全長:9.92m 全幅:11.24m 全備重量:3,750kg 出力:2,000hp 最大速度:624q/h 航続距離:1,600q 武装:20o機銃×2 12.7o機銃×2 爆弾:30〜250Kg×2 乗員:1名 日本最強の戦闘機と誉れの高い、四式戦闘機 疾風です。 中島飛行機の集大成ともいえるこの戦闘機は、 一式戦闘機 隼、二式戦闘機 鍾軌 を経て生み出された、 実に完成度の高い飛行機といえます。 「隼」よりちょっと太め、「鍾軌」よりちょっとスマートで大柄な機体は、 「サンダーボルト」ににも似た精悍さを感じますよね。 アメリカでは「フランク」というニックネームで恐れられていた、 というのは皆さんご存知の通りです。 再度同じページにリンクする時は 「▼をクリックして下さい」を 再度クリックしてからリンクして下さい |
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■疾風を語る前に、まず中島飛行機の創設者”中島知久平”氏についてちょっと触れておきましょう。 ■海軍機関学校に志願した知久平氏は850人中21番で合格し、明治40年卒業後機関少尉に任官します。 小さい頃から飛行機に興味のあった彼は、トビやワシの研究ばかりして当時の分隊長も、コイツは頭がどうかしてる、と思ったと同時に、その理由を聞いて、こりゃえらいやつだと思ったそうです。 ■しかし、飛行機のエキスパートとして海軍の期待が高まる頃には、もう海軍に見切りを付けて海軍を辞めるつもりでいました。 大艦巨砲主義、目を覆うばかりの海軍の非能率な書類決済事務など、飛行機の製造をおこなうなら民間でやらねば、という意識がふつふつと芽生えてきたようです。 ところが困ったことに優秀な彼を海軍が辞めさせてくれない。 懲戒免職をめざして(?)、遂には「大石蔵之助」の故智にならって放蕩生活までしてみたそうです。 ■その後、海軍次官鈴木貫太郎大佐の口入も得て、知久平氏は晴れて自由の身となり、大田に「飛行機研究所」を創設します。 そして、日本繊維会社の川西が資本提携することで「日本飛行機製作所」がスタートします。 ■しかし最初のうちは飛ぶことさえままならず、中島一型は浮いた途端落ちて、二号機は着陸失敗、三号機は溝にはまってダメ、四号機も利根川に墜落とさんざんだったようです。 当時インフレがひどく、大田の人達は 「札はだぶつく、お米はあがる。あがらないぞえ中島飛行機」と冷ややかな目で見ていたそうです。 ■中島五型からようやく陸軍の注文が取れるようになり、経営も順調に推移していきます。 その後、打算的な川西と意見がぶつかり、川西派を退陣させるという波乱もありましたが、知久平は経営を優秀な弟、「喜代一」「乙未平」に譲り、国会議員となり「立憲政友会」に入党し、国政の場でも活躍するのです。 ■ちょっと前、知久平氏の孫にあたる、中島(名前忘れた)議員が政治資金流用か何かで逮捕されましたが、「大御所」もさぞ嘆いていることでしょう。 ■中島知久平翁の話がすっかり長くなってしまいました。 大志を持った優秀な人物というのは、かくも偉大な事業を成し遂げる力を持っている、ということを言いたかったのです。 我々凡人にはとても真似の出来ない生き方です。 ■長くなったので続きは次回更新にて、ということにしましょう。 次は疾風の設計主務者「小山悌」氏について触れてみたいと思います。 ちっとも疾風の話に入れませんねー(^^ゞ |
四式戦「疾風」キ84甲 昭和20年4月沖縄特攻隊を援護するため、宮崎県都城西飛行場から出撃するところ。 |
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中島知久平氏 中島飛行機の創設者で後に国会議員となります。 大政翼賛会発足時はこれに強く反対しました。 |
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後に川西航空機を設立した 「川西竜三」氏 飛行機のことは何も分らなかったが、 これは儲かる、と思ったらしい。 |
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疾風の設計主務者「小山悌」氏
なんか谷村新二に似てる… |