子供の頃の夏には祖母が、母や叔母、従弟を連れて温泉に連れて行ってくれました。
うちの父は家族で旅行するような人ではなかったので、私達姉妹にとってはそれが唯一の家族旅行だったのです。
時には大きなプールのある、ファミリー向けの温浴施設に泊まった事もありましたが、祖母が決める温泉旅館はどういうわけか、山奥にひっそりとある秘湯の宿が多かったのでした。
長い時間をかけて田舎から更に辺鄙な所までやって来て、それでも旅行に来たというだけでテンション高めな私達。
旅館に着くと「探検しよう」と子供だけで旅館内を歩き回ります。
改築や増築を重ねたような古びた旅館は、渡り廊下で建物をつぎはぎに繋いで、まるで大きな迷路のようでした。
ひとりではぐれたら絶対に部屋に戻れない気がして、全員でぐるぐる回りました。
やっと自分の部屋が解る場所に辿り着くとホッとして、探検は成功でした。
私は今でも、山奥の旅館で自分の部屋が見つけられずにうろうろと歩き回る夢を見るのです。
温泉に来れば、大人達は何度でもお風呂に浸かりに行くのでした。温泉以外には何にもなくて、部屋でごろごろと横になったりお喋りしたりするだけでした。
でも子供達は、温泉に入るのがそれほど好きではありません。
薄暗くてお湯は熱いし、変な匂いはするし、知らない年寄り達がたくさんいて何かすれば怒られたりして…
走り回って汗びっしょりかいた私達は、直ぐにお風呂に入ってくるように言われます。
「えー」と言いながら、私と姉は渋々浴場に向かいました。
陽が落ち、外の景色は真っ暗でした。
サッサと歩く姉に置いて行かれないように、急いでお風呂場へ続く渡り廊下を走りました。
すると姉が
「キャー!」と悲鳴をあげました。
何かと思ったら廊下の真ん中に、今まで見た事がないような大きな蛾が翅を広げてとまっていたのです。
その翅には黒い大きな目玉のような模様があって、まるで私達をギロリと睨んでいるようでした。
モスラ!
うわー怖いっ
でも、この廊下を渡らなければ浴場まで行けないのです。
私達は走って部屋まで戻り、母に「大きな蛾がいた!」と訴えました。
うたた寝をしていた母は、それがどうしたという風に
「イタズラしなければ、蛾は動かないから大丈夫」と言って、起き上がろうともしません。
仕方なく私達はまた、あの廊下に向かいました。
大きな蛾は、さっきと同じ場所にとまっていました。私達は廊下の隅をそーっとそーっと、蛾が飛び立たないように静かに歩きました。
蛾の横を通り過ぎるとホッとしたのも束の間で、壁伝いに歩くその先の壁には先程の蛾と同じくらいの蛾がとまっているのでした。
それに気づくと「キャー」と言って反対側の壁に逃げ、少し行けばそちらの壁にも蛾がいるという状態でした。
そして、浴場に入るガラス戸にも大きな蛾がいくつも張り付いていたのです。
脱衣所には数人が着替えをしていました。誰も蛾の事など気にとめない様子でした。
蛾はきっと、飛ばないんだよ。大丈夫だよね。
私達は泣きそうになりながらそう言い合って、脱衣所に入りました。
周りを見ないようにして黙々と洋服を脱ぎ、浴室に入り、体を洗って温泉に浸かりました。
思っていたよりもお湯は熱くなかったのですが、大きな露天風呂の湯に蛾が3匹、浮かんでいるのを見つけました。
早く頭を洗って、早く部屋に帰ろう。
そう思った姉は猛スピードで頭を洗い始め、私もそれに倣いました。
そして脱衣所で着替えて廊下に出ようとした時、私達は全身が硬直しました。
見上げると廊下の天井に、無数の大小の蛾がびっしりと
とまっていたのでした。
グレーや茶色、オレンジ色の翅に、点々と黒い眼玉模様がついた蛾・蛾・蛾…
私達は全力で廊下を駆け抜け、また汗びっしょりになって部屋まで戻ったのでした。
今でも姉と「あの時の蛾は、もの凄かったよねえ」と時々話します。
「ヤママユガ」という蛾のようです。おえー…