ウルトラマン屈指の異色作 沖縄出身脚本家・上原正三さんが挑んだタブー

2016年3月27日 11:00 著名人 文化・芸能 注目
「自立する人間になってほしいと願い、子ども番組を作っている」と語る上原正三さん=2月22日、神奈川県内

「自立する人間になってほしいと願い、子ども番組を作っている」と語る上原正三さん=2月22日、神奈川県内

上原正三さんのテレビ脚本「収骨」が文部省芸術祭で佳作入選したことを伝える紙面(1964年10月9日付沖縄タイムス朝刊)

上原正三さんのテレビ脚本「収骨」が文部省芸術祭で佳作入選したことを伝える紙面(1964年10月9日付沖縄タイムス朝刊)

円谷プロ時代の上原正三さん=1967年ごろ(上原さん提供)

円谷プロ時代の上原正三さん=1967年ごろ(上原さん提供)

「快獣ブースカ」を撮影中の上原正三さん(左)と故金城哲夫さん(右)=1967年ごろ(上原さん提供)

「快獣ブースカ」を撮影中の上原正三さん(左)と故金城哲夫さん(右)=1967年ごろ(上原さん提供)

「テレビは社会問題をストレートに描くのは嫌がるけれど、怪獣を使って描いたりすれば、結構いろいろなことができた」と話す上原さん=2月22日、神奈川県内

「テレビは社会問題をストレートに描くのは嫌がるけれど、怪獣を使って描いたりすれば、結構いろいろなことができた」と話す上原さん=2月22日、神奈川県内

 沖縄出身の脚本家、故金城哲夫さんが「ウルトラマン」を誕生させてからちょうど50年。特撮の円谷プロで1歳下の金城さんと苦楽を共にした後フリーになり、ウルトラヒーローシリーズ3作目「帰ってきたウルトラマン」を手掛けたのが、同郷の上原正三さん(79)だ。

» ウルトラマン生みの親・金城哲夫さんの生涯描く

 2人のウルトラマンは対照的。金城さんが近未来のファンタジーとして描いたのに対し、「帰ってきたウルトラマン」は放送時の、1971年の東京が舞台。スモッグの空や工場地帯、ヘドロの海が戦いの場になり、時に怪獣よりも恐ろしい人間の心の闇もテーマになった。

 特撮界に多大な足跡を残した上原さん。ウルトラマンと並ぶ特撮ヒーロー、仮面ライダーの誕生にも関わったというから驚きだ。米軍占領下の沖縄から上京し脚本家になるまでのいきさつや、ウルトラシリーズ屈指の異色作「怪獣使いと少年」に込めた願い、故郷・沖縄への思いまで、語ってもらった。(聞き手・磯野直)

 【プロフィル】うえはら・しょうぞう 1937年2月6日、那覇市久米生まれ。中央大学卒。64年、「収骨」が芸術祭テレビ脚本部門で佳作入選。66年、「ウルトラQ」の第21話「宇宙指令M774」でプロデビュー。円谷プロを経て69年にフリーとなり、「帰ってきたウルトラマン」「がんばれ!!ロボコン」「秘密戦隊ゴレンジャー」「がんばれ!レッドビッキーズ」「宇宙刑事ギャバン」アニメ「ゲッターロボG」など多くの子ども番組でメーンライターを務める。著書に「金城哲夫 ウルトラマン島唄」「上原正三シナリオ選集」。

■疎開船とケチャップの味

那覇市久米で生まれ育った。

 「父敬和は警察官で、僕は5人きょうだいの3番目。久茂地川が今よりも広くてきれいで、よくガザミを捕って遊んだ」

 ―戦争体験は。

 「1944年7月にサイパンが陥落すると、住民は戦闘の足手まといになるという理由で、日本軍が疎開を奨励した。でも、ウチナーンチュ(沖縄の人)は先祖の土地からなかなか動かない。それで『官公庁の家族から行け』となり44年9月ごろ、父を残して母文子ら家族6人で台湾に向かった」

 「1カ月後、一度沖縄に戻ろうと、10月10日に那覇へ着く予定の船に乗った。途中、急に台風が来て西表に避難している間、那覇が大空襲で壊滅した。僕らの船は行き場を失い、約2週間、海を漂流した」

 ―死を覚悟したか。

 「寝る時は家族6人、手首をひもで縛った。母は『離れ離れにならないように』としか言わないけど、7歳の僕でも死を覚悟した。回りは希望のない顔をした大人ばかりだからね、見れば分かるよ。米軍に制空権を奪われ、潜水艦もうようよいただろう。でも奇跡的に鹿児島に着き、熊本の円萬寺という寺で終戦まで疎開した」

 「2週間の漂流中、食べ物がないからケチャップだけをなめていた。だから、79歳の今もケチャップが食べられない」

 ―お父さんは沖縄で、地上戦を体験した。

 「糸満署長として住民を引き連れ、南部を逃げ回っていたらしい。住民と一緒に亀甲墓に隠れていて、日本軍に追い出されたこともあったという。どこをどう逃げたか全く分からず、摩文仁(まぶに)で死にかけているところ、捕虜になった。戦後、体験を一切語らなかったよ。左耳は全く聞こえなくなっていた。でも、僕ら家族は熊本で『勝った』としか言わない大本営発表をうのみにしているから、父たちが悲惨な戦場を逃げ回っているなんて、思いもしなかった」

 ―46年、米軍占領下の沖縄に帰郷する。

 「戦後、父は石川署長になっていて、石川市(現うるま市)で数カ月を過ごした後、百名小(現南城市)の3年生になった。警官の子なのに、学校が終わると米軍基地に潜り込み、戦果アギヤーを繰り返す悪ガキだった」

 ―映画との出合いは。

 「那覇高時代、朝から晩まで映画を見ていた。ヌギバイ(ただ見)でね。『シェーン』に感動し、高校生なのに早撃ちごっこするディキランヌー(劣等生)が観客では飽き足らなくなり、自分で作りたくなった。同級生に『ヤマトゥグチ(標準語)も分からんのに、シナリオ書けるのか』とからかわれたけど卒業後、意気揚々と東京に向かった」

■上京、これが「琉球人お断り」か

 ―55年当時、本土での沖縄差別は露骨だった。

 「高1の時、東京で暮らす親戚が『九州出身』にしていると知った。しかも本籍まで東京に移してさ。これは突き詰める必要があると。『俺は琉球人だ』との気概で東京に乗り込むと、親戚は歓迎してくれない。キャンディーやチョコ、リプトンの紅茶など、基地でしか手に入らない土産を嫌がったな。その後、僕も部屋を貸してもらえなかった。これが『琉球人お断り』かと知った」

 ―それでも、ひるまなかった。

 「『ウチナーンチュを標榜(ひょうぼう)して、ヤマトゥ(本土)で生きる』が僕のテーマ。沖縄を差別するヤマトゥンチュとはどんな人種なのか、俺の目で見てやる。そんな青臭い正義感を抱いて、60年がたつ」

 ―東京で浪人後、中央大学に入った。

 「でも授業には出ず、映研か映画館通いの毎日。アマチュア時代、沖縄戦や基地以外のテーマで脚本を書いたことはない。俺が伝えなきゃ誰がやるってね」

 ―1歳下の故金城哲夫さんとの出会いは。

 「卒業後、東京で同人誌用の脚本を書いていたが肺結核になり、25歳で帰沖した。那覇で療養しながら、テーマを探してコザの基地の街や嘉手納基地周辺をウロウロしていたよ。ある日、母の友だちに『あなたみたいな映画好きがいる』と教えられ、会いに行ったらそれが金城。ちょうど映画『吉屋チルー物語』を編集していた」

 ―どんな印象だったか。

 「俺が沖縄の現実を映画で告発しようと考えている時、金城が作っていたのは遊女の悲恋物語。俺が琉球人として生きる決意した時、あいつは玉川学園で『金星人と握手する会』を作って活動していた。発想のスケールが大きすぎるんだよ」

 ―その後、金城さんは特撮の円谷プロに入る。

 「63年、金城の誘いで東京に行き、特撮の神様・円谷英二さんや長男の一さんに会わせてくれた。一さんは『プロの脚本家になりたいなら、まずは賞を取れ』とアドバイスをくれた」

 「それで沖縄に戻り、沖縄戦をテーマに『収骨』を書いた。国の64年度芸術祭のテレビ脚本部門で佳作入選したんだ。65年1月、鼻高々で円谷プロを訪ねたよ。ちょうど円谷プロ初の特撮テレビドラマ『ウルトラQ』の制作中で、金城は僕のためだけに上映会をしてくれた。見たのは放送前の宇宙怪獣ナメゴン(第3話『宇宙からの贈りもの』)と、巨大サルのゴロー(第2話『五郎とゴロー』)で、僕はただただあんぐり…。『吉屋チルー物語』にも驚いたが、特撮怪獣物には本当に驚いたよ」

■「沖縄はタブーだ。テレビではできない」

 ―当時、TBSのエース監督だった円谷一氏は「収骨」をどう評価したのか。

 「円谷プロで再会した一さんは、受賞は喜んでくれたけど『沖縄はタブーだ。政治なんだよ。テレビでは絶対にできないぞ』って…。TBSのドラマは他局より秀でていたが、反戦の名作『私は貝になりたい』などは右翼に攻撃されてね。テレビ局は、政治的なテーマにピリピリしていた。代わりに、一さんは僕に『ウルトラQ』を書けと勧めてくれた」

 「で、書いたのが『オイルSOS』。ヘドロから生まれた怪獣が、石油タンクに吸い付いて巨大化するという話。沖縄戦がだめなら、水俣病をテーマにやってみようとした。一さんのゴーサインが出てね。石油会社を訪ねたら『どうぞロケでお使いください』と言う。あの高い石油タンクの上から景色を眺めると、天下を取った気分になったよ。沖縄は無理でも、公害問題を告発できると喜んだ」

 「でも結局、石油会社がロケを断ってね。発注した怪獣ボスタングの着ぐるみが出来ちゃっていたから、急きょ『宇宙指令M774』という話を書き、それが『ウルトラQ』の第21話になった。試写室のスクリーンいっぱいに映像が映し出されたら、感激したよ。これがプロデビュー作」

 ―金城さんの誘いで円谷プロの社員になる。

 「金城が企画文芸室長で僕が副室長。66年1月から始まった『ウルトラQ』がヒットし、さらに66年7月に始まった『ウルトラマン』で、円谷プロは隆盛期を迎えた。金城は常にその中心にいてね。67年10月から始まった『ウルトラセブン』も、『ウルトラマン』ほどではないが視聴率は取れていた。金城の書く作品は本当に素晴らしかったよ。特に、メーンライターを務めた『ウルトラQ』『ウルトラマン』、そして『ウルトラセブン』の最終回は彼の真骨頂だ」

 ―しかし、怪獣ブームは去ってしまう。

 「円谷プロ初の1時間番組『マイティジャック』が68年4月から始まったが視聴率が悪く、赤字を累積させた。それで円谷プロは金城を降格させ、切った。あれだけの功労者を会社は切ったんだ。金城は見るからに意欲を失ってしまった」

 「そんな中、『怪奇大作戦』(68年9月~69年3月)で、金城がTBSの橋本洋二プロデューサーに『対馬丸事件を題材に、シナリオを一本書く』と宣言したことがある。でも、結局書けなかったよね。金城は沖縄戦の時、家族で南部戦線を逃げ回った。おふくろさんが艦砲射撃で片足を失ってね。あまりにも過酷で、生々しくて…。結局、沖縄戦については何も書かないまま死んでしまったけど、見たかったよな」

 「金城はその後、数本書いたけど、魂のない作品だった。69年2月、失意のまま妻と3人の子を連れて沖縄に帰ってしまった。会社は僕に残れと言ったが『金城のいない円谷に魅力はない』と言って辞め、フリーになった。結婚直前だったけど、もし思いとどまっていたら今の僕はない。退社は69年2月。なのに、妻の光代と5月に結婚し、失業保険で6カ月間暮らした。映画『グレン・ミラー物語』をなぞらえ、お金がなくても幸せになれるんだと妻に言い続けて47年が過ぎたよ」

■仮面ライダー誕生、そしてウルトラ復帰

 ―フリーになり、「仮面ライダー」の誕生にも関わったと聞く。

 「企画の段階で原作者の石ノ森章太郎が、テレビ局ともめていた。テレビ局はウルトラマンのようなヒーローを期待しているのに、石ノ森が作って提案したのはバッタをモチーフにしたキャラクターだったから嫌がり、お互いの意見が平行線だった」

 「そのころ、『柔道一直線』(69年6月~71年4月)を手掛けていた僕に、『話し合いに入って、石ノ森の援護射撃をしてくれ。テレビ局を説き伏せてくれ』との依頼が来た。それで、同じ脚本家の故市川森一と一緒に、話し合いの場に乗り込んだ。控室で『仮面ライダー』の絵を見せられた時は、正直『えーっ、本当かよ…』と絶句したよ。それでも、会議では石ノ森のアイデアがいかに素晴らしいかを力説した」

 「僕が『ウルトラマンのコピーをやってもだめだ。このキャラクターには未来がある』などと演説すると、隣で市川が『そうだ』と合いの手を入れる。当時、僕と市川といえば子ども番組の脚本家として知られつつあったから、テレビ局側も『そんなに言うなら』と渋々認めてくれた。それで、そのまま『仮面ライダー』を立ち上げてくれと言われ、準備を進めた。主役の藤岡弘やヒロインの島田陽子があいさつに来たよ」

 ―しかし、再び円谷プロから誘いが来た。

 「TBSの橋本プロデューサーから『ウルトラマンをもう一度やるから戻ってこい』との連絡が来た。一度は下火になった怪獣物だったが、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』が再放送されると人気が再燃していた。それで新作を作ることになり、僕は『仮面ライダー』を離れた」

 ―企画のさなかの70年1月25日、円谷英二氏が亡くなる。

 「それで、長男の一さんがTBSを辞めて円谷プロの社長になり、『新しいウルトラマンで、おやじの弔いをやるんだ』と意気込んだ。『帰ってきたウルトラマン』(71年4月~72年3月)は、お鉢が回るような感じで僕がメーンライターになった。すると、円谷プロは第1、2話の監督に映画『ゴジラ』の本多猪四郎さんを連れてきた。巨匠だよ。まさに円谷プロの決意の表れ、おやじさんの弔いへの熱意の表れだね。でも、俺は何を書けばいいのかとびびってしまった」

■2人のウルトラマン

 ―金城さんのウルトラマンとは。

 「無風快晴。一点の曇りもない。彼のウルトラマンは伸びやかさがみなぎるんだ。物事をまっすぐに見つめ、マイノリティーの視点を持ちながらも抑制を効かせ、ファンタジーに収めていた。50年前の作品なのに、今も魅力が全然失われない。現在までいろいろなヒーローが誕生しているが、いまだに初代ウルトラマンを超えるキャラクターはない」

 「初代ウルトラマンの第30話『まぼろしの雪山』で山奥に暮らす怪獣ウーを攻撃する科学特捜隊を、少女が猛烈に批判する。金城にもそういう反戦的な部分、圧倒的な力で制圧することへの反発はあったと思う。僕も金城もウチナーンチュだから、無意識の部分でもマイノリティーの視点を持っている」

 「でも金城は明るい男。意識的にそういうテーマを表に出さず、抑制を効かせていた。『ウルトラセブン』の第42話『ノンマルトの使者』に沖縄を投影させたという説があるけど、金城はそんなに意識していなかったと僕は思う。ファンタジーの中でしっかりと収めるのが、金城のウルトラマン作品のすごさだ」

 ―それでは、上原さんのウルトラマンは。

 「金城のウルトラマンは一つの完成形。そのコピーでは、やる意味がない。仰ぎ見る主人公ではなく、町工場で働く兄ちゃんが困難にぶつかりながら成長していく物語にした。近未来ではなく、公害が深刻だった70年代の東京を舞台に、リアリティーの追求に腐心した。例えば怪獣がビルを壊すと、僕は人々ががれきの下敷きになる場面を作る。これは金城にはない発想。でも僕はやる」

 「初代ウルトラマンと変身するハヤタは一心同体だけど、意思はどちらにあるのかはぼんやりした設定になっている。それで僕のウルトラマンは、変身する郷秀樹の意思を持つ設定にした。また、初代は仰ぎ見るイメージだけど、僕のウルトラマンは子どもの目線に下げようとした」

 「だから『帰ってきたウルトラマン』は僕をはじめ、いろいろなライターがやりたい放題にやっているよね。初代『ウルトラマン』のような透明感はなく、斜(はす)に見た感じの物語が主流になっていった」

 ―「帰ってきたウルトラマン」の第11話「毒ガス怪獣出現」は、金城さんの脚本だ。

 「金城が東京に出てきた時、一さんが書かせた。当時、大問題になっていた(沖縄の)知花弾薬庫での毒ガス貯蔵をテーマにしたけど、あまりにもストレートな告発で、金城の真骨頂である伸びやかさがない。自分を曲げて書いたのだろう。結局、それが金城のウルトラシリーズ最後の脚本になった。つらかっただろうな。一点の曇りもない『帰ってきたウルトラマン』を書いてほしかった」

 ―放送時の71年、沖縄は「日本復帰」直前だった。

 「ある日、現場で『復帰おめでとう』と言われた。何がめでたいんだ。沖縄があれだけ求めた基地の撤去要求は無視されてさ。『復帰』は、米国の一元支配から日米のダブル支配になるだけだと考えていた」

 「このままだと、沖縄は翻弄(ほんろう)され続ける。一さんの『沖縄はタブーだ』がずっと胸に引っかかっていて、いつか差別、マイノリティーを真正面から問おうと考えていた。番組も3クール目に入り、安定期に入っていた。やるなら今だと…」

■「怪獣使いと少年」で問うた人間の心の闇

 ―それで、第33話「怪獣使いと少年」ができた。

 「登場人物の少年は北海道江差出身のアイヌで、メイツ星人が化けた地球人は在日コリアンに多い姓『金山』を名乗らせた。1923年の関東大震災で、『朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ』『暴動を起こした』などのデマが瞬く間に広がった。市井の善人がうのみにし、軍や警察と一緒になって多くの朝鮮人を虐殺したんだ。『発音がおかしい』『言葉遣いが変』との理由で殺された人もいる。琉球人の俺も、いたらやられていた。人ごとではない」

 ―今見ても生々しく、よく放送できたなと思う。

 「僕が何をやろうとしているのか、TBSの橋本プロデューサーは当初から知っていたよ。だって最初にプロットを見せるから。プロデューサーの権限は絶対だけど、だめと言われたら企画は通らない。でも、『書け』と言ってくれたよ」

 「あの回の監督は東條昭平が務めたんだけど、彼が僕の意をくんで、演出をどんどん強めていくんだ。例えば、『日本人は美しい花を作る手を持ちながら、いったんその手に刃を握ると、どんな残虐極まりない行為をすることか…』という隊長のセリフは僕の脚本にはなく、東條が付け加えた。そういう意味では、30歳前後の若者が血気盛んに作ったんだね」

 ―すんなり放送できたのか。

 「いや、試写室でTBSが『放送できない』と騒ぎ出した。橋本プロデューサーが『上原の思いが込められた作品だから放送させてくれ。罰として、上原と東條を番組から追放する』と説き伏せて放送させた」

 「でも当初、メイツ星人は群衆に竹槍で突き殺されていた。これも僕のシナリオではなく、東條が演出で変えた部分。さすがにこのシーンは生々しすぎて子ども番組の範疇(はんちゅう)を超えると…。それでこの場面は撮り直して拳銃に変わり、オンエアされた。結局、僕はメーンライターを辞めさせられたけど、橋本さんには感謝しかない」

 ―最終回の第51話「ウルトラ5つの誓い」は、上原さんが手掛けている。

 「これはお情けで書かせてもらった。第1話を書いたライターが、最終回を書くという掟があるからね」

 ―放送から45年がたつ。

 「ヘイトスピーチなど、日本は45年前よりひどい状況だと思う。付和雷同した群衆ほど恐ろしいものはない。だから、自分の目で物事を見てどう生きるかを考え、自分の足で立つ子に育ってほしいと願い、子ども番組を作り続けてきたつもりだ」

■心の中に謝名親方がいる

 ―子ども番組ではなく、大人のドラマを書こうとは思わなかったのか。

 「ある時、市川森一が『ジャリ番組を卒業し、東芝日曜劇場を書かないか』と言ってきたんだ。なら、沖縄戦を描いた『収骨』ができるのか。絶対にできないわけだよ。かと言って、ヤマトの人の暮らしぶりを琉球人の自分が書いても、ろくな作品はできない。それよりも、自分を必要としてくれる子ども番組で頑張ろうと決めた。『秘密戦隊ゴレンジャー』(75年4月~77年3月)などは当初、プロデューサーが不安がっていたわけだよ。絶対にヒットするからと説き伏せた結果、今も続く戦隊ヒーロー物の先駆けになった」

 ―沖縄と日本の関係について、どう考えるか。

 「独立も含めて一度関係をリセットし、どうするかを真剣に考える時期が来ている。薩摩侵攻で、琉球王国を占拠した400年前の強引さが今も続く。民意を顧みず、基地を押し付ける政府の態度は沖縄を植民地としてしか見ていない証拠だ。これが差別なんだ」

 「薩摩侵攻の時に捕らえられ、2年間幽閉されても薩摩への忠誠を拒否したため、処刑された謝名親方が僕の先祖。18歳の時、琉球人の誇りを持って東京に来てから60年、僕の心の中にはいつも謝名がいる」

 ―「ウルトラセブン」で「300年間の復讐」という、映像化されなかったシナリオを書いている。

 「武器を放棄した友好的な宇宙人が地球に来て人間と仲良くしようとするけれど、『髪が赤い』という理由で皆殺しにされるストーリーを書いた。これは薩摩による琉球侵攻がヒント。武器のない琉球に、鉄砲で武装した薩摩軍が攻めてくる。赤子の手をひねるような、一方的な虐殺だっただろう」

 ―これが映像化されなかった理由は。やはり「政治的」だからか。

 「いや、これは映像化するとお金が掛かりすぎるという、単に予算的な問題だった。テレビは社会問題をストレートに描くのは嫌がるけれど、怪獣を使って描いたりすれば、当時は結構いろいろなことができたんだよ」

 ―残りの人生で、手掛けたい仕事は。

 「金城が沖縄に戻る時、『一緒に帰ろう。企画会社を立ち上げ、沖縄発の作品を作ろう』と僕を誘った。僕はまだペーペーで断ってしまい、彼は37歳で亡くなった。金城がやろうとしたことを今、仕掛けようとしている。しまくとぅばを話すキャラクター番組を、世界中に配信できる沖縄発のヒーローを企画中だ」

 「言葉を奪われた民族はアイデンティティーを失い、従順になりやすい。侵略者の常套手段だ。沖縄の子どもたちが番組を楽しみながら、ウチナーグチの勉強ができればいい。それが僕にとっての琉球独立。400年前に奪われたアイデンティティーや言葉を50年、100年単位で取り戻していかないと。その種まきをして、タンメー(おじいさん)は死にたい」

 ―金城さんとの約束を果たすということか。

 「それでは話が美しすぎる。このキャラクターで、金城の初代ウルトラマンを絶対に超えてみせる。今は日本もハリウッドも後ろ向きでコピーばかり。作家の気概がなさすぎるんだ」(了)

※ 記事・写真の無断転載や複製を禁じます。

沖縄タイムス+プラスの更新情報を受け取る

[著名人] のニュースランキング

ウルトラマン屈指の異色作 沖縄出身脚本家・上原正三さんが挑んだタブー

沖縄出身の脚本家、故金城哲夫さんが「ウルトラ...

憧れの役に全力 仮面ライダーゴースト主演の西銘駿「沖縄なまり出てしまう」

「沖縄なまりのせりふが、ついつい出てしまう」...

宮崎駿さんデザインのバス、沖縄・久米島走る

【久米島】日本を代表するアニメ映画監督の宮崎...

宮里藍選手の村に記念館 沖縄・東村が計画

プロゴルファー宮里聖志さん、優作さん、藍さん...

俳優・山田孝之さんと会える本出版イベント 沖縄でも開催

映画「クローズZERO」や「電車男」など代表作の...

[文化・芸能] のニュースランキング

ウルトラマン屈指の異色作 沖縄出身脚本家・上原正三さんが挑んだタブー

沖縄出身の脚本家、故金城哲夫さんが「ウルトラ...

憧れの役に全力 仮面ライダーゴースト主演の西銘駿「沖縄なまり出てしまう」

「沖縄なまりのせりふが、ついつい出てしまう」...

エヴァ世代も「感動」 沖縄でエヴァンゲリオン展開幕

大ヒットアニメの魅力を解き明かす「エヴァンゲ...

ウルトラマン生みの親・金城哲夫さんの生涯描く 劇団民藝が東京で公演

【東京】半世紀にわたり長く親しまれているウル...

「エヴァ展」きょう開幕 原画や絵コンテなど1300点

大ヒットアニメの舞台裏に迫る「エヴァンゲリオ...

関連ニュース

最新ニュース速報

3月27日(日) 紙面

最新のコメント

注目のまとめ&トピックス