1614年、徳川家康は難攻不落の大坂城に攻め込んだ。世に言う大坂冬の陣である。このとき、家康はまず城の堀を埋めるという慎重な作戦を取った。
400年の時を経た大阪の女は、真田丸に立て篭もる武将を引きずり出して、外堀に埋めて突き進む強さを持つようになった。
家に引き篭もっていたワタクシを無理やり引きずり出した嫁とは、デキちゃった結婚だった。今は授かり婚というのか。
嫁は当時、会社勤めをしていて出会いに恵まれず35過ぎるという、9回裏2アウトランナーなしのまま、試合終了の大ピンチを背負っていた。ワタクシの方は、30過ぎてただのアルバイトというベンチの補欠状態だった。
最後の記念に、代打に出してもらったワタクシは球場の駐車場に停めてあるベンツのフロントガラスを叩き割る特大ホームランをかっ飛ばしたという話である。
が、ベンツが道を極めた方のクルマだった気がする。
新しい命が宿り、生まれて来ることを知った嫁の行動は早かった。親戚中に妊娠して結婚すると話して周り、ワタクシを産婦人科に連行し、白い豆粒のような写真を見せて、ワタクシの頭に超音波を照射した。
あれよあれよと言う間に、特にプロポーズや結婚式をすることもなく外堀に埋められて顔を出しただけの状態で落城を迎えることになった。
そこまではよかった。よくある話だ。実際のところ、嫁はアルバイトの男とよく結婚してくれる気になったと思った。
しかし、無血開城して埋められたまま、命乞いをしているワタクシに嫁は厳しい条件を叩きつけた。
その条件は、姓を嫁の姓にしてもらうというものだった。ファ?婿養子になれと?30年以上慣れ親しんだ池沼姓から、数ヵ月後には徳川姓を名乗れということですか?
話をよく聞くと、婿養子として縁組するのではなく、ただ夫婦の姓を嫁の姓にしてくれさえすればよいという話だった。
なるほど。話はわかったのだが、多くの男がそうであるように、ワタクシも結婚しても姓が変わるとは思っていなかった。ただの百姓の血筋の次男坊なので、特に名前にこだわる必要もないのであるが、今まで一切考えたことのなかった問題を前に困惑するだけだった。
ということで、D・カーネギー先生の名著「人を動かす」に助けを求めることにした。
嫁を説得する十二原則⑥
しゃべらせる
相手を説得しようとして、自分ばかりしゃべる人がいる。相手に十分しゃべらせるのだ。相手のことは相手がいちばんよく知っている。だから、その当人にしゃべらせることだ。
「人を動かす」213ページより引用
ワタクシは、外堀に埋まって顔だけを出したまま、ひたすら嫁の話を聞いた。
- 嫁が一人娘であること。
- 義父は婿養子であること。
- 義母も長女で男兄弟がいないこと。つまり嫁の姓を継ぐ人間がいないこと。
- 墓を義母が管理していること。
- 小さい頃から、婿を取れと義母に教えられ続けたこと。
ワタクシは嫁の話をじっくり聞いて、ピンチばかりの人生で身に着けた脳内空襲警報の激しいアラームが鳴っているのを感じ、
「だが、断る」
と、防空壕から断固拒否した。嫁の気持ちもわかるので、籍を入れずに夫婦別姓にしよう!と和解案も提示した。
結局、嫁の話を聞き続け答えの出ないまま、嫁のお腹はどんどん大きくなっていった。そして、周囲から早く籍を入れろ圧力が高まって限界となり、交渉妥結のリミットとして設定した大安の入籍予定日の23時を迎えた。
役所の駐車場ではフロントガラスの砕け散ったベンツと化した車の中で、未だに嫁の話を聞き続ける代打男がいた。
日にちが変わろうとしている頃、男は意を決して、空欄にしておいた婚姻届の夫婦の姓の欄にチョボを付け役所に盗塁を敢行した。寝ていた当直のおっちゃんを叩き起こして、婚姻届を提出し大坂夏の陣は終わった。
その数分後には、キレまくった新妻が、姑という強力な援軍を呼んで、離婚に向けた新たな戦いを始めたことは言うまでもない。
いずれにせよ、嫁の話を聞き続けたことによって、嫁も無理強いすることができないと悟ったようだった。やろうと思えば婚姻届を破り捨てることもできたのだがしなかった。
その内法律も変わると思うのでその時、夫婦別姓ができるのであればそうしようと思っている。大切なのは、夫婦で仲良くやっていくことであって、名前を残すために、戦いに明け暮れては何の意味もないと思う。
ワタクシはかつて真田幸村が駆け回った戦場を眺めながら、徳川家の家臣として93歳まで生きた兄、信幸を偲ぶのであった。