「ピン」されていくメッセージ
トランプに限らず、候補者絡みでFacebookやInstagramなどに挙げられるマッシュアップヴィデオは、CMと呼ぶにはお粗末なものが多いが、その粗っぽさが逆に直裁的なメッセージを可能にしている。もともと選挙CM、特に競争相手のネガティヴCMには、表現方法だけで見れば不愉快でアグリー(醜い)ものが多かったのだが(相手に否定的な印象を貼付けようとするのだから当然ではあるが)、それでもテレビ画面に映るときは前後の番組の印象との関わりや、同じ番組を見ている人に対する影響を想像するきっかけがあり、目の前のCMに対して、自分自身への印象だけでなく、ほかの人への訴求点についても想像することができた。つまり、相対的な視点をもつきっかけがあった。
しかし、ウェブで見る場合は、そもそもチャンネルのような文脈はなく、それゆえ、他の人がいまどのように見ているかなどと想像する必要もない。どこまでいっても個人的(パーソナルでプライヴェート)な出来事となる。そのたった1人にリーチするために、表現そのものも直截的で強度を重視したものとなりがちだ。個人はフィードを受け取るだけであり、その後、「Like」(お気に入り)などの操作を通じて多数の人との「シェア」を試みることで、視聴後にそれを“みんなのもの”に格上げすることができる。ソーシャルウェブ上のメッセージはだから、強度と共感に溢れるものが「ピン」されていく。
加えて2010年代に入り、SuperPACという勝手連のCMも増えている。PACとは先述のように特定の候補者を直接支援する組織だが、そこへの献金額は上限が設定されている。それに対してSuperPACは、特定の候補者や政治家との直接的な繋がりがない組織であり、献金に上限もない。彼らは特定の争点(イシュー)に焦点をあて、そこからメッセージを流してくる。結果的に、ある候補者/政治家の側面援護となるようなCMを広めることに繋がる。いわば勝手に騒いでいる外野の応援団のようなものだ。
通常、候補者のCMの最後には“I approved this message.”というメッセージが付き、このCMはわたしのメッセージであることを保証するという一言が入るのだが、勝手連の(CM未満の)ヴィデオには、そのような「保証の一言」は添えられていない。だが、受け手はそれらのメッセージが混在したストリームを眺めてしまうため、その区別は曖昧だ。こうしたメッセージの発信・受容が、ソーシャルウェブではあたりまえになってきている。2016年のウェブのメディア利用とはこういう状態にあり、候補者たちはそのようななかでメッセージを練り上げている。ウェブが開いた可能性を活用して、選挙活動そのものの定石をハックしてしまっているのだ。
このように今回の大統領選は、序盤の予備選の段階ですでに大異変を経験している。
あわてふためく「主流派」
こうした状況に慌てたのが、共和党の主流である「エスタブリッシュメント」と呼ばれる人たちだ。その名の通り、もともとはジェブ・ブッシュのような安定した政治家一族を支持する、資産家や企業経営者からなるグループであり、彼らからするとトランプの進撃はもとより、2番手につけているテッド・クルーズに対しても大いに懐疑的だ。
クルーズは、ティーパーティに推されて2013年に上院議員になったばかりのルーキーであり、連邦議会にほとんど盟友がいないことが憂慮されている。しかも、トランプが怒れる共和党員(特に中年以上の白人男性)の支持で躍進しているのに対して、クルーズの支持基盤は、彼自身も信仰する福音派(エヴァンジェリカル)の人びとであり、そのため共和党の支持基盤を分断してしまっている。
レーガン大統領が登場した80年代以降の共和党の支持母体は、ここまでに記したように、主には、南部白人男性、キリスト教(プロテスタント)信者、資産家・企業経営者(エスタブリッシュメント)から構成されていた。こうした支持者からなる「連合(coalition)」の上に、保守主義や共和主義、州権主義といった政治信条や、財政均衡や自由競争といった経済信条を上乗せすることで、一体化を図ってきた。もちろん、「民主党嫌い」という心情の共有も含めてだ。
1つ補足しておくと、民主党嫌いとはしばしば北東部のニューイングランドやニューヨーク嫌いに通じるため、共和党のエスタブリッシュメントの多くは、北東部以外の地域の資産家や経営者となる。その筆頭が、アメリカのど真ん中のカンザス州に拠点をおき、ティーパーティの支援者といわれるコーク兄弟である。
ここでしばしば不思議に思われてきたことが、どうして資産家や経営者のような人びとと、農民や労働者のような人びとが連帯できるのか、という問いだった。要するに富をもつものともたないものが手を組めるのはなぜか、という謎だ。そして、その答えの1つが信仰の共有にあった。つまりサザン・バプティストのようなプロテスタントの信仰が、雇用者と被雇用者の間を繋ぐ一種の膠の役割を果たしたという説明だ。そして、そうした理解からすると、トランプとクルーズとの間で支持者が分断されることは、相対的に少数者であるエスタブリッシュメント側からすると頭痛の種である。
実際、トランプの支持者は「secular populism(世俗的ポピュリズム)」と呼ばれている。ここで「secular=世俗的」というのは、要するに信仰をもたないということであり、少なくとも信仰心からエスタブリッシュメント層と心情を共有するきっかけをもたない人たちのことだ。そうした人びとがトランプの支持に回り、予備選というゲームのなかで、信仰をもつ側の共和党員と分断されてしまう。こうした振る舞いは、レーガンが確立した共和党の基盤を覆すことになりかねない。
このトランプの動きは、実は民主党側でも見逃せないところがある。なぜなら、信仰に囚われないポピュリズムとは、ブルーカラーの不満に通じるところがあり、それは民主党員の一部にも訴える可能性をもつからだ。そのような観点からすれば、サンダース旋風にはトランプ旋風に通じるところがあるように見えてくる。トランプの進撃が、共和党寄りのメディアだけでなく、民主党寄りのメディアからも関心を強くもたれているのは、もしもトランプが共和党の候補者に指名されたら(その可能性はかなり高まっている)、本選は大丈夫なのか、という不安の現れなのである。