おととい有楽町での打ち合わせが早めに上がったので皇居まで足を伸ばしてみました。
桜も気になっていましたがそれ以上に気になるお方がいるからです。
桜田門の桜まだ六部咲きでした。
ピンク蕾と白い花びらのコントラストが若々しくていいでしょ!?
皇室の忠臣 和気清麻呂公の銅像です。
修理中で入れないはずでしたがお会いできました。
和気清麻呂公について調べてみました。
1400年前、奈良の大仏を作った聖武天皇は子宝に恵まれず、その皇位は娘の阿倍内親王・後の称徳天皇へと受け継がれるました。
称徳女帝の次の天皇は称徳女帝の直系とはならず、当時何人かいた女帝の親戚である皇族から選ばれることになりました。
継者候補はなかなか定まらず、称徳女帝の母親・光明子は藤原氏の出身であり、藤原氏が政治に皇位継承問題に関与してきました。
そんな状況に嫌気がさした女帝は、皇族とも藤原氏とも縁も所縁もない僧侶の道鏡を重要視して政治を任せていました。
九州の宇佐八幡宮から、道鏡を皇位につければ世の中は全てうまく行くという神託があったとの報告がもたらされました。
それは道鏡の企みでした。
称徳女帝は、その報告を喜びその真偽を確かめるべく和気清麻呂を九州大分にある宇佐八幡宮につかわします。
女帝は自分が一番信用する道鏡に皇位を継承させることを望んでいました。
しかし和気清麻呂公は女帝にこのように復命したのです。
「天皇の位は天皇の血を引く者が嗣ぐべきもの! 無道の者(道鏡)など即刻追放すべし!」
この事で称徳女帝の逆鱗に触れた和気清麻呂公は名を別部穢麻呂(きたなまろ)と改名させられ上に流刑にされてしまいます。
しかしこの清麻呂公の持ち帰った神託により、天皇の位はいかなることがあろうとも天皇家の血を引く者のみが継承する物であるというルールが確定されたのでした。
やがて称徳女帝が崩御すると道鏡も失脚し和気清麻呂公も政界復帰を果たし平安遷都に貢献します。
正々堂々と天皇家のあるべき姿を説き、天皇家を救った英雄、和気清麻呂は、今も大手門側のお堀側で見守っています。
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