中島知久平の烈々たる気概 中島知久平 飛行機研究所を設立 飛行機研究所に集まった人びと
4.異色の経営者・中島知久平と二人の協力者・栗原甚吾と佐久間一郎
中島のエンジン技術を理解するためには、会社という営利企業の名称ではあったが、営利のためのマネージメントシステムが皆無であったことを知る必要がある。このようなことになった原因は、創立者であり実質的に社主であった中島知久平が救国思想に燃えた海軍退役軍人であり、幹部社員として集まった者達もすべて海軍工廠出身者であって、民間営利企業のマネージメントシステムの経験がなかった。さらにまた、新しく採用される技術者は帝国大学理工学部系の新卒ばかりであったので、一般の株式会社のことは全く知らず、中島飛行機は株式会社であると思っていた。
中島知久平は海軍機関学校出身で、航空機に関心を持ちフランス、アメリカに留学し飛行機の研究をして、海軍一の飛行機通と言われていた。しかし、飛行機は日本では揺籃期で中島の知識は初歩の域を出なかった。
中島知久平が海軍を退いて故郷群馬県太田に「飛行機研究所」の看板をかかげた時の総人数は、炊事婦まで含めても僅かに9名であった。この中に知久平の両腕となる栗原甚吾と佐久間一郎がいた。{この中島飛行機(株)紹介記事は、戦後1977年(昭52)に発行された「佐久間一郎伝」(非売品)によるものである。}
4.1.中島知久平の烈々たる気概 (附表14参照)
中島知久平は1884年(明17)群馬県尾島町の養蚕と藍を栽培する農家に生まれた。1902年(明35)専検合格。1903年(明36)海軍機関学校入学。1911年(明44)7月海軍大学選科学生として、航空機研究を命ぜられ、飛行機の海軍用兵器としての将来に着目した。当時の海国国防の主幹であった大艦巨砲戦策は、無限の富力を吸収するもので、これを永続すれば皇国の前途は慄然寒心に堪えないものになる。
皇国安立の途は、富力を傾注しない新兵器を基礎とする新策発見のただ一つである。この理想にそうものは飛行機であり、これが発展すれば現行戦策を根底より覆し、小資本で国家を安泰にすることができる。
金剛級戦艦一隻の費用で優に3,000台の飛行機を製作でき、一艦隊の費用では数万台の飛行機を製作し得る。
しかし、わが国の飛行界の現状は進歩が遅々としていて、欧米の進歩に比すべきなく、常に数段の隔たりがある。したがって飛行隊も微々として振るわず、実質において存在の価値もない。
わが国飛行界不振の原因は、種々多岐にわたるが、その主因に製作工業が官営である一事にある。進歩激烈であるため、制作期間が短くなければならない工業を、議会の年度計画事業で実施することは根本的に不適である。欧米の先進諸国が飛行機製作を官営兵器で行わず、専ら民営に委ねているのは、この理によるのである。と説いている。
4.2.中島知久平 飛行機研究所を設立
1917年(大6)12月1日付で希望通り予備役に編入されて、自由に活動できる身分となった。これまで極秘裏に進めていた飛行機研究所設立準備を公然化した。
太田町大光院(呑龍さま)脇の旧博物館が空き家になっているのを手に入れ、周辺の空地に飛行機製作工場を建設することにした。旧博物館は東京米穀取引所の不要建物をそのまま移設したもので2階建、延81坪の洋館であった。所有者は当初東武鉄道(株)の創始者 根津嘉一郎であったが、のち太田町に寄附され、当時は町有であった。
1917年(大6)12月21日前小屋から、旧博物館に移った。正面玄関には「飛行機研究所」と言う小さな表札が掲げられた。研究所員は中島知久平所長以下炊事婦を含めて総数9名であった。
4.3.飛行機研究所に集まった人びと
飛行機研究所を設立した時に集まった人々について一筆しておく必要がある。重要人物は栗原甚吾と佐久間一郎である。栗原は東北帝大工学専門部機械科出身で横須賀工廠造機部の工手(工場長と職工の中間になる役付)で、造兵部飛行機工場の工場長中島知久平に極めて近い地位にあった。
栗原は中島の計画に極秘裏に、当初から参画していた。当時、飛行機は陸海軍が試作しているのみで民間の飛行機製作所はなかった。
栗原は中島知久平より、製図のできる4名を探して欲しいと依頼されて、当時横須賀工廠の発動機製図で最も将来を嘱望されていた、若手の佐久間一郎を口説き落した。
佐久間一郎は後日中島エンジン部門の大親分となり、戦後も元従業員に慕われて、親睦会“武荻会”の会長であった人であるので少し書いておきたい。
佐久間一郎は1908年(明41)11月横須賀海軍工廠造機部に見習工として入廠した。小学校高等科を卒業した翌年で15才であった。親子3代工廠勤めである。
日露戦争後、ロシアの軍艦が多数手に入り、横須賀に曳航されて解体修理された。修理の結果、使えそうな軍艦には日本名が与えられた。一郎はこれらの戦利品の改造、組立の仕事に追われた。これらの戦利品の中に大連で捕獲したモーターボートが一隻あった。モーターボートのエンジンを機械工場の熊井技師が動かそうと試みたが成功しなかった。このエンジンはガソリンエンジンであって動かし方を知る者は誰もいなかった。そのためモーターボートは放置されていた。
大貫少佐が機械工場の部員になった。大貫はアメリカに行ってガソリンエンジンを見てきており、モーターボートを動かそうとした。大貫少佐は気が短く、むつかしやであったので、組長・伍長たちは大貫からの仕事を敬遠していた。
一郎は工廠に勤めて3年目、18才の春で、豊島実業補学校を卒業し、さらに別科へ通っていた時のことである。
鈴木組長は、すでに勉強家として認められていた佐久間一郎に目を付けて、ガソリンエンジン修理を伍長を飛び越えて、一郎に直接命じた。鈴木組長は大貫少佐が来ると姿をかくしてしまい、大貫少佐と一郎はいや応無しに直接口をきく立場になった。このようなことは異例のことであった。
一郎は取外されたエンジンを根気よく研究した。ガソリンエンジンにガソリンを気化させて吸入させる部品がないことに気がついた。何日も過ぎて気化器に相当する部品を開発し、エンジンを運転することに成功した。
大貫少佐はモーターボートを海に下ろし、一郎が同乗して巡洋艦クラスの機関長をしている友人を訪問した。
18才の佐久間一郎は、ガソリンエンジンを動かした男として一躍有名になり、エンジンに詳しい男となった。こうして一郎は飛行機の発動機を手掛けることになった。このことがその後の一郎の人生を決定することになる。
1912年(明45)春、一郎のところに大貫少佐からフランスのファルマン機のノーム式ロータリーエンジン50馬力の、焼付いたエンジンとスケッチが持込まれ分解を命じられた。
一郎は分解し、材質を調べ、それを設計に回した。設計はこれらをもとに製作図をつくった。スケッチ図は分解して作成したものではないので製作用に使えなかった。製作図をもとに国産したこともない部分品を作った。このうちボ―ルベアリングはうまくできず使用しなかった。試作台数は2台で、一郎はこのエンジンの試作に部品製作、組立を通じて中心的立場の一人となり、試運転まで立会った。エンジンは首尾よく回転。これが国産エンジン第1号である。
栗原は佐久間一郎より3っ上の26才であった。栗原は田浦造兵部の魚雷発射現場責任者であった。一郎は設計の者として現場に立会った。魚雷は発射されると300m走る。そのあとを内火艇で追いかけ、魚雷が止まると、すばやく魚雷を拾うことになっていた。
魚雷は空気がなくなると沈んでしまう。1本沈めると大金であった。
一郎は発射現場で魚雷の行方を追って記録をつけ、栗原は内火艇に乗り込んで魚雷を追った。ところが内火艇が故障を起して停止し、魚雷は沈んでしまった。内火艇のエンジンはガソリンエンジンであった。この原因究明を通じて二人は議論し、互いに相手を知り、理解を深めた。工手栗原は佐久間一郎というエンジンに詳しい青年を発見したのである。
こうして、中島飛行機の創立に重要役割をはたす、中島知久平・栗原甚吾・佐久間一郎は出会ったのである。