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企業グループ研究「中島編」スバルを作った富士重工は、もとは東洋最大の航空機メーカーだった?!

2011/05/31 16:07

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infoseek

飛行機と自動車

自動車と飛行機、どちらが先に開発されたのでしょうか?

もちろん、自動車が先です。最初の自動車は1769年にフランスの陸軍で開発された蒸気自動車だと言われています。ガソリン自動車は約100年後の1870年にユダヤ系オーストラリア人のジークフリート・マルクスが発明したものが最初ということです。

一方、飛行機はそれから約30年後の1903年に米国のライト兄弟が12馬力エンジンを搭載した「ライトフライヤー号」で初めて有人飛行したことはよく知られています。

ところが、飛行機を先に生産していましたが、後に自動車に進出した企業が日本に存在します。
中島財閥の中核会社である中島飛行機(1917年~1950年)と、その後身の富士重工業です。これにも終戦後のGHQによる財閥解体が関係しています。

東洋最大の航空機メーカー「中島飛行機」

中島飛行機は大正6年(1917年)、海軍将校の中島知久平が退官後、実業家に転じ、故郷の群馬県太田市に設立した「飛行機研究所」が源です。中島もまた、日本にとどまらず世界に向ける広い視野を持っていたようです。

中島はアメリカの国力、とくに航空機の威力に気付いており、日米開戦に消極的意見を持っていたと言われています。日米開戦後は米本土を空襲する目的で大型長距離戦闘爆撃機「z飛行機」(富嶽)の開発計画も持っていたほどです。

中島飛行機は後発財閥でありながら、大正・戦前昭和期において、従業員20万人を擁する、日本の航空機業界の頂点に立つ日本有数の企業でした。旧日本軍の著名な戦闘機である零戦の生産でも三菱重工業を上回っており、終戦までは、三菱重工業を凌ぐ東洋最大・世界有数の航空機メーカーでした。しかし、そうした実績が原因で、会社は戦後、GHQにより解体され、中島知久平も戦後、A級戦犯の指定を受けました。

GHQは戦後、日本に戦争放棄を迫り、とくに航空機産業を根絶やしにすることを目論んだため、中島飛行機は12の会社に分断され、それぞれ業種を変え、自動車や精密機器などの製造会社として再出発しました。

6つの企業を統合したSUBARU

富士重工業は昭和28年(1953年)に中島飛行機から分断された以下の会社が合併して設立されました。

東京富士産業(中島飛行機本社)、富士工業(中島飛行機太田工場・武蔵野工場)、富士自動車工業(中島飛行機伊勢崎工場)、大宮富士工業(中島飛行機大宮工場)、宇都宮車両(中島飛行機宇都宮工場)

富士重工業はこれまで見てきたように、航空機メーカーを原点としているので、技術志向の強い自動車メーカーとして知られています。同社を語るとき、欠かせないのがブランド「スバル」です。

1955年開発の乗用車「スバル1500」に採用したのが最初で、富士重工業が旧中島飛行機系列の6社が集まって設立されたことから、6社を統合する=「統べる(すべる)」という意味が込められていたということですが、現在の富士重工業の説明では「商標SUBARUは別名六連星とよばれる星団の名前で、純粋な和語。自動車の名前に和名を使ったのはスバルが最初」とされています。

1958年発売の軽乗用車「スバル360」と61年発売の軽商用車「スバル・サンバー」が技術的にも、商業的にも大成功を収め、富士重工業は現在、自動車のほか、航空宇宙産業、発動機、環境関連車両の4分野で事業を展開しています。

自動車産業に引き継がれた戦闘機の技術

中島飛行機から分割され、富士重工に統合されなかったそのほかの主な企業には以下があります。

THKリズム(中島飛行機浜松工場、現在、THKの子会社)、富士機械(中島飛行機前橋工場、現在、富士重工業の子会社)、輸送機工業(中島飛行機半田製作所、現在、富士重工業子会社で航空宇宙機器部品を手がける)、マキタ沼津(中島飛行機三島工場、マキタの子会社で草刈機、耕運機など)、GKNドライブライントルテクノロジー(中島飛行機栃木工場、一時、日産の関連会社、現在、英国のエンジニアリング会社GKNの子会社)、イワフジ富士工業(中島黒沢尻工場、現在、新明和工業子会社で林業用トラクターなど)

長い歴史のなかで見失われがちですが、雇用面でも多大な影響を持つ日本の自動車産業には戦前の戦闘機の製造技術が確実に引き継がれ、現在に至っているようです。

(ライター 丸山隆平)

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