お役立ち情報 【習志野市】初めてがいっぱい!  の記事一覧

谷津干潟は平成5年に干潟として日本で始めてラムサール条約登録湿地に認定されました。谷津干潟は、2本の河川で東京湾につながっており、高層住宅と高速道路に挟まれ独特の景観になっている約40ヘクタールの干潟です。都市部の干潟がラムサール条約に登録されることは世界的に非常に珍しい事例です。
国産民間機で初めて千葉県の稲毛から東京間の飛行に成功した伊藤音次郎の「伊藤飛行機研究所」は大正7年(1918年)4月に鷺沼海岸に移り、飛行機の研究や製作、飛行士の養成に尽力しました。

伊藤飛行機研究所の出身飛行士の中には、NHK朝の連続ドラマ小説「雲のじゅうたん」のモデルになった女性飛行士第1号の兵頭精がいました。飛行大会などでは、彼女を一目見ようと会場が満員になったそうです。
大正3年(1914年)、第一次世界大戦中に捕虜になった約5千人のドイツ人が日本各地に収容されました。
習志野の収容所には多い時には1千名近くのドイツ人捕虜がいました。

収容所長の西郷寅太郎(西郷隆盛の嫡男)は、彼らを人道的に扱ったため、
捕虜たちは収容所内に畑を作り、ビールやワインを作り、劇団やオーケストラをつくるなど、実に多彩な活動を行っていました。

大正7年(1918年)には、彼らの中にいたソーセージ職人によって、ソーセージの作り方が初めて日本人に公開されました。
この技術は農商務省の講習会を通じて、日本全国の食肉加工業者に伝わっていきました。

そうして、習志野は、ソーセージ製造発祥の地となりました。


昭和9年、日本発のプロ野球球団「大日本東京野球倶楽部」(ジャイアンツの前身)が発足します。
ここから日本のプロ野球の歴史が始まります。

米国遠征途上に「東京ジャイアンツ(巨人軍)」と改称し、これが現在の読売ジャイアンツとなったのです。

読売新聞社社長・正力松太郎氏の願いが叶いプロ野球リーグが開催され、
巨人軍も谷津球場をホームグラウンドとして活躍します。

その後、谷津球場は取り壊されてしまいましたが、
現在は跡地につくられた谷津バラ園入口脇に歴史を伝える石碑が建っています。
今ではどの遊園地にもあるといっても過言ではない、ぐるっと中を1回転、または2転3転する宙返りコースター。
誰しもが一度はあのスリルを経験したことがあるのではないでしょうか?

このコースターも習志野市が発祥です。
昭和52年(1977年)に日本初の宙返りコースターとして、谷津遊園に登場しました。
コースターはもちろん、プールやバラ園、こども動物園など、多彩な設備があり、
当時の園内は関東一円からの日帰り客でいつもいっぱいでした。

後に、親会社の京成電鉄とアメリカのディズニーとの間で東京ディズニーランドの建設計画(昭和58年開園)ができ、
谷津遊園は昭和57年(1982年)に惜しまれつつも閉園します。

しかし、日…