東日本大震災から五年たち、被災地の復興はまだら模様です。福島第一原発事故に苦しむ福島県で、幸せな暮らしを求めて動きだした人たちがいます。
「宮城や岩手の住宅再建のスケジュールは見えてきた。原発事故のあった福島県は除染に時間がかかる。賠償もある。復興はその後になる。復旧のスピードが被災地間で色分けされてきた」と復興庁の岡本全勝(まさかつ)次官は総括します。
福島県では今も十万人近い人が避難生活を送っています。津波被災地ではやっとがれきの処理に手が付いたところです。スピードを上げて進める必要があります。
◆「いいたて」の名を
原発事故後、ツイッターに「放射能が降っています。静かな夜です。」と書いた福島市在住の詩人和合亮一さん。「最近やっと、福島の回復を表現したいと考えるようになりました」と話します。
住民の考え方はさまざまです。今回はふるさとに戻ろうとしている人たちの話を書きます。
「日本で最も美しい村」連合に入っている飯舘村。今も全村避難が続いています。帰還に向けて、菅野元一さんは作業小屋を建て直しています。
生まれたとき、両親が植えた杉を使います。イグネと呼ばれる屋敷林でしたが、除染のために伐採しました。表皮を剥げば放射能の心配はないそうです。作業小屋というより立派なログハウスになりそうです。今日二十七日、上棟式をします。
震災時、岩瀬農業高校校長だった菅野さんは、これまでにジャガイモ「イータテベイク」やカボチャ「いいたて雪っ娘(こ)」などの新品種を作りました。今もナスの改良に取り組み、完成したら「いいたて」の名を付けた新品種にするつもりです。
◆スイーツで振興を
一昨年春、避難指示が解除された田村市都路町。対象地域の住民約三百四十人のうち、戻った人は六割ぐらいです。
先週、黄色いトレーラーハウスの「みやこじスイーツゆい」が開店しました。地元の特産品「都路のたまご」を使ったスイーツ「とろ〜りなめらかプリン」や「じゅうねんシフォンケーキ」などを販売しています。
仕掛け人は同町商工会長の渡辺辰夫さん。東京で修業した後、故郷に戻ってレストランを開業しました。自宅は原発から二十キロ圏内。レストランは二十キロ圏から約六十メートル外側でした。
地元の農産物を加工、販売することで、若いお母さんが働ける場を、と考えたのです。女子高生らに案を出してもらいました。昔からの人脈のおかげで、ザ・プリンス・パークタワー東京の製菓料理長、内藤武志さんがレシピを書いてくれました。
エゴマは「食べると十年長生きする」と言われ「じゅうねん」と呼ばれます。地元の農家が栽培します。スイーツで地域の活性化を目指しています。
同じ阿武隈山地にある川内村も、住民の帰還率は六割ぐらいですが、「新村民」が少しずつ現れています。
商工会には「村がなくなる可能性があると聞いて」仙台市からUターンした男性が働いています。
村役場には「夫の故郷なので、二年前、家族で引っ越してきた」という若いお母さんや、大手自動車会社を早期退職して第二の人生を歩み出した男性がいます。
同村では今年からマラソン大会を開きます。村外のマラソン大会に出た小学生が「これからの村」を考えて出したアイデアを、村中で実現させたのです。
同県三春町在住の芥川賞作家玄侑宗久さんは「今、この国は東京五輪がしたい。そのために原発を動かしたいのだろう。新潟県の柏崎刈羽原発がダメなら福島第二原発を、とならないか」と心配します。第二原発のある楢葉町は、避難解除後も住民は約5%しか戻っていません。
不安があっても頑張る人が現れるのはなぜでしょうか。答えを年配の女性に教えてもらいました。
「私たちは原発事故で大変な目に遭ったの。だから、幸せにならなくてはいけないのよ」
◆知識や技術で支援
堤防を造ったり、住宅地を整備したりするのにはまだ、時間もお金もかかるでしょう。しかし、もう五年です。住民一人一人が幸せになることも考えるときです。
実は、菅野さんの造る作業小屋は、東大の研究者らの協力で室内の放射線量を継続的に測定する予定です。帰還を考える村民の参考になると考えています。
被災地では手に入りにくい知識、情報、技術などを提供することも重要な支援なのです。
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