☆兵頭 精(ひょうどう ただし)☆

 

1899(明治32)年〜1980(昭和55)

 

国産の飛行機(1909〈明治42〉年〜1910〈明治43〉年にかけて日野熊蔵大尉により林田商会〈のち日本醸造機械株式会社〉により)最初の国産飛行機「日野式一号機」が製作された)が飛んでから10年も経たない頃、 さまざまな苦難を乗り越えて日本初の女性飛行家となった。

 

1899(明治32)年4月6日、北宇和郡東仲(ひがしなか)(旧広見町、現鬼北町東仲)の農家の4女として生まれる。

 

11才で父と死別、兄や姉に育てられる。赤ちゃんの時から、小学校へ連れられ、教室の隅で先生の話を聞いていた。門前の小僧経を読むで、5才の時には小学1〜2年生程の学力が身についていたといわれる程であった。そのため、高等小学校卒業後は女学校3年に飛び級した。

 

1915(大正4)年、済美高等女学校(現済美高等学校在学中に、当時の青少年が憧れた花形職業であった飛行家になることを決心する。

済美高等女学校を卒業後、女学校卒業後、教師や女医となるように奨められ、1919(大正8)年1月、大阪で薬剤師の見習になるが、同年11月に上京、千葉県津田沼の伊藤飛行機研究所に入所する民間の飛行機練習所は全国に4ケ所あった。進学率2%時代の大卒初任給が40円前後のころ、飛行機研究所の授業料は月額120円。練習費は1分なんと2円の高額であった。そのため、通常は6ヶ月の練習期間が費用の工面から3年6ケ月もかかった)

1921(大正9)年、高度300メートルからエンジンを止めて滑空降下する飛行練習中、ミスを犯して墜落する

 

1922(大正10)年、伊藤飛行機研究所を卒業。そのころ、空をとぶのになんの規制もなかった。だが、航空法が定められ、操縦資格のない者は飛ぶことが認められなくなった。

 

1922(大正11)年3月、三等飛行機操縦士試験に合格。同年6月、帝国飛行協会主催の飛行競技会に出場。

 

 

日本初の女性パイロット誕生とのニュースがメディアの格好の素材であった。女性のくせにとの差別と偏見を手伝って、好奇の目でみられ、新聞で、同郷の弁護士・富田数男とのスキャンダルを暴かれる等の苦難に遭遇、ある時、忽然と姿を消したのである。

 

その後も飛行機研究所の設立を計画したり、弁護士を志したりと、当時としてはずいぶん進歩的な生き方をしたが、多大な困難を乗り越え、莫大な費用を費やして折角免許を手に入れたのに、再び飛行機に乗ることはなかった。

 

1980(昭和55)年4月23日81歳で永眠。

 

1976(昭和51)年に朝茅陽子が主演したNHK朝ドラ朝の連続ドラマ『雲のじゅうたん』のモデル。

 

参考文献

 

中村英利子『兵頭精、空を飛びます!』 アトラス出版 2000年

平木國夫『飛行家をめざした女性たち』 新人物往来社 1992年

平木國夫『伊予から翔んだイカロスたち』 酣燈社 1991年

愛媛県史編さん委員会『愛媛県史 人物』 愛媛県 1989年