中島 四式戦闘機 疾風 キ84(その1)


     全長:9.92m 全幅:11.24m 全備重量:3,750kg 出力:2,000hp 最大速度:624q/h
     航続距離:1,600q 武装:20o機銃×2 12.7o機銃×2 爆弾:30〜250Kg×2 乗員:1名


          日本最強の戦闘機と誉れの高い、四式戦闘機 疾風です。
          中島飛行機の集大成ともいえるこの戦闘機は、
          一式戦闘機 隼、二式戦闘機 鍾軌 を経て生み出された、
          実に完成度の高い飛行機といえます。

          「隼」よりちょっと太め、「鍾軌」よりちょっとスマートで大柄な機体は、
          「サンダーボルト」ににも似た精悍さを感じますよね。
          アメリカでは「フランク」というニックネームで恐れられていた、
          というのは皆さんご存知の通りです。
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■疾風を語る前に、まず中島飛行機の創設者”
中島知久平”氏についてちょっと触れておきましょう。

■海軍機関学校に志願した知久平氏は850人中21番で合格し、明治40年卒業後機関少尉に任官します。

 小さい頃から飛行機に興味のあった彼は、トビやワシの研究ばかりして当時の分隊長も、コイツは頭がどうかしてる、と思ったと同時に、その理由を聞いて、こりゃえらいやつだと思ったそうです。

■しかし、飛行機のエキスパートとして海軍の期待が高まる頃には、もう海軍に見切りを付けて海軍を辞めるつもりでいました。

 大艦巨砲主義、目を覆うばかりの海軍の非能率な書類決済事務など、飛行機の製造をおこなうなら民間でやらねば、という意識がふつふつと芽生えてきたようです。

 ところが困ったことに優秀な彼を海軍が辞めさせてくれない。
懲戒免職をめざして(?)、遂には「大石蔵之助」の故智にならって放蕩生活までしてみたそうです。

■その後、海軍次官鈴木貫太郎大佐の口入も得て、知久平氏は晴れて自由の身となり、大田に「飛行機研究所」を創設します。

そして、日本繊維会社の川西が資本提携することで「日本飛行機製作所」がスタートします。

■しかし最初のうちは飛ぶことさえままならず、中島一型は浮いた途端落ちて、二号機は着陸失敗、三号機は溝にはまってダメ、四号機も利根川に墜落とさんざんだったようです。

 当時インフレがひどく、大田の人達は
「札はだぶつく、お米はあがる。あがらないぞえ中島飛行機」と冷ややかな目で見ていたそうです。

■中島五型からようやく陸軍の注文が取れるようになり、経営も順調に推移していきます。

その後、打算的な川西と意見がぶつかり、川西派を退陣させるという波乱もありましたが、知久平は経営を優秀な弟、
「喜代一」「乙未平」に譲り、国会議員となり「立憲政友会」に入党し、国政の場でも活躍するのです。

■ちょっと前、知久平氏の孫にあたる、中島(名前忘れた)議員が政治資金流用か何かで逮捕されましたが、「大御所」もさぞ嘆いていることでしょう。

■中島知久平翁の話がすっかり長くなってしまいました。

 大志を持った優秀な人物というのは、かくも偉大な事業を成し遂げる力を持っている、ということを言いたかったのです。
 我々凡人にはとても真似の出来ない生き方です。

■長くなったので続きは次回更新にて、ということにしましょう。
 次は疾風の設計主務者
「小山悌」氏について触れてみたいと思います。

 ちっとも疾風の話に入れませんねー(^^ゞ
 四式戦「疾風」キ84甲

昭和20年4月沖縄特攻隊を援護するため、宮崎県都城西飛行場から出撃するところ。
 中島知久平氏

中島飛行機の創設者で後に国会議員となります。
大政翼賛会発足時はこれに強く反対しました。
 後に川西航空機を設立した
「川西竜三」氏


飛行機のことは何も分らなかったが、
これは儲かる、と思ったらしい。
 疾風の設計主務者「小山悌」氏

なんか谷村新二に似てる…