僕のマンガ家デビューは1979年、第12回「週刊少年チャンピオン新人まんが賞」の佳作に入ったのがきっかけで、その年の暮れには最初の週刊連載が始まった。
そして小山田いくが同じ賞の佳作に入ったのは、同じ79年の第13回(同賞は1年に2度募集があり、僕が上期、彼が下期にあたる)。翌年から『すくらっぷ・ブック』の連載が始まった。
かように同賞はなかなか受賞作が出ないまま、佳作に入った応募者を次々にデビューさせていたので「秋田書店は賞金を払いたくないだけじゃないか」と陰でささやかれていた。真相はわからない。
それはともかく、同時期の同雑誌デビュー、歳もほぼ同じ(小山田氏のほうが一歳年上)とあっては、いやがおうにも意識せざるをえない存在ではあった。
しかしそれは、ライバル視、というのとはちょっと違っていた。
僕はギャグマンガを志向しており、小山田いくの描くマンガはキャラクターこそ2頭身から3頭身とギャグ的ではあったが、内容は皆様よくご存じの通り、青春……いやさらにその一歩手前の時期の、ちょっと甘酸っぱいエピソードがてんこ盛りに語られる、地方の学校というごく限られたコミュニティの群像劇だった。
そういうわけで、僕は他誌で描いている同年代のギャグマンガ家たちこそ自分のライバル、と当時は思っていた。
しかし。
であれば無視しておけばいいものを、実際は、僕は連載の中で(Wikipediaにすら記述がある)小山田マンガへのちょっかいやおちょくりを繰り返していた。ライバル視はしてなかったといいながら、なぜ。
いまならわかる。
小山田いくが描いていた甘酸っぱすぎる中学生の話は、まぎれもなく、自分の中にもあった要素だった。彼は小諸、僕は人吉という、山の中の、しかし、やや文化度は高いといっていい地方都市で育った、という点も似ている。
だが、彼は地元在住のままマンガを描き、僕は上京した。そして僕はギャグマンガを志向した。その時点で、僕は自分からも作品からも彼が描いていたような属性や要素を、意識して排除した。本当はさだまさしも聴いていたのに、山下達郎やムーンライダーズしか聴いてないようなふりをした。
それを小山田いくは葛藤も臆面もなく(と、当時の僕には思えた)描いていた。人は自分と正反対の人間よりも、実は自分とよく似た、しかし自分が隠したい属性を堂々と誇示している人物を、もっとも嫌ったり意識したりする。
こうして僕は小山田いくの(実のところ自分の)甘酸っぱさを、作者本人へのちょっかい的なギャグでなんとか中和しようとした。照れずにああいう話が描ける同年代をスルーできなかった。
子供っぽい話だ。
今から思えば、まだまだ二人ともアマチュア気分が抜けていなかった。若気の至りというしかない。いや「二人とも」というのは正確ではない。ちょっかいはもっぱら僕のほうから最初に仕掛けていた。小山田いくは、なかばしかたなくつきあってくれていたのだと思う。
作品の内容はあんな感じだが、クラス全員のキャラ付けをして、毎回主役を変えて群像劇を維持していくというのは、実は極めて大人の作家の作業といえる。彼の作品の甘ったるさを「大人になった気で」揶揄していた僕のほうが、実のところずっと子供だった。
こちらが描いていたのは節操のない何でもアリのマンガだったから、楽屋落ちやメタ的な遊びもギャグにしてしまえるところがあった。しかし彼のマンガは先ほど述べたようにそういう志向のマンガではない。下手な呼応は作品を壊す。だいぶ迷惑をかけてしまったと思う。
迷惑といえば、彼と直接会ったのは生涯で一度きりだったが、それも今から思えば迷惑千万な会い方だった。
同じ雑誌の同期なのに一度しか会ってないのか、と驚かれる方もいるかもしれないが、少なくとも当時のチャンピオンでは、マンガ家が同じ雑誌に描いている他のマンガ家の連絡先を欲しても、編集部は教えてくれなかった。
いまみたいにSNSが発達している時代では、そういう謎の配慮だか妨害だかは意味がなくなってしまっているけれども、当時はそういう風潮であり、とくにチャンピオンは他誌のように年末年始の謝恩会がなかったので、マンガ家どうしの縦の繋がりも横の繋がりも持つ機会はなかったのだ。
そういう状況の中、かなり無理をしてとった夏休みで、僕は友人たちと長野県斑尾のペンションに数日間遊びに行った。その帰り、国道18号で小諸を通過する際、まったくもって突然思い立ち、僕はアポもなければ手土産もない状態で、いきなり小山田邸を訪ねたのだった。
小山田邸の場所はなんと駅前交番に張り紙があった。ファンによる聖地巡礼の走りのようなことが起きていたためだ。いまからすれば考えられないような物騒な個人情報の流出だが、まだそういうおおらかな時代ではあったのだ。
小山田さんは仕事中であり、ノーアポでやってきた同業者(とその友人)に、あきらかに迷惑そうだった。無理からぬことである。手ぶらの客にそれでもお茶とお菓子を出してくださった。僕はツーショットの記念写真を一枚撮って、早々に退散した。
次にお会いしたら、30年前の、あの無礼と狼藉を詫びよう。
ずっと、そう思っていた。
まだ思っている。
5 件のコメント:
横山隆一とは仲違い やなせたかし は父親が悪く言うので逢わず
何時の間にか永遠に会えなくなった 時は移ろい心は残る
又来世でも?
お二人の抗争(?^^;)、当時読んでおりました。どちらも当時から好きな漫画家さんでした。同じ年の賞デビューされていたとは失念しておりました。そんなほぼ同年齢とは存じ上げませんでした。チャンピオンの作家さん同士の交友事情、知りませんでした。いまのようにTwitterで漫画家さん同士がつながる時代だったらどうだったでしょう(「広大なアメリカという土地に散らばって、詩人たちは孤独だ」という評論を、いつもいま現代つながられている漫画家の先生方を見て折にふれ思い起こすのです。カッコ内も長くて恐縮です)。一度きりのとり先生の小山田先生宅訪問、初めて知りました。先方には少しご迷惑でも、一度でも先生方の邂逅があったことが嬉しく思われます。とりとめもなく長いコメント書き込みで恐縮です。小山田先生の早すぎる逝去、空漠としております。とり先生のこの文章を読まさせていただいたこと、ずいぶん有り難く。言葉がうまく継げません、、こういった文章、目にさせていただき、ありがとうございました。
とりみき先生と小山田いく先生の掛け合いバトルをリアルタイムで楽しんでいた一読者として、とても貴重なお話しを伺えたように思います。直接の対面が一度きりというのも驚きですが、小山田先生、けして迷惑ではなかったのではないでしょうか? 私も仕事がらみで一度お会いしたことがあるだけですが、なんとも照れ屋で、人好きのくせに不器用にしか接しられない、そんなお人柄を感じました。まあ、週刊連載を抱えている漫画家さんの所にアポ無しで行ったら迷惑なのは当然で(笑)そこにあのお人柄ですから、困惑して対処できなかったのでしょうね。最も、信州人気質というのがあって、初対面の相手にあまりオープンには接しないところがあります。でも、一旦受け入れたら、絶対浮気しない。小山田先生も、そんな典型的な信州人だったように思います。30年前のそんな出来事、気にしちゃダメです。小山田先生にも失礼、多分。お二人の悪ふざけを、親しみをもって楽しんでいたファンが、何人も何人もいたこと、忘れないでください。そういえば、小山田先生、作中で[とりみきがあそびにきたよー]みたいなこと、(ローマ字だったかな)嬉しそうに報告してたような。あの時だったんですね。
とり先生も、ご自愛ください。嫌ですからね、訃報がこのところ続いてますから。
とり先生が「星のローカス」だったか…に描かれた「KOMOROHA TOKAIDATTAYO」を見つけて、
微笑ましく思ったものですが、その時1度きりしかお会いしていなかったというのは意外でした。
SNSが発達している今なら、作家同士の交流も簡単なのでしょうが、
何せ小山田先生は東京に出るのもけっこう大変な地に住まい、地元は愛してるのでしょうけど
他の先生との交流がままならない中、とり先生のちょっかいを楽しんで受けておられた感触…に
私には読めました。
デビュー時期も、年齢もほぼ同じで「親近感」の一語に尽きるのでは?
そのやり取りも含めて、お2人の作品を毎週心待ちにしていた
小中学時代を懐かしく振り返らせていただき、有難うございます。
小山田先生のご冥福を祈るとともに、とり先生のご健康を遠き南の島よりお祈り致しております。
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