ついにこの日が来てしまいました。
4年間通った早稲田大学を卒業します。
初めて早稲田に来たのは高校3年生の夏。地元九州の大学に行く気満々だった私は、大学の「雰囲気」と「早稲田という名前」そして「東京という場所」に無限の可能性を感じてこの大学に行くことを決意しました。
運良く指定校推薦もきてすんなり合格。
急な進路変更に両親は混乱。
私は泣きながら上京したいことを伝えて、母は泣きながら背なかを押してくれました。
踊れる場所があって、両親も恩師もいる地元の恵まれた環境に別れを告げて、
早稲田大学商学部に入学することになりました。
一番辛かったのは何よりもの支えだった母の元から離れること。
どれだけ今までお世話になって、どれだけこれからも心配かけていくのか、考えれば考えるだけ胸が苦しかった当時の私。
でも早稲田での生活はそれを超えるくらいに、大きな楽しみがありました。
目次
- 悩みながらもリア充だった大学1年生
- 競技エアロビック選手兼指導者としての始まり
- アスリートとして指導者として学生として
- 就活したけどエアロビ愛が爆発した卒業間際
- そして卒業、進路を大きく変えフリーランスの道へ
- 4年間どんな学生生活だった?最高でした。
悩みながらもリア充だった大学1年生
入試の時に仲良くなった友人がいて、入学式も一緒に行動。
サークルの新歓も興味があればひとりでも飛び込んでいって、コミュ力発揮して次々に友達を作っていました。
有難いことに商学部には語学のクラスがあり(朝鮮語選択)クラスの仲間ともすぐに仲良くなりました。
原宿に遊びにいったり、初めての飲み会、コールも、駅前で飲みすぎて倒れている人を見た時も、全部が新鮮に感じていました。
懐かしいプリクラ。笑
しかし「東京に行ってもエアロビ頑張ります!」と地元の方々に宣言していたので、サークルには入らずにエアロビ第一優先。
体力とモチベーションを落とさないために大会にも先に申し込みをしていました。
そう宣言したものの実際はコネも繋がりも何も考えていなかった東京。
すぐには練習環境は整わず、ひとりで練習したくて施設を探すも何十件電話をしても断られる日々、見つけても学生が払える値段でなく、途方に暮れていました。
意を決して今や慣れてしまった「青空練習」を開始。
公園でひとりで朝からエアロビック。やりすぎて疲労骨折。
この時期はさすがに笑えなかったですが、それでもやめたいとは思わなかったですね。
「絶対に成長して地元に帰りたい」これが当時の一番のモチベーションでした。
そうやっていくうちに出会いに恵まれ、競技を楽しみながらも、友達と深夜まで公園で遊んだり、学校帰りにディズニーランド。
秋からはダンスサークルでイベントに出たり、初めて深夜練も経験しました。(起きてられるか心配してたけど一番元気だった)
友達と旅行にいったり、冬はイルミネーション見に行ったりも.....
まあ〜THE大学生みたいなリア充、キラキラしていました。笑
競技エアロビック選手兼指導者としての始まり
2年生の初めに、JKFA日本こどもフィットネス協会のインストラクター養成コースを受講しました。
今まで自分が教わってきたものが、こんなにも素晴らしい理論と気持ちの元で作られていたのだと感銘を受け、インストラクターとしての一歩を踏み出すことに。
自分がユース時代に出場していた大会でリードを取らせて頂いたりと、はじめはアウェイだった関東地区の大会の雰囲気も、徐々にホームとなってきました。
いつもの生徒だけでなく他のチームの選手とも交流が深まり、選手と近い気持ちでいられる立ち位置での指導を全力投球でやっていました。
それと同時に競技の方にもさらに力を入れて、今までやっていたフライト部門から、高度な技が必要となるシングル部門へ挑戦していきます。
幼い頃からそういった練習をしてきたライバルたちの中、どうにかして追いつけるよう毎日文字通り「必死」に練習していました。
学校も教職課程を履修して授業は多め、ゼミの課題もあり、完璧にこなそうと追い込みすぎてよく胃炎になってましたね。笑
胃炎からの高熱でフラフラのまま神戸の全国大会へ行ったこともありました。遊ぶこともあまりなくなり、アホみたいにストイックだったあの頃。
間違いなく演技は上手くなっていました。(これだけやればそうだよね)
アスリートとして指導者として学生として
3年生の終わりから就職活動を開始するために、このシーズンを競技生活の締めと決めていた年。
競技エアロビック選手兼指導者、そして大学での勉強ですべて全力で挑んでいました。
大学のゼミは早稲田の商学部で一番、いや日本で一番面白い人が集まっているゼミだと思っています(思いっきりえこひいき)。
先輩も同期も面白くてロジカル。尊敬できる人ばかりで刺激を受まくり私にとっては最高の環境でした。
何かに騙されそうになった時は助けてもらったり、進路の相談も色んな悩みも共有していました。
先輩にも同期にも支えてもらってばかりでした〜
合宿も飲み会も全部楽しい思い出です。
高田馬場のロータリーで校歌をみんなで熱唱したのもゼミで初めて。笑
競技生活も脅威の成長を遂げ夢の東京都代表選手、IACインターナショナルチャンピオンシップでラスベガスでの世界大会に出場。
最後を意識しているので毎回毎回の試合が、とても大切で濃い瞬間でした。
最初で最後の世界大会の舞台で「JAPAN」を背負って踊れたこと。
引退を決めた試合の演技後にもう満足だと心から思ったこと。
どの試合でも演技中に聞こえる歓声に、いつも泣きそうになりながら喜び噛みしめて演技していたこと。
最後は全国大会で準優勝、悔し涙で終わってしまいましたが、精一杯やりきった証でした。
就活したけどエアロビ愛が爆発した卒業間際
3年生の終盤、競技から離れて就職活動を始めようとした矢先に、自分を変えるいくつかの出来事が起こります。
宗教に入り込みそうになり、あまりの自分の世間知らずさにかつてない自己嫌悪の波に襲われます。
今まで頑張ってきた自分ですら、私は何を今までやってきたのだろうと責めていました。
そんな時期に一人の学生起業家と出会い、自分も好きなことをやって価値を生み出していきたいと思い即行動。
やはり自分にはエアロビクスしかなかったことに気付きました。
ここから大学生活が大きく変わってきます。
就職活動をしながらも、学生をエアロビクスで盛り上げていきたいと思い「学生エアロビクス交流会」を全4回主催・運営し、総動員90名。
いままでに関わることのなかった学生がエアロビクスを通して繋がっていくことが何より幸せでした。
(センター調子にのってすみません。笑)
そこから我が早稲田大学でもエアロビクス旋風を起こしたく、早稲田初のエアロビクスユニット「SEIZE」を結成。
初心者ばかり結成1カ月のチームがインカレ5位入賞。ついでに個人でも試合に復帰しインカレ優勝。
全国学生エアロビック選手権「チーム編」~エアロビック界に早稲女旋風を起こしてきました~
競技を一人で黙々とやってきた私が仲間を巻き込んで「早稲田」を背負って踊った、一番の青春と呼べる時間でした。
そしてそのメンバーを含めた新たなダンスユニットでは早稲田祭のステージに立つことに。
激しい競争率の中「運」で大隈講堂前ステージで踊ることとなり夢のステージが実現。
日本一の学祭「早稲田祭」のステージに初出演する新生ダンスユニットARTASの魅力
周りのサークルに比べたら「早稲田大学生らしい」活動はあまりできなかった私。
早稲田色の強いのサークルが羨ましかったため、反骨精神のようなものを抱きながらずっと一人で踊っていた私が、
大隈講堂をバックに踊り、涙を流してスピーチする日がくるとは思いませんでした。あのときステージからみた景色は忘れません。
早稲田でエアロやダンスを通して出会えた仲間、サポートしてくださったスタッフの皆さんに感謝しています。
教育実習もいきましたし、踊り以外もヒッチハイクや100kmハイク。秋の早慶戦も見に行けました。
4年生は出し惜しみのないくらい大学生を楽しみ、その分失敗もしてきました。
他のみんながサークルが終わったりしている中で、それも含めて学内外で自分が変われることがたくさんあって本当に濃い一年でした。
4年生になってから仲良くなった人の方が断然多いというのも面白いですね。
そして卒業、進路を大きく変えフリーランスの道へ
ブログではまだ語っていませんでしたが卒業後、就職をせずにフリーランスで頑張ることになりました。
大好きなエアロビクス・フィットネスを追求していきたくてこの道を選びました。
有名な大企業や成長できるベンチャー企業も、これに勝るものはありませんでした。
今しかない時間を大好きなものに費やして、稼いで生きていきたいと思っています。
今からが本当のスタートです。
4年間どんな学生生活だった?最高でした。
私はどんな学生生活だったかと聞かれたら、こう答えます。
「本当に最高の4年間でした。」
学校の勉強も得るものはもちろんありましたが、
私にとっての一番の財産はここで出会えた人たち。
早稲田という環境にいたから、出会えたと思うと
それ以外の環境が想像できないくらいに感謝しています。
集まり散じて 人は変れど仰ぐは同じき 理想の光
早稲田の校歌にあるこの歌詞が私は大好きです。
いつまでも同じ理想の光を追っていきたいです。
4年間で私に出会ってくれた人たち、
そして今ままでかなりの心配をかけながらも育ててくれた両親、
本当にありがとうございました。
今後も鳥巣愛佳をよろしくお願いいたします。
らぶゆーーー!!!