「研究不正の有無」と「再現性の有無」は別問題
以前に本誌でも書いたことだが、あらためて強調しておきたいのは、「研究不正の有無」と「再現性の有無」はまったく別問題だということである。最大限譲歩して、ヴォイニッツ博士らの実験結果は小保方氏らのいう「STAP現象」の証明に成功したものだとむりやり解釈しても、そのことは、研究不正がなかったということを意味するわけではない。
再論しておくと、研究不正の有無は「研究公正」(または「研究倫理」)の問題であるが、再現性の有無は純粋に「科学」の問題である。それゆえ小保方氏らの『ネイチャー』論文の評価は、以下のように4通りの可能性があったはずである。
理想的なのは、当然ながら(2)である。最悪なのは(3)であり、実際にそうだったと確定している。(4)の可能性は、一般的には考えられることだった。その場合、科学的な批判の対象にはなっても、社会的な批難や制裁の対象にまではならないだろう。
(1)の可能性もなくはなかった。筆者は以前、(1)はあまりないと思っていたのだが、複数の分野の科学者に「一般論として、(1)はありうるのか?」と尋ねてみると、「潜在的にはかなりあるだろう。再現性さえあれば、グラフなどに細工をしていても、あまり気にされないから」という異口同音の答えが返って来た。
小保方氏が複数の図表(最低4点。おそらくはそれ以上)を捏造・改ざんしたこと、STAP細胞と称されたものが実はES細胞である可能性が高いことは、前述のように理研自体も調査結果をもとに認めている。ヴォイニッツ博士らの論文には、これらのことを覆す要素はない。したがって小保方氏や共同研究者、理研、早稲田大学の名誉回復にはまったくつながらない。
科学をめぐる言論空間を豊かにするために
評論家の荻上チキ氏は、「流言」と「デマ」は厳密には異なり、前者は「根拠が不確かでありながらも広がってしまう情報」であり、後者は「政治的な意図を持ち、相手を貶めるために流される情報」だと説明する。流言とデマの区別は「学術研究には有用ですが、臨床的な分析や対処の際には、実際はそれほど重要ではない」と荻上氏は論じる。「流言やデマが広がるのは、それを信じた人・広げた人が多くいるからです。ですから、それを信じてしまう集団的な心理や情報環境にこそ注目すべき」(『検証 東日本大震災の流言・デマ』、光文社新書、2011年、13〜14頁)。
筆者は荻上氏の見解に同意するのだが、冒頭で紹介した記事の著者やそれに賛同する人たちの大半は、政治的な意図で誰かを貶めているようには思えないので、本稿ではとりあえず「流言」と呼んでおく。
本稿では、昨年12月12日と今年3月19日に広まった流言について、その根拠を筆者なりに検討してみた。根拠とされるものを同じくするこの2つの流言を「信じた人・広げた人」たちには、どのような問題があったのだろうか? 第1に、研究内容(論文)の理解が正確ではないこと、第2に、「再現性の有無」と「研究不正の有無」を混同していること、であろう。
ネット上には、これら以外にもSTAP細胞問題に関する流言が散見されるが、第3の問題として、「必要条件」と「十分条件」を混同しているということもある。
たとえば、Oct4という多能性を示すマーカー(目印)として知られるタンパク質の陽性反応(発現)を、STAP現象が起きている証拠だと述べる人がいるが、Oct4の発現は多能性の必要条件であって、十分条件ではない。
小保方氏は手記『あの日』で、「「Oct4陽性の細胞隗を作成したところまで」を、STAP細胞を作製した根拠」であると、2014年4月の記者会見後に述べた追加説明を繰り返している(同書171頁)。しかし「STAP」の「P」は「pluripotency」、つまり「多能性」という意味である。現在では、ある細胞の多能性を証明するためには、「キメラ(マウスの作製)」や「テラトーマ(の発生確認)」と呼ばれる実験が不可欠とされており、Oct4陽性だけでは、多能性の十分条件を満たしたことにはならない。
そしてOct4の発現を示す緑色の光は、細胞が死ぬときに観察される「自家蛍光」と区別される必要がある。しかし、理研による「STAP現象の検証」(再現実験)では、小保方氏自身によっても、「検証」を指揮した丹羽仁史氏によっても、その確認はなされなかった。7つのグループによる追試(再現実験)でも同様である(前述のNature 525(7570):E6-9)。「検証」では、キメラ作製も試みられたが、1回も成功しなかった。
したがって小保方氏らと同じ方法で、多能性の十分条件を満たす細胞を作製できたという例は、本人も含めて誰も実現できてない。
にもかかわらず、現実として小保方氏の『あの日』は26万部ものベストセラーになっているといい、ネット上には流言が満ち溢れている。しかし、『あの日』を買った者のなかには筆者のようにこの問題を検証するために買った者もいるだろうし、そもそも日本には1億2000万人以上の人々がいる。そうした流言を信じないネットユーザーも多い。
信じ込んでしまっている人を説得するのはほぼ不可能である。科学やメディアのプロがすべきことは、よくわからず判断に迷っている人たちを念頭にして、手堅いファクト(事実)と厳密なロジック(論理)で、結論を急がず粘り強い議論を継続することである。そのことが流言やデマを信じてしまう「集団的な心理」を変化させ、「情報環境」を整え、科学をめぐる言論空間を豊かにすると筆者は考えている。冒頭で紹介した記事の著者を人格攻撃する者もネットには散見されるが、それは賢明ではない。
サムネイル「Truth magnified」
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