大正11(1922)年、磐田郡掛塚町(現磐田市掛塚)の株式会社福長飛行機製作所で日本初の旅客飛行機「天竜10号」が完成しました。
この偉業は、明治36(1903)年のライト兄弟の初飛行に刺激され、大空への夢を見続けた福長浅雄の情熱によって成し得たものです。福長は明治26(1893)年浜名郡飯田村(現浜松市南区飯田町)に農家の3男として生まれました。地元の小学校を出ると近くの製材工場に勤め、2年後、兵庫県の山の中へ機械を持ち込み製材業を開業。
これが大当りし、わずかの間で財を築きあげたのです。
彼は、日本で初めて飛行に成功した大尉が、陸軍が購入した仏製飛行機のテスト飛行を所沢で行うということを知り、「助手として使ってほしい」と直下談判しにいきました。
大尉は「採用はできないがおまえが勝手に手伝うのならいいだろう」と認めてくれ、福長は3ヶ月間、無償で手伝い飛行機の組み立てや調整、操縦法など夢中になって学んだのでした。
その後フランスから飛行機を輸入し福長飛行機研究所を設立、飛行機の開発とパイロットの育成を手がけながら、「天竜1号」を開発。
そして大正10(1921)年に法人化し株式会社福長飛行機製作所とした翌年9月に、ついに国産旅客飛行機となる「天竜10号」を完成させたのです。製作日数2年、総製作費は25,000円。
公務員の初任給が70~75円の時代でしたから、いかに福長が開発に財を投じたか想像できるでしょう。エンジン以外のほとんどを同製作所で製造。胴体は軽金属、翼の骨は桧を使用、それに布を張って塗料を塗った複翼スタイルで旅客定員は4名でした。
完成にともない、乗客の代わりに4人分の重量の砂袋をのせて受けた検査は見事合格したものの、旅客運送事業の申請は法整備がないことを理由に、営業は認められませんでした。
結局本格的な出番がないまま終わってしまいますが、天竜10号の完成は浜松の産業だけでなく、日本の航空技術史において記念すべき出来事であったことは間違いありません。