたんで粉かけてきたって感じやな」
 「ダウディング商会といえば王国でも一・二を争う総合商会じゃないか………そんな大手がえげつない真似するね…」

 まさか店ごと買収しようとするとは思わなかった。
 どれだけ金を積んだのか知らないが、人は金のみで生きるものではないし、ましてセリーナには商人としての志とプライドがある。
 けんもほろろに断られて非常手段に頼ったということなのだろう。
 あのチンピラにまともな自制心が期待できたとも思えない。
 それはすなわち、そのクランという男がセリーナがどうなっても構わないと考えていたということでもある。
 そう考えるとバルドは腸が煮えくりかえる思いを禁じ得なかった。
 正直地下ギルドの影響力を過大に評価しすぎたという、バルド自身の判断ミスも大きい。
 せっかくジルコから紹介状をもらっていたというのに、これでは本末転倒というべきだろう。
 いや、地下ギルドのような本職が動いていなくて幸いだったというべきか。

 「――――ダウディング商会となると王都キャメロンの商会長でもあり、いくつもの有力貴族に伝手があると聞きます。いささか厄介な相手ですね」

 シルクの母が嫁いだランドルフ侯爵家でも、ダウディング商会が出入りしているのをシルクは知っていた。
 ある程度の御用商人もいるが、この王都でもっとも多くの貴族と取引をしているのがダウディング商会であるのは紛れもない事実であった。

 「そうやな。こいつらの証言だけじゃクランの首までは取れんかもしれへん」

 バルドとシルクが証言を聞いているので、少なくとも無視されることはないだろうが、それでも証言の信用性を争われると裁判での勝敗は微妙である。
 田舎から出てきたばかりの中小商会と、王都一の大商会では信用も実績も、納税での貢献も違いすぎるのだ。
 下手をすればサバラン商会の利権を狙う貴族に目をつけられて、ダウディング商会が逆に勝利する可能性すらあった。

 「悔しいですがここは彼らを捕縛したことでよしとしたほうが良いのでは………」

 貴族として裏の事情に通じているシルクの考えはおそらく正しい。
 だがコルネリアス伯爵家嫡男、銀光マゴットと鉄壁イグニスの一粒種バルド・コルネリアスとしての考えは違う。
 どんな手を使おうと、いかに時間をかけようと受けた借りは返す。
 それが恩であろうと仇であろうと、だ。

 「ちょうどいい機会だ。奴が誰を敵に回したのか、たっぷり後悔してからご退場いただこうじゃないか」

 正面から争うのが無理なら搦め手を使うだけのことだ。
 もちろん情けをかけるつもりなど微塵もない。





 これまでのところサバラン商会は下級貴族や裕福な平民を相手にすることで業績を伸ばしてきた。
 砂糖の生産とそれを利用した菓子などの開発は、貴族が食べている高級なものを庶民に、というコンセプトであったし、金メッキも、大貴族しか持つことのできなかった金細工を下級貴族や平民にも、という戦略で売り上げを伸ばしているのである。
 そもそも、わざわざ値段の安い亜流商品を買う大貴族はいない。
 最近噂になっているゴートコレクションを集める好事家の貴族が、わずかにいるくらいだろうか。
 そこでバルドとセリーナは王都進出を機会に大貴族、そして王族へと販路を伸ばすための新製品のアイデアに頭を振り絞っていた。
 大貴族がどんなに金を積んでも欲しがる代替品のない嗜好品―――――。
 それを説明しようとしたバルドを、その知識を与えた人格が乗っ取った。


 『もうこれ以上我慢できなかったんです!』

 突然叫んだバルドの言葉にシルクは首をかしげた。
 バルドが何を言ったのか全く理解できなかったからである。
 セイルーンとセリーナはバルドがこうした奇矯に出る理由を知っていたため驚くことはなかった。

 「失礼しました。日本語では通じませんよね」

 岡雅春が表に出てくるのはおよそ1年半ぶりのこととなる。
 年若いせいか雅春は大陸公用語を覚え今ではバルドと変わらずこの国の言葉を話せるようになっていた。

 「日本ほどとは言いませんが確かにマウリシア王国は住みやすい国です。衛生状態も悪くはないし、庶民にまで風呂が普及しつつある。ですかそれでは足りない!せっかくこうしてセイルーンやセリーナやシルクのような美少女に囲まれているというのに!それだけでは納得できないのです!」

 バルドの口からはっきりと美少女と告げられ三人は期せずして顔を赤らめた。
 そんなことにも気づかず雅春の独演は続く。

 「肌はいいでしょう。少なくとも若いうちはそれほど手入れしなくとも荒れないように気をつけていれば問題はありません。しかし!しかしながらこれだけはマウリシア王国に足りないと断言できる!それは――――――トリートメントとブラです!」

 「はあっ?」

 熱く語られはしたものの、その言葉がどんなものを指すのかという情報が三人にはない。
 かろうじてセリーナが新たな商品のアイデアが出来たと聞かされていた程度なのである。
 しかし女の本能というべきか、それが女性の美しさに関連した何かであるということを三人は本能的に察した。

 「それで?そのトリートメントっていうのとブラってなんなの?」
 「それがダウディング商会に対抗する切り札になるって言うのかしら?」

 自信ありげに雅春は胸を張って微笑む。
 いつの世でも女性が美を追い求める欲求とは、業が深いものなのだ。
 そして家庭では尻に敷かれる男性が多いというのも、嘘偽らざる世の真実というべきものであった。
 その真実の前には大貴族であろうと王族であろうとも逃れることはできない。
 女性の心をつかむということは同時にこの国で一定の政治力を行使できるということと同義でもあったのである。

 この世界に一つの人格として知覚したときから雅春はずっと不満に思ってきた。
 髪は女の命と言われるほど素晴らしいものなのに、どうしてこの世界は髪に無頓着なのか――――そう、彼は髪に萌えを感じてしまう少々いけない趣味の人間であった。

 一般的に庶民は髪を洗うのもただの水洗いであるのがほとんどである。
 これが貴族になると香油を含んだ石鹸で洗うのだが、当然のことだがアリカリ性の石鹸で頭を洗うと、洗髪後にアルカリ分が付着してキューティクルが開いてしまうという現象がおこる。
 そのため保湿がうまくいかずドライヘアになり、枝毛が増えるという事態になるわけである。
 せっかくの美しい髪がパサパサに干からびていたり、逆に油でギトギトしていることに雅春は我慢がならなかった。
 こういってはなんだが、セイルーンやセリーナたちもしっかりトリートメントして、綺麗な天使の輪を描く髪を取り戻せば魅力が二割増しに増えること請け合いである。

 「一刻も早く製造方法を教えなさい」

 魅力二割増しが思わず声に出ていたらしく、目の据わった三人に囲まれた雅春はたらりとこめかみに汗を浮かべてあっさりと主導権をバルドに返還することを決断した。

 「後は任せた」
 「いやいや、せめて彼女たちを抑えてからにしてよ!」

 ここまで話した以上、放っておいても彼女たちがトリートメントを手放すことはありえないだろう。バルドの未来に幸多からんことを祈って雅春は眠りについたのだった。

 現代日本においても毎日風呂に入り洗髪するようになったのは戦後になってからのことであり、江戸時代においては洗髪は月に一・二度というのが常識であった。
 石鹸が高価であったために、同じアルカリ性物質である灰汁などで油よごれを落とし、菜種油やびんつけ油で髪を整える女性の姿が当時の浮世絵に描かれている。
 それでも非衛生的であることは隠せず、恒常的に江戸の市民はシラミに悩まされてきたという。
 衛生環境的にはまだマウリシア王国のほうがましと言えるが、毎日風呂に入れるのは裕福な貴族だけであり、庶民は週に数度公衆浴場へ行くか、家で水で身体を拭うというのが現状である。

 「――――要するにアルカリ性石鹸で落とした汚れを綺麗に洗い流し、酸性のトリートメントで中和すると同時に痛んだ頭髪の内部に補修成分を与えるわけなんだけど………」

 「何を言ってるのかわからないわ」
 「うちもや」
 「私も」
 「ですよねぇ―――――」


 それはそうだろう。
 体験的なアルカリ性、酸性の区別はついても、それが科学的にどうした性質を持つのか、この世界ではまだ解明されていないのだから。


 「百聞は一見にしかずというし、お三方で実験してもらうとしようか?」

 バルドの言葉に三人は一もにもなく頷いた。
 陽光に煌めく美しい髪が手に入る、しかもそれがバルドにとって非常に魅力的であるとわかった以上三人の乙女に断る理由など何一つなかったのである。

 さっそく美髪の効果を試そうという三人の乙女たちは、その必然の結果として入浴することとなった。
 住居を兼用する商会にも風呂がないわけではなかったが、三人で入れるほど広いはずもない。
 さらに公衆浴場を使用することはシルクが嫌がったし、機密の保持上もよろしい話ではなかった。
 ―――――結果、一行は話し合いの結果シルクの強い意向で、シルクの実家であるランドルフ侯爵家にお邪魔する運びとなったのである。


 ランドルフ侯爵家は王家とのつながりも深いマウリシア王国の重鎮である。
 その権勢は王国でも十指に入る名門で、当代のランドルフ侯爵はトリストヴィー王国の王女に降嫁いただくという栄誉に浴していた。
 そのため、トリストヴィー内乱においては救援派の最右翼となり王女マリアも唯一残された王位継承者として亡命貴族などの支持を一身に集めていた。
 しかし慣れない政治活動で身体を壊したマリアは7年ほど前に、体調を崩し急死してしまう。彼女にとって不幸なことにハウレリア王国との戦役で国力を疲弊させたマウリシア王国は大規模な出兵を行える状態にはなかった。
 祖国が時間を追うごとに悲惨な状態に陥っていることも彼女の心労を倍加させていたに違いない。
 そして残された王位継承者がシルクである。
 妻の二の舞とならぬよう、ランドルフ侯爵アルフォードはシルクに政治活動に関与することを禁じた。
 同時にトリストヴィーを取り戻そうと画策する派閥に対しても、シルクを巻き込むならばランドルフ家は敵に回ることを通知したのである。
 母の悲願を知っているシルクは、自分もまたトリストヴィーのために役割を果たさなければならないと考えているが、そのためにアルフォードはシルクに騎士学校を優秀な成績で卒業することを課したのだった。
 妻を亡くして7年、いまだ39歳という男の盛りであるアルフォードは、先を争うように舞い込む縁談を全て断り、今も独身を貫き通している愛妻家として有名だった。

 「ただいま、ハンス」
 「おかえりなさいませ、お嬢様。そちらの方々はお嬢様のご友人でございますか?」

 屋敷でシルクを出迎えたのは50代も半ばになろうかという執事である。
 その隙のない身ごなしを見ただけでバルドは彼がかなりの修羅場を潜り抜けてきたであろうことを察知する。
 最近の執事は武力が高いのがデフォなのだろうか。

 「騎士学校の学友とその友人よ。彼はコルネリアス伯爵家の嫡男バルド・コルネリアス。騎士学校の首席と言っていいと思うわ。こちら、騎士学校の侍女のセイルーン、そして彼女はサバラン商会会頭のセリーナ。ちょっと面白いものを扱っているのよ」

 なんとも奇妙な取り合わせだとハンスは訝しんだが、それを表情に出すほど迂闊な執事であるはずがなかった。

 「コルネリアス伯爵の武名はこの私もよく存じ上げております。どうぞ今後ともお嬢様をよろしくお願いいたします」
 「こちらこそ、シルク嬢には望外の知遇をいただき恐縮しております。不肖の身ではありますが全力をあげて」

 バルドが伯爵家の嫡男とはいえ相手は王国十大諸侯の一人である。貴族としての格が違いすぎる。
 シルクの懇願に負けてランドルフ家を訪れたことをバルドは後悔し始めていた。

 「そうそう、女同士でお風呂に入りたいんだけど、お風呂は入れるかしら?」
 「は、はぁ………少し時間をいただければ」

 歴戦の鉄仮面執事ハンスともあろうものが、シルクの突然の問いかけに一瞬返事が遅れた。
 まさか真昼間から初めて訪れた友人と、風呂へ入ろうとする理由が想像がつきかねたのである。

 「―――――それでコルネリアス様はいかがいたしましょう?」
 「僕は結構ですからお待ちしてますよ」
 「それではそちらのテラスにお茶をお持ちいたしましょう」

 女性の風呂は長風呂であると相場が決まっている。
 この待ち時間をつぶすのは骨が折れそうだ。それがランドルフ家のような名門であればなおのことである。
 ため息をつきたくなるのを押し殺しつつバルドはうれしそうに連れ立って風呂へと向かう少女たちを見送った。



 本当に運が悪いということはあるものである。
 本来ならば夕刻までは王宮で職務に従事しているはずのアルフォードが、今日に限って予定の面談が中止されたために早めに帰宅したのは、偶然というにはあまりに不幸にすぎるものであった。
 ―――――――――バルドにとって。

 「どうした?来客の予定は聞いていないが」
 「お嬢様のご学友がお越しでして」
 「シルクが?あの娘が友達を連れてくるなどいつ以来のことだ?まさか男ではあるまいな?」
 「お二人は美しい女性でございましたが………もう一人はコルネリアス伯爵家のご嫡男でございます」

 ハンスの言葉を聞いた瞬間アルフォードの顔色が変わった。

 「コルネリアス家の嫡男だと?」

 アルフォード自身、ハウレリア王国との戦役には参戦し直接武勇を振るった雄武の男である。数こそ少ないがイグニス伯爵とも面識があり、戦場においては頼もしい戦友であると思ったこともあった。
 少々女にだらしない気はしたが当時は許容範囲にとどまっていたと思う。
 しかし一介の傭兵にすぎないマゴットと結婚したことは立場上弁護することはできなかった。上流貴族にはその血を穢すことなく、その誇りと義務を次代に引き継いでいくという責任があるはずであった。
 恋愛は自由であるかもしれないが、貴族の義務はその血統に負っているところが多く、イグニスのような奔放に妻を決められてしまっては貴族制度そのものが崩壊し王国の藩屏たる責務を果たせなくなる恐れがあったのである。
 だがそんなことよりも何よりも、シルクが初めて家に連れてきた異性であるという事実そのものが大問題であった。
 要するに、バルドが誰であろうとアルフォードにとっては娘についた悪い虫以外の何物でもなかったのである。

 「シルクは?シルクはどこにいる?」

 たとえそれが事実であろうとも、ハンスは間の悪さを承知したうえで答えないわけにはいかなかった。

 「ただいま湯あみに参られたところでございます」

 男を伴って家に帰ってきたうえに風呂に入る、というそのシチュエーションから想像するところはひとつしかない。
 少なくともアルフォードにとって学校から友達を連れてきながら風呂に入るという行為がありえないというのは確実だった。
 ああ、やはり騎士学校などに通わせるべきではなかった!
 あの可愛いシルクが、欲望に塗れた男どもの巣に通うこと自体間違いだったのだ!
 もしも、もしもシルクと間違いが起こってしまったなどと言ったそのときは――――たとえイグニスの息子であろうと命日になると覚悟してもらおう!
 ハンスはアルフォードの煩悶が誤解であることを察していたが、誤解を解くだけの材料がないとともに、先ほどシルクが見せた乙女特有の表情にアルフォードの誤解が決して故ないわけではないと思い直した。 
 やはりあの少年は少し痛い目を見るべきなのだ。
 実のところ赤ん坊のころからシルクを世話してきたハンスも、十分親ばかの類友なのであった。

 テラスで傾き始めた夕日の光を浴びながらお茶の一服を楽しんでいたバルドは、温かいお茶を飲んでいるはずなのに、どんどん寒気が全身を覆っていくことに暗澹とした思いを隠せずにいた。
 こんな風に寒気を感じたときには大抵の場合――――――。

 「君がイグニスの息子か」

 どうやらここまで走ってきたらしい長身の男――――鋭い目つきと整った鼻梁に、意思の強そうな太い眉。佇まいから発せられる隠しようのない品から察するに、この男こそランドルフ家当主アルフォードであるに違いなかった。

 「お初にお目にかかります。イグニス・コルネリアスの嫡男バルド・コルネリアスと申すもの。どうかお見知りおきを」

 予想していたイグニスの息子―――――シルクにまとわりつく悪い虫とはいささかイメージが違うことにアルフォードは思わず毒気を抜かれた。
 母譲りの見事な銀髪に幼い顔立ち、おそらくは10歳程度でシルクより年下であろうバルドは男と女の関係を想像するにはあまりに幼すぎた。
 だが貴族という生き物は往々にして早熟で、許嫁など一桁の年齢で決められることも珍しくはない。
 アルフォードは改めて気を取り直した。

 「父上のイグニス殿とは先の戦役では世話になったものだ。息子が騎士学校に入学しているとは知らなかったが、私で出来ることならば遠慮なく頼ってくれて構わない」

 もっとも娘さんをくださいなどと言った日には即斬り捨てる自信があるが。

 「お心遣いたかじけなく」

 「――――――――ところで」

 返答によってはただでは返さないと固く決意しながらアルフォードは核心に迫った。


 「正直に、本当に正直に答えてくれたまえ。虚言を吐かれた場合、私は君の安全を保障することができない。神に誓って真実を話すのだ。―――――君とシルクはどういった関係だね?」

 「ぶふううっ!」

 ようやくにして先ほどからアルフォードが発散しているプレッシャー、というか殺気の正体に気づいたバルドは噴き出した。
 どうやら抜き差しならぬ窮地に追い込まれていたらしかった。

 全身を冷や汗に濡らしてバルドは弁明を試みる。
 アルフォードの敵意むき出しの姿は、昔森で偶然遭遇した小熊を庇う大熊の姿を彷彿とさせた。
 つまりリアルに命の危機待ったなしである。

 「いいい、いえ、入学仕立ての僕がいろいろご迷惑をおかけしているような状態でして、閣下がご心配なさるようなことはないかと………」
 「ほう、君は入学し立ての見ず知らずの男を娘が我が家に招き入れる、とこう言うのかね」

 いかん、侯爵が納得するような理由を思いつかない。
 実際なぜシルクがこんなに気安いのか、ブルックスに聞いても不明だしな。

 「―――――とりあえず彼女が戻るのをお待ちいただけませんか?理由の一端はそれでご納得いただけると思いますが……」
 「シルクは入浴しているのではないのか?」
 「今は企業秘密とだけ申し上げておきましょう」

 バルドが想定する効果を、あの商品があげてくれればなんとか追求を免れる目が出てくるだろう。
 もちろん、それまでの時間が針のむしろであることに変わりはないのだが。
 ひとまず矛先を収めたアルフォードだが、不用意な発言があればその瞬間に激発するであろうことは、獲物を狩る鷹の目が雄弁に物語っていた。





 同じころ、脱衣場で服を脱いだ三人はその眩しい肢体をタオルで隠しつつ湯船に向かっていた。
 年長であり、すでに会頭としてある程度の社会経験のあるセリーナは惜しげもなくその恵まれた裸体をさらけ出している。
 豊かに実った両胸の果実はセイルーンとシルクには羨望を覚えずにはいられないものであった。
 しかしセイルーンとシルクの美しさも決してセリーナに見劣りするものではない。
 セイルーンの膨らみかけの大人になりかけた少女だけが持つ危うい色気も、平坦でありながら女性らしい柔らかさを失わないスレンダーな魅力に溢れたシルクの裸体も、男ならば誰もが欲情を感じずにはいられないものだ。

 「………スタイル、いいですね。セリーナさん………」
 「うちもセイルーンくらいの年齢のときは同じくらいやったで」
 「………私もセリーナさんみたいに大きくなるんでしょうか………」

 記憶にある母のスタイルが自分と同じスレンダータイプであったことに軽い絶望を覚えつつ、シルクは哀しげにセリーナの深い谷間を見つめた。
 母の遺伝をこのときほど憎らしく思ったことはない。

 「シルクさん、すごい引き締まって綺麗なスタイルですよね……」
 「ううっ……最近お腹のお肉が………」
 「私も本当は太りやすい体質なんですよね……」

 女三人よれば姦しいというが、特にこうしたガールズトークに免疫のないシルクはテンションが有頂天になっていた。
 同年代の友達といっしょに入浴するなどシルクの人生でも初めてのことだ。
 興味津々の目でセリーナとセイルーンの身体を眺めていると、首まで真っ赤に染めて二人は座り込んで両腕で身体の大事な部分を隠した。

 「ちょっとシルクはん(様)遠慮なく見過ぎ!」
 「あ、ご、ごめんなさい……!」

 なぜかそのまま顔を赤くして黙り込む三人であった…………。




 オリーブオイルに蜂蜜と卵の黄身を混ぜた液体を髪になじませること20分、成分が髪に沁みこんだころを見計らって石鹸水で髪を洗った三人は、丁寧に何度もお湯で石鹸を洗い流した。
 これを怠るとアルカリ性である石鹸がキューティクルを過剰に開いてしまい、空いた隙間から髪の栄養がダダ漏れになってしまう。
 これをアルカリ膨潤という。

 「私が流しますよ、シルク様」
 「ありがとうセイルーン」

 肌をさらしあった連帯感なのだろうか?
 俗に裸のお付き合いなどと言われるが、それは本当に効果のあるものなのかもしれない。
 普段はお互いを敵としか認識していなかった三人だが、今は年齢の近い年来の友人のような感じさえする。
 バルドという存在さえ挟まなければ、もともと相性のよい関係だったのだろう。
 お互いの髪を褒めあいながら三人は髪が傷まぬよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと頭皮をマッサージすると、最後にリンゴ酢のリンスで石鹸のアルカリ成分を中和した。
 果たしてそれがどんな効果を生むのか、子供のように胸をはずませて三人は広い湯船に足を伸ばした。
 大貴族らしく、十人は優に入れるであろう浴場は、彼女たちが全身を伸ばしたとしてもまだ十分な余裕があった。

 「こんなにワクワクするのは久しぶりかも」

 いつのころからか、母の遺志を継がなくてはならない。もっともっと強くならなければならない。そう思い定めてこうした日常を楽しむということを忘れていた気がする。

 「バルドに会ってからうちはいつもハラハラドキドキさせられてばっかりや」

 楽しくてたまらない、というようにセリーナが笑う。
 まるで花がほころんだような屈託のない微笑みだった。
 いったいセリーナとバルドとの間にどんな過去があったのか、自分の知らないバルドとの過去を共有するセリーナがうらやましくなったシルクは無意識のうちに尋ねていた。

 「セリーナさんはどうしてバルドと知り合ったんですか?」
 「知り合ったというか、うちが財産狙いのくそ叔父に殺されそうになったときに、さっそうと現れて助けてくれたんがバルドや。恰好よかったでえ、バルドは」
 「そ、それずるいですよ!?」

 白馬の王子様に救われるとか、いかにも女の子が憧れるシチュエーションではないか。
 平凡な幸せを捨てて騎士を目指すシルクでも、やはり少女らしい憧れを抱くことはあるのである。

 「私、本当はバルド様付きの侍女なんです。学校では内緒でお願いしますね?」
 「セイルーンさんまで!?」

 二人が予想以上にバルドに対するアドバンテージを握っていると知ってシルクは悲鳴をあげた。これじゃスタートがあまりに不利すぎる!なんのスタートかという突っ込みはひとまず置くとして。

 「いつからセイルーンさんはバルドと一緒にいるんですか?」
 「もうじき3年になりますね………シルク様の前では猫をかぶってますけど、私に言わせればバルド様はまだまだ手のかかるやんちゃな弟みたいなものですよ」
 「―――――やっぱり………ずるいです」

 身体は湯で温まっているはずなのに、心の奥はどんどん冷えていく気がする。
 せっかく手に入れたように思われた女友達が、自分だけを置いて先に行ってしまうような、自分の知らないバルドが自分を捨てて去ってしまうような不思議な感覚だった。
 どうしてこんな感覚を覚えてしまうのか。

 「シルク様はバルド様をどう思っていらっしゃるのですか?」

 ポツリとセイルーンに確信に迫られてもシルクは答えを出せずにいた。
 その気持ちは、シルクの胸でまだ名前を名づけられずにいたからである。

 「最初は――――その強さに憧れました。あの人の強さに追いつきたいと思った。でも今は違う気がする………なんて言うか、他人じゃないというか………父とはまた違うんだけど……ごめんなさい、うまく言えません」

 初めてバルドを見たときから、どこか他人でないような不思議な感覚を覚えたのは事実である。その思いは日々を追うごとに強くなっている。
 だからといってバルドをランドルフ家の婿に迎えようと考えているわけではない。
 そもそも自分もバルドも兄弟はいない以上、両家の存続のためには結ばれるなどということはありえないはずだ。
 では自分はいったいバルドをどう思っているのだろうか?
 わからない――――――自分の気持ちが。

 「無理に答えを出さなくてもいいんですよ?」
 「えっ………?」
 「だって私たちまだ14歳かそこらなのに、大人みたいに簡単にわかるはずないじゃないですか。ああ、セリーナさんは人生経験豊かそうですけど」
 「なんやて?そこで年齢を言うんか、このチビっ子!」
 「ちょっ!身長のことを言ったら……もう戦争しかないじゃないですか!」
 「はんっ!戦争したかったらもう少し女を磨いて出直しとき!」

 掴み合いを始めかねない一触即発の状況でセイルーンとセリーナが睨み合う。
 一人で深く悩んでいたのがバカバカしくなってシルクは壊れたように笑った。

 「あはっ…あは、あははははははははは!!」
 「何笑っとるんや!」
 「そうです!これは女のプライドをかけた戦いなんですよ?」
 「でも、だっておかし………あはははははは!」

 こんなに笑ったのはいつ以来だろう。
 よく考えれば自分もまだ14歳の半ばにすぎない子供であった。
 シルク自身が認めようと認めまいと、未成熟な精神と身体は隠すことはできない。
 ようやくシルクはそんな幼い自分を受け入れられる気がしていた。
 そしてバルドやセイルーンやセリーナたちと一緒に大人になって行けばいいのだ。
 そのころにはきっと答えのでないこの気持ちにも、本当の答えが出ているはずだから。
 笑いの発作はなかなか治まらない。
 セイルーンとセリーナは呆れたようにシルクの狂態を見つめつつ、そっと互いに暖かな視線を交わしあった。
 彼女たちにとっても、もうシルクは他人ではなくなろうとしていた。




 ちょうどそのころ。
 1時間という長時間が経過しても動きのない状況に、アルフォードは目の前の男に対する敵意が抑えられなくなりつつあった。
 ギリギリと拳の関節をきしませてアルフォードは凶暴に嗤う。

 「―――――そろそろ私も忍耐力が切れそうなのだが……どうだろう。一つ男らしく拳で語り合うというのは」
 「今しばらくっ!今しばらくお待ちください!これを見逃せばきっと後悔なさいますぞ!」

 (―――――――頼む、早く戻ってきてくれ!僕が無事でいられるうちに!)

 冷や汗ではなく脂汗で全身を濡らしたバルドが三人の帰りを今や遅しと待ち焦がれていた。
 遠くからかすかに聞こえる乙女たちの楽しそうな笑い声を聴きながら。

 三人の入浴から1時間20分が経過した。
 バルドはすでに脂汗すら出ずに干からびた老人のように憔悴しており、アルフォードも同様に忍耐の限界を迎えようとしていた。

 「すまない。誠にもってすまないが、もう私も娘をさらっていくかもしれない男と顔を突き合わせているのは限界なようだ」

 だったら隣の部屋にでも行ってくれよ、とバルドは思うが口には出さない。出した瞬間に戦争が勃発することは目に見えているからである。

 「落ち着いてください、閣下。私はお嬢様をさらったりしません」
 「ふふふふふ………自分から泥棒と名乗る泥棒はいないのだよ………!」

 血走った目でアルフォードに詰め寄られると、さすがのバルドも対応に苦慮した。
 相手は十大諸侯の当主、さすがに直接暴力で制圧するのもためらわれる、というかそんなことをすればバルドの身が危うかった。

 「悪く思うな。我が娘に近づいた君の運の悪さを呪うがいい」

 あわや、アルフォードの手がバルドの首にかかろうとした瞬間だった。


 「何をしているの?お父様」

 救いの女神がようやく帰還を果たしたのである。




 明らかに不審な動きで首に向けていた手をバルドの肩の上に置いたアルフォードは、ひきつった愛想笑いを浮かべて娘を見た。
 娘を奪う悪い虫は許せないが、それでも娘に嫌われるほうが身を切られるよりもつらい哀しい父の性であった。
 その姿勢のまま、娘に目を向けたアルフォードは硬直して言葉を失った。
 油のような不自然な艶ではなく、かといって脂分がなくパサパサに乾いているわけでもない。見事な輝きと艶を両立させながら、なおサラサラの金細工として製錬されたかのような髪である。
 くっきりと頭部に輝く天使の輪のような煌めき。
 これまで決して見たことのないものでありながら、不自然ではなくもともと持っていた美しさが内から曝け出されたかのような印象だった。

 「な、なんなのだ?いったいこれは………?」

 アルフォードは十大諸侯に数えられる大貴族である。
 その彼にしてこの美しい創造物に出会った衝撃は比類するものがなかった。
 たとえ同量の黄金を目にしたとしてもこれほどの驚きはなかったであろう。
 シルクは手櫛に髪を通して、サラサラと指からこぼれる感触を楽しむとともに、潤いと艶に満ちた髪に年齢相応の無垢な瞳を輝かせた。
 その屈託のないシルクの表情にアルフォードは再び表情を凍らせた。
 張りつめた重すぎる義務感を感じさせない、年齢相応のシルクの表情を見るのはいつ以来のことだったろうか。

 「すごい……本当にいつまでも触っていたいわ………」
 「まさかあれだけで髪がこんなに変わるとは思いませんでした………」
 「あかん……贅沢でも、もうこれは手放せんでえ」

 三人は予想以上の効果に夢心地から戻りきれないようであった。
 そんな娘たちの様子を見守っていたアルフォードはぽつり、とバルドに向かって呟いた。

 「………すまん、な。私は君に礼を言うべきなのかもしれない」

 娘の笑顔を取り戻してくれて。
 悲壮な覚悟に身を差し出していた殉教者のような娘を解放してくれて。

 「―――――――どうかな?バルド」
 「よく似あってるよ。とても綺麗だ」

 途端に照れたように顔を真っ赤に染め、俯きながら「えへへ……」と笑うシルクは何とも言えぬ可愛らしさであった。
 同じくうれしそうに頷きあうセイルーンとセリーナの姿を見たアルフォードは、冷たく視線を凍らせると自分の判断が間違っていたことを確信した。

 「…………所詮はあの男の息子か――――――」
 「えっ?ちょっ!閣下何す――――」
 「ちょっと!お父様いきなり何をやってるの!」
 「離せ!私のシルクに近づく男はすべて抹殺しなければならないんだあああ!」


 本能の命ずるままにバルドの首を絞めるアルフォードに、首を強化してなんとか耐えるバルド。
 アルフォードの手を必死に引き離そうとするシルクというカオスな情景が展開される。
 しかしそのカオスはシルクの一言によって打ち破られた。

 「お父様なんて大嫌いっっ!!」

 「のおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!」

 絶望の悲鳴が、言葉にならぬ慟哭が、ランドルフ侯爵邸に延々とこだましたという。






 それからわずか一週間ほど後のこと。
 ランドルフ侯爵家の伝手で、王国でも特上の階層に献上されたトリートメントとリンスは上流階級の女性陣に計り知れない衝撃をもたらしていた。
 なかでも、マウリシア王国王妃と王女が晩餐会で眩い光沢に満ちた金髪を披露した事実は、たちまち王都の宮廷貴族に燎原の火のように広まっていった。
 あの美しい髪はどんな魔法がかかっているのか?
 当初あまりの美しさに、その正体が薬剤ではなく、新しい魔法による仕業だと噂した者もいるらしい。
 しかしその出所がどうやらランドルフ侯爵家である、ということがわかるとたちまちアルフォードのもとに問い合わせが殺到した。

 「実はある知り合いの伝手で手に入れたものでしてね。残念ながらまだ数が出回っていないらしいのですが……」
 「そこをなんとか!金ならいくらかかっても構いませんから!」
 「ここで手ぶらで帰ったりしたら妻が………」

 全く、大したものだ、とアルフォードは思う。
 アルフォードは王国で影響力ある諸侯のひとつではあるが、同時にトリストヴィーの王位継承者を保護する王族でもある。
 アルフォードはそうした政争の巷にシルクを放り込むつもりはないが、シルクを利用しようとする者も、邪魔で排除したい者もいることもまた事実であった。
 当然上層部の貴族に貸しを作っておくというのは、アルフォードにとって馬鹿にならない利得となるのである。

 「本来当家に頂いたものなのですが……わずかでよければおわけしましょう」
 「おおっ!感謝いたしますぞ!」

 (全くもって気にくわぬ小僧だが………才覚だけは認めてやってもいいかもしれんな)





 再び学校が休みとなる8日後を待って、バルドとセリーナは一人の男と約束をとりつけていた。
 「悪いけど今日はセイルーンはお留守番」
 「そ、そんなぁ!」

 がっくりとうなだれる侍女を学校に残して二人が向かった先は―――――ダウディング商会の本部である。

 「これはようこそおいでいただきました。バルド殿、セリーナ会頭」

 出迎えたのは年のころ30を過ぎようかという若者である。
 王都では珍しい黒髪に黒い瞳で、知性的な顔立ちをしている。
 物腰は柔らかいが、発散する気配が、この青年が決して低くない地位であることを告げていた。

 「申し遅れましたが私、当商会で国外商事部を任されておりますトーマス・フィリップスと申します」

 王都で最も大きい規模を誇るダウディング商会は、もちろん国外との貿易量も大きく分厚い販路網を所有していた。
 営業規模としては国内と国外ではやや国外の取り扱い高が大きく、国内のほうが利益率が高いという状態であり、両者はライバルとして社内でしのぎを削る関係にあった。
 中でも、どういうわけか途轍もなく利益を弾き出す高額物件を獲得するクラン部長と、論理的な営業展開で確実な利益を弾き出すトーマス部長は次期常務の地位をめぐって成績を争う関係だったのである。

 まずは商会を代表してセリーナが頭を下げた。

 「ご丁寧にありがとうございます。今日こうしてお邪魔させていただいたのはおそらくお耳に入っているであろう洗髪料の件でございます」

 「当社にも随分問い合わせが来ておりますよ。ダウディング商会では取り扱っていないのか、とね。国内貴族に得意先の多いクラン部長は頭を抱えているでしょう」

 そう言って楽しげにトーマスは笑う。
 ライバルの苦境が楽しいのか、あるいはすべての事情を知ったうえで笑っているのか、バルドには判断がつかなかった。

 「御存知でありましょうが………あの洗髪料を開発したのは当商会です」
 「そのようですね――――いったいどうやってランドルフ侯爵家と懇意になられたので?」

 それだけがトーマスにはわからなかった。
 新商品を開発するのはまだわからないではない。
 しかし貴族に伝手をつくるとなるとポッと出の商人には非常に困難なはずであった。
 今回の爆発的な洗髪料の反響も、王家につながりの深いランドルフ家の後押しなしにはありえなかったであろう。

 「………それは偶然のお導きということで」

 まさか娘に嫌われるのが嫌で土下座して便宜を図ってくれたとは言えない。

 「まあ、それはいいでしょう。それで?私を名指しで指名していただいた理由をお聞きしたいのですが」

 「先日クラン部長には当商会の買収を提案されておりまして、もちろん拒否いたしましたがなぜかゴロツキの襲撃に会いましたわ。地下ギルドにも話を通してありましたのに、私とても驚いていますの」

 セリーナの言葉にさすがのトーマスも眉がピクリと跳ねあがるのを抑えることができなかった。ここ数日、長年友好関係にあった地下ギルドや傭兵ギルドがなぜか非協力的であるという情報が部下から上がってきていたのである。
 もしも事実ならそれだけでも解雇に値する失態だった。
 ――――同時に、地下ギルドにまで伝手があるというサバラン商会には警戒の念を禁じ得ない。王都でもたまに依頼をする程度ならともかく、保護の話を通せるのはごく一部の大店だけである。

 「知り合いの傭兵が傭兵ギルドに顔が利いてね。その縁で今回は地下ギルドに手を回してもらった」

 バルドの言葉に合点がいったとばかりにトーマスは頷く。
 なるほど銀光マゴットを母に持つバルドならば、傭兵ギルドに仲介を依頼することは十分に可能なはずだった。

 「そこで意趣返しとしてはなんだが、この状況で国外向けの輸出用としてトーマス部長がサバラン商会と業務提携に成功した、となればどうなるかな?」

 バルドの意図に気づいたトーマスはニヤリと嗤った。

 「クラン部長の面目は丸つぶれですね。国内向けの需要は天井知らずです。当然国外部から商品を回せと言ってくるでしょうが……」
 「なぜ、国外部では出来て国内部では提携が出来なかったのか?地下ギルドの件も含めて暴露されたらどうなります?」
 「これまでどれだけ商会に貢献してきたとしても放逐は免れませんね。今後ダウディングの名のつく一切の部門から出入りを禁止されるでしょう」

 トーマス自身、非合法な手段を多用するクランの手法はダウディング商会の品位を下げるものだと苦々しく思っていた。
 この機会に追放できるのならば切り捨てておきたいところだ。

 「――――――まあ、それはついでとして商売の話に戻しましょうか」

 セリーナの言葉にトーマスは曖昧に頷いた。
 彼らの主目的はクランの排除ではなかったのか―――――?

 「サバラン商会はダウディング商会の販路と流通網を非常に高く評価しています。当商会には商品はあれど販路と流通力が不足している。しかし莫大な利益を生む商品は当商会でしか販売できない。―――――私たちは良いビジネスパートナーになれると思うのですが」

 そこまで言って初めてセリーナはずっとかぶりっぱなしであった帽子を取り去った。
 滑るようにサラサラと流れる黄金の金細工、そして宝石のような輝きのなかにもしっとりと濡れるような潤いを秘めた髪にトーマスはあんぐりと口をあけたまま絶句した。
 ―――――女神がこの世に降りてきたのではないか―――不覚にもトーマスはこのとき本気でそう思いかけた。
 それほどにセリーナは美しく幻想的で犯しがたいものに思えたのである。
 同時に、この髪が手に入れられるのならば、どれほどお金を積んでもよいと言う貴族は国内ばかりか国外にも腐るほどいるであろうことをトーマスの頭脳は計算し始めていた。
 それを売りさばくだけの顧客と信用がダウディング商会にはある。
 サバラン商会が求めているのはまさにその点にあるに違いなかった。
 このビッグチャンスを逃すのなら、商売人など今すぐ辞めてしまうがいい。
 トーマスは持てる権限と財力のすべてを投じてこの機会を捉えることを決断した。

 「マウリシア広しといえどサバラン商会の期待に応えられるのは当ダウディング商会だけでありましょう」

 今後一大ブームを巻き起こすサバラン・ダウディング商会の提携が成立した歴史的な瞬間であった。




 「そ、それで提携のお祝いに二人で食事でもいかがでしょうか?セリーナ会頭」
 「うち、これでも身持ちの堅い女やねん。勘弁な?」

 覚悟を決めて誘ったにもかかわらず0.2秒で秒殺されたトーマスは、商売で取引に失敗したよりはるかに深く落ち込んだという………。






 「くそっ!くそっ!どいつもこいつも!俺がどれだけ金を運んでやったかも忘れやがって……恩知らずめが!」

 ダウディング商会を解雇され、取引先にも再就職を断られたクランは街で浴びるようにアルコールを流しこんでいた。
 もとより相手の弱みにつけこむ才能はあっても、正当な営業力があるわけでもなく、ダウディング商会という看板のなくなったクランを必要とする商会などあるはずもなかった。
 しかし金看板の元特権階級にのさばっていたクランはかつての栄光を忘れられず、またぞろ地下ギルドに依頼を出していた。
 サバラン商会さえ手に入れればまた返り咲ける、それだけがもはやクランにとって最後のよすがであったのだ。

 「もっとだ!早く酒をよこせ!」
 「………やれやれ、飲みすぎても知りませんよ?」
 「お前の知ったことか!この店で一番強いのをもってこい!」

 いかにもアルコール度数の強そうなブランデーを呷るように飲んだクランはゴホゴホとむせった。
 胃が燃えるように熱く、吐き気がのどの奥からせりあがってくるのを感じる。
 いかん、飲みすぎたか?
 店のカウンターの盛大に胃の内容物を吐き出したクランは、目の前の光景に目を剥いた。
 胃の内容物と思っていたものは、大量の真っ赤な鮮血であったからだ。
 吐き気はとまらずに次から次と鮮血が吐き出され、話すことさえままならない。
 早く医者を呼んでくれ!
 声にならぬ声でマスターに助けを求めたクランは、先ほどまで愛想のよかったマスターがゾッとするほど冷たい目でこちらを見て嗤っていることに気づいた。

 「ギルドマスター(おやじ)は最初から忠告しておりましたよ。手を出すな、と」

 地下ギルドまで俺を裏切って殺すというのか!
 ゴポゴポと嫌な音を吐き出しながらクランは狂ったようにのたうちまわった。
 死にたくない。再びあの栄光を取り戻すそのときまで。
 血の塊がのどで詰まり、呼吸さえ怪しいものになってくると、次第にクランの意識は深い闇に吸い込まれ始めた。
 意識を失ったら死んでしまう。
 なんとか意識を繋ぎ止めようと、クランはカウンターに自分の頭をうちつけた。
 しかしほとんど痛みすら感じない。
 だめだだめだ!なんとか意識を繋ぎ止めないと!

 「………これはせめてもの情けってやつです」



 困ったような顔でマスターの振り上げたアイスピックが、クランが見た最後の光景となった。

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