お知らせ 3/25(金)「GYAO!の映画学校」特集を公開
人生は祭りだ──フェデリコ・フェリーニの芸術。
さあ、「GYAO!の映画学校」、開校です。これから3ヶ月間、映画史に残る名作、カルト作を週替わりで無料でお見せします。各作品にはちょっと詳しめの解説テキストもついてます。観て、読んで、映画を学びましょう。Tポイントがゲット出来る「テスト」にもトライ!
さて一週目は美的センスに溢れたイタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニ監督の代表作を二つ、『道』と『8 1/2(はっかにぶんのいち)』です。
『道』は大道芸で暮らす粗暴な男ザンパノに連れ回される女ジェルソミーナの悲しくも味わい深い旅物語。
対する『8 1/2』はフェリーニの分身を伊達男マストロヤンニが演じ(当時39歳!)、女性好きの映画監督の苦悩をスタイリッシュに描き出します。
オムニバス『世にも怪奇な物語』の一篇にも超怖いフェリーニ作が入ってますし、有料コーナーにはサーカスへの愛が迸る『フェリーニの道化師』も。
この機会に彼の芸道をご堪能ください。
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道
旅芸人ザンパノに売られ、イタリア中を旅する娘ジェルソミーナ。女好きのザンパノに愛想を尽かした彼女はある日、脱走、魅力的な綱渡り師イル・マットに出会う。だがイル・マットとザンパノには深い因縁があったのだった……。1956年アカデミー賞外国語映画賞に輝いたフェリーニの出世作にして、映画史に燦然と輝く名作中の名作。『ゴッドファーザー』などでも知られる名匠ニーノ・ロータの美メロにあなたの涙腺は決壊必至。
(1954年 イタリア映画)
『道』 中条省平
『道』は、フェデリコ・フェリーニが単独で監督した長編映画第3作です。フェリーニがこの映画を製作した1954年当時、彼はまだ34歳で、長編第2作の『青春群像』がヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞していたため、欧米では新進気鋭の監督として評価されていましたが、日本ではまったく無名でした。
しかし、『道』はフェリーニに2度目のヴェネツィア映画祭銀獅子賞と、最初のアカデミー賞最優秀外国語映画賞をもたらし、彼にとって文字どおりの出世作となります。
日本でも遅ればせながら、1957年に公開の運びとなり、これがフェリーニ作品の日本初紹介でした。東京・日比谷スカラ座での『道』の公開は、スカラ座開場以来最高の興行成績を記録し、主題歌「ジェルソミーナのテーマ」のヒット(この年のNHK紅白歌合戦でも歌われた)と相まって、『道』の名は日本中に知れわたるようになりました。
さらに、「キネマ旬報」誌恒例の批評家投票ベスト・テンでは、ビリー・ワイルダー監督の『翼よ! あれが巴里の灯だ』はじめ、ロベール・ブレッソンの『抵抗』、デヴィッド・リーンの『戦場にかける橋』といった並みいる名作を70票以上の圧倒的大差でひき離して第1位となり、一躍、日本でもフェリーニは世界映画の最前線に立つ鬼才として認識されたのです。
『道』はフェリーニ作品としてはまだ奔放な幻想性を発揮する以前の作品ですから、独創的な映画のスタイルで批評界の注目を集めたというよりは、主人公ふたりの性格造形の巧みさと、ロード・ムーヴィ的な放浪のなかで彼らが紡ぎだす人間ドラマの深みが、この映画を見た人々を普遍的に魅了したというべきでしょう。
それでは、男女ふたりきりの旅芸人一座の流浪という物語のアイディアはどこから生まれたのでしょうか? フェリーニとともに『道』の脚本を共同執筆したトゥッリオ・ピネッリは次のように語っています。
「わたしは毎年、ローマから車で故郷トリノに通っていました。[…]その峠道のひとつで、わたしはザンパノとジェルソミーナを見かけました。つまり、ひとりの男がセイレーン[海の魔女]の描かれたテントを張った荷車を引き、その後ろから、ひとりの女が荷車を押しているところを見たのです」(トゥッリオ・ケジチ『フェリーニ 映画と人生』より、押場靖志訳、白水社刊)
この男女の旅芸人の姿から、ピネッリはむかし見た市や祭りの賑わい、そして、そこに集まる放浪者やサーカス芸人たちのことを思いだし、彼らを主人公とする映画のアイディアを思いついたのです。この話をフェリーニにすると、フェリーニも同じような着想を得たところだとうち明けました。これが『道』の出発点でした。
フェリーニは女主人公を自分の妻のジュリエッタ・マシーナに演じさせることにして、短い物語の原案を読んで聞かせました。すると彼女は目に涙を浮かべて、いますぐにも映画撮影に入りたいといいました。
映画製作の目途はまだ立っていませんでしたが、逸る気持ちを抑えられず、フェリーニはさっそくヒロインの具体的な造形にかかりました。フェリーニは妻の顔に、「びっくりしたような八の字眉、まぶたに描いた日の出の光のような線、目の太い縁取り、鼻の頭の丸じるし、口紅を厚く塗ったおちょぼ口」をつけ加えました。
「メーキャップがすんでからフェリーニが、顔全体にタルカムパウダーをはたいて、歌舞伎の白塗りに似せる。もともとブロンドの髪はさらに脱色して、白に近くなっていた。フェリーニはその髪に、田舎のやり方に従ってボウルをかぶせ、ボウルに沿って髪を切りそろえる。それから石鹸を塗って、乱れて逆立った感じを出していた。衣装はローマの蚤の市、ポルタ・ポルテーゼで調達した。ただし、第一次大戦の軍放出品のマントは、行きずりの羊飼いから買い取ったものだ。襟がぼろぼろで、こすれて首が痛いのだが、それはささいなこととされた」(ジョン・バクスター『フェリーニ』椋田直子訳、平凡社刊)
フェリーニは俳優にたいして自分のイメージをサディスティックに強要するという評判がありましたが、さしずめ『道』のヒロインを演じた妻ジュリエッタはその最初の犠牲者といえるでしょう。
ヒロインにはジェルソミーナという名があたえられました。「ジャスミンの花」を意味する可憐な名前で(英米では彼女の役名は「ジャスミン」として親しまれています)、ドストエフスキー的な意味で無垢なる知的障害を体現する彼女にふさわしいネーミングです。以後、ジェルソミーナはこの映画の代名詞となります。
いっぽう、彼女を強制的に妻にし、奴隷のごとくこき使う主人公の怪力芸人にはザンパノという名前がつけられました。「豚足のソーセージ(ザンポーネ・ディ・マイアーレ)」から連想された名前です。いかにも、鈍感で残酷な印象を喚起する命名です。しかし同時に、ここにはフェリーニの個人的な記憶が関わっていたと考えられます。フェリーニ自身の『道』に関する説明を聞いてみましょう。
「『道』は非常に根深い対立、不幸、郷愁、時の流れ去る予感などを語った映画で[…]ジェルソミーナと、ザンパノと、この二人にまつわる話が生まれた根は、深く暗い領域にあり、罪悪感、恐れ、より完全な道徳律への身をこがすような郷愁、裏切られた純真さへの嘆きなどに取りまかれている」(フェリーニ/グラッツィーニ『フェリーニ、映画を語る』竹山博英訳、筑摩書房刊)
非常に抽象的な説明ですが、もうすこし補っていえば、『道』という映画の根源にあるモチーフとは、人間生活の根本にある男女という性の決定的な対立、にもかかわらず性行為という獣性を通してつながらずにはいられない人間の業や罪悪感の深さ、そして、純真だった幼年期の喪失への嘆きや郷愁だということでしょう。
これらのモチーフは、性という原罪を犯したためにアダムとイヴが純真さの楽園から追放されたというキリスト教の最も重要な教義ともつながるものです。
ジェルミーナは痴愚であるがゆえに現世の悪から遠い無垢を保っていたのですが、ザンパノは海辺の生家から彼女を攫い、性や暴力や虚偽や強欲といった人間の深く暗い領域に引きずりこんでしまったのです。
こうした無垢と対立する悪魔的な誘惑者のイメージは、じつはフェリーニの幼児体験の記憶のなかで、豚足のソーセージならぬ豚の去勢人の姿と結びついていました。
フェリーニは子供のころ、毎夏、祖母の住むロマーニャ地方の奥地の村、ガンベットーラを訪れていました。そこには乱暴な男や酔っぱらいや放浪者などがいて、まるでボッシュの絵のようだったといいます。なかでもフェリーニをいちばん怯えさせたのは、豚の去勢人でした。その思い出をフェリーニはこう回想しています。
「火花と炎が見えた。豚を去勢する男が、大きな黒いコートと流行遅れの帽子姿で大通りに到着したのだ。豚たちはこの男がやってくるのを知っていて、恐ろしげに鳴き叫んだのである。この男は町じゅうの娘たちをベッドに連れこんだが、一度、哀れな知的障害の娘を妊娠させてしまったことがある。みんなは赤ん坊を悪魔の子だと噂した。ロッセリーニの映画『アモーレ』のなかの『奇蹟』のエピソード[原案フェリーニ、共同脚色トゥッリオ・ピネッリ]は、そのアイディアをここから取っていたし、のちに私が『道』をつくるようになったのもこの男にひどい不安を感じたからだった」(フェリーニ『私は映画だ 夢と回想』岩本憲児訳、フィルムアート社刊)
ジェルソミーナ(ジャスミンの花)とザンパノ(豚の足)の対立には、人間の無垢と罪悪という根源的な二元論のドラマが刻印されているのです。
『道』のドラマトゥルギー(作劇法)の巧みさは、この主人公ふたりの二元論的対立に、第3の劇的要因を導入したことです。すなわち、「イル・マット(狂人、キ印)」と呼ばれる綱渡り芸人です。彼は、ザンパノに虐げられるジェルソミーナを一時的に救済する点で、天使か精霊のような存在です。じっさい、彼が空中で綱渡りの芸を披露するとき、その背中にはまるで天使のような翼が付けられているのです。
この綱渡り芸人に「神の道化師」と呼ばれたアッシジの聖人フランチェスコの面影を見るという解釈は欧米の批評家によってしばしば語られてきました。たしかに、痴愚こそが聖性に通じるという思想は、この綱渡り芸人とジェルソミーナを共通して貫く主題であり、フェリーニ宇宙を解釈する鍵のひとつです。フェリーニの映画の師匠であるロベルト・ロッセリーニは、アッシジのフランチェスコの生涯を描くその名も『神の道化師、フランチェスコ』という大傑作を撮っていますが、フェリーニがこの映画の脚本執筆に参加していることも指摘しておきましょう。
天使とは天上界と地上界をつなぎ、そのどちらにも行けると同時に、そのどちらにも帰属することのできない中ぶらりんの存在でもあります。
すでにフェリーニはこうした<中ぶらりん>のイメージを、処女長編『白い酋長』のなかで異様に高いブランコに乗る男の姿として描いていました。そして、その後も彼は、『甘い生活』のヘリコプターからぶら下がる巨大なキリスト像、『81/2』で足に紐を絡ませたまま空中を泳ぐ主人公の映画監督グイド、『アマルコルド』で高い木に登ったまま降りてこないテオ叔父さん、『そして船は行く』で船倉から鎖でもちあげて運ばれる際、『インテルビスタ』のカメラマンを乗せて高く上がる撮影用クレーンや空中で大道具に絵を描くスタッフなど、さまざまな中ぶらりんの存在を描きだすことになります。その解釈はキリスト教の図像学や精神分析等を用いてさまざまに可能でしょうが、<中ぶらりん>がフェリーニ的宇宙の特権的なイメージであることは間違いありません。『道』に登場する天使に似た綱渡り芸人は、その決定的な範例なのです。
残酷な運命に翻弄されるジェルソミーナは、綱渡り芸人から「どんな小さな石ころだって何かの役に立ってるんだ」という言葉を聞かされたとき、生れて初めて心の底から笑いを爆発させます。精神的に解放されるのです。綱渡り芸人は「それがどんな役に立つのか知っているのは神さまだけだ」ともつけ加えますが、彼の言葉はキリスト教的な神を指しているのではなく、すべての存在、すなわち路傍の石にさえも神(魂、アニマ)を見るアニミズム的汎神論を代弁しているというべきでしょう。
フェリーニは、キリスト教的な善悪の対立の構図のなかで無垢を喪失したジェルソミーナを断罪するのではなく、どんな存在にも神が宿りうるのだという綱渡り芸人の言葉を彼女に聞かせることで、生みの親に金で売られ、犯され、暴力で虐げられ、愛を踏みにじられ、この世界のどん底で悲惨を味わい、狂気と無気力に陥り、野垂れ死にした彼女を美しい魂として救済したのです。
『道』は一種のロード・ムーヴィなので、ザンパノとジェルソミーナが旅の途中で出会う人びととのエピソードを串刺しにする構成をもっています。そのなかの印象的な登場人物に、田舎の邸の二階にひとりでベッドに寝かされている病気の少年がいます。この少年のエピソードもまた、フェリーニが子供時代に祖母の家のあったガンベットーラで見た実話をもとにしています。
フェリーニは、友だちの子供たちと一緒に、むかし僧院だった農場を探検していたとき、屋根裏部屋で病気の子供が床に寝かされて餓死しつつあるのを発見したのでした。『道』の病気の少年は、この事実から出発して、世界から切り離された人間の苦悩のイメージとして描かれています。フェリーニはそこに、この少年を見つめるジェルソミーナのクローズアップを挿入することによって、少年と同じ苦しみを生きる彼女の孤独を強調したのです。(ジルベール・サラシャ『フェリーニ』に採録されたフェリーニの談話より、近藤矩子訳、三一書房刊)
もうひとつ、のちのフェリーニの幻想世界への入口を暗示する印象的な場面があります。ザンパノに道端に置き去りにされたジェルソミーナがひと晩じゅうじっと動かずザンパノを待ちつづけたとき、真夜中の路上を裸馬が一頭通りすぎる短いシーンです。実際にこんな馬がいるはずはないので、眠くて半睡状態になったジェルソミーナが見た夢なのか、それとも唐突な幻想シーンなのかは分かりません。しかし、この馬の登場もまた、通常の世界から切り離されてしまったジェルソミーナの孤独を浮き彫りにするイメージとして忘れがたいものです。
この馬の場面以降、フェリーニはリアルな現実描写のなかに夢や幻想と見まがう鮮烈なイメージを挿入することを、自分の映画の特徴的な手法として尖鋭化させていくことになります。
最後に、『道』がヴェネツィア映画祭に出品されたときの大騒ぎについて触れておきましょう。この年、金獅子賞の最も有力な候補は、フェリーニの『道』とルキノ・ヴィスコンティの『夏の嵐』でした。『夏の嵐』はネオ・レアリズモの正統的後継者であり共産主義シンパであるヴィスコンティの作品として主に進歩的左翼から強く推され、いっぽう、『道』は作中でジェルソミーナが聖母子像に魅了される場面があることなどから保守的なキリスト教支持層から高い評価を受けていました。
しかし、審査の結果は、金獅子賞にレナート・カステラーニ監督の『ロメオとジュリエット』が選ばれ、銀獅子賞は、『道』と、エリア・カザンの『波止場』、溝口健二の『山椒大夫』、黒澤明の『七人の侍』がなんと4作同時受賞ということになり、『夏の嵐』は(ヒッチコックの『裏窓』とともに)選から漏れてしまいました。そのため、『道』のスタッフと『夏の嵐』のスタッフのあいだで小競りあいまで起こり、主演のジュリエッタ・マシーナは泣きだしてしまったのです。
これに対して、アカデミー賞の授賞式に招かれたときの大騒ぎは、ヴェネツィアとはまったく逆に、マシーナを幸福の頂点に運ぶものでした。
「『道』はロサンジェルスではすでに公開されていたから、道で会う人たちはわたし[マシーナ]が誰なのか分かって、フェリーニが本当にサーカスでわたしをつかまえて、ピエロの格好をさせたと信じていたわ。[…]観客は上映中に拍手し始めて、上映後にはやっぱり『ジャスミン! ジャスミン!』と歓声が上がったのよ」(コスタンティーニ『フェリーニ・オン・フェリーニ』中条省平・中条志穂訳、キネマ旬報社刊)
この瞬間から、フェリーニ=マシーナという映画史に残る名コンビの神話が始まったのでした。
(発売中のBlu-rayのブックレットより再録)
中条省平(ちゅうじょう・しょうへい)一九五四年生まれ。学習院大学フランス語圏文化学科教授。パリ大学文学博士。主な著書に『フランス映画史の誘惑』(集英社新書)、『クリント・イーストウッド』(ちくま文庫)、主な翻訳にコクトー『恐るべき子供たち』(中条志穂と共訳)、ラディゲ『肉体の悪魔』、ロブ = グリエ『消しゴム』(ともに光文社古典新訳文庫)、プルースト/ウエ『失われた時を求めて フランスコミック版』(白夜書房)など多数。 -
8 1/2(はっかにぶんのいち)
スランプに陥っている女たらしの映画監督グイドは、新作を撮影する温泉地で愛人と妻の間で板挟み。さらに作品の方向性もブレブレでストレスはいよいよ頂点に……! 色男マルチェロ・マストロヤンニ(撮影当時39歳!)に加え、クラウディア・カルディナーレ、アヌーク・エメほか、これでもかと美女たちがかっこいい白黒映像で多数登場。人生に悩んでいる人は、ラストで有益なアドバイスを受け取って、一緒に踊ってください。
(1963年 イタリア=フランス合作)
フェデリコ・フェリーニと『8 1/2』 中条省平
『甘い生活』後のフェリーニ
1960年のフェデリコ・フェリーニは世界映画の頂点に立っていた。
『道』(1954)と『カビリアの夜』(1957)で二度のアカデミー外国映画賞を受賞したのち、大作『甘い生活』(1959)で内容の過激さから上映禁止の大騒ぎを巻きおこしたが、映画は大ヒットとなった。その上、カンヌ国際映画祭のグランプリを獲得し、このフェスティヴァルは文字どおりフェリーニの戴冠式となった。『甘い生活』は世界中で話題となり、原題のイタリア語「ドルチェ・ヴィータ」はいまでも通用する一般名詞となったのである。
だが、『甘い生活』の大成功のおかげで、フェリーニはかえって世界が注目する次回作の準備になかなか入れなかった。製作者カルロ・ポンティの誘いで『ボッカチオ’70』(1962)という企画に気軽に参加したのは、オムニバス映画なので自分の責任をさほど重く感じなかったからだろう。しかし、フェリーニとしてはひとつの冒険でもあった。これは初めてのカラー映画だったからだ。こうしてできあがったのが、「誘惑」である(原題は「アントニオ博士の誘惑」。もちろんボッシュの絵やフロベールの小説で知られる「聖アントニウスの誘惑」のもじりだ)。この作品を独立し1本の作品として公開したいというフェリーニの願いは拒否され、紆余曲折ののち、モニチェリの監督作はカットされ(後に完全版としてDVDなどには収録されている)、ヴィスコンティ、デ・シーカの短編と一緒に公開されたが、批評も興行成績もふるわなかった。
ユング思想の触発
「誘惑」の製作と前後して、フェリーニは新たな長編映画のアイディアを考えていた。
「ある男の何の変哲もない一日を描きたいという、漠然としたあいまいな考えがあった。…矛盾し、ぼやけた、捕らえ難い、さまざまな現実の総和の中で、ある男を描くのだ。その中では、日々の考えや意識の深層など、男の存在のあらゆる可能性が透けて見える」(フェリーニ/グラッツィーニ『フェリーニ、映画を語る』竹山博英訳、筑摩書房)
これが『81/2』の出発点である。これまでフェリーニがまったく試みたことのない題材である。いや、世界の映画のなかでも、この種の主題はまだまれだった。強いていえば、ベルイマンの『野いちご』(一九五七)がこうした試みの先鞭をつけていたといえるかもしれない。じっさい、フェリーニ自身、『野いちご』を大好きな作品として引用することが多い。
いま引用したフェリーニの証言に「意識の深層」という言葉がある。そのことの意味は重い。というのも、この1960年代の初め、フロイトはユングの精神分析と出会っていたからである。「意識の深層」とはユング的な意味で解釈されるべき、この時期のフェリーニの哲学のキーワードだ。
フェリーニは膨大なインタビューを残しているが、自分の思想的背景や作品の哲学的意味について語ることをひどく嫌っている。にもかかわらず、ユングの思想の重要性については一度も隠しだてをしたことがない。それはおそらく、ユングの思想がフェリーニにとってある種の解放をもたらしてくれたからだろう。
『81/2』の幼年期のエピソードに「サラギーナ」の話が出てくる。サラギーナはフェリーニの故郷リミニに実在した女で、浜辺の小屋に住んでいて、漁師たちから「サラギーネ(鰯)」をもらって売春婦のようなことをしていたので、「サラギーナ」と呼ばれていた。フェリーニたち悪ガキが行くと、ダンスを踊り、性器を見せてくれたりした。
そのサラギーナとの交流がばれて、『81/2』の主人公(子供時代のグイド)はカトリックの神父たち(なぜか全員男装した中年女性が演じる)にこってりと絞られるのだが、筆者が注目するのは、神父が「サラギーナは悪魔だ」と語る懺悔聴聞室の奇ッ怪なデザインである。屋根の天辺にカニの爪のようなオブジェが突きだしているのだ。これは幼いフェリーニの心に突き刺さったカトリック的罪悪感のシンボルである。ユングの精神分析はフェリーニの心からカトリック的罪悪感のカニの爪をひっこ抜いてくれたのだ。
ユングの著作に触れたとき、フェリーニはこんなふうに感じたという。
「あれはまるで未知の風景を眺めたときのような、新しい人生の見方を発見したときのような体験だった。そしてそれは、その体験をもっと大胆な、もっと大きいかたちで利用する機会――不安や無意識や放置された傷などの粗石の下に埋まっているあらゆる種類の活力、あらゆる種類の事物を回復させる機会――を与えてくれた。/私がユングをきわめて熱烈に礼賛するのは、彼が科学と魔術、理性と空想とが出会う場所を見つけたことにある。彼は、私たちが神秘的なものの誘惑に身をゆだねるのを認めてくれた」(フェリーニ『私は映画だ 夢と回想』岩本憲児訳、フィルムアート社)
それまでもフェリーニはフロイトの精神分析を知っていた。しかし、フロイトにとって、<象徴(シンボル)>とは表現されてはならない、抑圧されるべき欲望を変形し、隠すための手段である。これにたいして、ユングのシンボルは、表現したいのに直接表現できない欲望を別のかたちで表出するものなのだ。フロイトにとっては抑圧が主な関心事であり、ユングにとっては表出こそが問題である。どちらが芸術家の創造に益するかはいうまでもない。
カトリック教会が少年時代のフェリーニに禁じた性的な欲求を、ユングは人間の集合的無意識に根ざす創造的なパワーの源泉だと教えてくれた。この思想を支えにして、『81/2』のフェリーニは、心に刺さったカトリック的罪悪感のカニの爪を引き抜き、サラギーナの野蛮な誘惑にみちた肉体を賞揚したのである。ユングの思想的文脈でいえば、サラギーナは「グレート・マザー」の系譜に属する。この女性像は、男を引きよせる性的恍惚の源泉であると同時に、男にとって、子宮の奥深く呑みこまれる恐怖の対象でもあるのだ。
フェリーニにとって、もうひとつのユングの思想的恩恵は、<夢>の重要性を教えてくれたことである。フロイト的にいえば、夢もまた人間の個人的な欲望の抑圧されたかたちだが、ユングによれば、夢は人間の集合的無意識のあらわれであり、芸術的創造の霊感の源になりうる。この夢のアンビヴァレンツな豊かさが、フェリーニを魅了した。
げんに『81/2』は夢の場面で始まっている。主人公グイドは渋滞する自動車のなかで衆人環視の的となり、しかも車のなかにはガスが充満してくる。空へと逃げだし、つかの間の空中遊泳の自由を得たはいいが、足には一本の紐が絡みついていて、地上からこれを操る男がヒモを引いたせいで、グイドは目くるめく海へと真っ逆さまに転落していく……。
ギリシャ神話のイカロスの転落のヴァリエーションといってもいいし、現代人の精神的危うさの童話化といってもいい。いま見るといささか理に落ちた感が否めないが、1963年当時は、たとえばベルイマンの『野いちご』の夢の場面と比べて、圧倒的にシャープでスピーディだったはずだ(ちなみに筆者がこの映画を初めて見たのは1970年前後で、有名なこの夢の場面について雑誌や本で事前に知りすぎていたため、なんだか既視感が強く、素直に楽しめなかった)。
製作開始
『81/2』のシナリオは難航をきわめた。それはそうだろう。「ある男の何の変哲もない一日」がテーマというのでは、物語の作りようがない。
それまで、フェリーニはほぼ全作品をトゥリオ・ピネッリ、エンニオ・フライアーノとの共同脚本で作ってきた。だが、盟友のピネッリもフライアーノもフェリーニの着想にいい顔をしなかった。完成した『81/2』のなかで、グイドの新作のシナリオについて、友人の映画評論家がこき下ろす場面がある。そこには、「シンボルが数多く出てくるが最悪だ」という思わせぶりな台詞さえあるが、この場面は、ピネッリとフライアーノの『81/2』の着想への批判を下敷きにしている気配がある。
もっとも、この時点では、映画のタイトルは『81/2』ではなかった。フライアーノは皮肉にもこの作品に『美しき混乱』という仮題をつける。この題名は『81/2』のラスト近くで、グイドの「すべてが元に戻り、すべてが混乱する。この混乱が私なのだ」という重要な台詞のなかに反映することになる。
『81/2』では、新たにシナリオにもうひとり、これまたフェリーニ組というべきブルネッロ・ロンディが加わった。フェリーニよりずっと年上のピネッリとフライアーノは作品のアイディアそのものに懐疑的だったが、フェリーニより若いロンディは積極的な関心を示した。しかし、四者は別々に割り当てられた場面を書くだけで、映画をまとめ、主導する方向性は定まらなかった。
苛立ったフェリーニは脚本ができないうちに俳優の選定にかかった。
「『81/2』では、主人公への思い込みが強かったので、できる限り魅力的で、優雅であってほしかった。告白すると、マルチェロ・マストロヤンニに決める前に、ありとあらゆる俳優に声をかけた。ローレンス・オリヴィエ、クロード・レインズ、ピーター・オトゥール。だがマルチェロはじっと待っていて、何も言わなかった。このことを知っても、一言も不平を言わなかった。信頼できる、繊細な心の、真の友達なのだ」(フェリーニ/チリオ『映画監督という仕事』竹山博英訳、筑摩書房)
フェリーニのマストロヤンニに寄せる信頼と友愛には並々ならぬものがある。フェリーニ映画におけるマストロヤンニの主演作は『甘い生活』と『81/2』、それから17年後の『女の都』(1980)、さらに5年後の『ジンジャーとフレッド』(1985)とわずか4本なのだが、『甘い生活』のマルチェロも、『81/2』のグイドも、『女の都』のスナポラツも、フェリーニの分身と呼びたくなるようなはまり役である。なお、『81/2』でグイドが鏡のなかの自分に向かって、「違うか? どうだ、スナポラツ君」と同意を求める場面があるが、これは『女の都』の主人公スナポラツが『81/2』のグイドの後年の姿であることの証しだ。ネタを割れば、そもそもスナポラツとは、親しい者がマストロヤンニを呼ぶあだ名なのである。
フェリーニ自身が「主人公への思い込みが強かったので、できる限り魅力的で、優雅であってほしかった」というとおり、主人公の造形は入念をきわめた。
マストロヤンニの横顔で二重顎が目立つことを嫌ったフェリーニは、カメラを彼の顔の片側に置くと、顎のぜい肉をすべて反対側に寄せ集め、テープで固定して撮影した。そのほか、細かい砂を使って目蓋を皺だらけにしたり、体重を10キロ落とさせたり、髪に白髪のメッシュを入れたり、あげくの果ては、マストロヤンニの短い不恰好な指が長く見えるようにキャップをかぶせて演技させたりした。指のキャップは取れてしまったので泣く泣く諦めた。
主人公にマストロヤンニを決め、妻の役としてアヌーク・エーメをパリから呼びよせ、愛人役にサンドラ・ミーロを選んだ。
スタッフも徐々に固まり、主人公が温泉の湯治場に行くことは最初から決まっていたので、イタリア中部の鉱泉療養地へのロケハンを重ねた。しかし、結局、ローマ近郊の森のなかに新たに湯治場のセットを建設したのである。また、スタジオでは、主人公が幼年期を回想する祖母の家や、彼が泊まる湯治場のホテルの建設もおこなわれていた。
肝心の映画のタイトルは、『美しき混乱』から『81/2』へと変わっていた。この作品以前にフェリーニが撮った映画は9本。しかし、最初の『寄席の脚光』(1950)はアルベルト・ラットゥアーダとの共同監督なので2分の1と考えて81/2本とも、短編が二本含まれるのでこれを合わせて一本とし、『81/2』を含めて81/2本と数えるともいわれる。
ジョン・バクスターの『フェリーニ』(椋田直子訳、平凡社)によれば、眉唾ものだが、フェリーニの初体験が8歳半とか、『81/2』に出てくる農家のハレムに集うグイドの情婦は九人だが、カルラは人妻なので2分の1と数えるとか、フェリーニは子供時代、8時半に寝かされていたとか、諸説は尽きない。これだけの神話を生んだのだから、『81/2』というタイトルはそれだけで大成功だったといえよう。
こうして映画製作という巨大マシーンが動きだしていながら、じつは、この映画の主人公の職業さえ決まっていなかったのだ。医者、弁護士、技師、ジャーナリスト……? 追いつめられたフェリーニは、ついに映画製作の中断を決意する。そして、プロデューサーのリッツォーリに、映画から手を引く許しを乞う手紙を書きはじめる。手紙を書いていると、スタッフのひとりが呼びに来た。ある道具方の70歳の誕生日だというのだ。スタジオに行くと、スタッフ全員がいた。シャンパンを手にみんなが唱和した。「監督と映画に乾杯! 傑作になりますように!」
「私は恥ずかしさに身の縮む思いがし、最低の人間、乗員を見捨てる船長のような気分を味わった。私は逃亡を告げる書きかけの手紙が待ち構える事務室に帰らずに、心が空っぽで何も考えられないまま、小さな庭のベンチに腰をおろした。…私は作ろうと思った映画がどんなものか分からなくなってしまった映画監督だった。するとちょうどその時、すべてが解決された。…今、自分自身に起きていることを語ればいい。どんな映画を作ろうとしていたか分からなくなった映画監督の話を映画にすればいいのだ」(前出『フェリーニ、映画を語る』)
ついに真の主題が発見されたのである。なんと感動的な話だろう。フェリーニは別の場所でもこの話を繰り返しているから、むろん作り話ではあるまい(ただし、人名の混同など細部の異同はある)。だが、前出の伝記『フェリーニ』の著者バクスターは、撮影の日程や、手紙の受取人であるリッツォーリのスケジュールからして話が脚色された可能性が高いことを示唆している。「嘘つき」と異名をとるフェリーニの面目躍如である。
ともあれ、「映画とは何かと問いながら、映画を撮る映画監督の話」という真の主題(いまなら「メタ映画」などというだろうが)が見つかったのだ。今後、フェリーニのあとには、『アメリカの夜』のトリュフォー、『スターダスト・メモリー』のアレン、『オール・ザット・ジャズ』のフォッシーといった「映画監督映画」が続くだろう。
フェリーニ映画の主題
さて、『81/2』では、この映画そのものへの問いかけを主軸にして、今後のフェリーニの重要なテーマとなる題材が次々に引きだされてくる。
まずは<女>という主題。これまでもフェリーニは、『道』と『カビリアの夜』のジュリエッタ・マシーナや、『甘い生活』のアニタ・エクバーグによってある種の女性の類型を特権化したことはある。だが、『81/2』でもっとも印象的なのは、グイドが夢想する農家のハレムの場面だろう。
ここには、幼児期のグレート・マザー的存在であるサラギーナに始まって、アニタ・エクバーグ型の豊満な白人女性サンドラ・ミーロ、家事を誠実に遂行するやさしい妻アヌーク・エーメ、共犯者的な存在ロッセラ・ファルク、ハリウッド女優のようなバーバラ・スティール、謎めいた清純な娘クラウディア・カルディナーレ、さらには挑発的な黒人女性や、年齢制限に引っかかって二階に追放されるフランス人の派手な踊り子に至るまで、あらゆる女性のパレットがそろえられている。
その女たちが男への反乱を起こすことも含めて、このハレムの場面は、グイドの17年後の姿であるスナポラツを主人公とする『女の都』の原形である。
この女性にたいする支配の欲望と反逆への恐怖を、あまりにおめでたい男性中心的なファンタスムと笑うことはたやすい。だが当時、おそらくフェリーニはここにユング的な精神の救済の可能性を見ていた。映画のラスト近くでグイドはこう語っているからだ。
「[毎日至るところで出会う女性の]まなざしやほほえみから、自分にかかわりのある香りを、混乱しながら感じとるんだ。おそらく女性の肉体という数多くの断片のひとつは、君というもうひとつの断片から分離されたものなんだ」
ユングは、男性のなかにある無意識の女性的特質を「アニマ」と呼び、男性はこれを現実の女性に投影し、再発見すると考えたが、ここでグイドが語っているのは、まさにユング的な思想である。
その事実を別の面から補強するのが、もうひとつの挿話だ。湯治場で興行する女読心術師のマヤは、グイドの記憶から「アサニシマサ」という言葉を引っぱりだす。かつてグイド少年は、夜、寝室にある肖像画の目が指し示す、宝のありかを知るための呪文が「アサニシマサ」だったのである。
前出の『フェリーニ』でジョン・バクスターは、これが単語のすべての母音に ss を付けてもう一度繰り返し、ラテン語ふうにする言葉遊びだと説明している。assanissimassa から、繰り返しのss+母音を取りさってみれば、animaとなる。この鮮やかな謎解きが本当に正解かどうかはともかく、『81/2』のユング的痕跡を否定することはできないだろう。
もうひとつの重要な主題は<回想>である。すでに、浜辺に住むサラギーナや、カトリック学校のカニの爪のような飾りが突きだした懺悔聴聞室、寝室の肖像画の目とアサニシマサの呪文など、フェリーニの実人生に根ざす主な挿話には触れた。この『81/2』の試みを起点にして、二十年後の傑作『フェリーニのアマルコルド』で、彼は少年時代の記憶の集大成をおこなうことになる。
祭のあと
かくして『81/2』の撮影は順調に進む。フェリーニは「これほど楽に撮れたのは初めてだ」(バクスター『フェリーニ』)といい、「ぼくはいま、スタッフと完璧な調和に達している。俳優たちには、人形使いが自分の操り人形に抱くのと同じ親しみ深い愛情を感じている。…撮影が終わってしまったときはみんな残念がっていたよ」(コスタンティーニ編著『フェリーニ オン フェリーニ』中条省平・中条志穂訳、キネマ旬報社)と語った。
この映画撮影の高揚ぶりは、グイドの「人生は祭だ。ともに生きよう」という台詞に始まる最終部分で、出演者全員が丸い輪になってダンスを踊る場面で最高潮に達する。ところが、このラストシーンは初め予告篇のために撮られたものだった! それではカットされ、永遠に失われたオリジナルのラストシーンはどうだったのか? 現在発売されているBlu-rayの特典映像『ロスト・エンディング』をご覧いただきたい。
完成した『81/2』はフェリーニの新境地として世界中で話題を呼び、三たびアカデミー外国映画賞、モスクワ映画祭グランプリ、さらには、2年遅れで公開された日本で一九六五年の「キネマ旬報ベスト・テン」で第1位を獲得する。淀川長治、双葉十三郎、植草甚一、秦早穂子らが揃って10点満点を投じた。
なお、本作はフェリーニの生涯最後のモノクロ映画である。撮影監督は、アントニオーニの『さすらい』で強烈な画面の質感が忘れがたいジャンニ・ディ・ヴェナンツォ。『甘い生活』はじめ前期フェリーニの常連カメラマンであるオテッロ・マルテッリに比して、『81/2』のヴェナンツォの撮影は、切れ味鋭い光と影のコントラストに特徴がある。その美しさが全開になるのは、本作の白眉、農家のハレムの場面である。HDマスターの高画質がその独創性をあらためて堪能させてくれるだろう。
(発売中のBlu-rayのブックレットより再録)
中条省平(ちゅうじょう・しょうへい)1954年生まれ。学習院大学フランス語圏文化学科教授。パリ大学文学博士。主な著書に『フランス映画史の誘惑』(集英社新書)、『クリント・イーストウッド』(ちくま文庫)、主な翻訳にコクトー『恐るべき子供たち』(中条志穂と共訳)、ラディゲ『肉体の悪魔』(ともに光文社古典新訳文庫)、プルースト/ウエ『失われた時を求めて フランスコミック版』(白夜書房)など多数。
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世にも怪奇な物語
人気TVシリーズ『世にも奇妙な物語』のタイトルはこの映画のもじりですね。エドガー・アラン・ポーの原作をロジェ・バディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニというフランス、イタリアの映画作家たちが映像化した3作からなるホラー・オムニバス。ジェーン&ピーター・フォンダ姉弟、アラン・ドロンにブリジット・バルドー、そしてテレンス・スタンプと当時売り出し中のスターたちの出演も豪華! さすがに今観ると少々古めかしい怖さではありますが、とにかく第三話、第三話です!
(1967年 フランス=イタリア合作)
『世にも怪奇な物語』 杉原賢彦
怪奇と幻想の作家として知られるエドガー・アラン・ポーの短編小説をもとに、フランスとイタリアを代表する監督たちが撮り上げたオムニバス映画。フランスからはルイ・マルとロジェ・ヴァディム、そしてイタリアからはフェデリコ・フェリーニが乗り込み、それぞれの解釈によって、ポーの世界を映像へと移し替える。
当初、企画段階では、アメリカ人のオーソン・ウェルズとスペイン人のルイス・ブニュエル、そしてイタリア人のフェリーニという異彩を放つ取り合わせだったが、紆余曲折ののちに、フランス人監督ふたり+フェリーニという組み合わせに落ち着いたことが知られている(フランス=イタリア合作映画であるため、イタリアの監督とフランスの監督によるオムニバス映画になることが必要条件であったと思われる)。
その第1話は、ポーの短編『メッツェンゲルシュタイン』を下敷きにした、ヴァディムによる「黒馬の哭く館」。
メッツェンゲルシュタイン伯爵家とベルリフィジング男爵家、互いに不仲をかこってきたふたつの家のふたりの当主をめぐる、馬と恐怖と宿命の物語を、ジェーン・フォンダとその弟のピーター・フォンダ(アメリカン・ニュー・シネマの口火を切った『イージー・ライダー』にとりかかる直前だった)の共演で描く(なお、ふたりが共演しているのは奇しくもこの1作だけ。ふたりを同じ画面で見られるだけでも貴重な作品といえる)。
当時、公私とものパートナーであったヴァディムとジェーンとの親密な関係をうかがわせるように(ふたりは1965年から73年まで夫婦関係にあり、この映画の前年に異色のエロティックSF『バーバレラ』を一緒につくっている。ちなみに、ヴァディムの最初の妻は、第2話「影を殺した男」に登場するブリジット・バルドー)、彼女の美しさを際立たせるクラシカルで同時にモダンな衣装と装置がストーリーにマッチする。とりわけ、鮮やかな黄色の薄ものをまとって画面を横切り、かと思えば黒と白のストライプが印象的な豪奢な毛皮の衣装での乗馬シーンやあるいは矢を射るディアーヌの装いなどなど、さまざまに表情を変えるジェーン・フォンダ=フレデリック・メッツェンゲルシュタインの姿は本作の魅惑そのものとなっている。
ポーの原作では、ベルリフィジングの当主は老齢の男、そしてメッツェンゲルシュタインは若い男という対比がなされているが、ヴァディムは大胆に脚色して、ふたりを男女に分け、死の徴であった黒馬を、ふたりの(不可能な)愛の(欲望の)徴へと置き換え、恐怖と戦慄の向こうにある、新たな物語の可能性を探るかのようだ。
続く第2話「影を殺した男」は、ポーの短編小説のなかでももっとも有名なもののひとつである『ウィリアム・ウィルソン』を、ルイ・マルが料理する。
ドッペルゲンガー(分身)のテーマを扱った古典的小説をいかに映画へと導くか。1960年代、『地下鉄のザジ』や『鬼火』など強烈な映像の美学を貫いていたマルは、時代のスター、アラン・ドロンを主人公のウィルソン役に得て、そしてまた彼の怜悧で冷美な魅力と演技によって戦慄の1編となっている。
物語は、子ども時代、自分とまったく同じ名前をもつ影のような存在(=分身)と出逢ってしまった男の恐怖と懊悩を描いてゆくのだが、ヴァディムのお株を奪うかのような、サドマゾチックなエロスとタナトスの戯れに満ちた演出──原作にはない、解剖学のシーンをつけ加えることによって、その後のシーンで女性の裸体に外科用のメスを走らせ、あるいは鞭打ちによって恍惚とも思えるような表情を浮かべるブリジット・バルドーの姿を印象づけるなど、エロスと恐怖とが協働する画面を鮮やかに艶やかに提示する。
なお、原作ではカードでいかさまをするのは、とある貴族に対してだったが、ここではバルドー演じる謎めいて挑発的な女ジュゼッピーナへと変えられており、ふたりのカードによるゲームのなかに、表と裏、ウィリアム・ウィルソンをめぐる表象が隠されているかのようだ。ふたりのウィリアム・ウィルソンをアラン・ドロンが一人二役で演じているのにもご注目。
そして第3話、フェリーニによる「悪魔の首飾り」は、本作のなかでももっとも異彩を放つ1編でもある。原作となっているのは、ポーの『悪に首を賭けるな』。
「悪魔に首を賭けてもいい、本当だぜ」というのが口癖だった青年がなにげなく口にした言葉が、その後、思いもよらぬことになってゆくという、ある意味、教訓噺的な色合いをもった掌編は、フェリーニの魔法の手によって、まったく思いもしなかった映像作品へと昇華される。とりわけ、大胆なまでにデフォルメされたセットや原色を基調とした色彩、さらに奇妙で異形な人々が画面を跋扈するのは、フェリーニ映画がもっとも得意とするところだろう。
フェリーニはまず、舞台を19世紀から20世紀ヘ、そして主人公も(かつての)スター俳優へと移し変え、クラシカルなトーンを守った前二者とはまったく異なった、現代的な味つけを施して、もっともバロッキッシュな、魅入られるがごとき恐怖を演出する。
主人公は映画撮影のため英国からローマへとやって来た英国の俳優トビー・ダミット(テレンス・スタンプ)。かつてはスターの名を欲しいままにしたものの、いまやアルコールとドラッグに溺れる彼は、再起をかけてイタリアまで映画の撮影のためやって来る。その報酬として提示されたのは名車フェラーリだが、その車こそ、彼を地獄へと誘う悪の化身だった……。
まるで地獄絵図のように写し出される、トビー・ダミットが見たローマの風景と彼を取り巻く人々の群れは、『甘い生活』や『81/2』などフェリーニ映画におなじみの光景でもあり、本編に続く『サテリコン』への布石のようでもある。業界内の享楽と背徳に満ちた世界を曝しつつ、悪魔を白い少女(ひょっとして彼女は、『甘い生活』のラストでマルチェロ・マストロヤンニが見た少女のその後なのだろうか……?)へと見立てる主人公がにじみ出させる狂気と錯乱と焦燥と、そして恐怖。いつものニーノ・ロータの音楽さえもが歪な響きを帯びてゆく。恐怖に魅入られる眩惑が、異様なまでのバロックな美と恐怖をもたらす。中編ではあるが、フェリーニ映画の精髄が〈恐怖〉と触れることによって、極限にまで研ぎ澄まされた佳編となっている。
杉原賢彦(すぎはら・かつひこ)
映画批評・慶應義塾大学・立教大学講師
フィルムアート社「シネレッスン」シリーズのほか、『アートを書く/クリティカル文章術』など執筆。また、ジャン=リュック・ゴダール、クシシュトフ・キェシロフ作品など、数多くのDVD解説を執筆。京都映像アワード/京都国際インディーズ映画祭顧問。 -
バンデットQ
『未来世紀ブラジル』『12モンキーズ』など、数々のSF、ファンタジーを鋭いヴィジュアル・センスで見せてくれるテリー・ギリアム監督。毎回プロジェクトが大がかりすぎて、トラブルが多発、映画史における「ザ・不運」と言えばこの人ですが、この初期作品には、彼の作家としてのエッセンスがギッシリ。小人たちと少年が時空を越えて、ナポレオンにロビンフッドにタイタニックに……と歴史上の人物、事件に次々と遭遇します。
(1981年 イギリス映画)
『バンデットQ』 飯塚克味
カルトの巨匠として名高いテリー・ギリアムの長編監督第2作の本作。スティーブン・スピルバーグの『激突!』、リドリー・スコットの『デュエリスト 決闘者』、マーティン・スコセッシの『ミーン・ストリート』など、巨匠の初期作というのはその監督のキャリアを形作るものである。テリー・ギリアムに関して言えば『未来世紀ブラジル』を作ろうとしていたものの、製作費が思うように集まらず、ヒット作を生み出せる監督であることを証明する必要があったらしく、必要に迫られて撮ったのが本作とのことだ。だが想像力豊かなギリアムのこと。一度、舵を取ったら、そちらの世界に邁進していき、限られた予算で最高の娯楽作品に仕上げてくれた。
物語は退屈極まりない両親に育てられている幼い少年ケヴィンが、ある日、寝室に現れた6人の小人と共に、時空を超えた旅に出るというもの。小人たちは創造主(=神)から盗んだ、時空のトンネルが描かれた秘密の地図を持っていて行く先々で盗みを働く。彼らは時をかける盗賊団(タイムバンディッツ)だったのだ。一方、悪の魔王も自分を閉じ込める暗黒城から脱出するため、その地図を手に入れようと画策していた。
子供向けのファンタジー作品として売り出された本作は全米で大ヒット! 5週連続で1位をキープし、年間では10位に入る大ヒットとなった(ちなみに同年の1位は『レイダース/失われたアーク<聖櫃>』、2位は『黄昏』、3位は『スーパーマンⅡ/冒険篇』だった)。
だがそれはあくまで後から付いてきたこと。脚本段階から当て役として書かれていたショーン・コネリーら、大スターのキャスティングがうまくいったものの、低予算であることに変わりは無かった。劇中では巨大に見える魔王が暮らす暗黒城だが、実際は5mのミニチュアで、下からあおる移動ショットは模型を横にして撮影したり(縦のままだとクレーンを使うから?)、城に入る小人たちは橋の下で磁石を付けた人形を操るなど、まるで東宝特撮のようなアイデアで乗り切っている。船を頭に乗せてずっしんずっしんと歩く巨人が登場するくだりでは通常の4倍のスピードで撮影し、実際の映像ではややスローになって重量感が出るよう、ゴジラ方式を採用している。当初の予定では2匹の蜘蛛女が若い騎士たちを喰いまくる恐ろしい場面も考えられていたそうなのだが、予算が足りないとなると潔く台本からカットしたことも、後の浪費家のイメージが強いギリアムからは考えられない予算厳守の姿勢が見える。
各時代から小人たちが仲間を集めて魔王に挑むクライマックスシーンでは、当初、旅の最中に出会ったショーン・コネリー扮するアガメムノン王が再び登場するはずだったが、それも予算の都合でカット。だが「もう一度だけ出してみては?」というショーン・コネリーの要望に応え、わずかな時間だけで撮影したのがラスト、現実世界に戻ってきたケヴィンが出会う消防士としての場面だった。
本作の製作総指揮は既に解散していたビートルズの元メンバーでもあったジョージ・ハリスン。彼は1978年に映画の配給・製作を行うハンドメイド・フィルムズという会社を立ち上げ、英国の人気TVシリーズ『空飛ぶモンティ・パイソン』の劇場版『ライフ・オブ・ブライアン』の製作費のために自宅を抵当に入れたりしていたのだが、聖書をパロディ化して世間を大いに騒がせたこの映画は米国で2,100万ドルの興行収入を上げる大ヒット。続くこの『バンデットQ』も先にも述べたがまたまた大ヒットとなり、米国10週間の公開で3,500万ドルの興収を上げた。彼は聴く者をハッピーな気分にしてくれる主題歌「オ・ラ・イ・ナ・エ」(原題"Dream Away)も提供している。
<以降はネタバレになってしまうので、未見の方は了解のうえ、読み進めてください。>
ラストの話題になったので、有名なこのエピソードもやはり紹介しておこう。
創造主である神の力で魔王を倒し、旅から帰ってきたケヴィンの自宅は火事になっていた。家から脱出したケヴィンは、両親と再会するが、持ち出したレンジに残っていた魔王の破片を手にした両親はその場で爆発して消滅してしまう。消防車は去ってしまい、ケヴィンは一人残されて映画は終わってしまう。
有名な話なので、40代以上の人はご存じだろうが、日本での劇場公開時、本作のラストは大幅にカットされていた。当時、地方では2本立て興業が普通だったため、併映作であるアニメ大作『幻魔大戦』との合算時間を短くしようと、ファミリー層を見込んでいた配給サイドは両親が死んでしまうこのくだりを丸ごとカットしてしまったのだ。
このため、全ては火事に見舞われたケヴィンの夢(両親も火事で死亡?)だったという根本的な設定が失われ、当時の観客は本当のラストが入ったテレビ放送までその事実を知ることは無かった。日本でオリジナル全長版が観られるようになったのはビデオやレーザーディスクがリリースされてからの話である。カットされたバージョンが公開されたことは本当に不幸だったが、『幻魔大戦』目当てに映画館にやってきた当時の子どもたちが本作で洋画の楽しさを知ることができたのは不幸中の幸いだったと思う。
この映画を巡るそんな数々のエピソードを頭に置きながら、『バンデットQ』を見ると、一度見た方も更に楽しめるかもしれない。名画は繰り返し鑑賞することで、新たな発見を生み出すもの。是非、本作も繰り返しの鑑賞を薦めたいところだ。
飯塚克味(いいづか・かつみ)
情報ドキュメンタリー番組制作などを経て、現在はWOWOWの映画情報番組「Hollywood Express」の演出を担当する。また雑誌「DVD&ブルーレイでーた」(KADOKAWA)や「ホームシアターファイル」(音元出版)など、ソフト関連の執筆も多数。
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ファンタスティック・プラネット
子どもの頃にこれをTVで観た人が未だにトラウマになっているという、特異なヴィジュアルが恐ろしいアニメーション。作品世界やキャラクターの創造に寄与したのはフランスのアーティスト、ローラン・トポール。セル画でなく、もちろんデジタルの時代でもなく、紙に丁寧に描いた巨人が、人間が、クリーチャーが、動く!動く!動く! 巨人たちと人間たちの壮絶な闘いはまさに元祖『ナントカの巨人』! サイケなジャズ・ロックもサイコーです!
(1973年 フランス=チェコスロバキア合作)
『ファンタスティック・プラネット』
フランス幻想文学の伝統の先に
『頭山』『カフカ 田舎医者』『マイブリッジの糸』など、作品を発表するたびに世界中の数々のアニメーション映画祭で賞を獲得している、現在の日本を代表するアニメーション作家・山村浩二さんに、『ファンタスティック・プラネット』の魅力について語っていただきました。
アニメーション作家・山村浩二 インタビュー
アニメーション的カンブリア紀
『ファンタスティック・プラネット』を最初に観たのは、日本での正式公開となった1985年のことです。それ以前からあの絵を見たことはあって、気になっていたものですから、公開されると知ってすぐに観に行ったような覚えがありますね。
この1985年は、今も2年に一度開催されている<広島国際アニメーションフェスティバル>の第1回が開催された年です。'80年代半ばからミニシアターのようなところで、ブラザーズ・クエイやロシアのアニメーションなどそれまで容易に観ることができなかった海外のアニメーションが紹介されるようになってきたし、レーザーディスクで<映像の先駆者たち>とか<アニメーション・アニメーション>といったシリーズが出ていて、ノーマン・マクラレンなどカナダのアニメーションとかユーリ・ノルシュテインとか、世界中のいろんな作家のアニメーションが手元に置いて観られるようにもなりました。その頃のことを自分で勝手に「アニメーション的カンブリア紀」と呼んでいるんですけれども(笑)。
初めて観た時の印象
もう本当に絵が面白いので、そこに惹きつけられましたね。最初に観たときは、ストーリーはあんまりよく分かってなくて、後で何度か見直して「ああ、こういうことだったのか」と(笑)。ローラン・トポールのデザインしたユニークな生き物とか、シーンごとの世界をただただ眺めてしまう映画。SF作家のステファン・ウルの原作があるわけですけれども、僕自身はあんまりSFという感じは受けなくて、ある種の「幻想もの」、ファンタジーという風に捉えています。物語の中では、巨人のドラーグ族たちがテールはじめ人類たちをペットにして上から観察しているわけですけれども、そのドラーグ人たちをさらに観客である僕たちが観察している、という感じが面白いですね。「メタ観察映画」なんです。
ローラン・トポール
この映画の世界観やキャラクターの創作に大きな役割を果たしているローラン・トポールのことを僕は知らなかったのですが、映画を観て随分経ってから「トポールって凄い!」と発見させられることになりました。2003年、フィンランドのトゥルクという街で行われたアニメーション映画祭に審査員として招かれたのですが、その時、併設イヴェントとしてトポールの展覧会をやっていたんです。ペン画とか木版画がとても刺激的で魅了されました。それで後からインターネットで検索すると、「ああ『ファンタ~』の人だったのか!」と。
トポールの絵の一番の特徴は「痛み」だと思います。どの絵を見ても、この人、サディストなんじゃないかというくらい、精神的にも肉体的にも「痛い」。だから、トポールの絵の世界を知って、彼のファンになってしまった後に『ファンタ~』を見直すと、若干物足りない感じもします。トポールの世界よりも『ファンタ~』の方が、やや乾いた無機質な印象を受けますね。彼の絵はもうちょっと肉体的、オーガニックなイメージです。残酷さに関しても映画の方がドライで、冒頭の母親が死ぬシーンも、あまり痛みは感じさせないですよね。それはアニメーションの動きの付け方とか他の要素もあるのかもしれませんが。Blu-rayに入っている特典のインタビューの中で、トポールが制作の初期段階で現場を離れてしまったと監督のルネ・ラルーが語っていますが、そうやってトポール本来の「痛さ」が少し薄まって、ラルー自身の持っているポップさのようなもの、あるいはチェコの現場のスタッフの持ち味が加わったことによって、この作品が幅広い層の人に楽しんでもらえる映画になったのかな、とも思います。それでも十分、カルト的な映画ではあるわけですが。
『ファンタスティック・プラネット』の制作技法
この作品が画期的なのは、細かい線のタッチと柔らかい水彩の透明な色が画面の上にきちんと再現されていることですね。そういうアニメーションはそれまでほとんどなかったと思いますし、まして長編では皆無でしょう。紙にキャラクターを描いてそれを切り抜いたものを背景の上に直に置いて撮影している。だから、セル・アニメーションと違って背景とキャラクターのなじみが良いわけです。ただ切り紙アニメーションの場合、上に置いたキャラクターの影が背景の上に出てしまうものなんです。それがあまり目立たないから、かなり薄い紙に描いていたのかな、と想像します。『ファンタ~』の前作にあたる短編『かたつむり』は、キャラクターを関節などのパーツに分けていて、撮影台の上で少しずつ動かしては一コマ撮り……というスタイルです。本来、切り紙アニメーションというのはこういうものですね。『ファンタ~』は描いたキャラクターの全体を切り抜いて、それを置き換えています。その意味ではセル・アニメーションに近いやり方で、この方法のいいところは、使い回しがしやすいんですね。たとえば人物が横に歩くような場合だと、左足、右足と2歩の動き分の絵が用意できれば、あとはそれを繰り返して使えばいいので、作画枚数的には節約できる。そうは言っても、この絵の線の多さ、水彩の味わいは、やはり手間がかかっています。これがただ輪郭の中に色をべったり塗ったような絵だったら成立していない作品で、その場合はもっとストーリーとかアクションとか別の要素で見せる必要が出てきたと思う。今の耳で聴くとけっこう時代を感じさせ、ともすれば催眠効果を伴うような(笑)音楽が始終鳴っていますけれども、この作品全体から受ける印象は「静かな世界」ですよね。そのムードもこの映画のひとつの魅力だと思うんですけど、それもこの絵がなければ実現できなかったと思います。
巨人物語の伝統
この映画のパンフレットを見ていたら、浅田彰さんが「砂漠のボッス」というタイトルで文章を書かれていて、確かにヒエロニムス・ボッスとかピーテル・ブリューゲルの影響はトポール自身も受けていると思うんですよね。人と物が有機的に入り乱れているような、人間がある種、物と対等に扱われているような世界観です。
それで思い出したのですが、フランソワ・デプレという日本ではほとんど知られていないフランスの版画家が、1565年に「パンタグリュエルのおどけた夢」というタイトルの画集を出しています。この絵を見ているとまさに『ファンタ~』の世界なんですよ。彼はサルバドール・ダリなどシュールレアリズムの作家にも影響を与えた画家なんです。「パンタグリュエル」というのはご存じかもしれませんが、フランソワ・ラブレーという15~6世紀のフランス文学者の作品のタイトルです。これともう1冊「ガルガンチュア」というのがあって、どちらも主人公の巨人の名前なんですね。フランスの民間伝承をベースに、騎士物語のパロディとして巨人の話を書いたグロテスクな嘲笑の物語がこの2冊。だから『ファンタ~』にも実はラブレーの影響が、原作者なり、トポールなりにあったんじゃないかと思っていたのですが、インタビューでラルーが「ラブレーの世界からインスピレーションを受けている」とさらりと言っているのを見て、ああ、やはりそうかと。ラブレーはフランス人なら誰でも知っていて、我々日本人にとっての「桃太郎」のようなものだそうです。そこから翻案された作品が後にたくさん生まれてくる。『ファンタスティック・プラネット』は非常に独創的な世界観を持つ作品ですが、決して突然変異的に生まれたものではなく、フランス幻想文学の流れの中にきちんと位置づけられる作品でもあるんです。
(2013年7月29日 ヤマムラアニメーション アトリエにて 発売中のBlu-rayのブックレットより再録)
山村浩二(やまむら・こうじ)
1964年生まれ。東京造形大学卒業。90年代『カロとピヨブプト』『パクシ』など子どものためのアニメーションを多彩な技法で制作。2002年『頭山』がアヌシーほか世界の主要なアニメーション映画祭で6つのグランプリを受賞、第75回アカデミー賞にノミネートされる。また『カフカ 田舎医者』がオタワ、シュトゥットガルトなど7つのグランプリを受賞、世界4大アニメーション映画祭すべてでグランプリを受賞した作家は世界唯一。2011年カナダ国立映画制作庁とのアジア初の共同制作アニメーションとして『マイブリッジの糸』が完成。これまで国内外の受賞は80を越える。また、『くだもの だもの』『おやおや、おやさい』(共に福音館書店)など絵本画家、イラストレーターとしても活躍。東京藝術大学大学院教授。
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ベルリン・アレクサンダー広場
1929年に発表されたアルフレート・デーブリンの同名長編小説を、37歳の若さで世を去るまで夥しい数の作品を遺したドイツの鬼才ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーがTVドラマ化した全14話、15時間に及ぶ超大作。第一次大戦後、1920年代のベルリンを舞台に主人公フランツ・ビーバーコップが辿る受難に満ちた物語を描きます。第1話「処罰が始まる」は、恋人殺害の罪で服役していたフランツの出所からスタート。
(1980年 イタリア=西ドイツ合作)
ファスビンダー 夢の誕生と死、そして再生について(1/2) 渋谷哲也
1.ファスビンダーのテレビ作品
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが活躍した1970年代の西ドイツでは、テレビ局の出資により映画を製作できるシステムが構築されていた。テレビ局側も若く新しい才能を探していたが、ファスビンダーはその状況を最大限に活用した。彼の作品にはテレビ用に製作されたものが少なくない。劇映画、舞台劇の収録、ショー番組に加え、連続ドラマも2つ製作している。最初のシリーズ『八時間は一日にあらず』(1972)は西ドイツ放送(WDR)による家族ドラマで、放映時は高視聴率を記録した。だが第5話まで作られたところで、すでにシナリオの完成していた残り3話分の製作中止が決定された。原因について様々に憶測されているが、いずれにせよWDRからその代案として出されたのがSF映画『あやつり糸の世界』(1973)であり、2部作で完成された。この時期は他にも自作の舞台劇『ブレーメンの自由』(1972)のテレビ版、イプセンの名作戯曲『人形の家』をセット撮影した『ノラ・ヘルマー』(1973)、そして映画『マルタ』(1973)とテレビ用作品が続いている。
ファスビンダーのフィルモグラフィーにおいてもう1つ目を引くのは、ドイツのみならず世界の文学作品を脚色した映画が多い点である。ジャン・ジュネの『ブレストの乱暴者』を映画化した遺作『ケレル』(1982)や、ナボコフの『絶望』の映画化である『デスペア 光への旅』(1977)、ドイツ作品ではマリールイーゼ・フライサーの戯曲をテレビ映画化した『インゴルシュタットの工兵隊』(1970)、フランツ・クサーヴァー・クレッツの戯曲『獣道』(1972)、フォンターネの有名小説の映画化『フォンターネ・エフィ・ブリースト』(1972‐74)、オスカー・マリア・グラーフの同名小説を原作とした『ボルヴィーザー』(1976‐77)などが並んでいる。特殊な例として『マルタ』は、ファスビンダーがオリジナル脚本を執筆したものでありながら、完成後に内容がコーネル・ウールリッチの短編小説「命ある限り」に酷似していることが発覚し、結局映画に「コーネル・ウールリッチの原案に基づく」とクレジットされた。様々な素材を吸収しながら息つく暇もなく作品を生み出し続けたファスビンダーは、オリジナルとセカンドハンドの違いを超越した創作世界を展開したと言える。
ファスビンダーにとってアルフレート・デーブリーンの『ベルリン・アレクサンダー広場』が特別な作品であることは今ではよく知られている。大都市小説として世界的名作である本作は、思春期のファスビンダーにとって人生の助けとなった重要な作品であった。しかも彼の作品の至るところに小説『ベルリン・アレクサンダー広場』の影響が見出され、ほとんど彼の作品に強迫観念的に取りついた影のような存在感を示している。だがそれは単なる無意識のなせる業とも言いきれないだろう。彼は初期作品からフランツという名の男を繰り返し登場させており、この人物が愛を求めて裏切られ挫折する物語を何度も語り続けてきたからだ。しかも多くの場合、自身で演じていることも目を引く。20歳頃の執筆作とされる戯曲『焼け石に水』においてすでにフランツが登場し、長編第一作『愛は死より冷酷』(1969)のフランツ役はファスビンダーが演じた。その後日譚の『悪の神々』(1969)の主人公フランツはただしハリー・ベアが演じている。初めてフランツ・ビーバーコップという名の主人公が登場する『自由の代償』(1974)は再び監督の自演であり、そしてフランツ・Bが登場する戯曲『ゴミ、都市そして死』(1975)がある(これはフランクフルトのTATで初演しようとして叶わず、その後ダニエル・シュミット監督により『天使の影』(1976)として映画化されるが、その際ファスビンダー演じる主人公の名はラオウルに変更されている)。そして元祖フランツ・ビーバーコップの登場する小説『ベルリン・アレクサンダー広場』の映画化が78年にWDRで決定される。この長大な作品をドイツで初めて連続テレビ映画として製作するという大胆な企画だった。ファスビンダーにとってはようやく念願の企画が実現するというところだが、この時期の彼にはもう一つ長年の企画『マリア・ブラウンの結婚』(1978)の撮影が控えており、『アレクサンダー広場』のシナリオ執筆と『マリア・ブラウン』の撮影を同時に進めなくてはならない状況となった。彼自身によると『アレクサンダー広場』のシナリオ執筆は壮絶なもので、丸4日間ぶっ続けで執筆した後24時間眠るという作業リズムで行われたという。一方『マリア・ブラウン』の現場で、彼はわざと撮影が中断するような問題を起こしてみたり、時には現場に姿を見せない日もあり、撮影は混乱を極めた。だがその喧騒の中で完成された『マリア・ブラウンの結婚』はファスビンダーの代表作と呼べる傑作となっている。だが同時に長年の撮影監督だったミヒャエル・バルハウスが、ついに彼のもとを離れるきっかけの作品ともなった。
ファスビンダーは『ベルリン・アレクサンダー広場』についてテレビ連続シリーズを撮るだけでなく、劇場映画も同時に製作しようと考えていた。彼によればテレビ映画と劇場映画には違いがある。映画館に来る観客は高い意識を備えた人々であるため、難解な内容にも取り組む心の用意があるが、テレビの視聴者は退屈したり不快に感じればすぐにチャンネルを変えてしまう。しかもテレビ視聴者の数は映画館の観客とは桁違いに多い。つまり社会的な影響力はテレビの方が圧倒的に上である。そこでテレビでは、重要なメッセージを平易で分かり易いスタイルで伝えることが重要だとファスビンダーは考えていた。彼がその能力を備えていたことは『八時間は一日にあらず』の高視聴率ですでに実証されている。彼は『アレクサンダー広場』でも家族で視聴できるような内容を目指した。一方で同時に製作を目論んでいた劇場映画版はずっと過激で実験的な内容を構想していた。
だがテレビ・映画の同時製作という無謀なアイデアはさすがのファスビンダーでも実現不可能ということで、まずテレビ版を製作した後に劇場版を撮影することになった。結局劇場版の製作は叶わなかったが、完成されたテレビシリーズにおいて通常のストーリー展開を持った13話の後に、エピローグと名付けられた14話では過激な映像表現や大胆な構成によってテレビドラマの枠を大きく超える作品となっている。すでにこのテレビシリーズが総体としてファスビンダーの集大成であり、しかも既存のテレビ枠への大胆な挑戦であったことは明らかである。
映画は79年6月にベルリンのオリジナル撮影地でのロケで始まり、2か月後に撮影チームはミュンヘンのバヴァーリア・スタジオに移動してセット撮影を行った。ワイマール期ベルリン路上のセットはかつてイングマール・ベルイマンの『蛇の卵』(1977)の撮影時に建てられたものである。ファスビンダーはこの屋外セットをすでに『デスペア』でも使用していた。全話通じて3000カットに及ぶ撮影のために予定された日数は193日だったが、実際には154日で撮影完了し、製作費の節約となった。本シリーズの製作費1300万マルクは当時のドイツテレビ界では最高額であったためマスコミを賑わせたが、そもそも全14話という長大なシリーズの製作はドイツで初めてのことであり、本作の直後にファスビンダーが監督した劇場映画『リリー・マルレーン』(1980)の製作費は1100万マルクである。『ベルリン・アレクサンダー広場』の長大さから考えると非常な低予算であったことは、ファスビンダー自身が公開当時から強調していたことでもあった。ファスビンダーの早撮りの経済性は、製作サイドにとって好ましい特性であった。また本作は14話全てを完成させたのちに放映開始するという、シリーズものとしては例外的な製作スタイルを取った。1980年10月12日の第1話で幕を開け、同年12月29日にエピローグが放映された。
2.『ベルリン・アレクサンダー広場』に浴びせられた批判
ファスビンダーにとって渾身の一作となった『ベルリン・アレクサンダー広場』だが、大衆新聞であるビルト紙の煽情的な記事に誘導されて放映前から凄まじい誹謗中傷に晒され、ほとんど個人攻撃と呼べるような調子を伴っていた。常にタブーに触れる言動ゆえにこれまでドイツ国内ではたびたび非難にさらされたファスビンダーだったが、今回の誹謗のあまりの激しさを憂慮したテレビ局は、当初予定していた夜8時15分という放映枠を急遽夜9時30分開始に変更した。これによってファスビンダーが当初目論んだ家族そろっての視聴という望みは叶わず、しかも放映回を重ねるごとに視聴率は急激に落ち込み、エピローグ放映は夜11時という深夜の時間帯に追いやられてしまった。また第2話の放映後にファスビンダーは殺人予告を受け取り、一時は警察の保護を求めるに至っている。だがテレビ放映の一週間前にはヴェネチア映画祭において全15時間が特別上映されて絶大な賛辞に包まれ、またファスビンダーの死後ニューヨークでの劇場公開は多数の観客を動員し、スーザン・ソンタグを始めとした多くの批評家の圧倒的な支持も得ている。ただドイツ国内では本作に対する評価は壊滅的で、残念ながらファスビンダーのライフワークは本国でもっとも激しい非難の嵐に晒され、その後長い間半ば葬られた状態となってしまった。
当時のドイツでとりわけ目立った批判は、画面の暗さに対するものだった。1980年の家庭用テレビはいまだモノクロ受像機が多く、しかも通常のテレビ番組は明るい画面の連続するはずだったが、さっそく第一話の前半でとりわけ暗い場面が登場したことが災いした。だがこの批判はファスビンダー側にも原因があった。実は最初、撮影素材が現像所の技術的ミスで本来よりずっと暗く仕上がってしまったのだ。それを見たファスビンダーは暗すぎる画面を気に入り、全作をこの暗さにするよう指示した。途方もないアイデアに恐れをなしたバヴァーリア・スタジオのプロデューサー、ギュンター・ローバッハは、テレビに映る映像をファスビンダーに見せ、暗すぎて視聴者が映像を見分けられない実態を示した。だがファスビンダーは自分の考えに固執し、結局はその意志を貫いたのだった。実際に放映された画面を見て、ファスビンダーは自分の大胆なアイデアの実現を喜んでいたというが、テレビ局には画面が暗すぎることに対する視聴者の苦情が殺到した。だが先述したようにヴェネチア映画祭やニューヨークでの公開では、スクリーンに投影された映像美を観客や批評家は存分に味わうことができたのである。ドイツでは明らかにテレビ放映による初公開だったことが不運だといわざるを得ない。たとえそこにファスビンダー独自の批判精神が反映されているとしてもだ。
また作品の内容についても激しい批判が浴びせられた。ビルト紙は、この映画が「男便所の空気」「愚かしい話法による放埓行為、その間にいくつもファスビンダーの汚れたセックス」とスキャンダル性を煽り、膨大な製作費がこのような作品に投じられたと非難している。だがファスビンダー自身はこの酷評が全く理解できないと反論し、以下のように述べた。「僕は、エピローグと名付けられた14話を除いて、『アレクサンダー広場』はものすごく美しくスリリングで啓発的だと思うので、これを見て反発を感じるというのは違うと思う。」
彼としてはあらゆる世代に視聴してもらえるテレビ映画として、過激な描写はむしろ控えたというのだ。だから放映時間が深夜に移されたことはファスビンダーにとってあまりに不本意な変更だった。最初から深夜枠の放映だったならば、もっと過激になっただろう部分を省略せずに演出したとさえ彼は述べている。とはいえこのテレビシリーズでも全編においてときに目を覆わんばかりの暴力描写を伴い、しかも通俗性と過激なテーマが絶妙に折り合っている。むしろそれこそがファスビンダーという作家が到達した究極のスタイルだと言えるのではないか。
渋谷哲也(しぶたに・てつや)
ドイツ映画研究。東京国際大学准教授。数多くのファスビンダー作品を初め、ストローヴ=ユイレやハンス・ユルゲン・ジーバーベルクの作品などの字幕翻訳を手掛ける。共著編に『ファスビンダー』(現代思潮新社)、共著に『若松孝二 反権力の肖像』(作品社)がある。 -
ある結婚の風景
スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンがTV用に制作した全6回5時間に及ぶ「夫婦の危機」ドラマ。弁護士のマリアンとその夫、大学の准教授ユーハンの間に横たわる関係と変化を、徹底した対話劇のなかに浮き彫りにします。第1話「無邪気さとパニック」は、二人が雑誌社の取材を受け現在の結婚生活について語り始めるところからスタート。幸せに満ちていたはずの彼らを訪ねる友人夫婦のあからさまな不仲に、二人の気持ちが揺れ始めます。
(1974年 スウェーデン作品)
『ある結婚の風景』 1970年代、最高のリアリティショー・ドラマ 杉原賢彦
i) リアリティショー・ドラマ
『ある結婚の風景』は、一見、幸福そうに見える夫婦の関係のなかに隠されていた危機とその後を描く作品といえる。1970年代前半、それまでとは異なった製作方法を摸索し始めていたイングマル・ベルイマンに、(作品テーマ上というよりも)作品製作上の転機をもたらした作品ともなった。
結婚10年を迎え、お互いに中年期にさしかかった夫婦が、自分たち自身と結婚生活を再確認してゆく。全編およそ5時間、50分ごと全部で6話のエピソードによって構成されている。つまり、テレビ番組の1時間枠6回分を使って放送されるよう構成された。
そのための手法としてベルイマンは、徹底した対話をふたりの間で交わさせる。5時間にわたる作品中、少なく見積もってもその半分以上、いや3分の2近くを対話シーンが占める。しかも、1ショットの持続時間は長い。カットを割らない長廻し撮影によって夫婦の些細な会話はもちろん、日常生活につきまとうこまごましたことを、たとえもっとも私的なセックスですらも、まるで覗き見するような感覚で注視してゆくのだ。
まるでリアリティショーのように……と言っても過言ではない。もちろん、いま私たちが知っているリアリティショーのようなあからさまでケレンまみれの演出がそこにあるわけではなく、対話劇としてのドラマづくりが巧みになされはいるのだが、そうしたことよりもむしろ、夫婦や親子の対話に、その背景に見える日常性に、そしてさらにはその滑稽とも思えるような真実味に、文字どおりの観客である私たちの目も耳も、次第にさらわれていってしまう。
たとえば、第1話のふた組の夫婦の会食シーンのあと、マリアンとユーハンはベッドに入る。「妊娠した」と告げるマリアンに、ユーハンが堕胎をほのめかすなか、カメラはつねに正面からふたりをとらえ続ける。まるで、私たちの目の前で夫婦の危機劇が演じられているかのような錯覚すら覚えさせずにはおかない(ペーテルとカタリーナの夫婦げんかの迫真性ももちろん)。
ベルイマンが難解な映画作家だとう巷の言説など、ここでは無効だ。『ある結婚の風景』ほど、ベルイマンが人間喜劇とも呼ぶべき瞬間に近づいたことなく、ここにあるのは、難解さとはほど遠く、人間存在そのものに近づこうとしているベルイマンの野心だ。
誰でも1度は経験したことがあるような、ごくありきたりの夫婦間に起こるごくありきたりの危機を主軸におきながら、友人夫婦の痴話喧嘩や、子どもを産むか産まないか、両親の家での会食に行くか行かないか、あるいは離婚しようかしないでおこうか等々、ベルイマンはこれまで彼が俎上に載せてこなかった卑近なドラマを、それがあるままに、しかもきわめて現代的な手法で切り取ってゆく。1970年代、最高のリアリティショー・ドラマ、それが本作なのだ。
ii) ベルイマン映画
『ある結婚の風景』は、それまでのベルイマン映画とは様相を異ならせ、しかしその後のベルイマン作品、たとえば『秋のソナタ』(1978年)や、とりわけ遺作となった『サラバンド』(2003年)など、本作がなければ誕生しなかった作品だっただろう。
本作でカギとなるのは、ひと組の夫婦をどうとらえるのかという問題だ。第1話において象徴的に登場する、ふたりベッドに並んでこちらを向いているという構図は、全編を通して同じ構図の変奏がくり返される、まさにキー・ショットとなっている。夫婦という存在が、どこにおいてもっとも赤裸々にその素顔を顕すのか、ベッド、あるいは食卓という内密にして象徴的なショットのなかに、ふたりが収まる。そこで交わされる対話は、含意的であるというよりもむしろ、フラットで核心性からはほど遠く、くだらないうわさ話のように皮相的で、それゆえに私たちの心を突つくのだ。
演じるエルランド・ヨセフソンとリヴ・ウルマンは、ベルイマンお気に入りの俳優として知られ、ヨセフソンは1946年の第2作『われらの恋に雨が降る』から端役出演しているのだが、本作『ある結婚の風景』で初めて、それまでのベルイマン俳優だったマックス・フォン・シドーに代わって主演の座につき、この後のベルイマン作品になくてはならない俳優となる。一方のリヴ・ウルマンは、ベルイマンの公然の愛人として知られ、'66年には、ベルイマンとのあいだにできた娘を出産をし、ベルイマンにとって欠かすことのできないヒロインとしてあり続けた。
生涯に5度の結婚を経験した(離婚は4回経験したことになる)ベルイマンだが、難解さとシリアスなイメージがつきまとう作品群とは異なって、その人物像はきわめて陽気で明るい人物だったことが知られており、彼自身の経験したこと、あるいは周辺の人物たちのエピソードが、本作に反映させられていることは想像に難くない。
実際、リヴ・ウルマンは'09年にアメリカの「W」誌のインタヴューに答えて、次のようなことを語っている。
「撮影は楽しいものだった。ベルイマンの映画を見ていたほとんどの人には信じがたいことでしょうけれど、彼はとんでもないユーモア・センスのもち主なの。なにかとてつもない笑いをいつも求めていた。現場のみんなはやんちゃな遊び仲間みたいなものだったわ。彼にはこうした雰囲気が大切で、現場ではいつもジョークが飛び交っていた。しかも私たちは、自分たち自身のことを包み隠さず話し合った。たいていのパートナーシップでは、完全な理解ののち、その断片を創造に生かすなんていうことはまず不可能でしょう。でも、ベルイマンは『ある結婚の風景』でそれをやってのけた。しかも私の人生の一部を使って」(引用元は http://www.magazine.com/celeblities/2009/10/liv_ullmann )
リヴ・ウルマンの言葉から分かるのは、確かに本作が、ベルイマンの人生の一部(あるいはもっと多く)から出ているということだ。ベルイマンと彼の周囲の人々の人生の欠片は、私たち自身の人生の欠片と出逢い、重なり合い、響き合う。ベルイマンは、この作品がまるで見る人の人生の一部であるように感じてもらえるよう意図し、そのためにテレビというメディウムを利用し、まるでリアリティショーのような枠組みを創造し、対話劇へと昇華させたのだった。それは同時に、テレビ時代にフィットする映画の様式、形式の新たな創造でもあった。
なお、のちにウディ・アレンが、『インテリア』(1978年)でベルイマンを踏襲するような人間ドラマを描くが、そこにあるのはむしろ対極のものと言える。アレンがベルイマンの意図に到達するのは、1992年の『夫たち、妻たち』まで待たねばならない。
余談ながら、本作のテレビ放送に際して、スウェーデン国内では大きな話題となり、離婚率が一気に上昇したという。そして、ベルイマンの遺作となった『サラバンド』は、リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソンに再び夫婦を演じさせ(役名も同じ)、その後を見届けるような作品とはなっているが、ベルイマン自身は続編としての位置づけを認めていない。
杉原賢彦(すぎはら・かつひこ)
映画批評・慶應義塾大学・立教大学講師。
フィルムアート社「シネレッスン」シリーズのほか、『アートを書く/クリティカル文章術』など執筆。また、ジャン=リュック・ゴダール、クシシュトフ・キェシロフ作品など、数多くのDVD解説を執筆。京都映像アワード/京都国際インディーズ映画祭顧問。
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ワーグナー/偉大な生涯
2013年に生誕200年を迎えたリヒャルト・ワーグナーの生涯を描く、全3部=8時間弱の超大作! ヨーロッパの精鋭キャストが集結し、スタッフも各国から参加、『暗殺の森』『地獄の黙示録』等で活躍してきたヴィットリオ・ストラーロの撮影と、ショルティ指揮によるワーグナーの名曲が全編を彩ります。第1部はドイツ三月革命に失敗し、スイスに逃れたワーグナーの困窮生活からスタート。やがてパトロンの妻と関係が……。
(1983年 イギリス=ハンガリー=オーストリア合作)
ワーグナー前半生概説 郡 修彦(音楽史研究家)
■偉大なる"巨人"の記録
大作曲家の生涯を表す言葉は幾多あるが、ことリヒャルト・ワーグナー(1813~1883)には"巨人"が最適である。波瀾万丈を絵に描いたような人生は絶頂と奈落の間を幾度となく往復し、最終的には不動の地位を築くに至ったが、借金、逃亡、不倫といった不道徳的要素が多いゆえに、青少年向けの音楽家偉人伝には著名と反比例してほとんど登場しない。
また、その性格は研究家の精神医学者が「素質的に自己陶酔の傾向を有するヒステリー性格者、精神病質者であり、感情酩酊、法外な虚言癖、神経症的症状等が認め られ、芸術は一種の自己救済であった」と書き残しており、ゆえに本人自身好悪が激しく、周囲には信者と強敵が併存し、現在でも好みが明確に分かれる作曲家である。
その波瀾万丈の生涯はよく研究されてほとんど解明されてはいるが、読解するだけでも大変な労力を要する。本作品『ワーグナー/偉大なる生涯』は、青年時代から 晩年までの重要な出来事の大半を網羅しており、最後まで鑑賞すると大作曲家リヒャルト・ワーグナーが如何なる人物で、如何なる生涯を送ったかの概要を容易に理解し得るが、様々な文献からすると実際の生涯は本作品よりもさらに濃厚で劇的である。
また、ワーグナーの発言や行状を常人の尺度で断罪する評論を現在でも散見するが、歴史的に見れば大作曲家の数は宇宙空間から地球を見得た人数よりもさらに希少な稀有の存在であり、今後出現の可能性が極めて希薄なことに鑑みれば、偉大なる巨人の記録として捉えるべき であろう。そして、如何なる発言も行状も、千古不滅の芸術の前には微小な付帯物に過ぎないことが、本作品においてもご理解いただけるはずである。
■才能に恵まれた血筋
リヒャルト・ワーグナーは1813年5月22日、ライプツィヒにて王国警察局第一書記のフヒードリッヒ・ワーグナーとヨハンナ・ロジーナの第九子として誕生する。同年11月23日に父親は発疹チフスにて死去。1814年8月28日に母親は俳優、画家、脚本家のルードヴィヒ・ガイアーと再婚してドレスデンに移住、1821年9月30日には養父が死去し、一時的に養父方の叔父に預けられ、1822年末には実父方の叔父によりドレスデンに戻った。
一家は舞台関係者の出入りが多く、その影響と演劇好きの実父の血筋から、長兄はオペラ歌手、姉2人は女優、姉1人は歌手となっており、リヒャルト自身にも後年の大成の要素が内包されていたことは確実である。また、この時期にドレスデンの宮廷指揮者カール・マリア・フォン・ウエーバー(1786~1826)の歌劇「魔弾の射手」に熱狂、 これがリヒャルト少年のとっての偶像となり、人生の方向が定まり始めたと言えるだろう。
少年時代のワーグナーは1825年にピアノの教育を受け、1826年にはギリシャ古典文学とシェークスピアの劇文学に熱中、1827年にはライプツィヒに戻り、詩人を志す。なお、実父方の叔父は在野の学者で、一流の文学者・哲学者と交流し、翻訳や編集も手掛けていた人物。ライプツィヒ時代にワーグナーに絶大な感化を与えた。
文学少年のワーグナーは1828年に大悲劇「ロイバルト」を執筆、ベートーヴェンの音楽に接して音楽家を志し、楽譜の研究と鑑賞に勤み、1830年にベートーヴェンの「交響曲第9番」をピアノ用に編曲している。これは不備、未熟により出版には至らなかったが、文学と音楽の両面で後年の大成を伺わせる業績を挙げている 点は流石である。
1831年にはライプツィヒ大学へ入学し音楽を専攻。教会の合唱指揮者のテオドル・ヴァインリッヒ(1780~1842)に師事して音楽教育を受け、酒と賭事で荒んでいた時期を抜け出した。
■困窮の中、パリに逃亡
青年時代のワーグナーは、1832年に「ピアノのための大ソナタ」と「交響曲」を完成させて初演。1833年にヴュルツブルク市立劇場の合唱指導者として赴任、以後は地方都市の音楽監督として、ラウフシュテット、マクデブルク、ケーニヒスベルク、リガを遍歴するが、いずれの劇場も財政状況は芳しくなく、楽団も小編成であった。その中で、ワーグナーは様々な作品を取り上げており、この時期の経験が後年の作曲に大いに役立っている。
また、初期作品として歌劇「妖精」と歌劇「恋愛禁制」を完成させ、さらには論文の第一号である「ドイツのオペラ」を寄稿しており、着々と創作活動を重ねていた。そして、21歳で知り合ったミンナ・プラーナ一(1809~1866)と23歳で結婚し苦楽を共にしている。
1839年にリガ劇場を解任されたワーグナーは心機一転と借財清算をすべく、ロンドンを経てパリへ逃亡する。当時のパリは音楽の中心地として特に歌劇では頂点を極めており、ワーグナーはベートーヴェンの交響曲第9番の本格的な演奏に接し、大いに感動、触発されている。この時期は生活のために写譜・校正・編曲を行いつつ、歌劇「リエンツィ」と歌劇「さまよえるオランダ人」を完成させ、文筆業でも様々な作品を寄稿しているが、生活は苦しくリガ以上の困窮状況と化した。
作品の上演に向けて多方面において精力的に活動するも、当時の有名作曲家が群雄割拠するパリでは新人のワーグナーは相手にされず、遂には見切りをつけて1842年にドレスデンへと戻ることになる。歴史的な視点から見れば、当時パリにて好評を博した作品群よりも上演不可能に終わったワーグナーの2作品の方が優れ ており、今日では評価も上演回数も全く逆転しているのは、即物性と普遍性の対比を示していて何とも興味深い。
■異質な大器晩成型
このドレスデン時代が本作品の冒頭部分に相当するが、それまでの出来事が全て割愛されている構成は大胆である。天才は早世が重要な条件であるが、大器晩成の巨人ワーグナーは30歳を目前にして、作品はあるものの音楽家としては社会的に認知されていない状況であった。この点でワーグナーはモーツァルトやシューベルとは全く異質である。音楽家は先天的天才と努力型英雄に大別される感があるが、人間の才能の開花は、時代や状況の他に、本人自身がどの成長段階にいるかにもよってくると言えるだろう。
ドレスデンに戻ったワーグナーは、同年に宮廷劇場で歌劇「リエンツィ」の初演を行って大成功を納めた。この作品は今日ではほとんど上演されず、前奏曲のみが単独演奏されたり録音されたりするが、当時の聴衆に合致した作風ゆえに好評を博していた。今日とは逆という、作品に対する評価の相対性を示している。
1843年早々には歌劇「さまよえるオランダ人」の初演が行われるが、前作ほどの好評は得られなかった。それは、歌劇の様式に変革をもたらす試みに聴衆が当惑したからである。当時の歌劇は山場、見せ場にて聴衆が拍手をした後に進行するとの様式であったが、「さまよ えるオランダ人」では拍手による中断を廃した構成を採り、この後のワーグナーの作品の全てに踏襲されている。さらには歌劇の題材に関しても「リエンツィ」のような歴史物から、神話・伝承を基にした作品への転換点となっているのがこの時期である。
同年にはドレスデンの王室ザクセン宮廷指揮者に就任し、社会的地位と経済的安定を得て創作活動と演奏活動に邁進。 1845年には歌劇「タンホイザー」初演、1846年にはベートーヴェン「交響曲第9番」を指揮して絶賛される。これは、少年時代にピアノ編曲をし、青年時代にパリにて名演奏に接したワーグナーには極めて因縁の深い作品であり、第4楽章にて器楽と声楽の融合という歌劇と同様の様式に魅了されたゆえの、全力傾注の成果とも言えよう。
1848年には歌劇「ローエングリン」を完成させ、後年完成する作品の着想のほとんども同時期に得ている。現在保存展示されているドレスデン時代の蔵書からも、彼が読書家であることは明白であり、その広い交友関係とともに、様々な情報・知識を吸収して作品に反映させていたことは確実である。
■政治に傾注していくワーグナー
しかしながら、大器晩成の巨人ワーグナーは、社会的地位と経済的安定だけで満足する人物ではなかった。宮廷劇場の運営形態に不満を抱き、改革案を数度にわたり当局に提出した結果として歌劇「ローエングリン」の上演却下に至ったのである。野心家で理想主義者のワーグナーは、自らの芸術的な理想を実現するためには、旧態依然とした社会構造の変革から着手すべきとの結論に至り、同地での交友関係の影響もあって政治的活動へと傾注していくのである。ドレスデン革命は1849年5月3日の市民蜂起、5日に鎮圧のプロイセン軍到着、9日に掃討完了と短時間にて決着が付き、反乱側の主要人物のほとんどが逮捕されるが、間一髪でワーグナーが逃亡できたのは、情報収集能力と判断力の賜物であり、世情に疎い純粋な芸術家とは対極にあると言えよう。
これにより、ワーグナーは政治的危険人物として指名手配書が作成されたが、大作曲家の中で指名手配された唯一の人物である点も別格である。この革命の経験も後の作品に生かされており、観察者としてのワーグナーの一面を見ることができる。
以後の人生と活躍は本作品が手際良く紹介しているので、詳述は避けるが、様々な交友関係と思想的な影響、女性関係の顛末、発言と精神分析的解釈は関連書籍に詳述されている。
なお、ワーグナーの歌劇・楽劇は演出家により衣装・舞台装置が全く異なり、新演出のたびに賛否両論が激突することでも有名である。これらは上演史に詳述されているので一読をお薦めする。
応募要項
■応募期間
第1回 2016年3月25日(金)~2016年4月7日(木)23:59まで
第2回 2016年5月6日(金)~2016年5月19日(木)23:59まで
第3回 2016年6月3日(金)~2016年6月16日(木)23:59まで
※本キャンペーンは予告なく終了する場合があります。あらかじめご了承ください。
■特典内容
第1回 500円分のTポイントを抽選で40名に進呈します。
第2回 500円分のTポイントを抽選で30名に進呈します。
第3回 500円分のTポイントを抽選で30名に進呈します。
※やむをえない理由により、特典内容を変更する場合があります。
■応募資格
応募期間内に所定のクイズに全問正解した方。
※ご応募、登録内容に虚偽の記載があった場合は、応募資格・当選資格を取り消す場合があります。
■応募方法
対象者のYahoo! JAPAN IDにポイントを進呈します。
2016年4月下旬以降にポイント通帳にてご確認ください。
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