
伊藤音次郎(1891~1971)
皆さんは伊藤音次郎を知っていますか?
国産民間機で初めて千葉県稲毛―東京間の「帝都飛行」に成功する等、数々の功績で知られ、日本民間航空史上に残る人物です。
彼が設立した「伊藤飛行機研究所」は当初稲毛にありましたが、台風で被害を受けた事をきっかけに、現在の習志野市鷺沼に移転しました。この地で数々の名機を開発・製作するとともに、若手飛行士や技師を育て上げ、民間航空発展のために尽力したのです。
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大阪から単身上京し、航空の世界へ

干潟に着陸した飛行機
(操縦席の人が音次郎)
1911年、海軍技師だった奈良原三次は、自費で製作した「奈良原式2号機」で、国産民間機初飛行に成功します。奈良原は稲毛に日本初の民間飛行場を開設。奈良原の後に続こうと、志を抱いた若者がこの地に集まるようになり、稲毛は民間飛行家達のメッカとなりました。
しかし、飛行機はまだ珍しく、大空を目指す者はもっぱら裕福な商家や上流家庭の出身、あるいは軍の上級士官、という時代。そんな中、伊藤はライト兄弟に憧れ、大阪・船場の商店に奉公する身でありましたが、19歳のとき一念発起して上京。奈良原の門下生となります。
1915(大正4)年、23歳で独立し、「伊藤飛行機研究所」を設立。伊藤は飛行機模型を作っては売って資金を貯め、飛行に失敗してバラバラのまま放置されていた「鳥飼式・隼号」を借り、修理改造を施しました。
飛行可能な機体を手に入れた伊藤は、稲毛海岸の干潟で操縦の練習に明け暮れました。冬は氷を割りながら滑走し、車輪がパンクすれば古縄を巻き、ガソリン代は衣類を質に入れて工面する……
そんな状況だったそうです。苦労の末、操縦法をマスターした伊藤は、地方巡業飛行の手伝いをして金を少しずつ貯め、また親戚縁者から資金援助してもらい、隼号のエンジン買い取りを果たしました。そしていよいよ、念願のオリジナル機体の設計と製作に乗り出します。
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自作機で、悲願の帝都飛行に挑戦!

恵美式13号
伊藤がそれまで得た知識のすべてを注ぎ込み、完成させた飛行機は、これまで物心両面で支えてくれた故郷・大阪の恵美須(えびす)町の人々への感謝を込めて「恵美号」と名づけられました。「恵美号」は見事テスト飛行に成功。伊藤は翌年正月明け早々、稲毛に集う航空家の間で悲願となっていた、稲毛―東京(当時、東京は“大日本帝国の首都”の意味で“帝都”と呼ばれていた)間往復飛行=「帝都飛行」に挑戦する事を決意します。
1916(大正5)年1月6日、日本酒のビンをポケットに入れて飛び立った伊藤は、下町を抜けて銀座、日比谷、芝、芝浦などを巡り、千葉に戻る約55分間の飛行に成功しました。この快挙は、これまでの苦難の道のりとともに、新聞に大きく取り上げられました。一躍全国区の有名人になった伊藤は、約7ヵ月の地方巡業飛行を行い、借金を返済。「伊藤飛行機研究所」の経営も軌道に乗ったかに思えました。
しかし、山あれば谷あり。翌年10月、台風が東関東を襲い、稲毛にあった研究所の工場・格納庫は高潮で全壊してしまいました。伊藤は移転先の土地探しに奔走し、津田沼町鷺沼海岸(現・習志野市袖ヶ浦五丁目)にある干潟での再建にこぎ着けます。
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伊藤の下から大空へ飛び立った門下生達

鷺沼上空を飛ぶ当時の飛行機
伊藤は操縦士や技師の育成にも熱心に取り組み、200名近い人材を輩出しています。
「伊藤飛行機研究所」の第一期生として操縦や設計を学び、主席で卒業した山縣豊大郎は、天才飛行家と謳われた逸材でした。1919(大正8)年、東京・州崎で行われた「東京奠都五十年記念飛行大会」で、国産民間機では初の連続2回宙返りに成功。また、1920(大正9)年に行われた「東京~大阪往復無着陸飛行競技会」「第1回民間懸賞飛行大会」でも優勝を果たし、その名を轟かせました。当時、飛行家といえば現在の宇宙飛行士並みの英雄。山縣の写真を使った絵はがき等も出回り、老若男女の憧れの的でした。
しかし、その年の8月、宙返りの練習飛行中、突然主翼が折れて墜落。山縣は帰らぬ人となってしまいました。弱冠22歳。新聞は号外を出し、ヒーローの早すぎる死を悼みました。墜落した現場、現在の習志野市鷺沼三丁目に、後年伊藤が建立した「山縣飛行士殉空之地碑」があります。
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伊藤飛行研究所の人たち
後列右はじが音次郎 前列右から2人目が
日本初の女性パイロット 兵頭精
また、女流飛行家第一号として知られる兵頭精(ただし)も伊藤門下生の1人です。紅一点の練習生になり2年余、事故が日常茶飯事だった当時の飛行機に乗り込み、命がけの訓練を重ね、女性で初めて三等飛行機操縦士の免許を取得。世間の注目を浴びました。男達と肩を並べ、競技会や飛行会にも参加しますが、 間もなく新聞にスキャンダル記事を書き立てられ、航空界から姿を消してしまいました。1976(昭和51)年に放送された、NHK朝の連続テレビ小説「雲のじゅうたん」のヒロイン真琴は、彼女をモデルとしたといわれています。
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「伊藤飛行機研究所」の終焉とその後

旧伊藤飛行機研究所滑走路跡
「伊藤飛行機研究所」は、製造部門と訓練部門を切り離す、株式会社化等、組織の改編を重ねた末、1942(昭和17)年には「日本航空工業株式会社」と合併します。戦時色が強まっていく中、軍需にターゲットを絞るか、資金が潤沢な財閥系でなければ、民間の飛行機製造会社が単独で生き残るのは難しい時代でした。
創立以来、伊藤達が開発・製作した飛行機は50機種以上、滑空機(グライダー)は15機種200余機に上ります。陸軍や海軍からの払い下げ機や輸入機の修理・改造も手がけており、それらも含めると、実に数多くの飛行機がここから大空に飛び立って行ったことになります。
戦後、伊藤は航空界の表舞台から離れ、千葉県成田で農地開墾に携わり、「恵美農場」を拓いて農場主となります。しかし、新東京国際空港(現在の成田国際空港)の計画が決まると、奇しくも「恵美農場」がB滑走路のど真ん中に位置することに。空港建設のための用地買収が始まると、伊藤は進んで契約を結び、用地売却契約第一号となりました。
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