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第5回 青空の扉を開いた男
●飛行機と飛行場に賭けた福長浅雄●
文/撮影 泉秀樹



 福長浅雄は戸籍によれば明治26年(1893)4月10日、静岡県浜名郡飯田村2番地(浜松市飯田町)に生まれた。父は利七、母は八重である。
 が、小作人であった父・利七の名前以外は事実ではない。村役場が火事になって戸籍原簿が焼失したので、戸籍係が自分の記憶をたよりに原簿をつくりなおし、確認をとらなかったためだ。
 ほんとうは福長朝雄であり、生まれたのは明治26年1月1日、住所は三郎五郎新田という天竜川の河川敷を土手で仕切って干拓した土地であった。また、母の名は八重ではなく「さく」である。
 以降の朝雄の話は「浅雄」で進めて行くが、さて、この浅雄は幼少期から目の吊れた鼻ッ柱の強い子供で、暇さえあれば空の鳶を見上げて空を飛ぶことにあこがれていた。「鳶小僧」といわれるほどで、父の手伝いで人参や大根や芋の畑を耕しているときも空を飛ぶ鳥を見上げていることが多かったという。
 ウィルバー・ライトとオービル・ライトの兄弟がノースカロライナー州キティホークの海岸で人類初のガソリン・エンジンによる動力飛行に成功したのは明治36年(1903)12月17日である。複葉機「フライヤー」は、まず12秒で36メートルを飛び、つづいて2回実験をくりかえし、4回目には59秒で259メートルを飛んだ。このとき浅雄は10歳で、その日は大変な興奮だった。
 3年後の明治39年(1906)3月、中ノ町高等小学校(浜松市立中ノ町小学校)を卒業すると、浅雄は兄の市松と松之進が勤めている天竜木材会社に就職した。いわゆる製材所である。
 そして3年で仕事をおぼえると、浅雄は退社して大阪に向かった。遠州地方では機械で製材していたが、関西ではまだ木挽きが鋸で製材していることに目をつけたのだ。  浅雄は兵庫県川辺郡川西村(川西市)に製材場を構え、2人の兄とともにドイツ製の製材機を買って早速営業を開始した。まだ16歳であった。

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天竜10号の勇姿

 浅雄は幸運だった。
 近所に住んでいた三井財閥の大番頭として有名な団琢磨と親しくなったのである。
 同じ製材所を営む男が隣りに団家を覗くような家を建ててトラブルになったことを仲裁して団の知遇を得ることになったのだ。
 そして以後の福長三兄弟の仕事は団の後ろ盾できわめて順調に成長していった。
 製材業者として成功し、莫大な利益をあげた浅雄は多忙な日々を過ごすことになったが、明治43年(1910)の末、東京・代々木で徳川好敏陸軍大尉が日本人としては初めてフランス製のアンリ・ファルマン式複葉機で70メートルの高さを約3000メートル、4分間飛行したという新聞記事を読んだ。
 さらに翌年1月に所沢(埼玉県)に日本初の飛行場が完成し、そこで徳川大尉がアンリ・ファルマン機を組み立てていることを知ると、浅雄はすぐに上京し、強引に「押しかけ助手」にしてもらった。
 さらに、新進飛行家として有名だった伊藤音次郎に弟子入りして飛行技術を習った浅雄は、飛行機そのものを製作して売りたいと考えるようになっていった。  まもなく飛行機は空の交通機関になる、そのとき定期航空便を飛ばすことを事業にしたいと考えたのである。

 大正7年(1918)7月1日、浅雄は25歳で郷土訪問飛行を行った。
 その日の朝、浅雄はおどろいた。天竜川の河原(磐田郡掛塚=浜松市竜洋町)や土手、天竜橋が見物人で埋めつくされていたからである。
 4万にのぼる人々が集まっていた。当時浜松市の人口が5万9000弱であったから、大半の市民と近隣近在の人々が集まったということになる。
 南風の強い日で、午前中の飛行はなんとか済ませて大歓声と拍手をもらったが、午後の飛行は風がいっそう強くなって危険ではないかと思われた。
 が、4万の観衆を裏切るわけにはいかない。浅雄は夕方六時まで待って、天竜3号と名付けた機を風に向かって飛び立たせた。
 12分後、風にあおられる機をようやく着陸させる。
 だが、さらなる歓声と拍手のなかで浅雄はここに飛行場をつくろう、と考えていた。
 風にふらつく機から見下ろした天竜川の河口左岸が飛行場にもってこいであることを発見したのだった。浅雄の着眼は卓越していた。浅雄の弟・五郎の孫である福長昇氏は「飛行機が東京から大阪に向かっても、大阪から東京に向っても、途中で天気が悪くなったらどうするか。レーダーのない時代ですから、高度を下げて海岸線に沿って低空飛行をつづければ、必ず天竜川の河口にぶつかって、そこへ着陸すればいいと浅雄は考えていたそうです」と証言する。

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「福長飛行機製作所」の株を売るために作られた説明書の絵。なんとも可愛らしい飛行機で、部分部分の名称もほほえましい(上)大正7年7月の郷土訪問飛行の日、観衆4万人と愛機

 やがて浅雄は「福長飛行機研究所」を創立した。性能の秀れた飛行機をつくり、飛行士を養成し、定期航空便を飛ばす事業を本格化するためである。
 飛行練習生を募集すると、根岸錦蔵や鳥居清次、女性では今井小松などが集まってきた。
 まだ無名ではあったけれどもこうした有望な青年を育てる一方で、浅雄は次々と飛行機を試作した。
 三菱や中島知久平が大正6年(1917)に設立した中島飛行機会社は軍とともに飛行機の開発・量産に取り組んでいたが、浅雄はまったく民間レベル、個人で大正11年(1922)10月に6人乗り乗り旅客機「天竜10号」を完成させた。研究所は株式会社とし、名称も「福長飛行機製作所」と変えていた。
「天竜10号」は全長9.4メートル、全幅12.95メートル、最高時速180キロメートル、航続4時間である。
 いまの飛行機と比較すればスタイルもずんぐりして玩具のように映るが、当時としては立派なものである。
 浅雄は「天竜10号」で旅客輸送事業をはじめたいと航空局に申請した。もちろん郷土の天竜川の河口の飛行場が基地となるのだ。
 しかし、それは認可されなかった。
 旅客輸送に関する法律が、まだ日本になかったからだ。このため「天竜10号」は消えてゆかざるを得なかった。資金も、個人のレベルではそれ以上つづかなかった。
 晩年、誰かに尋ねられるまで飛行機のことは話そうとはしなかったが、浅雄はひそかにもう一度「天竜10号」を作る計画を立てていた。残念ながらその計画は実現されないまま、昭和55年(1980)8月、浅雄は88歳で亡くなった。
 しかし、浅雄のもとで育った鳥居清次は全日本空輸(全日空)創立につくし、今井小松は雲井竜子として有名になり、のちにNHKの『雲のじゅうたん』のモデルとなった。
 浅雄は青空の扉を開いたのである。


いずみ・ひでき
昭和18年静岡県浜松市生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『海の往還記』(中央公論新社)『天皇の四十七士』(立風書房)など多数。
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