あれは1980年代の終盤だったとおもいます。僕がニューヨークのS.G.ウォーバーグに入社して間もない頃、ロンドンの本社からマークという若いバンカーが転勤してきました。
かれの立ち居振る舞いは、穏やかな中に、なんとなく上流を感じさせました。僕などとは全然違う、ハイソなオーラがぷんぷん匂ってくるわけです。
呑み込みの悪い僕の様子を見て、グレッグは頭を抱え込み、翌日、一冊の本を買ってきて「これをキミに進呈する!」と差し出しました。
それがステファン・バーミンガム著『アワ・クラウド(Our Crowd)』です。それはニューヨークのユダヤの名家に関する本でした。
まあそんな風にして僕のウォール街における人種・宗教に関するお勉強は始まったわけです。
こんにち東京で外資金融に就職する際、そこがユダヤ系かWASP系かということを問題にする社員や取引先は皆無でしょう。
でも僕がニューヨークに来た1980年代の終盤は、未だそういう色分けが残っていました。
たとえばグレッグは「俺にはモルガン・スタンレーは無理だ。あそはホワイト・シューだから、自分はマネージング・ディレクターまで出世できない」と言っていました。
(これには後日談があって、彼は幾度かの転職を繰り返した後、モルガン・スタンレーの引受部長になり、マネージング・ディレクターの肩書をもらいます。ユダヤとWASPの境界が無くなったことを示す好例だとおもいます)
ホワイト・シューというのは「白い靴」という意味ですが、ここではWASPのハイソな会社を指します。具体的には:
などがホワイト・シューです。
かれの立ち居振る舞いは、穏やかな中に、なんとなく上流を感じさせました。僕などとは全然違う、ハイソなオーラがぷんぷん匂ってくるわけです。
僕:「おい、グレッグ、マークってやつは、なんでお高くとまってるんだ?」
グレッグ:「馬鹿ッ! おまえ、知らないのか? あいつのファミリー・ネームは、ルイソンだ」
僕:「ルイソン???“#$%&‘()=」
呑み込みの悪い僕の様子を見て、グレッグは頭を抱え込み、翌日、一冊の本を買ってきて「これをキミに進呈する!」と差し出しました。
それがステファン・バーミンガム著『アワ・クラウド(Our Crowd)』です。それはニューヨークのユダヤの名家に関する本でした。
グレッグ:「ここの家系図のところを見てみろ!」
アレーッ! たしかに家元のつながりを示す相関図に、セリグマン、グーゲンハイム、サックス、ゴールドマン、エイブラハム、ストラウス、リーマン、キューン、ローブなどの名前にまじってルイソンという名前も出ている……
(あらま、マークは、高貴なお方だったのね)
僕:「だけどさあ、グレッグ。キミだってユダヤ人なんじゃないの?」
グレッグ:「ばあか! オレはレバシリ(=レバノン・シリアのこと)だ。おなじユダヤでもスファラディと言って中東のユダヤだ。金融の世界ではスファラディは賤しいステータスだ。マークはアシュケナージと言って、北ヨーロッパのユダヤだ」
まあそんな風にして僕のウォール街における人種・宗教に関するお勉強は始まったわけです。
こんにち東京で外資金融に就職する際、そこがユダヤ系かWASP系かということを問題にする社員や取引先は皆無でしょう。
でも僕がニューヨークに来た1980年代の終盤は、未だそういう色分けが残っていました。
たとえばグレッグは「俺にはモルガン・スタンレーは無理だ。あそはホワイト・シューだから、自分はマネージング・ディレクターまで出世できない」と言っていました。
(これには後日談があって、彼は幾度かの転職を繰り返した後、モルガン・スタンレーの引受部長になり、マネージング・ディレクターの肩書をもらいます。ユダヤとWASPの境界が無くなったことを示す好例だとおもいます)
ホワイト・シューというのは「白い靴」という意味ですが、ここではWASPのハイソな会社を指します。具体的には:
【投資銀行】
JPモルガン
モルガン・スタンレー
ブラウン・ブラザーズ・ハリマン
メリルリンチ
【会計事務所】
プライスウォーターハウスクーパース
アーンスト&ヤング
デロイト
KPMG
【法律事務所】
クラヴァス・スウェイン&モーア
デイヴィス・ポーク
ミルバンク・ツイード・ハドレー&マクロイ
シンプソン・サッチャー&バートレット
サリバン&クロムウェル
ホワイト&ケース
などがホワイト・シューです。
これに対してユダヤはユダヤで結束していました。具体的には投資銀行では:
などになるわけです。
なお日本の都銀に相当する商業銀行は、非ユダヤ系です。
別の言い方をすれば、ユダヤ系はホールセール、つまりプロ相手の商売だけに特化していたのです。だから大きな支店網を整備し、一般大衆から預金を集め、住宅ローンを貸し付ける……などの業務には手を染めなかったということです。
これはもともと両替(マネー・チェンジャー)のビジネスがゲットーに住むことを強要されたユダヤ人に許された、数少ない生業のひとつだったことに起因します。
マネー・チェンジャーのビジネスはゲットーの中で営まれていたこともあり、家族経営でした。なけなしの資本が離散してしまわないよう、新しいパートナーは血縁者を招き入れることが多かったです。ロスチャイルドやクーン・ローブが、結婚によって新しい社員を獲得したのは有名な話です。
このようにパートナーシップ(LP)の形態は資本の拡散を防ぎ、意思決定の権限をパートナーに集中するのに適しており、投資銀行だけでなく弁護士事務所などでも用いられました。
1920年頃、ニューヨークには150万人近くのユダヤ人人口があり、これはパレスチナを除けば最大のコミュニティを形成していました。ちなみに二番目にユダヤ人が多かったのはポーランドのワルシャワで33万人でした。当時の世界全体のユダヤ人人口は1,400万人だったので、ニューヨークにはその10%が集結していたというわけです。
そのような環境の中から、ニューヨークで続々とユダヤ資本の企業が生まれたというわけです。
さて、それでは人種や宗教による金融支配の色分けは、なぜ崩れたのでしょうか?
その最初の兆候は、投資銀行界ではなく、法律事務所で見られました。
1920年にポール・クラヴァスがハーバード・ロースクールで演説し、縁故や付き合いや裕福な家庭の出身かどうか? は司法試験の合否と関連性が低いことを指摘しました。つまり努力したもの、優秀なものが成功するという傾向を、初めて指摘したのです。
クラヴァスは自分の法律事務所で「クラヴァス・システム」という実力主義を導入します。そこではパフォーマンス基準の明確化がなされました。
このシステムは、顧客企業の大企業化と、それにともなう案件の複雑化の過程で、だんだんと他の事務所でも採用されはじめます。
もともとニューヨークの大手法律事務所は全てWASPで、ユダヤ系は中小法律事務所という棲み分けがありました。
しかし1970年代以降、M&Aへのアドバイスに特化したスキャデン・アープスとワクテル・リプトン・ローゼン&カッツというユダヤ系の大型法律事務所が登場します。これはクラヴァス・システムに代表される実力主義を極端に追及した結果、M&Aという複雑で高報酬のニッチでこれらの高い専門性を持つ企業が門閥を打ち破ったということだと思います。
パートナーを血縁者で固めることの弊害は、優秀かつ勤勉でなくてもパートナーになれてしまうという点にあります。これが最も顕著に現れたのは、ユダヤ系投資銀行の最高峰に君臨していたクーン・ローブ商会でしょう。
クーン・ローブ商会は日露戦争の資金調達を仕切ったことなどで有名ですが、1920年代までにはすっかり怠けグセがついてしまい、「美しく朽ちてゆく」投資銀行に成り下がります。
同様に、ロスチャイルドも実力主義、パフォーマンス基準の明確化を採用しなかったので、だんだん過去の遺物化しました。
ドナルドソン・ラフキン&ジェンレット(DLJ)という戦後派の投資銀行が、投資銀行としては初めてニューヨーク証券取引所に上場し、株式を公開したことは、投資銀行の経営に新しい時代をもたらしました。
それまでのパートナーシップ制では損が出ると会社に資本として留め置かれている中核社員の個人資産がその損によって目減りするという仕組みでした。だからトレーディングなどの場面ではおのずと慎重にならざるを得なかったし、証券の在庫も少なかったわけです。
しかし株式を公開すれば、どれだけでも他人資本を導入することができます。また自分の富がパートナーシップの持ち株というカタチで長期に渡って会社に留め置かれることが無くなったので、おのずとディール・メーキングは目先の利益の最大化を目指すものになります。
その後、最後までパートナーシップ制を採っていたゴールドマン・サックスも時代の流れに迎合するカタチで株式を公開し、パートナーシップの文化は名実ともに終焉するわけです。ユダヤ系、WASP系という分類も、その時点で全く形骸化しました。
しかしボルカー・ルール以降、野放図なトレーディングに対する監督当局の監視の目は厳しくなっているし、そもそもHFT(高速トレーディング)の導入などでトレーディングのビジネスそのものが昔ほど旨味が無くなってきています。
ドイツ銀行のCoCo債に対する不安の問題に代表されるように、大きなバランスシートに依拠したビジネス・モデルそのものに対し、投資家は懐疑的になっています。
そのような中で昔ながらの職人芸的な助言のビジネスへの回帰を、UBSやドイツ銀行などの経営陣は提唱しはじめています。
【ユダヤ系投資銀行】
ゴールドマン・サックス
ソロモン・ブラザーズ
リーマン・ブラザーズ
ウォーバーグ
ラザード・フレール
セリグマン
などになるわけです。
なお日本の都銀に相当する商業銀行は、非ユダヤ系です。
別の言い方をすれば、ユダヤ系はホールセール、つまりプロ相手の商売だけに特化していたのです。だから大きな支店網を整備し、一般大衆から預金を集め、住宅ローンを貸し付ける……などの業務には手を染めなかったということです。
これはもともと両替(マネー・チェンジャー)のビジネスがゲットーに住むことを強要されたユダヤ人に許された、数少ない生業のひとつだったことに起因します。
マネー・チェンジャーのビジネスはゲットーの中で営まれていたこともあり、家族経営でした。なけなしの資本が離散してしまわないよう、新しいパートナーは血縁者を招き入れることが多かったです。ロスチャイルドやクーン・ローブが、結婚によって新しい社員を獲得したのは有名な話です。
このようにパートナーシップ(LP)の形態は資本の拡散を防ぎ、意思決定の権限をパートナーに集中するのに適しており、投資銀行だけでなく弁護士事務所などでも用いられました。
1920年頃、ニューヨークには150万人近くのユダヤ人人口があり、これはパレスチナを除けば最大のコミュニティを形成していました。ちなみに二番目にユダヤ人が多かったのはポーランドのワルシャワで33万人でした。当時の世界全体のユダヤ人人口は1,400万人だったので、ニューヨークにはその10%が集結していたというわけです。
そのような環境の中から、ニューヨークで続々とユダヤ資本の企業が生まれたというわけです。
さて、それでは人種や宗教による金融支配の色分けは、なぜ崩れたのでしょうか?
その最初の兆候は、投資銀行界ではなく、法律事務所で見られました。
1920年にポール・クラヴァスがハーバード・ロースクールで演説し、縁故や付き合いや裕福な家庭の出身かどうか? は司法試験の合否と関連性が低いことを指摘しました。つまり努力したもの、優秀なものが成功するという傾向を、初めて指摘したのです。
クラヴァスは自分の法律事務所で「クラヴァス・システム」という実力主義を導入します。そこではパフォーマンス基準の明確化がなされました。
このシステムは、顧客企業の大企業化と、それにともなう案件の複雑化の過程で、だんだんと他の事務所でも採用されはじめます。
もともとニューヨークの大手法律事務所は全てWASPで、ユダヤ系は中小法律事務所という棲み分けがありました。
しかし1970年代以降、M&Aへのアドバイスに特化したスキャデン・アープスとワクテル・リプトン・ローゼン&カッツというユダヤ系の大型法律事務所が登場します。これはクラヴァス・システムに代表される実力主義を極端に追及した結果、M&Aという複雑で高報酬のニッチでこれらの高い専門性を持つ企業が門閥を打ち破ったということだと思います。
パートナーを血縁者で固めることの弊害は、優秀かつ勤勉でなくてもパートナーになれてしまうという点にあります。これが最も顕著に現れたのは、ユダヤ系投資銀行の最高峰に君臨していたクーン・ローブ商会でしょう。
クーン・ローブ商会は日露戦争の資金調達を仕切ったことなどで有名ですが、1920年代までにはすっかり怠けグセがついてしまい、「美しく朽ちてゆく」投資銀行に成り下がります。
同様に、ロスチャイルドも実力主義、パフォーマンス基準の明確化を採用しなかったので、だんだん過去の遺物化しました。
ドナルドソン・ラフキン&ジェンレット(DLJ)という戦後派の投資銀行が、投資銀行としては初めてニューヨーク証券取引所に上場し、株式を公開したことは、投資銀行の経営に新しい時代をもたらしました。
それまでのパートナーシップ制では損が出ると会社に資本として留め置かれている中核社員の個人資産がその損によって目減りするという仕組みでした。だからトレーディングなどの場面ではおのずと慎重にならざるを得なかったし、証券の在庫も少なかったわけです。
しかし株式を公開すれば、どれだけでも他人資本を導入することができます。また自分の富がパートナーシップの持ち株というカタチで長期に渡って会社に留め置かれることが無くなったので、おのずとディール・メーキングは目先の利益の最大化を目指すものになります。
その後、最後までパートナーシップ制を採っていたゴールドマン・サックスも時代の流れに迎合するカタチで株式を公開し、パートナーシップの文化は名実ともに終焉するわけです。ユダヤ系、WASP系という分類も、その時点で全く形骸化しました。
しかしボルカー・ルール以降、野放図なトレーディングに対する監督当局の監視の目は厳しくなっているし、そもそもHFT(高速トレーディング)の導入などでトレーディングのビジネスそのものが昔ほど旨味が無くなってきています。
ドイツ銀行のCoCo債に対する不安の問題に代表されるように、大きなバランスシートに依拠したビジネス・モデルそのものに対し、投資家は懐疑的になっています。
そのような中で昔ながらの職人芸的な助言のビジネスへの回帰を、UBSやドイツ銀行などの経営陣は提唱しはじめています。