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タトゥーファッションと記号

社会 ファッション

http://www.flickr.com/photos/68312229@N00/48453117
photo by Voyou Desoeuvre

(歌手じゃない方の)タトゥー云々の話題を今さっき知った。

自分がやるのはイヤだけど他人がやる分にはお好きにどうぞ、と思ってる。
それを踏まえて以下。



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習俗と土地と時代の背景

blog.kaerucloud.com
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僕は基本的に「タトゥーのことになると異常な攻撃性を見せる人達」に向けて「タトゥーが入ってても同じ人間なんですよ?そこまで言う必要があるのかい?」って思っています。

「人を◯チガイ呼ばわりする奴に説得力ない」って書いてありましたが、伏線があるってことはわかって頂きたい。

何度もいいますが、あくまでも僕の問いかけは「異常な嫌悪感を示して攻撃してくる人間」に対してのものです。

そこを理解して頂けたら本望です。

伏線?(言葉の使い方が……)

「海外のタトゥーカップルの結婚写真」を出して、タトゥーが入っていても普通の人と同じ価値観を持ち合わせてる(?)と言う主張の記事。
ウチもご自由にとは思うが……。

ただ引用部を筋とするなら「海外のタトゥーカップルの結婚写真」を出すのは違和感。
そもそもタトゥーと入れ墨(紋紋)は文化的背景が異なる。

冒頭に貼っている清原の入れ墨写真。
アレは日本の「入れ墨」
次に貼ってる海外カップルは「タトゥー」

これ付随してる記号的意味(文化的コンテクスト)がまったく異なる。
時代や文化で記号は、大きく異なるなんて当然。

三国志 (1) 桃園の誓い (希望コミックス (16))
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潮出版社
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たとえば三国志で袁紹が宮廷に乗り込み宦官3000人をみなごろしにする場面がある。
この「宦官かそうでないか?」を見分けた基準は「ヒゲがあるかないか?」だったと言われてる。
今ならヒゲは単なるオシャレですが、儒教の教えの強かった昔の中国ではヒゲを生やすのが当然。
 
日本では
「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」
なんてのもあった。
※散切り頭……マゲを結うのではない現在のような髪型
明治4年に文明開化の一環として散髪脱刀令が発布された。
平たく言うと「刀を下げなくてもいい、髷を結わなくてもいい」ですね。
しかし当然ながら髷を結うのが当然の日本で反発も起きた。

明治6年3月敦賀県(現在の福井県嶺南)で、断髪令に反対する3万人が散髪・洋装の撤廃を要求した一揆が発生し、6人が騒乱罪で死刑となっている。
散髪脱刀令 - Wikipedia

中には、夫が髷を切ったからという理由で離縁した夫婦もいたらしい。

マゲだとか洋装だとか、それまで日本になかったものを取り入れ文化的なコンテクストを上書きしていくのには時間がかかるし、対して抵抗もある。

黥面

海神記 上 (光文社コミック叢書“シグナル” 6)

では日本で入れ墨文化は無かったのか?と言うとそんなことはない。
諸星大二郎を読んでる人なら知ってると思いますが、呪術的意味性を持った入れ墨を入れる文化は日本にも存在していた。
http://www.geocities.jp/taru638/page036.html

倭人伝に寄れば三世紀倭人は身分の大小に関わらず入墨をしていた。
一方、九州には8世紀位まで黥面文身の風俗は残っていた。
能登にも入墨をした海人族が遅くまでいたらしい。
しかし、畿内に入墨の風習はなかったようにみえる。
埴輪に残された黥面らしき線は身分の低い者に限られる。
日本書紀には罪人に刑罰として入墨をしたと記載されている。
黥面文身は畿内にもあったかも知れないが、早々と消えてしまったのである。
なぜこの風習が消えたかを考えると畿内が倭人でない民族に支配されたとするのが妥当である。

こちらのページが面白いですが、要は黥面(顔などに入れ墨をする)の風俗があった倭人のところへ黥面文化のない大陸の影響を受けた渡来民がやってきて徐々に入れ墨の文化は刑罰へと変化して行った。
そう言うパラダイムシフトが起きていた歴史があると思われる。
入れ墨を入れる→刑罰と言う文化も大陸渡来かもしれない。


さらに入れ墨は江戸時代以降、刑罰の象徴だった。
時代劇で見かけますが、島流しになると腕に二本線の入れ墨を入れていた時代もある。

入れ墨に対する法的規制は、敗戦後の1948年(昭和23年)、軽犯罪法の公布とともに解かれた(それまでは警察犯処罰令で処罰対象だった)ため、現在の日本では入れ墨そのものに対する法的規制は存在しない。
入れ墨 - Wikipedia

日本では、1948年まで法的な規制が存在した。
70年程度前までは法的にダメって言われてた習俗だったわけです、日本では。
明治や大正じゃないですよ。昭和ですよ。

筋悪

さて話を戻しますか、

そして一番言いたいのは、「決して結婚式の画像を使ってタトゥーのイメージ向上させようとしたわけではない」って事です。

結婚式の画像を使う手口が卑怯とか悪手とかいろいろ書かれてましたが、そんな噛みつくとこですか?

「身近な同じ価値観を共有できるもの」として結婚の画像を使いました。ただそれだけのことです。

別に子どもと遊んでる画像でも、ドライブしてる画像でも何でも良かったんです。タトゥーが入ってない人でもわかる感情を伝えられれば。(しいていうなら日本人画像のほうが良かったですね)

よくわからないんですが、入れ墨に対して抵抗感のある多くのひとは「入れ墨を入れる」と言う行為と認識に対して「おかしい」と感じているのであって、「入れ墨を入れている人間はあらゆる価値観がおかしい」なんて思ってるわけじゃないでしょう。
だから入れ墨を入れた新郎新婦の写真なんて「お互いに好きならいいんじゃね?」としか思えない。

結婚式の画像を使う手口が卑怯とか悪手とかいろいろ書かれてましたが、そんな噛みつくとこですか?

噛みつくと言うより打ってる筋が悪い。

そもそも日本において70年ほど前まで法的規制が存在し、禁忌感があり反社のイメージが強い「入れ墨」なのか、それとも海外からの輸入とも言える「タトゥー」を語るのかだけでも前提や論点がかなり異なる。
それらは似ていて非なるもの。

記事のコメント欄を読みましょうよ。

これらの結婚するふたりに末長く幸せにと思うことと刺青嫌いなことなんて余裕で両立するわっちゅーの。
http://b.hatena.ne.jp/entry/283234861/comment/K-Ono

日本の文化の中でタトゥーはヤクザがするもんだって認識があるだけで外国人がタトゥーしてたって関係なくね?
http://b.hatena.ne.jp/entry/283234861/comment/tomoya5

「タトゥーを正当化しようとしてるぞ!攻撃しろ!」
なんて大勢の人は言いたいんじゃない。

反応としての多くは
「結婚式の写真で入れ墨肯定されても納得できないんですけど……(困惑」
なんですけどね。
謝罪と弁明云々として書かれた記事の中にそういう認識がなかったのでこれを書いてますが。

ファッションと言う記号

http://www.flickr.com/photos/14481867@N05/1918394597
photo by downloadmac2007

人間、内面では何を思っているかわからない。
初めて会った相手であればなおさら。
たとえばモヒカンヘアーをしてればパンクだとか、あるいは「とんがった」イメージを持たれる。

たとえば鉤十字のバッヂを付けてスキンヘッドで「これは単なるファッションです」と言い張っても通じるとは限らない。
海外の文化圏においてネオナチと判定される格好をしていて「ファッションは自由だ」が通用するか。

映画「マルコムX」が流行った当時、マルコムロゴが書かれたキャップをかぶった日本人が黒人にどやされたなんて話もある(これ何度目?)。

外見やファッションには、コミュニケーションツールとしての側面もある。
お祭りにハッピを着て、晴れ着を着て、葬式には喪服を着る。
これはすべて衣装に記号的意味が付随するからですよ。
本人が文化や記号的意味を排しても、文化的背景が存在すれば周囲に対しての記号に意味は存在する*1



ファッション認識において自と他は必ずしも一致しない。
ましてや記号的意味があればなおさら。

や○ざが入れ墨を入れる→帰属意識と言われますが、立派な入れ墨を入れ、仲間内で見栄を張る意味もある。
だから入れ墨自体に対する嫌悪感よりも

・入れ墨を入れる人=その手の人、こわい

という思いだってかなりある。
や○ざ、半グレ、DQN、チャイニーズマフィア。
そういうひとらが記号として入れる入れ墨、タトゥー。
そのイメージはどうなんでしょうね?

先ほどのたとえで言うなら
「モヒカンでピアス開けまくってるけど単なるファッションだから気にしないで―」
は理解できるが、でもそのファッションをまとえばそれなりの記号を身につけることになる。
自分にとってその記号は意味がなくても、文化的背景や他人にとっての記号を否定できるほどの論拠として「オレは好きだから」「嫌いなひとは嫌えばいい」じゃあ腰砕けなんですよ。
だから気の弱いギター弾きやパンクスが、部屋を借りれないのも伝統。 


ロクデナシII (ギター弾きに部屋は無し)
 
今後、日本で入れ墨がコンテクストを塗り替えて普及して行くのかどうかはわかりませんが、入れ墨に対しての意識→偏見だ、と言うだけで考えているなら少し見識が甘いとしか言えない。
外見に対する生理的反応は、そんなに簡単に変わらない。

同じキモいと否定されるオタク文化を例に出します。
例えば「痛車」
僕には良さがさっぱりわかりません。
(中略)
そして非難したりバカにすることもしません。好きにすればいいと思います。もっと言えばハマれるものがあっていいんじゃない?とすら思います。
でも残念ながら世の中には自分の理解を超えるものに対して攻撃してくる人がいます。
タトゥーもそう、オタクもそう。いつだってマイノリティーは攻撃の対象です。

でも「痛車」が背負う記号と「入れ墨」が背負う記号は違う。
「痛車」は単に「キモい」で終わっても、「入れ墨」は「怖い」だけじゃ終わらない。
反社的な存在を認識させる記号として機能してしまうことも多い。

だってどれも理性じゃなく生理なんだから。
そこをどう乗り越えさせるのか、って部分が難しいからこそ明確な答えが出ないんだろうさ。

ということでTMGE「ミッドナイトクラクションベイベー」でお別れです(fadeout……)。

TMGE 106

*1:海外で晴れ着を着れば「ジャパニーズキモノ!」にしかならないが、日本で着れば「今日はなにかイベントあった?」と思われる。記号が認識される土地で記号は機能する